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タイは無いよね?  作者: 不完全化粧
1章 VS妖怪 水呼
1/12

何を言う

 坂を上って空を向く。漏れる吐息が舞い降る桜をたまたま吹いた。

 珠水美咲たまみず みさきがその偶然を面白くて薄く笑ってる間に坂が終わった。レンガ敷きに変わった道に美咲は自分と同じ見るからに真新しい制服姿の人たちを見た。

 ーーやっぱり、もう友達がいる人もいますよねぇ……。

 すぐ前を歩く二人組の女の子たちは道を割って並び立つ桜の木を見上げていきいきと楽しそうに話してる。

 彼女たちの後ろ姿をじっと見た美咲が真似をして顔を上げた。

 爛漫と咲いて、涼しい風が吹くたび豪勢に乱れ散る桜並木は今日という特別な日に見ると自分が絵の中にいるみたいに綺麗だった。

 それを、美咲は静かに見た。けどむしろ明るく話す前の二人を気にしてすぐにそっちの方にちらちらと目をやった。そしてついにはかすかにため息まで吐いた。

 ーーああ、緊張する。これから上手くやっていけるといいんですけど。……

 美咲は正面に向き直った。その方には遠く、大きな校章と時計をつけた立派な校舎が建っている。今日は美咲の入学式。

 立派な校門へ着いた美咲は立ち止まり、端に寄りながらカバンのポケットから四つ折りにされた紙を取り出した。開くとそれは今日の日程が書かれてあった。流し見ると美咲はきょろきょろと辺りを見回し始めた。

「体育館って、どう行けばいいんでしょう? ……」

 今日から通う高校は校門をくぐってすぐ下駄箱やグラウンドにつながってるようなものじゃない。校門からすぐには花壇の道なんて洒落たものがあって、敷地が広くて道の長い施設だった。

 あちこちに首を回す美咲を尻目に続々と校門に入ってくる他の生徒たちはそのままどこかへ進んでいく。

 ーーえ、みんなどこに行けばいいのか知ってるんですか? どこかに書いてありましたっけ?

 美咲はまたさっきの紙に目を落として今度は食い入るように眺め始めた。何度も裏返す。

 ーー書いてないですよね……? なのに、もしかして知らないの私だけ?

 美咲は紙から顔を上げた。端に立つ彼女の目の前で続々と皆、校舎へ進んでいく。

 ーーまあ、この中の新入生らしい人について行けば体育館には行けるんでしょうけど。

 美咲が横切っていく人の中からそれらしい人を目で追う。その人たちは皆、誰かと並んで歩き、話をして、身の内側からあふれる新生活への期待や楽しみのわくわくとしたエネルギーを思い切り外に出して輝いて見えた。

 それを眺める美咲は自分の中にもそんなエネルギーがあることを共感して感じながら、外に出すわけにもいかずグッとのどに詰まりを覚えながらカバンを持ち直した。

「どうした? 困っているようだな」

 ふいに鈴が鳴ったように耳の奥まで届く澄んだ声がした。

 途端に美咲はぎくりとしてから声の方を見た。いつの間にか隣に人が立っていた。美咲のほうを見ず、横顔を見せる男の子だった。

 美咲はちょっと息を呑んで彼を見た。男にして綺麗な人だった。

 背は高く、硬いところのないような滑らかな体つきをしている。無表情な口や鼻は細工品みたいに整って、色の白い顔は日に照ってふいに透明にもなって見えるのにどこかを眺める目だけはくっきりとして力強い。制服姿だけが現実的な幻影的美少年だった。

「は、はい。校内の建物の場所が、行くべき所がどこにあるかわからなくて」

 美咲は思わずちょっとか細い声でそう言った。自分がこんなところで誰かに声をかけられるなんて全く思ってなかった。

「そうか。わかったーー」

 答えると男の子は美咲の方にゆっくりと顔を向けた。

「要するに、場違いな場所に来たということだな。迷い込んだか?」

「……、いや違いますよっ!?」

 美咲は自分の制服の裾を摘んだ。

「見ればわかるとおり制服着てるでしょうっ。今日入学してきたんですよ」

「格好だけかと」

「なんでですか! おかしいでしょう!」

 すると男の子は「ふむ」と一度頷いてから美咲に顔だけじゃなく改めて体を向き直らせた。

「おれの名は、天蓋司明晴てんがいじ あきはる!」

「え、あ、はい。……」

「どうだ?」

「なにがっ?!」

 わけわかりませんよと呟いて、美咲は一度首を振った 

「ともかく、わざわざ声をかけてくれてありがとうございます。道がわからなくて困ってたんです。体育館ってどこにあるか教えてもらえますか?」

「わからん」

「え? どうして? 先輩じゃないんですか?」

「おれも新入生だからな」

「え。そうだったんですか?」

 美咲は意外そうな声を出して、「でも……」と明晴を見上げ、見下ろした。

「制服がもう汚れて、少しよれてませんか? だから先輩かと思ったんですけど。それならその服、下ろしたてのはずですよね?」

「木登りしたりスライディングしたからな」

「子供かっ! せっかく新しい服なのに何をやってるんですか」

「まあ、色々あってさっき敷地の向こうでな」

「しかも入学式前に学校でっ!?」

「ただ別に騒ぎになったりしてはないから安心していい。誰も知らないからな。これだけは確実だ」

「いや、別にそんな心配してないんですけど」

「おれにはこの学校を安全にするため動き回る義務があるんだ」

「なぜ……」

 美咲はどっと疲れた表情で顔を落とした。

「おーい、明晴ちゃん」

 と、そのとき、遠くから彼を呼ぶ声が聞こえてきた。美咲が見れば、駐車場にも面してる校舎へ伸びてるんだろう広い道で、掲示板らしいものの側で女の子が頭の上で大きく手を振っている。

「それじゃあ」

 明晴はその女の子の方へ歩き出した。

「ところで体育館に行きたいなら、あそこの掲示板を見ればいい。構内図が載ってるようだ」

 ちょっと立ち止まってそう言った明晴は進み出して女の子と合流した。美咲が掲示板のところへ着くころには二人の背中はもう見えなかった。

 


 美咲は体育館の中に所狭しと並んだパイプ椅子にそっと座る。

 そして美咲はざわざわしてる体育館の中で一人、式の始まりをじっと待ちながら内心でそわそわし始めた。

 ーーああ、友達できるでしょうか。上手く声をかけられるといいんですけど。

 美咲は何気なくといったふうに左右に首を振って、それから腰をひねって後ろへ顔を向けてみた。

「明晴ちゃん。同じクラスになれてよかったね」

「まあ、手間は省けたな」

 ーーあ、いました。

 ちょっと後ろの方に女の子と隣り合って座ってるのはさっきの明晴だった。

「明晴ちゃん。いよいよ高校生だね。これからどんなことがあるんだろう。楽しみで仕方ないよ、わたし」

 明晴に弾んだ声で話しかける女の子は子供のようにニコニコした横顔をしてる。

「いいことだな。だが新しい場所だ。ここにはどんな危険が潜んでるかもわからんぞ。おかしなことや存在がいるかもしれん」

 ーーだから何でこの天蓋司くんは学校なのにこんなに安全とか危険とか気にしてるんですか?

「おかしい存在?」

「そう。例えばおれが先ほど校門で会った者だ」

「さっきいた女の子のこと?」

 美咲は自分のことだとドキリとした。

「ああ。あれが突然襲いかかってくる可能性はやっぱりある」

 ーーないですよ! どんな可能性考えてるんですかっ。

「そうだっ。あの子も新入生だったんだよね? 明晴ちゃん」

「ああ。入学式に出るらしかったな」

「ということは同じ新入生の女の子かぁ」

 明晴の隣の女の子は期待にふけった顔をした。

「確かに女性用の制服を着ていたな。だが、男性かもしれんぞ?」

 ーーなんでですか。

「だったら明晴ちゃんにも友達ができそうだね」

「うん? ……ふふん、そうかもしれん」

 ーー襲いかかってくる可能性があるとか言ってたくせになに笑ってるんですか。

「あ。そういえば明晴ちゃん。おかしいというか、え? どうしたんだろうっていうものはさっき学校で見たよ」

「なに?」

「さっき木の上に登ってる人を見たんだ。遠目だったけど多分制服着た人がしかも一人で。これはおかしくない?」

「……」

「……?」

 美咲は気まずそうな顔をするとそっと前を向いた。少しして、二人の声は嫌でも美咲の耳に入ってきた。

「なんだ、見られていたのか」

「え?」

「それはおれだ」

「あ、そうだったんだ」

「うん……」

 ……。

「それなら、おかしくないね!」

 ーーえ、えぇぇぇぇ?

 しばらくして入学式が始まり、挨拶など進んで、それからそれぞれの教室に向かう流れになった。

 美咲はがやがやとする多くの同級生たちと一緒に校舎の階段を上がって、ちょっとそわそわしながら自分の教室の扉に入る。

 黒板にはクラスメートの名前と指定席が書かれていた。

 美咲は自分の席につくと、先に座っていた人や後から教室に入ってくる人たちを眺めた。そうしてるうちにそわそわした気持ちが過ぎて胸がまたどきどきと緊張してきた。いっそ誰かに話しかけてみようかとも思うが、美咲は顔ばかり固くしてなかなか踏ん切りがつかない。

「いま、ひまかな?」

「え?」

 ふいに、側で柔らかい声がして美咲は顔を向けた。隣の机との間に女の子が立っている。構えたり緊張してる様子のない自然な立ち姿で声にぴったりな優しそうな顔をして。

「あ、はい。ただ時間が来るのを待ってるだけですけど」

「おぉー。なら、わたしとお話ししてていいかな?」

「はい」

 美咲はうれしそうにちょっとはにかんで、女の子の方に向けて体を向き直らせた。

 女の子を見上げて、そのとき美咲はアッと気付いた。肩ぐらいで切り揃えたふんわりとした髪をしたこの丸い顔の女の子には見覚えがある。

「珠水美咲ちゃんだよね? 明晴ちゃんともうお話ししたって聞いて、わたしも話してみたくなったんだ」

 美咲はやっぱりという顔になった。美咲にとっては天蓋司という名字にインパクトがあったが、あの男子はたしかに明晴と名乗っていた。

「じゃあ、あなたは天蓋司くんと一緒にいた」

「そうそう。名前は佐藤むい。これからよろしくね」

 そう名乗ってむいはふにゃっと笑った。美咲はその笑顔を見て、心にほんわかとしたものを起こして釣られて微笑んだ。むいは美咲に両手で大福持って食べてる犬のキャラクターを連想させた。彼女は漫画チックなまでにのほほんとした印象がある。

 美咲は一目でむいに好感を抱いた。よろしくお願いします、と返した彼女は「それにしても」と続けた。

「男の子に向かって明晴ちゃんって、随分仲良しなんですね。小学校から同じですか?」

「もっとちっちゃいころからだよ。幼なじみなんだ、明晴ちゃんと」

 そうニコニコと言うむいに、美咲はちょっと苦笑いを浮かべた。

「そうなんですか。それは色々と大変そうですね。天蓋司くんって天然というか、一緒にいて目が離せられない感じみたいですし」

「とんでもないよ」

 意外にもむいはちょっと慌てた手振りをした。

「明晴ちゃんにはわたしのほうがいっぱいお世話になってるんだから。例えばね、この前わたし風邪を引いたんだよ。そのときも明晴ちゃんはやってくれた」

「看病してくれたんですか?」

「わたしの風邪をわざと移してくれた」

「助け方おかしいですよ!」

「それでね、わたしが明晴ちゃんの看病したんだよ」

「それだと結局世話焼かしてるじゃないですか」

 あくまでニコニコとしてるむいに美咲は呆れた顔を浮かべた。

「でもわたし普段と違うことできて楽しかったよ。明晴ちゃん、普段ぜったい風邪引かないから。多分そのときが初めてってぐらいだと思う」

「へえ」

 美咲は目を開いた。

「それはすごいですね。羨ましい。なんででしょうね?」

「え!?」

「え?」

「明晴ちゃん丈夫だからかな。やっぱり元気が一番だよね」

「それより今のとんでもない『え!?』はなんだったんですか?」

 そのとき教室の扉が音を立てて開いた。見るとスーツを着た若い大人の女性が教壇の方へ歩いていた。言うまでもなく担任の教師だろう彼女は教壇に立つとクールな面持ちで教室を見回す。そして、あと五分経ったらホームルームを始めるからそれまでに席に着いていることと、まずみんなに自己紹介として名前と好きなものでも話してもらうことを告げた。

 教室の中がざわめく中、美咲もちょっと困った顔をした。

「どうしましょう。自己紹介。急に好きなものって言われても、私沢庵しか思いつきませんよ」

「いいねぇ。お漬け物が好きなの?」

「いえ、和尚の」

「……。おいしくなさそう」

「人です」

 ややあって自己紹介が始まった。クラスメートたちが五十音順に教壇に立って顔見せしていく。

 そして、むいの番がきた。みんなに注目される中、最初にニコッと屈託なく笑って見せたのはただのんびりとしているわけでなく、まるで芸能人みたいに物怖じしない彼女の性格を感じさせた。

「はじめまして。佐藤むいです」

 彼女の第一印象の良さに教室に明らかに柔らかく好感触な空気が満ちる。

「好きなものは天蓋司明晴ちゃんです。よろしくお願いします」

 ーーえええええええ! い、言ったー!

 美咲は心の中で叫んだ。

 教室のみんなはちょっと困惑したような空気を出している。「誰? そんな芸能人いたっけ?」という声も聞こえてくる。

 その中で美咲は何事もなかったかのように自分の席に戻っていくむいを見つめて戦慄すらある目をしてる。

 美咲は自分の自己紹介を終えて、正直何を言ったか覚えてないほど心ここにあらずだった。それより明晴の自己紹介に気が向いて仕方がなかった。自分のことでもないのにいたたまれない。

 しかし、佐藤むい、珠水美咲ときて天蓋司明晴の順番はすぐにやってきた。明晴が教壇の前に立った。

 みんなに注目される中、顔色ひとつ変えずシャンと背筋を伸ばして胸を張っているのは、ただクールなだけでなく、まるで政治家みたいに堂々とした彼の性格を感じさせた。

「おれの名前は、天蓋司明晴」

 途端に教室の中にさざ波が広がったようだ。みんな、こいつかよみたいな反応をしてる。

 美咲の明晴を見る目が心配するものに変わった。

「……好きなもの。好きなものは色々あるが、強いて言うなら、人間だ……」

「人間……?」

「そう! 人間!」

 教室の誰かがつぶやいた言葉に明晴は食いついた。

「人間はいいぞ! 何が良いかというと誰しも幸せになれる可能性を持っている。これは完全な弱肉強食、戦って弱ければそこで死ぬしかない……例えば野生の獣の世界にはないものだ。人間が人生でやるべきことは何だと思う? それは必ずしも金を稼ぐことでも他人を打ち負かすことでもない。それらはたかが一つの手段であって、本質ではない。人間が人生でもっとも得るべきものとは自信だ。人間は自信さえ持っていれば幸せなのだ。人生とは自信を得るための旅なのだ」

 ーーなんかわけのわからないことを長々と語りはじめたー! 誰に聞かれたわけでもないのに。……人間オタク? 人間のオタクなんていたんですか!?

「それよりさぁ、お前のこと好きな子がいるみたいなんだけど? すげぇじゃん! それについてはどう思ってんの? 付き合うとかは?」

 驚く美咲をよそにある男子が冷やかした。教室のどこかからクスクスと笑い声が漏れる。

 明晴は声を上げた男子にゆっくりと顔を向けた。

「安心しろ。次は君だ」

「なんでだよ!」

 男子は声を上げた。

「おれは誰にも好かれることが理想だ。まあ、当然誰にとっても同じだな。だからおれは次に君におれのことを好きになってもらいたい」

「いや、俺はいいわ……」

 男子は顔を伏せた。

「なんだ? 自分を卑下してるのか? 自信を持てよ、人間」

「どっから目線だよ!」

「学校生活は自分が自信を得られそうなものを探す場だ、とおれは思っている。勉強でも部活でも趣味でも自分に合うものを色々探して自信を培っていけばいい。みな、これからよろしく頼む!」

 美咲はさっきまでしていた心配を忘れた。それほどまでに明晴は心配するのも馬鹿馬鹿しいような堂々とした人物だった。



 春は過ぎた。日差しが弱くても汗ばむ日が続き、誰もが夏服に衣替えする季節になった。

 火曜日、昼。美咲とむいは二人の友達と一緒に教室で弁当を食べている。バスケでもやってそうな背が高くてボーイッシュな人と、反対に華奢で小さい読書好きの人。どちらもむいが美咲に紹介してから仲良くなっていった友達だった。

「そろそろ初めての期末試験だね。自信はどう?」

 卵焼きをうまそうに食べていたむいがみんなに聞いた。

「ありますけど」

 美咲が真っ先に答えた。

「ふふ、自信あるね。前の中間テスト楽勝だった?」

 ボーイッシュな人が微笑んで言った。

「そういうわけじゃないですけど。毎日勉強してますから。だからです」

「真面目だね」

「違いますよ。だって学生はそういうものなんでしょう? だからやってるだけですから」

「それを真面目って言うんだよ。私は自信ないな。あんまりやってないし」

 ボーイッシュな人がため息混じりに言うのに合わせて、読書好きな人も何度も頷く。

 美咲はそう言うむいはどうなんですか? と話を返した。

「わたし? わたしも自信あるよー。今回も頑張らなきゃ」

「むいも自信ありですか。むいはどれくらい勉強できるんですか?」

「うーん……まだまだだね、ってぐらいかな?」

「なら、今度みんなで勉強会みたいなことでもしましょうよ。私よければ教えますから」

「え、ほんと!? しようしよう。美咲ちゃん、普通の人とは違う勉強法とか知ってて参考にできたりしそう!」

「べ、別にそんなことはないですけど。いいですよ、私に教えられるところなら教えましょう」

「でも」

 と、そのとき読書好きの人が控えめに口を挟んだ。

「むいちゃん、全教科100点だったけどね」

「え?」

「前の中間テストの復習を一緒にしたときに見たんだけど」

 美咲は鞭のようにむいに顔を向けた。

「ぜ、全教科100点!? むい、そんなに勉強できたんですか!?」

「上手くいってね」

 むいは晴れた笑顔で答えた。

「なんか印象と違いすぎてむいが別人になったように見えるんですけど。というより! 先に言っておいてくださいよ。教えますとか言ったの恥ずかしいじゃないですか」

「なにも恥ずかしがる必要ないと思うけど……」

「しかし、意外でした。むいがそんなに勉強頑張ってるなんて。……頑張ってるんですよね? まさか勉強なんて全然してないよー、とか言い出さないですよね?」

「ちゃんと時間かけてるよ。勉強頑張って、明晴ちゃんにわかりやすく教えてあげるんだ」

「あぁ……」

 弾んだ声を出すむいに対して、このとき美咲は一気に消沈したようだ。

「天蓋司くんに勉強教えてるんですか?」

「うん! 明晴ちゃんにはわたしが教えてあげないと」

「……天蓋司くんに手間をかけてあげる必要あるんですかね」

 美咲は低い調子でそう言った。

「え? どうして? 明晴ちゃんが勉強に遅れないようにサポートしてあげないと」

「だって、天蓋司くんまだ一学期なのにもう三回も休んでるじゃないですか。病気しないって前に言ってましたし、風邪ではないんでしょう?」

「う、うん。まあ」

「だったら何で休んだんですか」

「それは……うぅん……」

 むいは困った顔で言葉を濁した。「美咲はそれが気にくわないんだ? やっぱりお固いねぇ。学級委員長とかに向いてるよ。次のとき、推薦しようか?」

 むいを見てふっと苦笑を浮かべたボーイッシュの人が助け船を出すように美咲へ話した。 

「絶対やめてください。柄じゃないですから。とにかく! 私は頑張ってる人がそうじゃない人にわざわざ時間をかけてあげるのはおかしいと思います」

 美咲は教師みたいにぴしゃりと言い切った。

 

 

 その日の放課後、美咲は何となくの話の流れでむいと初めて帰り道を一緒しようかということになった。帰り際に先生に用を頼まれた美咲は後から下駄箱に行った。みんながさっさと外に出て行く中、玄関口で待っていたのはむいと明晴だった。

「来たな。では帰ろう」

 そう言う明晴と向かい合う美咲は眉をひそめるとまではいかなくとも微妙な表情をした。

「むいと天蓋司くんって一緒に帰ってるんですね」

 晴れた夕方の帰り道、歩きながらふと美咲が聞いた。

「お向かいさんだからね。朝も一緒だよ。昔からずっと」

「それは幼なじみって感じですね」

「いいでしょー」

「むいだからですよ。そう思うの」

「ところで珠水」

 と、そのとき明晴が話に入ってきた。暑い夕暮れの中、声も横顔も彼のは涼しい。

「おれたちの家はこの道をまだまだ進んだところにある。一丁目の方だ。こうしておれたちと一緒に帰っているが珠水」

「はい」

「珠水には家はあるのか?」

「いや、ありますよ! え、どういうことですか、びっくりしましたよ。てっきり私の家がどこにあるのか聞かれると思ってたのに」

「その可能性もあるなと思ってな」

「なんですかそのとんでもない可能性! 私のことどう思ってるんですか!?」

「ひとまず家があるということはわかった。よかったよかった。なら道が分かれるときは言ってくれ。道中なにかあるといかんから良ければ送っていくぞ」

「いいですよ、それは! 大丈夫ですから」

「むっ!?」

 そのとき、明晴が突然声を上げて立ち止まった。

「すまん。二人とも待ってくれ。靴ひもがほどけた」

 足を止めた二人に見られながらしゃがみ込んだ明晴がなぜかすぐにすっくと立ち直した。

「ポケットの中の物が邪魔だ。悪いが持っててくれないか」

 明晴はポケットから抜き出した何かの紙束を美咲へ差し出した。

「なんですかこれ?」

「霊符、呪符、いわゆる御札だ」

「なんでそんなもの持ち歩いてるんですか!?」

「お守りだ。持ち歩いてても別におかしくはないだろう?」

「だとしても束では持ち歩かないでしょう!」

「それより持ってはくれんのか? 駄目なのか!?」

「わ、わかりましたよ。急かさないでください」

 美咲は御札の束を持って上げた。またしゃがみ込んだ明晴を待って再び歩き出す。

「はい、天蓋司くん。返します」

「ありがとう。一枚やろうか?」

「いりませんよっ」

「しかるべきところへ持って行けば高く売れるぞ」

「信心深いのかそうじゃないのかどっちなんですか!?」

 まったく……と美咲は息を吐いた。

「天蓋司くんは変な人ですね。はっきり言っちゃいますけど」

「そうでもないだろう。珠水こそ、初めの自己紹介のときに好きだと言っていたことにおれは、これは……と思ったがな」

「え。……私、何を言いましたっけ? あのとき混乱して自分でも何を言ったのかわからないんですよね」

「なんだった? むい」

「天蓋司くんも覚えてないじゃないですか」

「イソギンチャクのモノマネ」

 とむいは言った。

「むい!? ウソでしょう絶対!」

 明晴がううむ、と首をひねった。

「言うほどマネか?」

「意味がわかりません。本物だってこと? ーーとにかく、私はそんなこと言いませんっ。イソギンチャクのモノマネなんてやりようもないですし」

「じゃあ、わたしがやってみる!」 むいは元気に手を挙げた。

「なんで!?」

「明晴ちゃんに捧げたくて……」

「捧げられても困るでしょう、天蓋司くんも」

「いいのか……?」

「もらうの!?」

 そしてむいは立ち止まり、両腕を上げ手先から足先まで余すとこなく使ってイソギンチャクを表現した。

「ぜえぜえ……はあはあ……。どうだった? 明晴ちゃん」

「感想はない」

「せめて言って上げましょうよ! もらったからには」

「じゃあ、美咲ちゃんはどうだった?」

 美咲は「え」と一瞬のどを詰まらせてから言い出した。

「が、頑張ってましたよね。なんでやったんだろうって感じですけど」

「そっかぁ。でもわたし結構これ得意かも。練習すれば一芸にできるかもしれない」

「これまでの反応でなんでそんなポジティブになれるんですか?」

「ん?」

 ふいに、明晴が歩みを止めてあらぬ方向を見た。

 美咲も彼がどうしてそんなことをしたのかにはすぐに気付いた。車道を挟んで反対側の歩道。ちょうど三人がいるところの直線上に小さな男の子が立って泣いている。

「一人だな」

 明晴の呟く通り、保護者は近くにいないようだった。

「みな素通りしていく」

 人通りのわりと多い道だが、誰もがちらっと見てはそのまま歩き去っていく。それに美咲が「あぁ……」と声を漏らした。

「近頃はすぐに不審者とか疑われちゃうって聞きますからみんな警戒してるんでしょう」

「そういうものか。よし。なら二人はここで待ってくれ。おれだけで行ってくる」

 明晴は言い残して横断歩道のほうへ歩いていった。

「え? だったら三人で行ったほうがいいんじゃ。ちょっと、天蓋司くん?」

 呼び止めるも明晴はそのまま道を渡り、男の子の前に立った。

「いったいどうした?」

 町の雑音に混じって明晴の声が聞こえてくる。

 男の子はしゃくり上げながらも迷子であることを伝えた。

「そうか。母親とはぐれたか。デパートにいたが母親が少し用があるからここで座って待ってろと言って……いつまで経っても戻ってこないから我慢できず一人で家に帰ろうとしたら道がわからなくなった、と。いい行動力だ。だが裏目に出たな」

 明晴は順調に事情を聞いていく。明晴の落ち着いた声につられて子供も大分落ち着いてきているらしい。次に明晴は子供の名前を聞き、住所というほど正確なものじゃないが大体の家の場所を聞いた。

 そして子供はこれからどうすればいいかを聞いた。

「おれは簡単にそれを教えるつもりはない」

 え、と子供より遠くから聞いていた美咲のほうが思わず声に出た。

「君は今とんでもないピンチになっていると思っているだろう。だがこれはチャンスなんだ。人間、生きていればいつかまた似たような失敗をしてしまうものだ。しかしこのチャンスにこういうときどうすればいいかを知れば次またこんなことがあってももっと上手くやれる。さあ、まずは君自身でどうすれば助かるか考えてみるんだ。このピンチを自信に変えろ。なに、安心しろ。今日はどうなっても最後にはおれが必ず何とかしてやる」

 美咲は明晴の発言が腑に落ちたが、子供はすぐには飲み込めなかったようだ。まごまごとした素振りをしている。明晴はジッとたたずんでしばらくその様子を見ていたかと思うと、「これからどうすればいいと思う?」と静かに聞いた。子供は頭をひねり始めたのか顔を落とした。

「あぁ、そこの君。ちょっといい?」

 それを見つめていた明晴にやたら乾いた声がかかった。明晴が横を向く。そこにいたのは制服を着た警察官だった。少し後ろにはそわそわした素振りの女性もいる。子供がその女性を見た瞬間、駆け寄って抱きついた。女性は子供の名前を呼んで喜びの声をかけている。

 その光景を眺める明晴はうんうんと頷いて満足そうだ。

「君、とそこの僕、二人にちょっと話を聞きたいんだけどね」

 と、その明晴に警察官が声をかけた。

「僕、この人に名前聞かれた?」

 子供は聞かれたと答えた。明晴も頷いて、

「聞いたな」

「僕のことをどこかへ連れて行こうとしてた?」

「してたな」

「僕のことをお母さんのところに連れていってくれようとしてた?」

「最後にはな」

「君、ちょっと署まで一緒に来てくれるかな?」

 そして明晴は腕をガシっと掴まれた。

「なんで誤解されそうな言い方するんですか!」

 美咲は明晴ちゃーん、と声を上げながら駆け出したむいを追って自分も駆け出した。

 美咲とむいで説得すると幸いなことにすぐに誤解は解けた。無事にまた帰路に就く。

「せっかくだからあの子のためになることに変えてやろうと思ったのが……いや、差し出がましい真似をしたか? 初めから素直に助けようとしていればよかったな」

 今にもはっはっは、とでも笑い出しそうな調子で明晴はさっきのことを思い起こしている。他人ーーしかも警察官にあの後注意を食らったにもかかわらずまるで塞ぎ込む様子がない彼に美咲は驚きつつも心中に深いため息を吐いた。

 ーーまあ、多分悪い人ではないんでしょうけど。

 美咲はため息の後そう思った。 



 その明晴が、美咲とむいを低い声で呼び止めたのが翌日の放課後のことだった。

「ど、どうしたんですか?」

 美咲は思わず少し動揺した声を出す。

 夕方の廊下。他に人気はない。その真ん中に無表情に立つ。

 呼び止めた明晴は美咲たちを見ながら何故か何も言わない。沈黙が続くにつれてその全身から流れ出す雰囲気は怖く色濃いものになっていく。

「心して聞くように。これより緊急かつ重大な案件の説明に入る」

 明晴がやっと言い出した声は実に厳格としていた。

「緊急かつ重大……? いったい何があったんですか!?」

 その声、内容、美咲にただ事でないと思わせた。

 明晴はまっすぐにむいだけを見ながら口を開いた。

「むい。その体に妖怪が取り憑いた。そのままでは命に関わる」

「へっ!?」

 美咲は絶句の声を上げた。 



「妖怪ーー水呼すいこ。水から水へ渡り飛ぶ性質と能力を持ち、飲み水などに潜んで人間に取り憑く。そして取り憑くと、その人間の周囲に水を呼ぶ。古来より、この国は各地で雨乞いの儀式というものを行ってきたが、その成功例の中にはたまたま水呼が関わっていた可能性もある。水を呼び、すなわち雨も呼ぶ」

 ここまで言った明晴は二人に順番に目を合わせた。

「こう聞くと悪いものではないように聞こえる。が、そうではない」

 釘を刺すように。

「水呼は別に善意でそれをやるわけじゃない。ただの性質から来た結果だ。よくよく考えてみろ。水を呼び込むという事の意味を。それは決していいことじゃない。水というものは我々が生きていく上で欠かせない身近なものではあるが、同時に危険なものでもある。洪水、津波。これらは大きな例だが、日常にはその他多くの水害があるだろう。水呼に取り憑かれた人間はそれらの危険を呼び込む。水難の相を持つことになるのだ」

 放課後の他に誰もいない自分たちの教室。教壇に立つ明晴が静かな語りを終えた。

 その彼の前で隣り合って席に座る美咲とむい。二人もまたここまで一切口を挟まず静聴を終えた。

「それで、何の話なんですかこれ」

 美咲は呆れ返った顔で。

「今起こっている緊急事態についてだが」

「天蓋司くんの頭の中の緊急事態じゃないですか!」

 美咲は机に顔を落として一度ため息を吐いてから力の抜けきった顔を上げた。

「まったく、何事かと思ったら……。わざわざ教室にまでつれてきて……。ねえ天蓋司くん、空想が好きなのは自由ですけど披露する時と場所は考えましょうよ。もう放課後です。私も今日一日疲れました。もう帰りましょう?」

 美咲は諭すように言う。明晴はその目にまっすぐ向かい合ってくる。

「珠水。妖怪は実在する」

 その声も一切ぶれるところはない。

「だって河童とかならわかりますけど水呼なんて妖怪聞いたことないですよ。天蓋司くんのオリジナルでしょ?」

「水呼は大変珍しい妖怪だ。おれも古文書の記述でしか知らない。現世に生きる人で水呼を実際に目にした人間はおそらくいないだろうな。少なくとも報告書はない」

「もぉー……」

 美咲は頭を抱えた。

「明晴ちゃん。その水呼に取り憑かれたわたしはどれぐらいの程度で危険なの?」

 と、その彼女の横でむいが聞いた。

「え、乗るんですか!?」

「正直に言うと、具体的にどういう危険があるのかは断言しにくい。おれたちの生活する場や町には上水下水合わせて水というものが張り巡らされている」

「つまり、何が起こるのかわからないってこと?」

「そういうことだ」

「そういうことなら、じゃあこれからどうするんですか? というかこれ、どうすれば解決するんですか?」

 美咲がやれやれといった感じに口を挟んだ。

「安心しろ。おれは霊能力者だ。妖怪退治の専門家だな」

「はあ……そうだったんですか」

「当然むいに取り憑いた水呼を退治すればいい話だ。しかし、水呼はむいの体の水分と完全に一体化している」

「まずいですね。それは。でも何とかする方法があるんでしょう?」

「ーー妖法誘い水。この術を使えばむいの体から水呼だけを抽出し体外へ引き離すことができる」

「へえ、結構かっこういい名前付けるじゃないですか。好きですよ、私」

「誘い水を使うにあたってむいの体の負担を最低限のものにするための条件が二つある。一つ、術を使うときにそれこそ取っかかりとなる水の流れがあってほしい。つまり、ある程度の勢いがある体外への水分の排出だ。二つ、術をかけられる者は意識を失ってもらっていたほうが術を受ける負担を軽くできる。これらを踏まえてむいにはやってもらいたいことがある」

「なぁに? 明晴ちゃん」

「小便。いや、ただの小便でなく意識なき小便。むいにはおれの前でいわゆるおねしょをしてほしい」

「は?」

 むいではなく、美咲がその圧倒的な響きのある声を漏らした。

 教室にその語音がジンと広がって静寂とする。

「え、いやいや、何を言ってるんですか?」

 その静寂をすぐに破ったのも美咲だった。

「ではもう一度言おう。むいにはおれの前でおねしょをしてほしい。そうすれば今回の件は解決する」

 明晴が繰り返して、口を開きっぱなしにした美咲が、

「何を言ってるんですか、あなた!」

 と、やっと放ったのは怒鳴り声だった。

「ふざけるにしても限度がありますっ。言っていいことと言っちゃ駄目なことは分かってないといけません。女の子に向かってそんなこと言っちゃいけませんよ天蓋司くん!」

 真剣に目を怒らせる美咲はむいに顔を向けて

「むいもそう思うでしょう?」

 と続けた。

 目を向けられたむいは、

「そうだねぇ。それはもちろんそうだよ」

 と言いながら腹の前で組んだ手をもじもじとさせている。

 美咲はその動きを見て、なにか頭にピンと来るものがあった。

「え、もしかして……こういうこと言われるの初めてじゃないんですか?」

「おねしょしてなんて言われるのは初めてだけど……」

 その瞬間、美咲はカッと目を見開いて立ち上がり、荒々しく明晴に顔を向けた。

「天蓋司くん!」

「他意はない」

 しかし高らかに感じるほどの宣言。

「これまでも、そして今日もそれが打つ手なのだ」

 教壇の明晴はまるで舞台役者のような立ち姿でそう言った。

「話になりません! ……見損ないましたよ天蓋司くん。悪い人じゃないと思ってたのに。むいの好意に付け込んでやりたい放題やってたってことですか」

 美咲は側で座るむいの腕を掴むと、「行きましょう」と腕を引いてむいを立ち上がらせた。そして二人で教室を出ていく。

「いいですか、むい! いくら天蓋司くんのことが好きでも、言われるままに何でも受け入れてたらいつかきっと傷ついて後悔するときがくるんですからね」

 引っ張り、引っ張られ、廊下を勢いよく進む二人を追いかけてくる声も足も特になかった。

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