十話
「成功だ。やりやがった! まさか本当に天蓋司の血を」
そのとき覚が声を上げた。両手を握り込み、はしゃいでる。
美咲は熱に浮かされたような顔で両手を見下ろす。
「これは、なんだかすごいです。力がみなぎってる気がします」
「そうだろう。天蓋司の体を手に入れて、お前の物事を書き換える能力は力を増したに違いない。これで今までできなかったこともなんでもできる。宇宙天地、永遠も無限も全部お前のもののはずだ!」
美咲はさっきから右手で左の拳骨を包み撫でている。続いて上腕まで撫で上げるとそこの筋肉を確かめるように揉み出した。
「……すごい。これ」
熱い吐息を吐いてつぶやく美咲はそのまま両手で自分の胸を触り、腹に手を移して腹筋の凹凸を探るように何度も指先を往復させる。そしてゆっくりと右足は爪先立ちになり、左足を後ろに上げ出した。
「すごいです。天蓋司くんの体。こんなこともできちゃいます。実は憧れてたんですよ、私」
胸を反らし、上げた足を頭上で掴んでバレリーナさながらのポーズをとりながら言う。
「……そうだな」
ながめる覚が答える。そのとき、部屋の外からガチャガチャ音がして「ただいま」と父の声がした。
サッと足を下ろした美咲が「あ、まずいです」と慌てた。
「どうしましょう。私、今天蓋司くんの体です。このままだと」
「そんなもの、お前の能力で家族の認識を書き換えればいいだろう。ついでに俺はいないものにしてくれ」
それから、特に何をした様子もないが、美咲は「終わりました」とちょっと緊張した顔で言った。すると覚がトビラを開けて部屋を出る。ちょうど廊下を通りがかった父がトビラの開いた部屋を覗いてきた。中にいる美咲と目が合う。
「おう、美咲。ただいま」
父はそれだけ言って通り過ぎていった。トビラの近くにいる覚がニッと笑った。
夜になり、美咲はいつも通りの時間に夕食を取ることになった。いつも通り家族四人で食卓を囲んで、いつも通りの手料理を食べながら、いつも通り今見ているテレビ番組について話したりする。ただ、美咲はいつにも増して安息して楽しそうだった。腹も満ちてきた充実感の中、ふと椅子の背もたれに背を預ける。
――落ち着く。こんないつものことでこんなにも気分が良くなるなんて。そうですよ、これがいつものことなんですから。やっぱり、こうしてよかったんですよね。
そう感を込めて思う。
「ああ、それでいいんだ」
食卓の向こうで我が物顔でソファに腰掛けてテレビを見てる覚がそう言った。
「丸く収まってるんだから。認識を弄っても別に気に病む必要もねぇぞ。どうせ、実の家族でもない」
その瞬間、美咲はバッと椅子を倒しかける勢いで立ち上がった。家族が驚いて自分を見る中、「……すみません。出て行きます」と目を見開く美咲は言って、早足にリビングを出て、玄関に向かう。玄関口を開けたころ、家族が総出で慌ただしく追いかけてきた。
「急にどうしたのお姉ちゃんっ?」
「こんな時間にどこに行くつもりだ?」
妹と父がそう言うが美咲は止まらずマンションの外廊下に出て、ツカツカと歩く。後ろでバタバタと家族が追って家を出てくる音がする。
「おい。とりあえず家に戻りなさい!」
美咲の普通でない様子に父の声が迫真とする。
「ついてこないでください!」
振り返った美咲はそう叫んでいた。その瞬間、空気の一気に抜けたような静寂が一瞬に場に満ちた。振り返って見た家族たちは今、キョトンとした表情をしている。そして少しして、「入ろう」と父が言うと、若干気まずそうな顔で美咲に会釈しながら一家は家に入っていった。玄関の鍵が、重い音を立てて閉められた。外廊下に立ち尽くす美咲に、隣に現れた覚が「なんだ」と声をかけた。
「結局、縁を切るのかよ。あっけなく」
美咲の顔が引き歪んだ。
それから美咲は電車の座椅子に座ってガタンゴトンと揺すられていた。夜の上りの電車なのに意外と人は多い。しかし美咲はその誰とも顔を合わせることなくずっとうつむいている。やがて、誰もが意識するここらで一番繁華な駅の名前がアナウンスされた。人々は別に楽しくもなさそうな顔でノロノロと亡者のごとく電車を下りていく。その最後を追って、ゆらりと立ち上がった美咲も電車を下りた。
休日の都会の街並みは夜でも車やらビルやらチカチカと明かりをつけてまぶしかった。美咲はその中をうつむきながらフラフラと歩く。歩いてると、そのとき下げっぱなしの頭に軽い衝撃があって、美咲はハッと顔を上げた。我に返って辺りを見回すと、そこは道が狭く、なのに周りの店はどこもギラギラとやけに明かりの強い看板を掲げたあやしい雰囲気の場所だった。数分前に子供向けの学習塾を目にしてそっちに進んだはずなのに、気付けば美咲はそこにいた。そして美咲はようやく顔を正面にして自分が頭をぶつけたものを見た。それは大学生ぐらいの若い男の集団だった。
「あ、ごめんなさい」
「はあー!?」
突然視界いっぱいに迫ってきた顔に美咲はうさぎみたいに体を硬直させた。
「なに? なに?」
「あ、あの……ですからごめんなさい……」
美咲はおどおどと謝る。それを無言で見下ろす男は、そのとき突如美咲の襟首を掴むと引っ張って進み出した。美咲が脳を混乱させてる間に襟首を放られて連れてこられたのは路地裏の人気のないちょっとした空間だった。よろめく足を止めた美咲は顔を見回して男たちに囲まれてることを知った。男の一人がすぐ前で美咲を見ながら左右に行ったり来たりフラフラと歩く。それだけでまるでなぶるようだ。美咲は声もなく固まってただそれを見ている。そのとき、男が美咲に向けて拳を振り上げた。
直後、凄まじい勢いで殴られ地面に倒れ込んだのは、拳を振り上げた男だった。
周囲の仲間が動揺する。美咲の前で、横合いから腕を振り抜いているのは今の今までいなかったはずの覚だった。覚は腕を下ろすとまっすぐに別の男へ近づいていく。そして一も二もなくその男も横面から殴り倒した。このときになって男たちは怒号を上げて覚に向かった。が、覚はそのことごとくをものともせず殴り蹴り倒していく。全員を地面に打ちのめすまであっという間だった。
美咲は竜巻の目の中に立つようにこの乱闘の中にいて微動だにできなかった。
その前に覚が戻ってきたかと思うと、ふいにしゃがみ込み、最初に倒した男を見下ろす。そして男の前髪を掴むと恐ろしくも彼を鼻面から地面に叩きつけた。覚はそのままグイと顔を持ち上げる。持ち上げられた男は鼻血をボタボタと垂らしながら「す、すみません」と謝った。
「ダメだな」
覚は笑うように言った。
「お前は心ではまだ俺に対してイラついてる。俺にはわかるんだ」
すると覚は立ち上がり始め、同時に男も吊り上げるように引っ張り上げていく。そして、次の瞬間空いた手で驚くほど軽々と顔面を殴り、それを残酷に続ける。
「俺はお前の反骨が折れてなくなるまで絶対に止めねぇ。――ダメだ! 何度も口に出して謝ろうと、心で唱えようと芯から思ってねぇ。俺には全部わかる」
「待ってください! なんでそこまで」
美咲がたまらずといったふうに叫んだ。覚は手を止めてその方へ無感情な顔を向けた。
「俺はな、心の芯から出た混じり気のない感情を感じるのが大好きだ。中でも一番は恐怖、いや、絶望の空虚感か。うるさい心が静かになるのが好きなんだ。で、人間、そんな精神に自然にはそうそうならないからそれを感じるためには自分から陥れるしかねぇ。お前にもなにかこういう妖怪としての性は必ずある。俺もお前もそういうものとして生まれついた妖怪なんだぜ?」
美咲は続く言葉を持たなかったようだった。
四日が経った。夜、美咲は都会の高層ビル群のうち、ヘリポートをそなえたある屋上の縁に膝を抱えて座り込んでいた。この四日間一歩も動かずずっとだ。絡み広がる人々、射光してどこかへ流れる車、遠く離れた地上を昼も夜も半目にして見続けてる。覚もどこかへ消え、風の吹き抜ける摩天楼に一人。美咲は光り輝く夜景の影。
そのとき、彼女の背後に誰かの立つ音がした。
「しばらく。珠水。元気か?」
美咲は半目をじわりと開いた。のっそりと腰をひねって振り返る。数メートル後ろに立っているのはヘリポートの照明に照らされる白いボタン付きのシャツに黒いジーンズを着た元自分の姿。つまり天蓋司明晴だった。