窓辺に置いたままの球根 一匹の魚 旧約聖書
樹海の聖女から譲り受けた球根は、偽物のマンドレイクに育った。
そのくせ生活の大半は、相変わらず多忙な日々の繰り返しだった。
成果が無いと糾弾され、乏しすぎると怒号が飛び、成果を上げたらそれはそれで身に覚えのない猜忌心をぶつけられ、過酷すぎる職場と水槽にプカプカ漂う彼女の元を喘ぐようにして往復すること半年。
時折、窓から見た、ちいさな世界の報告を受けた。
花を咲かせた樹々、雨あがりの虹、渡り鳥の訪れ、夜空に瞬く送電鉄塔。
平凡な発見を嬉々として語る囁きに、ぼんやりと耳を傾けているうちに。
波間に揺蕩うように寝入ってしまう。
水槽から出せるだけの余裕すらも失われていった。
「ね!起きて?」
「あぁ、朝かぁ」
部屋は暗い。
目の前に、偽マンドレイクが立っていた。
「また巨大化しちゃってるだろ」
「スマホ、返すね?」
「あぁ、使ったのか」
それはいいけど、自分で水槽から出てきてしまった。
床がビショ濡れだ。
ティッシュを数枚取り、首を傾げて箱に押し込んだ。
床拭きは後回しでもいいだろう、夜の部屋は冷える。
バスタオルを手に取って、髪の毛から拭こうとして。
あの透けるような白さではなく、青白い。
顔色が冴えないと思った。
「大丈夫か?」
「聞いててね」
「なにを……」
「大切なこと」
なにを、と思ったが大切なことなのか。
ひとつ、頷く。
「 恋茄子は香り
その見事な実は戸口に並んでいます。
新しい実も、古い実も
恋しい人よ、あなたのために取っておきました 」
「こいなす?」
「旧約聖書でマンドレイクをね、恋なすびっていうの」
そう書いてあると教わったのなら、樹海の聖女から、か。
憂いを帯びた寂しげな表情、ルキオラを目で追っていく。
そんな姿しか思い出せない。
「旧約聖書には、こんな肌んぼうが玄関先に並んでるのか」
バスタオルで頭を拭きながら思い直した。
この大きさは幻覚だった、そもそも……
「でもルキオラはナス科じゃないだろ? ナスビは種から――」
ぺろんと捲った。
いない。
幻覚が消えたのではない。
床に転がる見慣れた球根。
その先に、くちゃくちゃの小人が付いていた。
「しおれてる……?」
直後ガチャリと玄関が開く。
鍵が開いていた?
「あの時の、自称聖女」
「もう限界だったのよ」
それだけ言って上がり込み、「ブツリ」と小人を切り落とした。
鋭い視線、すぐに瞼を閉じて、溜息。
そのまま無言で持ち去ってしまった。
制止する間もない、数秒間の出来事。
もう限界だった――――。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
会社を辞めて、部屋に引きこもり、窓の外を眺めて過ごした。
雪の積もる樹々、不意に射し込む月光、夜空に瞬く送電鉄塔。
底寒い静寂。
窓辺に置いたままの球根 一匹の魚 旧約聖書
あんなにも瑞々しくて艶やかだったルキオラの球根は、ドライフラワーのようにかさかさに乾燥しミイラのようになってしまったが、未練がましく手元に置き続け手放せずにいる。
いまさらになって、時々話しかける。
返事はない。
碌に帰宅しない俺を半年待っていた。
話したのは「大変だったね」「大丈夫?」に対して、生返事。
その程度で、内容などなかった……。
窓硝子の氷も緩む頃、貯蓄も底をつきはじめる。
現代社会で生きるために働くのは当たり前、生活費が必要だから。会社のために社員を使い潰すようなところで、運が悪かったと諦めた。その結果が、この始末。自己都合で失業手当は3か月。
この歳から再就職。
なにを支えにして。
なにがしたかったんだろ――?
暫くなにも食ってない。
かさかさ音をたてる袋麺を探しあて、かさかさに乾いた片手鍋に水を張ろうと、流し台へと重い足を引きずっていて、一度だけ履いた水色のちいさな靴が、玄関に揃えて置いてあるのが目に付いた。
本もネットも頼りにならなくて、すっかり元気がなくなったルキオラは、いつも重そうに足を引きずって台所へ行き、水ばかり飲んでいた。樹海の聖女から買った栄養剤は、確かな効果があったように思う。 ……思い込んでいた。
突然、散った。
無力感に覆われて胸拉ぐ、袋麺が、片手鍋が落ちた音がした。
振り返って、なにひとつ満足にしてやれなかった球根を見る。
波立つ視界で、違和感に気付いた。
「白?」
突き動かされるように窓辺へ進む。
かさかさの球根の下、みずみずしく可愛らしい突起。
透けるような白。
まだ2ミリほどしかない、これは。
「根?」
一緒に買いに行った、旧約聖書が目に入った。
最後の日、あの日のことば、声を、想い出す。
『 恋茄子は香り
その見事な実は戸口に並んでいます。
新しい実も、古い実も
恋しい人よ、あなたのために取っておきました 』
そうだ――――。
古い実も取っておきました。
古い実まで、とっておく必要があるか?
あの女なら何か知っている。
慌ててスマホを手に取った。
何故か送信履歴や電話番号の登録は消去されていた。
領収書の裏面、あのルキオラの名を書いた……無い?
ルキオラが、処分したんだ。
最後にスマホを手渡された。
履歴消去、領収書の処分、ルキオラがするだろうか?
樹 海 の 聖 女 の 指 示 か !
連絡手段はない……が、無意味な行動とも思えない。
教えてくれ聖女様。
理由があったのか?
大急ぎで検索する、聖女は唐突に現れてなにをした?
球根からマンドレイクを切り落とした。
「球根 切る ――はな、め? はがぶんか? 花芽分化」
温度や日長の変化が条件の場合と、環境とは無関係に成長で花芽を分化する種類に大別される、使用例は、『 チューリップやスイセンは低温に当てて花芽分化を促進する 』のか、なるほどな。
わ か ら ん 。
スイセン? って、なんだ?
あった、水仙のそだてかた!
学名・科名・属名・英名・和名?名前はスイセンでいいだろ。
特徴は色とりどりの花が魅力の――次だ、歴史、次、花言葉?
育て方はどこだよ!!
あ? ここタップか。
『 細長く軽い球根は花が咲かないこともあります。
丸々として、ずっしり重い球根を選び――― 』
「数年間は植えっぱなしでも大丈夫な、 球 根 」
水仙は植えたままで大丈夫、逆に違うものがある?
わ か ら ん 。
チューリップなら、どうだ?
今度は球根の選びかたと寄せ植えの方法ばかりだ!
球根は小さくなって翌年からは花を付けないことが多い、毎年球根を購入する、花が咲く前に折って球根を育てる? 花を楽しむために植えたんじゃないのか?
こっちのサイトではどうだ?
ほとんど同じ情報ばかり …… い や !
『 花や茎を切り光合成させて球根を育てます。
球根を掘り上げ風通しのよいところで乾燥。
寒さに当てて保管して、秋に植えつけです。
翌年の春に、花が開きます。 』
球根を育てる!
寒い場所で、球根を乾燥させる?
画像だ、花の茎や葉は切ってある――
こ れ か !!
最初の数日、それこそ狂ったように水槽に出し入れしたが何の変化もなかった。以来、残酷すぎる現実を直視できずに放り出して避けてきた。ろくに暖房もつけず過ごしていたし、今時期、部屋は乾燥してた。未練がましく水槽に浮かべていたら腐っていただろう。乾燥してしまった球根、この状態が正解?
意を決して唾を飲み込み、窓辺の球根へと手を伸ばす。
乾ききっていた球根の皮が親指に押され僅かにへこむ。
パキッと囁くような音を立てた。
絶望感が右手から脊髄を這い上がって頭を痺れさせた。
情報は正しい、よく乾燥していると自らを納得させる。
大きく息を吸い込んで「これで正解だ」と声に出した。
水槽に浮かべると「ちゃぷん」という音と共に15センチほど沈んで、ぷかりと浮かびあがってきて、そのまま、ぷかりぷかりと緩やかに回転している。
『 恋茄子は香り
その見事な実は戸口に並んでいます。
新しい実も、古い実も
恋しい人よ、あなたのために取っておきました 』
膨大なページ数の旧約聖書を捲っていく。
どこに記述されているのか、わからない。
あるいは、この本に手段が書かれている?
だとしてもキリストさんは信用できない。
有口無行で二千年くらい復活していない。
今は、樹海の聖女を信じたい。
ルキオラは球根だ、可能性がある。
祈るような気持ちで見詰めている。
そのまま、何時間も過ぎていった。
気付くと眠っていたらしい。
設定したままだった植物育成ライトのLEDが放つ、赤紫色。
窓辺から低く鋭く射し込む氷点下の朝日。
続いて懐かしい香りを吸い込み、フワリと鼻の奥を満たした。
「ただいま」
鼓膜を震わせた僅かな振動。
「また逢えた……ただいま戻りました」
「恋しい人よ、あなたのために……か」
寝起きのぼやけた視界に映る、極々小さな人影。
まだ不安定で透けるような泡沫人の姿が見えた。
「マンドレイクのパチモンで、あなたのための、恋茄子です」
「ナス科じゃないだろ! 千円で、球根で、いきなり枯れて」
「きっと逢える、信じてたの」
「なんにもわかんなかった!」
「すいません……」
「もう、駄目かと」
「難しくて、うまく説明できなくて」
「今だって、こうして。 話してる」
「そうだけど」
「そうだろ?」
寂しかった。
当たり前に部屋にいて、いなくなった途端、静かすぎた。
まだまだ猶予があると勝手に勘違いしてた。いや、時間が無いかもしれないとは考えもしなかった。仕事に行った、帰宅できなくても仕方がないと思っていた、部屋で待っていると思い込んでいた。
そうじゃなかった。
沢山、話すことがあったし、もっと話しを聞きたかった。
ここに、帰ってくるべきだった。
帰ってきてくれて良かった――
「そだけど」
「そ、だろ」
「でも……恋してるんです♡」
そう言って、また。
笑顔を、咲かせた。
挿絵:Ⓒ管澤捻さま