三話 降水
ザー、ザー。
ザー、ザー……。
降りしきる。
教師の締めの言葉で解放されたクラスメートたちが音に負けないように張った声で話し始めている。
「なぁんだよこれ。めちゃくちゃ降ってんじゃん」
「帰るってときにちょうど降り出すって、運悪すぎだろ」
美咲は窓際に立ち、外を眺めていた。
充満する霧の森に漂うようなむわっとしたにおい。薄汚れた粗雑な紗をかけたような景色。灰色が過ぎて所々黒くすらある閉塞する空の雲。
「………………」
ほんの数分前、急に一変した外を眺めてグワッと見開く美咲の目は水たまりぐらい揺れ動いている。
「あらら、雨降ってきちゃったね」
と、その背中にのんきな声がかかった。むいだ。
「て……天気予報では一日晴れって言ってたんですよ」
美咲は振り向きもせず外の様子に釘付けになったまま返した。
「まあ、天気予報する人だって予想だにしないことはあるよ。しょうがないしょうがない。とにかくわたしたちはこれからどうするかを考えようよ。えっと、雨の中帰る? それともしばらく学校で雨宿りしていこうか?」
「帰るべきだな」
そこにもう一つの声が割り込んできた。
美咲が固まった体を破って振り返ると、むいの隣に立っていたのは案の定天蓋司明晴だった。
「これ以上ひどく降り出さないうちに帰るべきだ。幸い、傘は持ってきてある」
「ぐ」
とうめいた美咲は直後跳ね返すように前のめりになった。
「夕立なんですから止むのを待ってたほうがいいんじゃないんですか?」
「この雨は止まん」
明晴は一瞬もなく断言した。
「行こう」
そうして三人はそろって大雨のなか学校を出た。明晴が持ってきた一本の傘に三人入って町を歩く。
「さすがに狭いな」
真ん中に挟まれて傘を差す明晴がふいに雨音に紛れるぐらいの声で呟いた。
「大きい傘なんだけどね」
間近のむいはそれを拾える。
「しかしむい、どうして傘を持ってこなかったんだ? てっきり折りたたみ傘は持ってきていると思っていたんだが」
明晴は責めるというより疑問で仕方がないという顔をむいへ向ける。
「えへへ。忘れちゃって」
むいは顔を向き合わせるとただはにかむばかりだった。
「珠水。雨に当たってないか?」
少しして、明晴が反対側の美咲に顔を向ける。正面をまっすぐ向いて歩く彼女は、
「…………」
と何も答えない。わざと無視してるというより、やけに背筋を伸ばして体のブレもなく歩くその姿はまるで心ないロボットのようだ。
ほどなくして歩道は周囲にマンションのある下り坂に入った。
入って明晴は前を向いた。
「ところでむい、珠水の家の場所は知っているのか? おれたちの家から遠いか?」
「行ったことはないけど、教えてもらったよ。ええとね、多分そこまで遠くないと思うけど」
「送り届けなければなるまい。そうしてだ。送り届けて家に帰ったら、むい、おれの家に来るんだ。いいな?」
「……。わかったよ」
「ちょっと待ってください!」
その瞬間、一気に火が入ったように美咲が声を上げた。我に返ったとも言う。
「まさかやるつもりですか!?」
「やる。妖法誘い水は今日行う」
「朝の私との約束は!?」
水難が起こると証明できなければむいに変なことはしないという約束のことだ。
「逆に聞くが」
明晴は横目に側の美咲を見下ろした。
「証明ならずとまだ思っているのか?」
「わ、私は……。そ、そうです。私はまだ認めません。これが水難だなんて、ぜ、全然」
そのとき、三人の後方で突如雨の音をかき消すほど大きな衝撃音がした。まるで車が側のガードレールにでも突っ込んだような。
突風に突然吹かれたようにビクリと肩を跳ねさせた女子二人。そして明晴は一斉に後ろを振り向いた。
車などは別にガードレールに突っ込んだりしていなかった。代わりに自分たちの歩いてきた下り坂にすっぽりとさっきまでなかったものが現れている。
「な、なんですか、あれ?」
「給水塔……とか貯水タンクとかいうやつかな? ほら、学校とかマンションの屋上にある」
「それが落ちてきたっていうことですか? そんなことありますか!?」
美咲とむいが話す突如現れた物とはドラム缶のような白色の物体だった。正体はまさにむいの挙げた物で正解である。
美咲は雨の中でもわかる青い顔で体をブルリと震わせた。
「もうちょっとタイミングがずれてたら私たちの頭上に直撃してたところですよ……。で、でもよかったぁ。誰もなんともならなくーーええっ!?」
美咲が言葉の途中で突然すっとんきょうな声を上げた。
目を見開いて、彫像のように彼女は固まる。その彼女の目の中で、雨に打たれて寂と佇む物体がそのときゆらりと動き出しグルンと一度回転した。
これが、実はさっき声を出したときにも起きていた。そして二度の回転で勢いづいた金属の物体はーー今度は声を上げる暇もないーーゴロゴロと坂を下り始めたのである。三人に向かって。
「これはいかん。行け、行け!」
一番に反応し向き直った明晴に急かされて美咲とむいの二人がわたわたと下り坂を進み出す。
「う、嘘でしょう。なんですかこれ!」
と、美咲が言ったころには三人が駆け下りる速度はもう風を切る勢いとなっていた。耳元で風の流れる音がよく聞こえる。
「駄目だな。このままの速さでは。追いつかれる」
しかし、そこに明晴の声が響く。
美咲はちらと横に目を向けた。そこにはコンクリートで補強された壁がある。とっかかりはないし、あったとしても猿でもあるまいしもちろん一瞬には登れない。そしてこのとき、反対側にある車道で黄色い自動車がまるで別世界の存在のようにエンジンを吹かして三人を追い抜いていった。コンクリート壁と車道とのガードレールに挟まれたこの道は逃れえず、そして背後の物体も逸れようがないのだ。
「速度を上げろよ。止まるなよ。追いつかれるなよ。転ぶなよ」
「よ、要求が難しすぎますよ!」
後ろからの明晴の声に答える。
「ところで二人とも今雨に打たれてないか? 傘の差す位置は大丈夫か?」
「余裕なんですか!?」
答える美咲だが、「あっ!」と何かに気を引かれたような声を上げた。彼女たちの前方、下り坂の終わりは横断歩道だった。しかも、その信号は車横切る赤色だ。
美咲はよろめきながらも危うく車道に飛び出す前に止まることができた。とはいえ、
「ま、まずいですよ。どうしましょう!?」
後ろを振り向けば明晴の体越しに物体がこちらへ転がり落ちてくるのが見える。
「明晴ちゃん?」
「よし」
明晴が気合いの声を上げるとむいに持っていた傘を渡した。そして、坂の上へと完全に向き直り、立ち姿を整え始めてしまった。
「おれが受け止めよう」
「そんなことできるんですか!?」
「おれならできる」
明晴は迫ってくる金属の物体に対し一歩も引かない。その背中には何か異様な迫力が波のように広がっているかのようだ。
「でも」
とそこにむいが声をかけた。
「そんなことができるのっておかしくない?」
「そうだな。やはりやめよう」
「って、ちょっとぉ!」
物体はいよいよもって間近に迫ってきていた。襲いかかってくるのにもう一刻の猶予もない。美咲は思わず顔の前に両手を上げて目をつむった。そしてーー。
暗闇の中にガキッという大きな音が鳴ったかと思うと何かがこすれるような身もすくむ不快な音が続いたのである。その音もやがて止まる。美咲がおそるおそる目を開けると、
「よかったねぇ」
とむいが言うとおり、物体はぶつかる直前で止まっていた。
「この付近では壁とガードレールの合間が坂の上より狭いな。だから止まったんだ」
目の前の物体を前に観察的な会話をしているむいと明晴の裏で美咲は背を曲げて心底ホッとしたため息をついた。
「しかし、いよいよもってこれはいかん。事態はこれから深刻化していくばかりだろう。やはり早く妖法誘い水をやるしかないな」
明晴のこの発言を聞いて、美咲の背が伸びて目がキッと鋭くなった。
「わかりました!」
「なにがだ?」
むいと明晴は声を上げた美咲に振り向いた。
「今朝から今までのことが普通じゃ起こらないだろうっていうことは私だって認めます。つまり天蓋司くんの言う妖怪うんぬんのこともあるのかもしれないって、そんな感じはします。でも! まだ半信半疑です。だからその誘い水をやる所に私もいます。やって、その結果で事の真偽を確かめます。問題ないですね!?」
美咲は高らかにそう宣言した。これは譲歩だ。敗北だ。しかし結果の後に一発逆転の手を残した策でもあった。
「構わんぞ」
明晴は承諾した。そして、
「しかし、同席するからには今夜はおれの家に泊まることになる。そこは承服しておいてくれよ」
と言った。
「え!? 泊まり込みなんですか?!」
「おねしょゆえ」
「えー……」
そうして三人は改めて雨に身を縮ませながら明晴の家にたどり着いた。「ここだ」と立ち止まった明晴に言われて正面を眺めた美咲は開口一番、
「なんですか……これ」
と呆然として言った。
明晴の家は一戸建てだった。彼女の前にある門ーーそれは頭上に瓦の敷いた屋根を持つ漆喰の白い壁の内に両開きの巨大な木の扉を備えた立派なものだった。その漆喰の壁が左右を見渡しても美咲の視力では見えないほど果てしなく続いてる。
「武家屋敷じゃないですか。観光地じゃないんですか?」
「住宅地だ」
周りを見れば確かに店などなく一般的な一軒家しかない。
「ちなみにこっちの家がわたしの家だよ」
むいが門の向かいにある家を手で示す。白い柵があり、ガーデニングをしている庭があり、二階建てのかわいらしい洋風な家屋がある。しかし明晴の家の前ではありふれた小さな家に感じてしまう。
「というより、周りの家から浮きすぎでしょう」
「ともかく、いつまでも雨の中にいても面白くない。早く入ろう」
「あ、ちょっと待ってください」
瓦敷きの屋根の下を傘を閉じながら進み、扉に手をかけた明晴に美咲が言った。
「急に私が上げてもらったらご両親がびっくりするんじゃないんですか? その上、急に泊めてもらうって話になると」
「父親は天蓋司本家の方にいる。ここには手伝いも住んでない。おれ一人だ。だから遠慮せず上がってくれ」
明晴は両開きの扉を片方開けて門の中に入っていった。
むいが隣の美咲を見てニコッと微笑む。
「安心だね」
「逆に不安しかないんですけど」
そうして二人も明晴の後を追って扉をくぐった。
門の内側も造りはストレートに和風だった。玉砂利と飛び石踏んで玄関に行き、ガラガラと音を鳴らして磨りガラスの引き戸を開ける。土間で濡れた靴下も脱ぐと長い縁側を歩く。縁側から内廊下に入ると電気をつけて先導する明晴がある部屋のふすまを開けた。畳に座卓、床の間、掛け軸。いかにもな和室だった。
「遠慮せず楽にしていてくれ。今、タオルを持ってくる」
美咲は廊下の奥に去っていった明晴に部屋に入る。それでも遠慮がちに突っ立ったままの美咲へ、むいは勝手知ったるといったふうに座椅子を勧め、一緒に座ると備え付けのテレビをつけた。
程なく明晴が戻ってきてそれぞれタオルで髪や服の水気を取る。そうして三人で何となく夕方のアニメを見る。美咲の最初居心地悪かった気持ちも薄れてきたころ、むいがふとそういえばと美咲の名前を呼んだ。
「明晴ちゃんの家に泊まるなら家族に連絡しないといけないんじゃないかな」
美咲は「あ」と声を漏らした。
この電話が美咲を大変悩ませた。何しろ泊まるなんて話はいきなりだし、今日は木曜日で明日も学校はあるし、泊まりの準備なども全くしていない。その辺りの言い訳はきちんと考えてから電話をかけたつもりの彼女だったが、母からは予想外の問題点を次々に上げられてその度にしどろもどろになって反論する羽目になった。
「傘に入れてくれた友達の家に上げてもらってて、この大雨が止まないからせっかくだから泊まっていかないかって言ってくれてるんです」
「傘を借りて帰ってくればいいじゃない」
「一人での帰り道は危ないって話なんですよ。現にさっき給水塔みたいなやつがビルから落ちてきたりしましたし」
「嘘吐くんじゃないの! そんなことあるわけないでしょ」
「ごもっとも、と言いたいところですけど本当です! 私が今まで嘘吐いたことありますか!?」
友達がおねしょをする怪しい儀式に参加したいとは言えない中、ふすまの並ぶ内廊下で一生懸命だ。
そこに正面から明晴が歩き寄ってきた。何の用か、口を開こうとする気配を感じて美咲は慌てて一本立てた人差し指を自分の口元に持って行った。続けて自分の耳元にある携帯電話を指差す。
「そもそも泊まる家の友達って女の子? まさか男の子とか! そういう人いたの?」
「ち、違いますよ!」
ちょうど電話口の母がそんな話をする。明晴は納得がいったというふうに淡く笑みを浮かべてコクコクと頷いた。美咲はわかってくれたかと胸をなで下ろした。
「珠水。実は着替えの話なんだけど。むいがこれから一旦家に戻るんだけど、服はむいのやつがいいか、それともあたしが子供のころに使ってたやつでいいか。どっちがいいかしらん?」
そして明晴はそう聞いてきた。のど自体を別人と換えたような女そのものの声で。
「なんて声出してんですか!?」
「電話中で悪いけど、むいが玄関で待ってるから早く答えてほしいのよん」
「止めてください! 無表情のまま変な声出すの! 怖すぎます!」
「変って……あたし女なんだからおかしくないだわねん」
「だわねん!? いや、そんな話し方する女性いませんから!」
「え、今どんな人と話してるの? 男の子?」
とそこに不思議そうな口を挟んだのは電話口の母だった。
「あ!」と声を出した美咲は、「そういうわけで今日泊まるので。許してください」と早口に付け足して電話を切ってしまった。
廊下に一気に沈黙が降りる。
ややあって、
「ううむ」
と明晴が元に戻った声で首をひねった。
「おかしいな。気を回したつもりだったのだが」
「ありがたいですけど、天蓋司くんのはこねくり回してるって言うんです」
美咲はがっくりとうなだれた。
着替えはむいに頼むことにして、美咲はさっきの和室でテレビのニュースを見ながら自宅に戻ったむいとどこかに消えた明晴を待った。
少しして、むいが部屋に入ってくる。制服から白い上着とふわっとしたロングスカートに着替えており、ボストンバッグを持つ彼女は座卓の前で膝を折るや、バッグからせっせと何かを取り出し始めた。
「これ、美咲ちゃんの着替え。パジャマだけど。あと、うちのお母さんが夕飯に食べなさいって作ってたカレーを持たせてくれたよ」
取り出してきたのは服と、ビニール袋に入れられた小さな鍋だった。
「おお。だがまだ七時にもなってない。後で温め直して食べようか」
と、そこにいつの間にか部屋の入り口に立っていた明晴が言った。彼の格好もまたさっきまでの制服とは違っていた。黒羽二重の着物を一枚、袴もはかずに着流しで着ている。腰に巻いた金茶色の帯も細くてまるで空手家みたいだ。
「どうした?」
明晴は自分をじっと見つめる美咲に聞いた。
「いいえ。ただ、歌舞伎者ってもしかしてこういうのかなってちょっと思っただけです」
美咲も制服からむいの服に着替え、それからまた時間が経って、三人で夕食を食べる。みんなが食器を置き始めたころ、
「さて」
と明晴が一つ呟いた。
「このあと行う妖法誘い水のことについて改めて手順など説明しておこう」
この言葉に二人は耳を立てて明晴を見た。
「まず誘い水を行うにあたって重要なのはむいに寝小便をやってもらうことだ。あくまで寝た状態で、漏らしてもらいたい。これは術によるむいの体と意識への負担を極力減らすためだ。そのため手順としてむいにしてもらうことは寝る以外ない。おれは起きたままその瞬間を監視して待つ。説明は以上だ」
「あの天蓋司くん。聞きたいんですけど、その誘い水を行った結果何が起きるんでしたっけ?」
「誘い水はそもそもむいに取り憑いた妖怪水呼を外に引き剥がすための術だ。行えば結果、水呼が姿を現す」
「つまり、そんなものが本当に出てくれば天蓋司くんの話は真実ということになる、ということですよね?」
美咲は念を押してやや前のめりに言った。
「そうなるな」
美咲は明晴の返事に頷いた。すぐに「でも」と続ける。
「妖怪なんて出てきてどうするって言うんですか?」
「心配いらない。おれが戦い、そして祓う。まあ同席する以上、珠水には何もしないでいいと言うわけにはいかない。その間退避していてもらわなければ。覚えておいてくれよ?」
「はあ」
生返事を返した美咲はこのとき内心に決心した。今夜は絶対に寝ないということを。彼女は明晴の魂胆を考え、見抜いていた。明晴の狙いとしては彼女が眠気に耐えきれず寝てしまった後、むいの痴態を満喫することにあるに違いない。そうなった後なら妖怪が出たうんぬんのことはいくらでも曖昧にして言い訳できる。この状況、全てを誤魔化して欲望を満たすにはそれしかないのだ。美咲は絶対に寝ずに起きていて、むいのおねしょの後、明晴に全部嘘ではないかと勇気を持って糾弾することを決心した。
「では、寝るのに良い時間まで待つ。ただむいにはそれまでやっていて欲しいことがある」
「なぁに? 明晴ちゃん」
明晴は座椅子から立ち上がると、部屋の隅のほうに歩いていった。そこにあらかじめ置いてあった縦に大きく膨らんだビニール袋を拾って戻る。座卓の上に置いて袋を剥くと頭を出したのは二リットルサイズのペットボトルだった。それが五本もある。
「布団に入るまで可能な限りこのウーロン茶を飲むんだ」
「ウーロン茶? これ全部そうなの?」
「ああ。寝小便のため、水分を取らなければ」
「それはそうだけど、どうしてウーロン茶なの?」
「聞くところによると利尿作用があるらしい」
「なんというか、用意周到ですねぇ」
美咲は呆れた声で呟いた。
むいはその後、夕食の食器を下げた明晴が持ってきたコップに注いでひたすらウーロン茶を飲み続けた。
「普通に辛い」
「それはそうでしょうね」
むいがパジャマに着替えたりなどしてさらに時間が経って、三人でぼうっとテレビを眺めていると明晴がふと「そろそろだな」と小さく言った。掛け時計を見ればもう夜の十時になろうかという時間だった。
少しして、ふいにむいが「はあ……」と息を吐いて座卓にへにゃっともたれ込んだ。
「あーあ、嫌だなぁ」
「え、嫌なんですか!?」
「わたしだってもちろんちょっとは嫌だよ。明晴ちゃんにおねしょしてるところなんて見られちゃうの恥ずかしいし……」
「だったら止めればいいじゃないですか! わざわざ利尿作用があるとかいうものまで飲んで」
「それはやる。明晴ちゃんがやってくれって言うから」
「はああ……。まったくもう」
美咲はため息を吐いた。
すると、明晴が立ち上がり二人を見下ろしながら、
「時間だ。寝よう」
と口を開いた。
「うん」
むいは素直に立ち上がる。美咲も鉛でも巻き付けてるように腰が重そうにそれに続いた。
明晴に先導されて廊下に出、やってきたところに美咲は「え?」と目を丸くした。やってきたのは玄関だった。靴を履き出す彼に、同じく外靴を履くように指示される。
「どこに行くんですか?」
「武道場だ。家の敷地内にある。むいにはそこで寝てもらう」
それぞれ傘を持たされて、三人は母屋から野外に出る。未だに雨は激しく降り続けている。夜も更けてかなり視界の悪くなった道で何とか懐中電灯をつけた先導についていくと、ややあってガラス張りに木の骨組みをした引き戸が光に照らされた。見上げると、木造の飾り気のない建物が闇の中に薄ぼんやりと見える。入って、土間から上がり、電灯が灯されると木の壁に木板の床で造られた部屋が目に飛び込んできた。見回すに部屋はこの一室だけだ。踊ろうが気にしなくていいぐらい広くて、大縄跳びをしても問題ないぐらい天井が高い。その上、置物や棚は何もない。外よりも涼しく感じるここはいかにも道場だ。けれどこういう場所の壁にあるだろう掛け軸や賞状や神棚などもここには一切なかった。
ただし、自然と身の引き締まる空気のあるこの部屋の中心に、ぽつんと場違いなものがあった。
「布団は敷いておいた。むいはあそこで寝てくれ」
道場の真ん中に敷いてある布団ほど奇怪なものはない。むいは側に置いてあった座布団を避けて、検査台のベッドに寝るぐらいぎこちなくそこに横になった。美咲と明晴はその彼女を立ったまま見下ろす。
「明晴ちゃん。掛け布団はこれだけ?」
むいが横になるときにお腹にかけた、帯のように細長いつやつやとしてる高級そうな布を撫でた。おかげで彼女は胸元も足も剥き出しだ。
「ああ。おれからその瞬間が見えなければ意味がないからな。今が夏で良かった。ただ腹だけは冷やすのは駄目だからな」
答えて、明晴は側にあった座布団を拾い、手を伸ばしてむいの体を挟んで向こう側に放るように置いた。美咲に座るよう言う。座ると、二枚重ねだったらしい座布団の残り一枚を足下に敷いて、入り口のところへ戻っていく。部屋の電灯を消して真っ暗にしたかと思うと、すぐにまた灯りをともした。今度は部屋の明かりではなく、手元の。
「ちょ、提灯?」
その明かりを見ると祭りを思い出す。明晴が持ち出してきたのは黄色っぽい紙を張った模様のない提灯だった。揺れる火をぼうっと浮かび上がらせるそれを両手に持って壁際を伝い、部屋の隅へと歩いていく。
「電灯を点けていてはむいが寝付けないだろう。だが、真っ暗闇でも困るからな」
明晴は困惑した目の美咲に見守られながら提灯を部屋の四隅に置き終えた。こうなると一気に怪談百物語の場みたいな雰囲気が出る。ただでさえさみしい道場で美咲はちょっと身を硬くして息をのんだ。
明晴がむいの側に戻ってくる。そして美咲の反対側ーーさっき敷いた座布団の上にあぐらをかいた。
「おやすみ」
一言だけそう言った。
場に沈黙が満ちる。静かになってわかったことだが、ここには時計もないらしい。あるのは三人の呼吸と降りしきる雨の音だけだ。美咲がオレンジの豆球電灯ぐらいの薄暗さのこの空間に本能的にそわそわした気持ちが抑えられない中、正面の明晴の薄っすらと照らされる顔は実に静かだ。彼はじっと顔を落としてむいを見下ろしている。
「ねえ……」
しばらくしてふいに、むいがそう小さく言って今まで閉じていた目を開けていた。
「どうした?」
「いや、うん……」
むいはもそもそと肩辺りを動かしながら煮え切らない返事をする。
「どうしたんだ? もじもじして」
「その……お腹の辺りに視線を感じて」
「見てるからな」
「それが気になっちゃって……」
「それはそうですよ」
と美咲が深く頷いた。
「だっておかしいですから、こんな状況。粗相するのをじーっと見られながら待たれるなんて。馬鹿馬鹿しい。よくよく考えて本当に馬鹿みたいですよ。誰がこんな状況で眠れるっていうんですか」
「ぐー……」
「って、寝たー! 図太すぎませんか!?」
「珠水。静かに」
「あ、はい。すみません」
むいが寝入って場はまた沈黙した。むいは当然動かないし、美咲と明晴も座布団の上にずっといる。そのまましばらく経って、美咲は強く思った。
ーーこれは、辛いですね。
何しろ、暇だ。何もやることがなくただ時間が過ぎるのを耐えて待つのみ。しかも場は静かで薄暗い。明晴の嘘を証明するため絶対に寝ずに見張ると決心した彼女も時折うつらうつらとしてしまうのはどうしようもないことだった。
「天蓋司くん……。天蓋司くん……」
美咲は眠気を晴らすためいっそのこと声をかけることにした。
「どうした?」
明晴は顔を落としたまま同じくらい小さな声でささやいた。
「このままじっと黙ってるのも辛いです。何か話をしましょうよ」
黙って考える素振りを見せた明晴は、
「いいだろう」
と少しして返した。そして、
「話すと言って、何を話す?」
「そうですね……。そうだ。天蓋司くんが本物の霊能力者だっていうならそれらしい話をしてみてくださいよ」
「それらしい話か……。そうだな、珠水、恐山という名前を知ってるか?」
「それって、青森県にある山ですよね? 死んだ人の霊を呼べるイタコっていうお婆さんたちがいる」
「そうだ。物知りじゃないか」
「まあ、ほどほどですよ。ほどほど。それで、恐山がどうかしましたか?」
「恐山はむつ市というところにある。実はな、日本に住む大多数の人間が知らないことだが、このむつ市にはある秘密がある」
「秘密……?」
「意外なことだ。実はむつ市はな……」
「は、はい……」
「ストッキングの生産量、日本一なんだ」
「霊能力関係ないじゃないですか!」
「イタコの人も着ているんだろうか?」
「いや……イタコさんは着てないんじゃないですかね」
「何故だ。なにか悪いか?」
「えっ? 着てて欲しいんですか?」
「なにか悪いか?」
「え!? いや別に」
「……」
「……」
「なんだか、怖い話になってしまったな」
「自分で言わないでくださいよ……」
それからまた時間が過ぎて、一体何時間経ったのか、美咲はすでにしおれた頭をかきむしりたい気持ちになっている。さすがの明晴も、そのとき「ふうむ」と重いため息のようなものを漏らした。
「珠水。人は一体、いつおねしょをするんだろうな」
「なにを急に深そうなことを言ってるんですか」
美咲は半目を上げた。
「よくよく考えて、人が漏らしたことを知るのはいつも事後だ。果たしてこの世に人がおねしょをする瞬間を見たことのある人間が存在するのか? 例えるならまさに神のみぞ知る領域というやつじゃないか」
「例えが大きすぎるでしょう。頭おかしくなったんですか? ……あ、元からか」
…………。
…………。
二人はもうしばらく会話もしなくなった。明晴だけでなく、美咲も隈でも浮かびそうな目でむいの一点を見つめ続けている。
「……まさか、今日はやらないのか? ……」
しばらくぶりに明晴が呟いた。
「……嘘でしょう」
むしろ可能性の高い話だ。美咲ががくっと背中を丸めて目をつむったーーそのとき!
「ううん……」
と、むいが今までにない悶え声を漏らした。
「来たか!」
直後明晴の声が飛び込んでくる。覚醒したようにカッと目を開けた美咲はむいが両足をもじもじとうごめかしている様子を見た。
「ついにやるか?」
明晴は勢い込んで片膝立ちになっている。
前のめりになった二人に顔を注目されるむいは眉を寄せ、唇をすぼめて震わせている。そして、
「ううん……あぁ……あー、あーあー、あーあーあーっ! あーっ!」
「なんだこの叫びは? 人間は漏らす前、こんな叫びを上げるものなのか!?」
「そんなわけないでしょう!」
そのとき、むいの声が急に静まった。そしてーー、
その瞬間は来た。ぐったりと弛緩するむいの体は変化を起こしたのであった。
酷いことだが、それを目の当たりにしてさすがに美咲の目が歓喜に輝いた。
やっと、これで全てが終わる。明晴の嘘は暴かれ、ここまでの苦労から解放される。彼女の心はそれだけを想い、晴れやかだった。
「行くぞ! 妖法ーー誘い水!」
「え?」
その明晴の声を聞くまでは。
明晴は声とともにむいのその辺りに向かって右手を突き出していた。すると、不思議なことが起こったのである。
むいからその右手に向かって水が立ちのぼった。この世の摂理に反して。
次の瞬間、明晴は背後に腰をねじりながらボールを投げるように腕をぶん回すとその水はアーチ状に尾を引き、離れた床に落ちた。
「………………」
美咲は脳内に鐘を打ったような不可思議な音を聞いた。