手探りでスタートした球根栽培は難航していた
泥水の中を進むように足を引きずって帰路を進む、もう無理、限界だ、明日こそ社長を掴まえて自己都合で辞表を提出し、楽になろう――――
最後の曲がり角を右に曲がり、自分の部屋の窓を見上げる。
赤紫色のLED照明に浮かび上がった小さな人影に、ホッと小さく息を吐くと、粘土でも詰めているように感じていた肺に空気が戻って体がかるくなった。
大きく息を吸い込んで3階へ急ぐと手にした鍵束がじゃらじゃら音をたてた。
そのまま指の感覚で1つ選んで鍵穴へ差し込み時計回りにひねる。
扉を開くと小さな声で「おかえり」と囁く声が窓辺から聞こえた。
赤紫色に染まる水槽を泳ぐ1匹の小魚と、20センチほどの少女。
どこか奇妙でオシャレな空間になってしまった我が家に苦笑した。
「ただいま」
「お仕事、大変だった?」
「いつもどおりだったよ」
「それは?」
「珪藻土マットとバスタオル」
部屋の電気をつけると手荷物が増えていたことに首を傾げていたが、名前からは想像できない商品だったので疑問は増したらしい。さらに首をひねった。
水槽からヒョイと小さな同居人、玉ねぎほどの本体にお人形さんが生えている、そんな見た目のマンドレイクを掬い上げると「ぅひゃっ!」と悲鳴を漏らして……少々小柄な女の子ぐらいになった。
幻覚作用、問題はここから。
「床が毎回びしょ濡れだろ?」
トンと珪藻土マットに降ろし、わしゃわしゃ頭を拭いていく。
どうして幻覚なのに質量があって濡れるのか?
そんな理屈は後回しでいい。
床の拭き掃除を面倒くさいとは思わなかった。
目のやり場に困っているよりは、断然助かる。
昨日、疲労困憊で睡魔に勝てなかった。
床を拭きながら、床で寝落ちしていた。
どうも外に出した後は本体の場所がわからなくなっていて、自分で自分を水槽に戻せないようだった。ともすればマンドレイクは干上がってしまっただろう。
追々なんらかの対策を考えなくては。
「よぉし!」
「うわぁ、濡れてないっ!」
「外回りの合間に買ってきた、魔法のマットだぞ」
「すごい!」
「でも、ずっと立ってたら今度は干乾びるぞー!」
ワンピースを頭から被ってタオルを首にかけた。
流し台の蛇口を求めて、よたよたと歩き始める。
慌ててコップに水を入れると、ごくごく飲んだ。
苦笑しつつ帰り道で調達してきた弁当を広げた。
自殺の名所で出会った『樹海の聖女』と名乗る謎めいた女性から、千円札1枚で購入した球根は、水耕栽培で勝手に芽吹いていた。
それは人間の少女としか思えない形状で、自らの意思で動いて会話までする花をつけて「マンドレイクのパチモノ」と自己紹介した。
しかも水から引き上げると小柄な女性ぐらいに大きくなった幻覚を見せるという奇妙奇天烈な植物に育ったけど、こんな品種は先日の本屋にあった園芸書籍にも、インターネットをくまなく検索しても見当たらなかった。
育て方がまったくわからないのだ。
このところ目に見えて元気がない。
光合成するのかと思ったけれど葉っぱは無い、紫色のドレスがその役目を担っているようなので、ネットで調べてLEDの植物育成ライトを取り寄せてみたものの今のところ効果は未知数だった。
しいて言うなら顕著な違いもある。
なんだか部屋がムーディになった。
ピ ン ポ ―― ン♪
「こんな遅くに誰かな?」
玄関扉をガチャリと開くと、見覚えのある女性。
農家の人が被るような麦わら帽子で顔を隠しているが、Tシャツとサロペット、ラフなマウンテンパーカーを羽織っている。季節も変わり肌寒くなってきたのに、駐車場で初めて会ったあの時と似たような格好のままだ。
ちらりと台所のマンドレイクを見るが、あちらからは死角。
ぽかんと口をあけている。
「押し売りの類です」
「そうなんだろうなぁ」
「お持ちしたのは植物の栄養剤」
「丁度困ってて。助かりました」
「千円です」
「やっぱり金取るのか。 領収書ください」
財布から千円札を取り出しながら「それ、宛先あの子で」と伝えると少し驚いた顔をしたが、難しい顔をしてからサラサラと筆記体でなにかを書いた。
また『樹海の聖女』って書いちゃってるけど。
え? ……苗字やミドルネームではなさそう。
M. autumnalis cv. Luciola ……読めねぇ~!
「るしおら?」
「ルキオラよ」
「何語ですか」
「ラテン語よ」
「ラテン……どこの国、どんな意味ですか?」
鋭い視線、すぐに瞼を閉じて溜息をついた。
そのまま小声で、早口で捲くし立ててきた。
「生息環境の失われた東京に小さな繁殖池を作った。成功して世代を重ねていると報告されていて、全部が全部ウソだったと露呈すると人目をはばかる存在になり、施設の老朽化を理由に閉鎖されたのよ。それがなんであれ命の重さにかわりはないし、想い出の場所だったのに……意味わかる?」
「わかりません」
「まぁ当然よね」
「ルキオラと関係のある施設ですか?」
「関係ないわよ、よく回想するだけで」
「じゃ、それは質問の回答ではなくて」
「つまり、答えたくない、と言ったの」
ひどい……けど、珍しく饒舌だった。
まるきり無関係でもない内容なのか。
東京の繁殖池、虚偽の報告、閉鎖された施設。
耳慣れない『ルキオラ』という単語。
十分すぎるキーワードだ。
「よくわからないので調べておきます」
「それでいいわ」
僅かに頷いてから無造作にポケットへ左手を突っ込み、硝子製のスポイド瓶と、メモを差し出してきた。
メモを開くと濃度や希釈率ではなく、『水1リットルに1滴』という素人向けの指示と1日の摂取量の目安、090で始まる数字の羅列があった。
これで栄養問題は解決するだろう。
思わずホッと安堵して顔を上げる。
いない。
玄関に脱ぎっぱなしにしていた革靴を踏んづけて、首だけ出す。
廊下の先、階段へ差し掛かる数歩手前のところに背中が見えた。
「ね! 会っていかないんですか?」
「どなたかと人違いされていますね」
「まぁ。 ……いいですけど」
ペコリと一礼してから階段を下りていく音が、カツン、カツン、カツンと廊下に響き、樹海の聖女の足音は徐々に小さくなっていく。
その音が聞こえなくなってしまう前に玄関扉を閉じ、「ガチャン」と鍵を閉めて振り返ると、マンドレイクが空っぽのコップを持ったまま茫然と立っていた。
「知り合いの人?」
「押し売りだった」
窓を指差すと首を傾げながら窓辺へ行く。
メモにあった数字の羅列を買いなおしたばかりのスマートフォンへ入力しながら後に続いて隣に立つと、目を丸くして息を呑み、下を覗き込んでいる。
耳元へそっとあてるとスピーカーから聞こえた声に驚いてこちらを向いたので、そのまま渡して台所へ移動した。
背後に小さな「はい、はい」と繰り返される返事を聞きながら、なにかないかと探していて……運良く麦茶を作るために買ったものの、たいして使っていなかったピッチャーに1リットルまで目盛りが付いていた。
軽く洗って水を注ぎ、慎重に1滴垂らして、コップに入れた。
「あれ、れ?」
時計を見ると、0時を過ぎている。
突然の来客に基本が疎かになった。
植物には『光周性』というものがあり、生物時計だってある。
夜遅くまで光を浴びる環境にいると体調を崩すのは植物も人間と同じなのだと、インターネットには書いてあったが、なにしろ勤め先は「1分でも多く働かせれば儲けが多くなるんだ」と勘違いしているような、トンチンカンな体質なのだ。
せめて日付けを跨げば消灯時間と決めていた。
天井照明を消し、安物のフロアランプを灯す。
ほぼ同時に通話は終わったらしく、数秒液晶画面が明るく輝いてマンドレイクの横顔だけを照らしていたが、フッと暗転すると沈黙が部屋を満たした。
「終わった?」
「うん」
「まいったよ、栄養満点の飲み物を買わされた」
「腕利きの押し売り、敏腕だ~☆」
「これに作ったよ。1日1杯? ……水槽に入れるのかな?」
「わからないのに買ったのぉ?!」
「碌すっぽ説明しないで、千円持って逃げられたもんだから」
「困っちゃったね?」
コップの栄養剤を受け取って嬉しそうに咲った。
その笑顔は、さっきよりずっと明るくなっている。
まだ口もつけていない栄養剤が効果てきめん、そんなわけがない。
自称『樹海の聖女』が来てから足取りは軽くなっていたし、電話ごしに会話する様子は随分親しげに見えた。
ここまで話をした感触では、球根のころの記憶はないようだったのに、どういう経緯なのかまではわからないが、雰囲気から察するに顔見知りのようだ。
「そうだ。ルキオラって、どういう意味?」
「意中の相手を探して光を放ついきもの?」
知っていた。 ……けど、疑問形?
その名で呼んでいたわけではない。
つまり、名前ではないのか。
領収書の宛名、ラテン語だというアルファベットの羅列をスマートフォンへ入力して検索するが完全一致ではヒットしない。一文字ずつ対比してみたが入力ミスも無いようだ。
ただし、数多く表示されるものがあった。
種類などの細かいことまではわからない。
これは植物ですらない。
「ホタル、かな?」
「そう、それ~☆」
「この昆虫のこと」
「え~っ虫ぃ?!」
スマートフォンで見つけた動画を再生して手渡すと、しかめっ面で汚いものでも触るように蛍を見ていたが、その明滅する姿や飛び交う景色に「うっわ~ぁ♡」と間の抜けた歓声をあげた。
暗闇を映す画面の中を飛び交う蛍光の明滅。
一層黒く濃い葉陰、周囲の風景は夏だろう。
それにしても、マンドレイクの、パチモン。
上半分は動いて喋っていても球根、植物には違いない。
少女としか形容できない花と幻覚、付けた名がホタル?
強烈な違和感が残る。
マンドレイクが「見てみたいなぁ」と呟いたので「季節外れっぽいし来年かな、これは村おこしかなにかで繁殖地を作ったところの宣伝動画らしい」と伝えると、じっくり液晶画面の光点に目を凝らして「夏のむし?」と尋ねたので、「たぶん。ここに夏まつりって書いてある」と答える。
少し経ってから。
蛍に由来する名を冠し、人目をはばかる存在。
ルキオラは「来年の、夏」と、ひとりごちた。
少し寂しそうに「見てみたかったなぁ……」と囁いて。
名残惜しそうに、祈るように、ゆっくりと瞼を閉じる。
違和感を払拭するほどではないにしても、月あかりに照らされ内から光るような白い肌は『蛍』という名に奇妙な説得力を持たせていたので、その疑問を少しだけ先延ばしすることに決めた――――。