二話 それはない
一日経ってよく晴れた朝。
美咲はこの日、むいと一緒に登校しようと約束して、自宅から少し進んだところにある場所で待ち合わせをした。行くとむいは先に来ていた。そしてもう一人。
「おはよう。珠水」
彼を見る美咲の口はむっと引き結ばれている。
「……おはようございます。天蓋司くん」
しかし挨拶はきちんと返した。
「むいに変なことしてないでしょうね?」
「妖法誘い水はまだ使っていない。是非とも昨晩にやりたかったが」
美咲がむいを横目に見る。
むいは「してないよ」と答えた。
美咲は口の端をふっと持ち上げた。
「今夜やる」
その瞬間、美咲の口は固まった。
「やるぞ。むい」
「わかったよ」
「ちょっと待ってください!」
美咲が顔を合わせる二人の間にぐいと割って入った。明晴をにらみ上げる。
「昨日私が言ったことでわかってくれたと期待してたのに。あくまでその妄念を捨てられないんですか!」
「妄念などではない」
明晴は本来通りの綺麗に澄んだ声で答えた。それが美咲の口元をさらにむっとさせた。
「だったら私はあなたからむいを引き離します。関わらせはしません!」
「それは駄目」
そのとき、美咲の肩をつかむ手があった。反射的に振り向くとその手も声も主はむいだった。
「むい……」
途端に美咲の目が懇願の色になる。
「それは嫌」
「……む、むぅ……」
美咲はうめくと、明晴に勢いよく顔を戻した。
「それなら天蓋司くんの目を覚まさせて、止めさせるまでです!」
「ほお。どうするつもりだ?」
「昨日、確か妖怪が取り憑いたからむいに水難が降りかかるとか言ってましたね? そんな水難なんて起こらなければ妖怪なんていないって証明できます。天蓋司くんがむいに変なことするための理屈は破綻するわけです」
「そうだな」
「先に言っておきますけど、水難って言うぐらいなんですからちょっとやそっとの水のトラブルじゃ当てはまりませんよ? ちゃんと大事でないと」
「それはその通り」
「だから天蓋司くん、水難って言えることが起こるまでむいに変なことをしようとしちゃ駄目ですよ? 約束ですから。もしこの約束を破ったら私、本気で怒ります。天蓋司くんがどうなろうと知ったことじゃありません」
「いいだろう。約束は守る」
明晴はなおも堂々とそう宣言した。
美咲は素直にコクリと頷く。内心に面倒なく自分の提案が通って良かったとため息ついて思った。
「しかし、証明はすぐにされることになるだろう。水難は起こる。今日はそれを警戒する試練の一日となるだろう」
明晴はそう言う。その眉間には悲痛に見えるしわすら刻んで。
「私には天蓋司くんがどれぐらい本気なのかわかりません。傘まで持ってきて」
美咲は明晴が右手に握る傘をジトっと見る。そして青い空に目を上げた。
「こんなに晴れてるんですよ? 雲一つありません。天気予報だって今日一日晴れ模様って言ってましたし。雨が降るなんてありえませんよ。それにむいですら傘を持ってきてないですし」
明晴がむいに目を向ける。むいはその目を受けて誤魔化すかのように「えへへ」と笑った。
「まあ、何はともあれそろそろ学校へ向かおう」
明晴はそう言って歩き出した。
しばらく歩いて、
「そもそも天蓋司くん、今回みたいな事は前から何度もあるんですよね? むいに妖怪が取り憑いたとか言って。それがおかしいでしょう。どうして都合良くむいに何度も妖怪が取り憑くんですか? 言ってみてください」
と美咲が不意に言い出した。美咲の目標は明晴の理屈を破綻させることだ。
「それはな、むいがいわゆる霊媒体質だからだ。憑依体質ともいう」
「霊媒体質?」
「むいは霊や妖怪をどうしようもなく惹きつけてしまう。妖霊は様々な感情を持ってむいを襲うのだ。まったく、むいには災難だ」
「私の言うことです」
明晴の中の正当性を崩すのは簡単なことじゃないらしい、と美咲がまぶたをたっぷりと重く閉じて思った。
「二人とも待て!」
その瞬間、明晴の鋭い声がして美咲はぐわっと目を開いて足を止めた。見ると明晴は両腕を広げて前に立っていた。
「ここをうかつに進むのは危険だ!」
「どういうこと!? 明晴ちゃん!
」
むいの上擦った叫びもすかさず続く。
「これを見ろ」
明晴が人差し指を少し前の地面に向ける。
美咲とむいはその先に目を落とす。
明晴が指差す先には……。
「マンホールだ。こいつは危険だぞ」
「……え、これですか?」
「知らんか。いいか? マンホールとはーー」
「いや、それは知ってますよっ。危険ってこれのことですかって聞きたいんです」
「マンホールと言えば地下水。この上を通るのは覚悟が必要だ。避けて通るのも難しい」
確かにマンホールは歩道の幅いっぱいあるほど大きな種類のものだった。
「いったい何が起こるって言うんですか?」
「わからん。しかし可能性はある。まずはおれが一人で通る」
そうして明晴は一人前に出た。マンホールの前に立った彼はジッとそれを見下ろしたかと思うと、ゆっくりと地面の間近まで片膝落としてしゃがみ込んでマンホールに片手を伸ばしていく。そして、明晴の手が調査的に鉄のフタをさわさわと撫でる。
「どう? 明晴ちゃん」
「熱い」
「だってもう夏ですし」
そうして明晴はよっこらと立ち上がった。見下ろしながら間を置いて、右足をそろりと上げる。伸ばすこと実に慎重でまるで熱い風呂に触れるようだった。
「明晴ちゃん。頑張れ!」
むいの声援が飛ぶ。
明晴はマンホールを踏んでスーッと通り過ぎた。
……なにも、起こらない。
「おおーっ」
「なんですかこれ」
マンホールを越えた明晴がこちらを振り向いた。
「次はどちらが来る?」
そしてそう問いかけてくる。
「私が行きますよ」
美咲がさっさと申し出る。途端に自分を挟んで凝視してくる二人の視線を強く感じた。それに一瞬ひるむもすぐに歩き出してズンズンとマンホールを進む。妙に静まった時間はすぐに終わった。
もちろん何も起こらない。美咲は隣の明晴に顔を向けた。
「ほら、どうです?」
「よかった。よし。では、むい。やってくれ」
明晴が声をかけるとむいが進み出した。明晴のように妙に慎重でもなければ美咲のように見せつけるように勢いよく進むわけでもない。むいはカルガモの雛みたいな自然な足取りでこっちに来る。
その様子を明晴はじっと見守っている。美咲はその横顔から目を落とし、ふうと鼻から息を吐いた。
「何も起こりませんよ。まったく、いちいちこんなことしてたら本当に遅刻しちゃいますよ?」
そのとき、バキっと何かが割れたみたいな耳をつんざくすさまじい音が辺りに響いた。
「え?」
美咲がとっさに顔を上げる。
むいが上に立ってるマンホール。その鉄蓋に地割れのようにヒビが入っているのを美咲の目が確かにとらえた。
「わっ」
その瞬間、すかさず腕を伸ばしていた明晴に手を引かれたむいがひょいと跳んだ。
直後、マンホールは真ん中から二つに割れて谷折りになり穴の中へ落ちた。ヒューッと風を切る音がしたかと思うと人間の力では何を叩きつけても出せなさそうなガガァンという地獄から噴き上がってくるが如き恐ろしい音がした。
「………………」
町の雑音は殺された。
三人固まる中、少しして、
「危なかったぁ。引っ張ってくれてありがとう、明晴ちゃん」
とむいが言った。
「ああ。しかし早速来たな。水へ、呼ばれたのだ」
明晴は実に静かな面持ちでマンホールの落ちた穴を見つめている。
美咲もまた食い入るように。
「………………むいが重かったっていう可能性もあるんじゃないですかね……」
「実は最近太ってきちゃって」
むいが後頭部に手を当ててはにかんだ。
「いや、重すぎでしょう! いったい何トンなんですか!? ……あっ。すみません。いや、けどーーううっ!」
美咲は頭を抱えてうつむく。
明晴はその彼女に顔を向けた。
「どうした? 一人で」
三人は偶々通りがかったおじさんが市役所に連絡しておくと言ってくれたので再度学校へ歩き始めた。
しばらくして、ふいに美咲が、
「よくよく考えたら」
と澄ました声で言い出した。
「さっきみたいなことが起こるのも、まあ絶対にありえないことではないですよね。それは起こりますよ、ああいうことも」
「むしろあるあるだね!」
「え!? いや! …………。そ、そうですね。あるあるですね!」
「あるある!」
「あ、あるある」
美咲はむいにそう返してから、ちらと明晴に横目を向けた。
明晴は先に美咲のことをジッと見ていたらしい。二人の目が見つめ合う。無表情な明晴に対し美咲の口がそのときヒクと動いた。
そして明晴はゆっくりと口を開いた。
「あるある」
「ありがとうございます!」
明晴は顔を前に戻した。
「しかし、あるあるか……」
そのとき、脇からけたたましい悲鳴が上がった。バッと横向くと通りがかった噴水公園の中でとんでもないことが起きていた。噴水装置がビルの高さぐらいたくましく水を噴き上げて、公園の中にいる幼児たちはキャーキャーはしゃぎながら降ってくる水に頭を守りながら右往左往して走り散らしてる。
「あれもあるあるか?」
「あ、あるある」
そして狂喜してる幼児たちがテンションそのままにこっちに走ってきた。手に持った水鉄砲を明晴に向かって撃つ。
明晴はそれらを全部避けると美咲に顔を向けた。
「これは?」
「これは種類違うでしょう。あるかどうかは天蓋司くんの印象次第じゃないですか」
美咲が胸を張ってそう言った直後、またどこかで声が上がった。辺りを見回すと、道行く人がみんな顔を上げてある所を見上げてる。
美咲もまたそちらに目を上げるとすぐにその目は剥けた。近くにある集合住宅のビルーーその狭い造りのベランダから細い筋の水が外に向かって噴き落ちている。しかも、全部の階、全部の部屋で。
「あそこはベランダに洗濯機を備え付けるタイプみたいだからホースだの水道管だのが壊れてああなったのかなぁ……?」
「ええっ? 全部の部屋で同時に?」
「それは、ううん……」
近くにいた人たちがそう話してる声が聞こえてくる。
全室から降って落ちる水の筋はあまりに重なって滝のようだ。
「あれは?」
「あるあるです!」
美咲は張った声でそう答えた。
学校に着き、自分の席に座り、流れるようにがっくりと頭を抱える。本当のところ美咲の脳中は混乱していた。
もちろん登校中に起こった事故に対して。
彼女はこれまで連鎖して起きた事故の確率の低さを気にしないような楽観的な性格じゃなかった。今回の件だけでなくどんなことでも確率が極端に低いことが現実に起こることはないと思う。仮に起こったならただの偶然じゃなく何か原因があるのではないかと思う。では、その原因とは?
ーーまさか本当に妖怪……。いや、まさか。そんなはずはない。
美咲の脳中で考えがぶつかる。ややあって、ふいに彼女の目がちらと上がり黒板の側に張ってある授業の時間割表に留まった。
今日の授業。昼休み前に体育がある。予定では、女子は水泳だった。
「休んだ方がいい」
体育の時間の前。壁に背をつけた明晴がやってきた美咲とむいに人気のない廊下の隅でそう言った。
「いくらなんでもこれはひどい。ちょうど水泳とは間が悪すぎるな」
美咲はそう言い足す明晴へゆっくりと澄ました顔を向けた。
「天蓋司くん。サボりはいけません」
「なに?」
明晴は壁から背を浮かせた。
「珠水。真面目さは愛嬌だが、時には害悪だぞ」
「水たっぷりのプール。水難の相にとってはとんでもない場所ですが、逆に言えばそんなものはないと証明するうってつけの場所でもあります。要するにプールで何も起こらなければ水難なんてないと証明できます」
美咲と明晴がじっと見つめ合う。
「男子は体育館でバスケットボールだ。すぐには助けにいけんぞ」
「助けなんて必要ないです。そんな事態にはそもそもならないって私は言ってるんですから」
動かず見つめ合う二人。……
そのうち、顔を逸らしてふっと息をついたのは明晴だった。
「じゃあ早く着替えに行こっか、美咲ちゃん!」
更衣室でスクール水着に着替え、いよいよ授業は始まった。
プールを囲んだ女子生徒たちが暑い青空の下、先生の気怠げに遠く響いて消えていく声に従って準備体操を終える。
教師から待機の指示が出されて他の生徒たちが近くの友達とダラダラ突っ立って話を始め出す中、そっと一人、美咲は胸に膝を抱えてしゃがみ込んだ。
目の前にプールの水面を一時眺めて、おそるおそるといったふうに右手を伸ばしていく。
「………………」
右手を水の真上に止めて、人差し指だけ下に向けると、プルプルと手を震わせながら水面に近づけていく。触れるか触れぬか、分からぬところでもう一度止まった手が、
「んっ」
という漏れた息とともにクイと勢いよく上がって降りた。
「あああああっ!」
「ひゃあ!」
水面に降りていた手が寸前でぎゅっと固まった。弾かれたように美咲が横を見ると、同じく膝を胸に抱えてしゃがみ込んだむいが顔を向けていた。
「もお! むい!」
「あはは!」
美咲が声を上げるとむいは笑顔を浮かべた。
それを確かめてから顔を水面に戻した美咲は、少しして、えい、と吹っ切れたようにあっさりと人差し指を水面につけた。そして何か実験的な顔をしながら水をかきまぜ始める。
「美咲ちゃん。水質は?」
それを隣で観察しながら、むいが聞いた。
「問題、なしです」
「え! 美咲ちゃん、水質とかわかるの!?」
「わかりません」
「適当!」
「だって、むいが乗せるからですよ!」
そう言って美咲は楽しそうに声を立てて笑ってるむいから水面に目を戻した。
「でも、水温は問題ないですよ。冷たすぎもせず熱いとかもありません。排水口の近くとかも水の流れがおかしいとかの異常がありそうな感じも特にしませんし」
そうして注意深く観察していると、いつの間にか教師の準備が整って、ホイッスルを一吹きーー全員プールの中に入るように指示が出された。
いよいよ水の中に入らなければならないときがきた。美咲は立ち上がって再度水面を眺め下ろす。揺れる水面を見つめて、改めて彼女の脳裏に登校中の光景と明晴の都度紡がれてきた言葉がよみがえって一瞬にして流れ過ぎていった。
それでも意を決してというふうにゆらゆらと美咲の右足が進みだし、水面に触れるか触れないかのところまですらりと伸びた。そして、
「い、行けええええ」
美咲の足はプールの中へちゃぷんと着水した。
「おおおお」
むいが隣で感動の声を上げる。
「なにしてるの? 二人で」
それを端から見てた友達の背が高くてボーイッシュな女の子が呆れてこの上ないといった様子で言った。
「天蓋司くん!」
授業が終わり、美咲は教室に帰って一番に窓際に佇んで外を眺めているらしい明晴のところへ駆け寄った。彼が振り向く間に言葉を続ける。
「結局何も起こりませんでしたよ。プールで!」
「そのようだな」
しかし振り向き終えた彼の表情に動揺はない。
「ほらぁ。やっぱりですよ! あるわきゃなかったんです、あんなこと!」
美咲は弾む声を上げながら彼の隣に進んだ。両腕を広げて、窓際に差す陽の光を吸うように浴びる。空を見上げるその顔は今の天気より晴れ晴れとしていた。
放課後。