反実仮想の推量と高光度白色航空障害灯の灯火
仕事は相変わらず。経営者から職場へ理不尽なクレームがきて、ランチタイムに職場近くの居酒屋で疲弊しきった顔を並べて相談したけど、会社が儲かってるのかピンチなのかも、家族経営に巻き込まれた我々は知らない。
労働基準法どころか一般常識が通用しない。
櫛の歯が欠けるように去っていく仲間たち。
それを残った人間で埋め合わせしろと言う。
そこから実現不可能な事業計画書を、社員総出で作った。
13時間後、赤紫色に染まった自宅の窓を見上げている。
「おかえり」
「こんな時間まで起きてたの?」
「帰ってきそうな気がしたから」
電気もつけずに「そうか」と答えて風呂場へ行き、軽くシャワーを浴びてから、植物育成ライトのスイッチを切ると、ルキオラが「今日はこのままでいいよ」と、手で制しながら遠慮がちに小声で言った。
そんなに疲れて見えるのか。
2センチくらい水道水を入れた雪平鍋を窓辺に置いて、球根を捕まえてトプンと入れると、真っ暗の部屋で「ぇ?」と驚いた声がした。
現れた幻覚の少女を、珪藻土マットにストンと降ろす。
「どっちもビショ濡れだから一緒に乾かせば手間も省ける、少しだけ付き合って?あと……4時間後には出社するけど」
「少しでも寝たほうがいいよ?」
「頭が冴えてて、眠れないって」
「大変だった?」
「いつもどおり」
「本当にそう?」
「いや……嘘。先輩が2人同時に辞めた」
誰かが退職する、その先の展開は毎回同じ、帰宅時間が遅くなる。
気遣うように「そう」と言っただけで、深く尋ねたりしなかった。
雑多な問題を千状万態に折り重んだまま、結局は根性論で終わった居酒屋会議の帰結する先を考えても仕方がない。バスタオルを手に、努めて明るく「そー!」と言いながら、頭をワシャワシャ拭いていくと「ひゃ~ぁ」と悲鳴をあげた。
「どうしてた?」
「いろんなことがあったよ」
「そうかそうか」
バスタオルを巻き付けて、窓辺へ進む白い足。
ちょっぴり沈黙があって、「ほら!」と指差した先は、真っ暗闇。
なんだろうと目を凝らすが、なにも見えない。
「あ、また光った」
「光る、なにが?」
「曇ってて星が見えなくても1コだけ光るの!」
電気もつけていない部屋に上ずった声が響く。
薄ぼんやりとした白い顔が得意気にしているので、思わず「どれどれ」と窓辺に近付いてみたが、そんなわけは――
「 「 あっ! 」 」
確かに一瞬だけ光った、星にしては強い光が。
なんだろうと考える間もなく消えてしまった。
でも、一度見てしまえば毎回同じ場所が光る。
スマホで地図を表示してみる、その方向にそれらしい大きな建物は1つも無くて道すら少ない、なにもない、不思議に思って航空写真に表示を切り替えてみると、液晶画面は緑色ばかりになった。
「一面、畑だな」
「畑が光るの?」
「そんなわけは」
ない……と続けようとして気付いた。
随分長くて三角形の影が落ちている。
「送電線の鉄塔がある。ピッタリあの方向」
「塔が立ってて、その塔が光ってるのかぁ」
「灯台みたいな塔じゃなく鉄骨だけどね。えーと、航空障害灯。閃光を発するのは150m以上の煙突と鉄塔で、高光度白色航空障害灯って言うらしい」
「ひゃくごじゅうめーとるぅ?!」
こんなもの、立ってたかな?
どれくらいの高さなのかが想像できない。
「今度の休みに見てこようか」
「本当?! ……楽しみっ☆」
「覚悟しとけ、歩いて行ったら距離あるぞ」
「大丈夫、お洋服も、靴も、栄養剤もある」
「じゃ、あとは持久力かなぁ」
「問題それだ~ぁ! (>_<)/ 」
まず、この裸んぼうをどうにかしよう。ゆったりシャツワンピを頭からスポンと被せて、やたらにょろにょろ長い髪の毛を、両手で襟元から引っ張り出した。
曇り空の下、夜空に瞬いている送電鉄塔。
きっと見物人はいないだろう。
昼間も光っているんだろうか?
「なんか、こっちまで楽しみになってきた」
「断然スゴイよ? 150メートル以上!」
畑にそびえ立つ送電用鉄塔。
一緒に、記念写真を撮ろう。
三脚なんてないけれど、一緒に撮った写真もないことだし。
鋼板や鋼管をボルトで締め合わせた巨大なトラス構造の送電用鉄塔をバックに、はじめての記念写真を撮ろうっていうマニアックさは……どうなの?
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「ほぉら」
「……ん」
「ねぇ!」
「うぅん」
「ねぇ、起きて?」
「あぁ。もう、朝かぁ」
射し込む朝陽の眩しさに、反射的に目を細めた。
毛布を被って寝落ちしていた。
いや、被せてくれたのか……。
「わっ、え? な、何時? 今、何時?!」
ほっと安堵の息をつき、ルキオラが苦笑いする。
目覚まし時計は6時を少し過ぎたところ。
アラームが鳴った記憶はない。
卓袱台には不似合いな旧約聖書が目に留まった。
安物ローテーブルの倍以上、装幀と価格が立派。
ルキオラは起こすために朝を待っていたようだ。
「聖書、読んでたの?」
「旧約聖書、面白いね」
「面白い?」
「うんっ♡」
聖書、そういう本だったかな?
旧約聖書は内容が違う、とか?
ちょっと、興味を持ったけど。
「そっか。 ……今度、教えて」
「うん、いってらっしゃいませ」
もう時間だ。
素早く身支度を整えながら、合間に植物育成ライトのタイマーを12時間ごとに設定して、球根を水槽に戻す。幻覚の少女がチラリと時計を見て相好を崩しながら霧散していく。
球根の上に現れた本体が動きはじめた。
「いってきます」
「気をつけてね」
玄関で靴を履いて、外に出る。
カシャン、と扉の鍵を閉める。
最寄り駅に向かって歩きながら「失敗したかな」と呟いた。
水槽の外に出ないと読めない、旧約聖書を買ってしまった。
行き先は送電鉄塔とは真逆、反対方向だ。