開花
翌朝九時前。美咲は遊び日和の休日に最寄りの電車の駅に立っていた。周りをファーストフードや薬局、携帯ショップなどが取り囲む、朝なのに人通りの多い駅だ。そのバス停がある広場で太陽を目を細めて見上げながら額にハンカチを当てていると、背後から「おはよう!」と元気な声がした。
振り向くと、むいがいた。白を基調とした涼しげで清楚とした私服を着て、肩に掛けたショルダーバッグがかわいらしい。子供のようにニコニコとしている。
「さっすが美咲ちゃん、早い早い! わたしもわくわくが止まらなくて早めに家を出たつもりだったんだけど。楽しみだね! おちんちんのテーマパーク!」
美咲はそう言うむいにやわらかく苦笑を返した。
美咲とむいはまだ来ない残り二人の友達を並んで待つ。
「……でもよかった。美咲ちゃんだけじゃなくて二人とも今日都合がついて。わたしがいると四人全員で遊ぶっていうことが中々上手くいかないから」
むいがふとつぶやくようにそう言った。言うとおり、今日は友達四人で遊ぶということで段取りがついていた。
美咲は隣に立つむいの横顔に顔を向けた。
「ところで、気になってはいたんですけど、今日天蓋司くんは側にいなくていいんですか? ……ほら、むいは妖怪をひきつける霊媒体質なんでしょう? 天蓋司くんがいないといつまた妖怪に襲われるかわからないんじゃ?」
美咲が途中から周りを気にして声をひそめると、むいは「大丈夫!」とにっこりした顔を美咲に向けた。そしてショルダーバッグをあさり、ジャン! と何かを取り出して見せた。それは彼女がかわいらしいバッグから取り出してくるにはあまりに似合わない護符やお守りといった類の御札だった。
「これは『仁者無敵の札』(じんしゃむてきのふだ)っていってね。効果を発揮した瞬間からこれを持ってる人はその日一日だけ、何をしてもどんな危険に絶対あわないっていうものすごい術がかかってるんだ。たとえ高いところ落ちても、宇宙の端でビッグバンが起きても助かるんだって。あれ? 正しくはビッグバンが起きずに済むことになるんだったかな?」
「とにかく、その御札があれば大丈夫ってことですか?」
「そう! 明晴ちゃんが一ヶ月に一度渡してくれるんだ。これを月に一枚作るために明晴ちゃんは毎日毎日念を込めて時間を使ってくれてるみたい。ほんとう、ありがとう明晴ちゃん! やっぱり大好き!」
「そうなんですか」
美咲は明晴がいない疑問に納得してうなずいた。
「それにしても、今回行くところに天蓋司くんがいないってなんだか変な感じですね」
むいはそれに対してふふ、と笑った。
「美咲ちゃん。下ネタは止めようよ」
「え!? 今更ですか!?」
それからしばらくして友達のボーイッシュな女の子と読書好きな女の子がそれぞれらしい服装をしてやってきた。
四人で談笑してるとあっという間に到着時間になり、向こうからバスはやってきた。
「あれかな?」
むいはしきりに自分の携帯電話の画面と停車しようとしてるバスを見比べて、そこに書いてある情報を確認している。
「ユニバーサルおちんちんジャポン行き……このバスで乗り間違いないよね?」
「こんなアホみたいな名前の場所に行くバス他にないんじゃないんですかね……」
美咲は呆れた顔でバスを見上げている。
「というより、これから行くところ、こんな名前だったんですか?」
「ユニバーサル、っていうことはこれからおちんちんの文化を世界に広めたいっていう狙いがあるのかもね。日本発信で」
「侵略じゃないですか」
言って、美咲は「それにしても」と眉間に少ししわを寄せ、ちょっと難しい顔をした。
「ユニバーサルのあとにジャポンって。なんて統一感のない……」
「そうすることで何かが誤魔化せるらしいよ」
「マズいと思ってるじゃないですか!」
それから美咲たちはバスに乗り込んで席に座った。美咲は発車を待つ間、ふう、と息を吐きながら背もたれによりかかって、ふと横の窓に顔を向けて外を眺める。
そこで休日の駅前にただ一人スーツ姿の男性が目についた。彼は私服姿の人々が歩く中、間を縫って動き回り、何かを話しかけているらしかった。窓越しに声が聞こえてくる。
「少しお話よろしいですかー? 紹介したい商品がございます。いま話題のおちんちんに関する商品です。是非説明だけでも聞いてみませんかー?」
ーーセールスマンの人ですか。
その様子を眺めて美咲が思った。そしてまたそれ関係のものかと呆れた顔をするが、数秒して男性が公式の商売人ではないんじゃないかと思い当たると便乗商法まで出てきたのかと呆れを通り越していっそ感心すらした。
「お父さんお父さん。お話聞いていただけませんか? いま話題のおちんちんに関する便利な商品ですよ」
セールスマンが声をかけたのは白髪まじりの髪を短く刈り込み、背筋の伸びていることまるで鉄棒でも入っているような、いかにも侍といった厳格そうな顔つきをした年輩の男性だった。
「……なに? おちんちん……? 馬鹿馬鹿しい! 私はこんなくだらないものが世間で流行っていることが嘆かわしくてしかたがない。そんなものに関する品の話など聞きたくない!」
ーーよ、よりによって。どうしてそんな真面目そうな人に声をかけるんですか!
男性の喝破に、端で見てる美咲がヒヤヒヤした顔で手を揉んだ。
「まあまあ、聞いてください。これはお父さんの健康を助ける商品なんです」
しかし、セールスマンはどこ吹く風で話を続ける。
「……健康?」
すると男性はちょっと気を引かれたようにそうつぶやいた。
「そうです! 少しお話だけでも聞いていってください。まず想像して! おちんちんのことを。おちんちんって考えてみれば常にぶら下がってるんですよ。考えてみるとこれってものすごい負担ですよね。だって考えてみてください。腕をずーっとぶら下げたままでいるのって逆にすごく疲れませんか?」
「ま、まあ、ぶら下げっぱなしだとな」
「でしょう? おちんちんだって同じです。つまり我々は知らないところで体に負担をかけながら生きていたんですよ。そこで私がおすすめしたいのがこちらです」
セールスマンはそこで片手に持っていた棒状の物を胸の前に上げ、両手に掴み直した。折りたたみ傘の鉄軸を伸ばすみたいに手を引っ張ると、杖みたいになったそれの一端を地面にトンとつけた。
「おちんちん休憩用装置ーーおちんちん置き場です」
その物品の杖の持ち手に当たる部分には浅い皿のようなものがついていた。
美咲も男性も何も言わなかった。
「これが使用の際のイメージ図です。でもマンガ調にデフォルメされてます。つまり生じゃないです。本物じゃないです」
セールスマンは商品から手を離すと足を支えに地面に置いていたパネルを胸の前に持ち上げた。
「どうです? かわいいでしょう? たれてるというかリラックスしてるというか、ゆるキャラみたいで」
「たしかに、どこかで見たことあるかもしれん」
ーーあってたまりますか!
「では一度試してみてください。そうすれば魅力に気付いてくださると思いますよ」
セールスマンは地面に立てた商品を男性の前に押し出した。そしてしゃがみ込み、粛々と商品の高さを調整し出す。
「使い方は簡単です。ただこの皿の部分に乗せるだけ」
「うむ……」
男性は馬にまたがるみたいに足を広げると立ち位置を調整した。
ーーか、かっこ悪い……。
美咲が頭を抱える。少しして、顔を上げると男性は商品に寄り添ったまま顔を落としていた。よく見るとわなわなと体を震わせている。
「こんなもの……こんなもの……よくよく考えれば……」
ーーあっ……。つ、ついに怒っちゃったんじゃないですか!? 我にかえって。
男性はバッと顔を上げた。
「今までこんな安心感を感じたことはない。いうならこれは、イージープレイス!」
「イージープレイス?」
「イージープレイス!」
「イージープレイス……」
「イージープレイス!」
「イージープレイス!」
イージープレイス! イージープレイス! イージープレイス!
叫びあう二人に合わせて町を歩く他の通行人も全員声を上げ始めた。
ーーっ!?
「イージープレイス! イージープレイス! イージープレイス!」
バスの中にいる乗客たちも声も合唱し出す。
「えっ!?」
それは隣に座るむいも同じだった。まるでミュージシャンを応援してるみたいに笑顔で声を上げている。
「……おかしいのは私なんでしょうか?」
美咲は頭を抱えた。
発車したバスはしばらくして公道から敷地内に入っていった。
「おお……」
むいが正面の窓の外を見て声を漏らしている。やや遠くにはガラスと白い壁で作られた爽やかな建物があって、その奥には観覧車やジェットコースターのレールが見える。
「敷地もけっこう広そうですよ、この施設。ほんとう、いつのまにこんな大きなもの造ってたんですか」
美咲もちょっとびっくりした顔をした。
停留所でバスを降り、案内図に従って歩く。さっきの爽やかな建物はこの施設全体の玄関だったらしい。自動ドアをくぐって中に入る。
「ああーすずしいねー」
冷房の効いた建物内はホテルのエントランスみたいに広い。白を基調とした清潔な空間だった。
他の客に混ざって、入って正面にある案内図を見ると、施設内は遊園地やスポーツコーナーやスーパー銭湯など色々な区画に分かれているらしかった。
「ところでどこで遊ぶんですか?」
美咲はその辺り他の三人に任せていた。
「今日はね、遊園地にしたよ。さあ、行こうか。おちんちんのテーマパーク! どんなアトラクションがあるのか楽しみだね!」
「……。……なんか、ここにきて急に不安になってきました」
すると美咲はこんなことを言い出した。
「不安?」
「いや、テーマパークって、今更ですけどよくよく考えたら変なものを見せられたりしませんよね?」
「変なものって?」
「それはわかるでしょう! とにかく不安です……」
「どうかなさいましたか?」
と、そこに制服を着た職員がやってきて声をかけてきた。
「あ、いえ……。中はいったいどんなものがあるのかなって、話してただけです」
美咲は職員に対して誤魔化した返事を返した。しかし、職員は美咲の表情を見て何かを察したようだった。笑顔で、
「大丈夫ですよ。確かにおちんちんに対して抵抗があるとかなんだそれはとか言う方はたくさんいました。当施設はそういった方々の意見を採り入れて企画を考えています」
「そうなんですか?」
「はい。それに、私どもがお客様の知ってほしい、考えてみてほしいと思っているのはいわゆるおちんちんそのものではなく、おちんちんという概念なのです」
「が、概念?」
「はい。おちんちんという概念からは様々なことが読みとれ、教訓とすることができます。それに救われる人もきっといるはずなのです。ここにいるこの私のように。人はどんなことからでも何かを学び、自分の糧とすることができる。大切なことはどんなものからでもその何かを見い出そうとする姿勢だ、と。我が社はそれを理念の一つとしています」
では、本日はお楽しみください、と職員は一礼して去っていった。実に紳士的な人物だった。むいが美咲に顔を戻す。
「美咲ちゃん。普通に考えれば、大々的に宣伝して営業を許可されてる施設がそんなに変なものを出すわけないんじゃないかな」
「それは確かに。ううん、やっぱり私のほうがおかしいんでしょうか……」
「うん」
「言いますねぇ!」
そうして四人はロビーでそれぞれ分かれてる道の中から遊園地行きの行列へ並んだ。前方にある電気のついたトンネルみたいなところまで結構人が並んでる。
「朝早く来たつもりでしたけど人が多いですね」
「やっぱり昨日の夜のCM、みんな見てたんだね」
程なくしてトンネルへ入る。動く歩道で前へ進み、四人は遊園地に向かった。
美咲はむいや職員にああは言われたもののまだ心に不安を抱いていた。その気持ちのまま遊園地の派手な門をくぐる。
ジャンボリーな雰囲気の中に徘徊する例のマスコットの着ぐるみ。わけのわからない名前のアトラクション。まぶしい太陽。
肩に乗られたとき美咲が思わず叫びを上げた相棒とジャングルクルーズの冒険に出かける。
入る前から怖いお化け屋敷に入る。
悲鳴の上がるジェットコースターに乗り込む。
昼も近くなってきて四人はパラソルのいくつか立てられた白いテーブルと椅子の並べられた休憩所の一角にジュースを持って座った。
「ああ、楽しいですね! 来てよかったです!」
美咲は開口一番笑顔でそう言った。
「よかったぁ」
「三人とこういうところで遊ぶの初めてですし、やっぱり楽しいです。ロケーションって関係ないんですね」
美咲はすっかり満喫していた。
それから四人でアトラクションの感想など話しながらジュースを飲んで休憩する。するとそのとき、彼女たちの側に走り寄ってくる影があった。
「え?」
その勢いのいい足音を聞いて美咲たちが振り向く。
「燃える血潮のーーおちんちんレッド!」
「意外と目立つーーおちんちんブルー!」
「それは病気じゃ? ーーおちんちんイエロー!」
「ええやん! ーーおちんちんピンク!」
「あの日……ーーおちんちんブラック!」
「みんな合わせて! ちんちんジャー!」
そこでポーズを取っていたのはそれぞれのカラーのコスチュームを着た五人の戦士たちだった。
「ヒ、ヒーロー来ましたよ……」
美咲は突然のことにちょっと胸を突かれたみたいな顔で言った。
「どうも」
「わっ。挨拶されました。なぜ?」
そしてヒーローたちはぞろぞろと美咲たちのところへ寄ってくると隣のテーブルの席についていく。
「いや、なんで座るんですかっ? これからヒーローショーとか始めるんじゃ?」
「やらないやらない。俺たちそういうのじゃないから」
「え、じゃあ、何をやる人たちなんですかっ?」
そう言って美咲は周囲を見渡した。
「そういえば、ヒーローが現れたのに周りを歩いてる男の子とか目もくれないですけど」
そしてむいに目を向けた。彼女も別に平然としている。
「むいは好きじゃないんですか?」
「ううん……当人たちを前にして言うのは気が引けるけど、わたしはチン子たんチン子たんが好きなだけだから。それにヒーローなら明晴ちゃんがいるし」
「そもそもだ」
レッドがそこに口を挟んだ。
「おちんちんの敵ってなんだよ?」
「それを私に聞くんですかっ?」
「いいからいいから。考えて」
「……まあ、病気、とかですかね?」
「そうだろ? 戦えないだろそんなのと、医者じゃあるまいし。だから敵がいないんだよ」
「じゃあ何をヒーローなんか名乗ってるんですか」
さらに美咲は、「そもそも、なに戦隊なんですか?」と続けた。
「いや、なに戦隊でもない。そうすることで何かがごまかせるらしい」
「ごまかしてばっかりじゃないですか!」
そんな美咲に対して、ピンクは「それより」と返した。
「ここは楽しんでくれてる? 気に入ってくれたかしら?」
「まあ……楽しいですよ」
「ふふっ、よかった。好き? おちんちんのこと」
「…………。というか、ピンク、ですか? 女性ですよね?」
「なによ? 何か言いたげな目をして。そうよ。私はちんちんジャーの紅一点。おちんちんピンクよ」
「紅一点……?」
「ともかく!」
とそこにレッドが口を挟んだ。
「聞かされた通りどうやら彼女はおちんちんのこと自体はどうも気に入っていない。それだけは察することができた!」
的を射たことを強弁したレッドはぐいと顔を美咲へ突きだした。
「いったいどうして気に入らないんだ? 俺とかチン子たんチン子たんは、わりと可愛らしい見た目してるだろう? みんなそう言ってるぜ?」
「誰がなんと言ってようと私はそうは思わないんですよ……。それにあなたが含まれてることで信憑性下がりましたし」
「じゃあ、君は例えばどういうものを可愛いと思うんだ? 言ってみてくれよ」
「ええ? ううん、そうですね……」
悩んだ美咲は「ああ、ほら」と顔を上げた。
「この前、テレビの天気予報の映像で見たんですけど、雪の降る中、温泉に浸かってるニホンザルの親子とかは可愛いと思いましたね」
「顔が真っ赤のやつか?」
「そうですそうです。特に子供のサルが可愛くて」
美咲は思い出して笑顔になった。そこにイエローが「あ!」とうれしそうな声を上げた。
「でもそれなら風呂に入ってるとき、湯の上に浮いてるときのおちんちんに似てるよ!」
「やめてくださいって! 一緒にしないでくださいよ!」
「でも、小猿にもおちんちんはついてるわけだからなぁ」
「だからなに!?」
美咲の返答にヒーローたちは「どうすればいいのかなぁ」と頭を抱えた。
「どうもしなくていいですよ」
その中で、「待て」と冷めた声を上げたのはブラックだった。
「どうもこの娘、もしかしたら常人とは好みが違うのかもしれん。世の中にはホラー映画にこそコメディのように心を躍らせる人間もいるものだ」
ブラックは美咲にギン、と鋭い目を向けた。
「これから怖い話をしよう。ーーさて、というわけでここからは怖い話になる。苦手な人は聞かない。聞くなら覚悟を決めて注意して聞いてほしい。いいな!」
すると、むいをはじめ美咲の友達三人は席を移し始めた。
「あ、じゃあ、私も向こう行きますから」
「いや、君は強制的に聞いてくれ」
「なんでですか!?」
有無を言わさず、ブラックの語りは始まった。
「ちょっと!」
「俺は子供のころ父親と一緒に風呂に入っていた。大きくなるにつれて一人で入るようになったんだが、ある日ふとそのときのことを思い出していて気付いたんだ。とんでもないことに」
「とんでもないこと?」
「今思えば親父のおちんちん、黒くね? ってことだ。しかもでかいし。なんだかそういうの、過去を想像しちゃって怖いよな」
「……」
場は沈黙した。ややあってブラックはコクコクとうなずき始めた。
「そうだな、うん。今の話はなんか違うなっ。えぐいっていうか。ラインを超えてるな。ーーごめんね」
「な、なんですか急に」
「ほんとにごめん」
「いや、まあ、別にいいですけど」
「傷ついてない?」
「いや、別に大丈夫ですよ」
「泣きそうになってない?」
「だから大丈夫ですって」
「辛いのに我慢しちゃうときない?」
「それは、まあありますけど。時々」
「かわいこぶってない?」
「はり倒しますよ!」
声を上げた美咲は額に手を当ててため息を吐いた。
「というより、あなたたち私とのんきに話してていいんですか? 仕事に戻らなくても」
「実はここにきたのは目的がある。それこそが我々の仕事だ」
「目的?」
「我々は声をかけ、連れてくるように頼まれている」
「え? 連れてくるようにって、私たちをですか?」
「いや」
そして五色のヒーローたちは揃って美咲に目を留めた。
「君だけをだ」
「わ、私……? 私ですか? 誰が私を連れてくるように言ってるんですか?」
「社長。我が社の社長が君を呼んでいる」
「しゃ、社長っ? 社長がどうしてーー」
「というわけで」
椅子から立ち上がった五色のヒーローはあっという間に美咲の周りを囲むと座る椅子ごと美咲を御輿のように頭上に担ぎ上げた。
「ちょっと、何をするんですか!」
美咲の慌て声を無視して、ヒーローたちは走り出す。
「あれ? 美咲ちゃんどこ行くのっ?」
「わかりませんよ! は、恥ずかしい。みんな見てるんですけど!」
むいへの返事が尾を引いて、美咲はどこかへと連れ去れられていった。
遊園地を出て、建物の中に入り、警備員が立っている関係者用のエリアに入る。美咲はある扉の前でやっと担ぎ上げられた椅子を床に下ろされた。
「ここが社長室だ」
確かに扉は両開きで光沢ある木製の立派なものだった。
「さあ、入って」
「いや、嫌ですよ」
促された美咲は椅子から立ちながら普通に嫌がった。
「社長さんが何の用で呼んでるのか知りませんけど、こんな強引に連れてこられたら会いたくありませんっ」
「頼むよー!」
ヒーローたちは美咲にすがりついた。
「君を呼んでこれないと俺たち仕事が果たせないじゃないか。そうなると君、ちんちんジャーの敵っていうことになるぞ」
「敵に認定されたら人生の節目節目で俺たちはやってくるぞ。運動会とか授業参観とか。我々は君のところに現れるからな」
「わ、わかりましたよ。だから絶対やめてください」
美咲はしぶしぶ受け入れると、扉に向かい合った。扉を見つめる目が真剣になって、思わずのどが唾を呑み込む。
なぜだか急に会うことになった初対面の人物。しかも社長だ。わけがわからない、と緊張というより警戒すらしてゆっくりと扉を叩く。
「どうぞ」
中から重厚でしかし澄んだ低い声が返ってきた。美咲は扉を開けて中に入る。
グレーのタイルカーペットが敷かれたいかにもな内装のオフィスだ。壁の端にファイル類の詰まった本棚があって、中央には向かい合うソファとその間にテーブルが置いてある。
美咲がざっと室内を見回して目に付かざるを得なかったのは正面の奥、壁際にある二つのものだった。
ーーダビデ像?
姿を見れば誰でもこれかとピンと来るほど有名な彫像と、
ーーほ、祠?
その像に並んでたっているのは神などを祀る木造の小さな建物だった。普通、野外の道にぽつんとたっているそれが何故かダビデ像と並んでいるのはちょっと不思議な光景だった。そして、
「よく来てくれたね」
それらの手前、焦げ茶色の高級そうな仕事机に組んだ両手を置いて座っているのはスーツ姿の一人の男だ。
若い。二十代半ばと取れる色の白い肌は女性のようだ。しかし、驚くことに彼の髪はまるで朝に見る積雪のように何の混じりもない白髪だ。目を抜かれたような顔で自分を見る美咲を見返す彼は、細くのびる顎の上で濡れたように艶のある薄い唇をかすかに笑わせている。凄艶、魅惑、そういってもいい妖しい容姿だ。なのにそういう印象にならないのは彼の両目が、容姿など忘れさせて美咲の目を射止めるぐらい暖かな光を灯しているからだ。
美咲は彼の両目の光に意識を消滅させて没頭した。これほど暖かくて深い瞳をこれまで見たことがない。まるで瞳の奥に別のもう一つの世界があるかのようだった。
「友達と遊んでいるところ来てくれて申し訳ない。ありがとう」
彼が声をかけると、美咲はやっと我に返った。そして、
「そ、それであなたが……」
「そう」と静かに言いつつ彼はスッと椅子から立ち上がった。
「私はこの施設を造った者にして、施設を運営する会社の社長。株式会社おっ! ちんちん! のね!」
「……あ、あなたが?」
美咲はそれでも信じられないようにもう一度聞いた。
「二つ質問しよう!」
彼は答えず、突然はっきりとした声でこんなことを言った。
「一つ目。想像してみておくれよ? ある晴れた日のこと。近所の道を歩いてると前から裸の男が堂々と歩いてきた。彼は男女誰でも見惚れる役者のように容姿のいい人だった。そのときはたして人は彼の顔かおちんちんか、どっちに長く目を留めてしまうと思う?」
「……っ! ……!?」
「二つ目。果たして人の心は、幸せを与えてくれる他人と、快楽というものを感じてくれる真の原因である自分の肉体。本当のところどっちのほうが好きなんだと思う? 愛とは果たしてどこから湧き出るのか?」
「……」
そうして、数十秒の時間が経った。美咲をじっと観察的な目で見つめていた彼がふと「なるほど」と目をつぶった。
「なにがですかっ?」
これまで黙っていた美咲が声を上げた。
「というか、なんだったんですか、今の質問!」
「君という人物を知るための心理テストだよ。今のは人の性質を知るための究極の質問なんだ。その人のことは実は今の二つの質問で大体わかってしまうんだね」
「そんな馬鹿なことが……。第一、私なにも答えてませんよ。それでなにがなるほどなんですか」
「たとえ答えなくても、答えなかったことや君の顔とか目の動き、そんなものでわかることがあるのさ」
美咲はまた言葉を失った。そして内心に思う。
ーー何にせよこの人、やっぱりこの会社の社長ですね。
「それで、その社長さんが私に何の御用なんでしょうか? 早く友達のところに戻りたいんですが」
「時間はそれほど取らせないよ。すぐに帰すことを約束する。その上、帰るとき君が今よりも良い状態になっていることもね。時に、珠水美咲くん。君はこれまでの我が社の活動を見てきて、私が何を願って動いているのか、推測できるかな?」
「あなたの目的ということですか? 私にわかるわけありませんよ」
「それはね、人々に自分の心を解放してほしいと願っているんだ。誰もが解放し本音を隠さず他人へ向かう。そして他人の解放した心も広く受け止める。もちろん悪口や嫌悪を包み隠さず伝えろという意味ではない。優しさは持ちながら、ただしそこに恐れや遠慮はない。そうできるようになることが私の願いなんだよ」
「それは、立派というか、良い願いだなと思いますけど」
「この施設で遊んで、楽しんでくれているかな?」
「まあ、ええ、楽しいです。友達と一緒ですし」
「そう。みんな心を解放して友人や家族と向き合い、楽しんでくれている。しかし、この施設で遊んでいるみんなの中にはしゃぎはしても決して友人にも心を解放していない存在が唯一いる。君だよ」
「わ、私? 友人にもって、いやそんなことありませんよ」
美咲はさすがにちょっとむっとなって言った。
「気に入らないんだろう? おちんちんのことが」
「それとこれとは話が別です。それは関係ないでしょう」
「いや、大いにある」
そう言うと社長がゆったりとした足取りで仕事机を回り込んで手前に出てきた。
「だからこそ君にはこうして直接会った。では、約束通り手短に済ませよう」
そうして、社長は美咲に向かって足を進め始めた。
「な、なんですか……」
まっすぐにこちらを向く社長の両目はあくまで暖かく優しい。そのままの目で、彼の下ろされた右手がスーッと上がって突き出された。途端に、美咲は天敵を目にした動物のように全身の毛をぐわっと逆立てると、バッと振り返り出口の扉へ突進していた。
両開きの扉のノブを両手で掴むまでは一瞬だった。そして回すのも。しかし、
「あ、あれ? いつの間にカギかけたんですか!?」
それは音をやかましく立てても全く開かず、カギを開けようと扉を観察する美咲は結局それらしいものを見つけられず諦め、後ろを振り返るしかなかった。
歩いてくる社長は未だに意外と離れたところにいた。つまり全て承知の上で。
「約束しよう。これが済めば、君は必ず幸せになれる」
社長はさっきから上げっぱなしの右手の人差し指をそのときピンと張り直した。
いったい、これから何をされるのか。扉に背をつける美咲はつきつけられる人差し指を銃口をのぞくような気分で食い入るように見つめ続けるしかなかった。
そのとき、耳のすぐ側でバンと激しい音がして、横顔に切るような風が吹き付けた。思わず短い悲鳴を上げ、とっさに横目で見ると、自分の真横でさっきは開かなかったはずの両開きの扉の片方が内向きに開いている。
直後、人が部屋に入ってきた。美咲を横切り。程なくして立ち止まる。白いボタン付きの半袖シャツに黒いジーンズのスマートな後ろ姿。
「お邪魔する」
その涼しくて澄んだ声。
「て、天蓋司くん!?」
ゆらりと振り向いたそれはまさに天蓋司明晴だった。美咲をじっと見て彼は、
「邪魔したな、珠水」
「いや! ぜんぜん邪魔じゃないです。天蓋司くんもここに来てたんですか?」
「さっき着いた」
明晴がそれだけ言って社長のほうに顔を戻した。
向かい合う明晴と社長。明晴の全身を見上げ、見下ろした社長が口を開いた。
「この関係者用区画には警備もスタッフもたくさんいて、カメラでの監視もしてるはずなんだけど、どうやってここに?」
「おれには人力、機械を問わず警備や監視は通用しない。おれの名は、天蓋司明晴!」
明晴は急に高らかに名乗った。対する社長は「ほお」と声を漏らした。
「二つ質問しよう!」
そして突然そう言い出した。
「いいだろう」
明晴がうなずくと社長は二つの質問をした。さっき美咲にもした心理テストだった。
「一つ目は顔だ。そんな格好をしてるからには何かの事件に巻き込まれた可能性もある。表情からそれを探り必要なら助けたい。二つ目は他人だ。少なくともおれの心はそう思う」
明晴が悩む様子もなく答えると、社長は「なるほど」とうなずいた。
「これで君のことがよくわかった。君は可憐な人間だ。通報するのは止めておこう」
「人柄の勝利だ」
「それで、その天蓋司さんは何をしにここに来たのかな?」
「ある調査を。ーーでは、心して聞くように。これより緊急かつ重大な案件の説明に入る」
「き、緊急かつ重大?」
美咲がつぶやき声で聞いた。
「今、世間の人々がある超自然的な力の影響を受けている疑いがある。しかも、日本中の人々がな」
「日本中の……。超自然的な力って何ですか?」
美咲は前のめりになった。
「洗脳だよ」
その瞬間、美咲は頭の中が晴れたような顔をした。
「きっかけは、そう、おれは見ていないが昨夜、特別cmというものがあったそうだな。それに洗脳効力が仕掛けられていたのだ。結果としてcmを見た多くの人々、そして見なかったとしても大多数に及ぶ他人の行動に影響を受けることによって日本中の人間たちが今このときも洗脳されていっている。言うまでもなく、おちんちんというものを題材として。おれはこんな超人の行いをした者の正体を確かめ、事態を収束させるためにここに来たのだ。たとえ腕ずくでもな」
「……」
社長は明晴が目を鋭く細めて見てくるのに対し、なおも変わらず優しい瞳で見返している。
「さあ、いい加減人間に化けるのを止め、正体を現すがいい」
それから部屋は沈黙した。社長は突きつけられてからも口を開かずたたずんでいる。ややあって美咲が沈黙の重さに固唾をのんだとき、ふいに明晴の右手の指がピクリと動き、ゆっくりと上がり出した。そのとき、それに先んじて素早く上がり、バッと手のひらを広げて突き出されたのは社長の右手だった。
何かを制止するように広げられた手が形を変えてゆき、人差し指を一本伸ばした形になる。明晴の顔に向けて。
「やるか? おれに洗脳術を」
明晴はニッと笑った。
「やってみるか? いいだろう。試してみよう」
受けると言った彼の笑みは不敵といっていい。
「ちょ、ちょっと天蓋司くん! どうして? 受けて大丈夫なんですかっ?」
美咲が口を挟んだ。
「大丈夫だ。おれは霊能力者として催眠、洗脳術の達人でもある。他人にかけるのも自分がかからないのも簡単なことだ」
ーーこの人、危ない人ですね。
美咲は率直にそう思った。
「仮にそれがなくても、この者のやろうとしていることは無謀と言うべきだな。天蓋司は日本全ての霊能力者の大宗家。その血が流れる者に洗脳など効かない」
「……私は信じる。君の心の中にあるおちんちんを」
社長のその目にわずかに力をこもり、人差し指からそのとき白い光が放たれた。数秒で光は収まり消える。
光が消えたあと、明晴は両目を閉じていた。まぶたがゆっくりと開かれる。彼はフッとかすかに鼻で笑ったようだった。
「おちんちんYaehhhhhhhhhhhhh!」
明晴は腕を広げて異常な叫びを上げた。
「いや、かかってるじゃないですか! 天蓋司の血が流れてるから効かないとか言ってたのはなんだったんですか!?」
「それはね」と社長がそこに口を挟んだ。
「洗脳のための媒体がおちんちんだったからだよ。何故なら洗脳のための媒体とはその人にとって身近でかつ強烈な印象を持つものであるほど効果が上がるからさ。そこで質問しよう!」
社長は何かに浸るように全身をわななかせている明晴から美咲に目を移した。
「意識を失うような大けがでもしない限り、はたして男性が自分のおちんちんを一度も見ないなんていう日があるのだろうか? どう思う?」
「え? ええっ? いや、知りませんよ、そんなこと! ……ううん、まあ、あるんじゃないんですか? そんな日も」
「いや、ない!」
社長は断言した。
「風呂や用足し。それらのどれもしない日はまずないと言えるんだよ。休日だから鏡を見ない日はあっても、用足しなんかを一度もしない日はまずない。つまり、男性は生涯で自分の顔よりおちんちんのほうを見る日のほうが多いんだ!」
美咲はどうにも反論できなかった。社長は流れるように「そして」と続けた。
「おちんちんの印象は元々言うまでもなく強烈。そのおちんちんを彼は毎日毎日、これまでの人生で欠かさず目に刷り込み続けた。これこそ、スーパーサブリミナル!」
社長は高らかに声を上げた。
「そう! 体に流れる血なんかより、彼の積み重ねてきた人生のほうが重いのは当然のことなんだね」
だからこそ、洗脳術にかかったということだ。美咲はさっきから身をわななかせている明晴に目をやった。すると、明晴は広げた両手を下ろしてから胸に右手を当てはじめた。
「なんだ? この解放された晴れやかな気分は」
そんな明晴に社長が目を戻した。
「どうかな? その気分は。どう思う?」
「素晴らしい」
「て、天蓋司くん……!」
美咲はそう答える明晴に歯がゆそうに拳を握りしめる。
「この気分を、他の者にも共有したくなってくる。ちょうどそこにおあつらえ向きに珠水もいる。……珠水」
明晴が美咲の方を振り向いた。
「な、なんですか?」
「おれと共におちんちんの向こう側に行かないか?」
「どこなんですかそれ!? 嫌ですよ絶対!」
「フフ、こだわるなよ。それで自分の何かが変わるわけでもあるまいし」
「変わってるでしょう! どう見ても!」
「まあ、待ちなさい」
社長が明晴に言った。
「珠水美咲くんにはゆっくりと魅力を知っていってもらおう。その方が彼女には合ってるのかもしれない」
「そう言って、どうする?」
「この施設には博物館もある。おちんちんの歴史を展示してある場所さ。今からそこへ行こう」
「博物館か……それはおれも気になるな。いや、おちんちんの歴史ってなんだ?」
美咲は後ずさりをした。明晴と社長、二人は揃って見つめてくる。二人並んで。
「ともかく行くか」
社長と明晴は扉に向かって歩き始めた。その後を追うように美咲も歩き始める。
「……っ!? 何故か勝手に足が進むんですけど。天蓋司くん! 念動力かなにかで私の足を勝手に動かしてるでしょう! 止めてくださいよ!」
わめく美咲を無視して三人は部屋の外に出る。