幻覚[ 幻視・幻聴・幻触・幻臭 ]の影響範囲
家に戻ると、玄関前の宅配ボックスに荷物が届いていた。
鍵を開いて覗き込む、段ボールのサイズは、やや大きめ。
持ってみると、軽い。
ほっと胸を撫でおろす。
洋服に合わせて注文した靴が、無事に届いていたようだ。
自動送信されてくる通知を確認するほど余裕がなかった。
「おかえり!」
「ただいまぁ」
「いいことあった?」
「いいことがあった」
「……?」
「隣のオフィスでコンセントから出火騒ぎがあったらしくて、急遽、電源まわりの点検を業者に頼んだから、立ち入り禁止ってビルの管理会社に言われたらしくて。カードキーが使えなくてオフィスに入れなくなっちゃった」
「立ち入り禁止!? 大変だ~!!」
予想外の返事に、窓辺の少女が息を呑んだ。
続く言葉を待って静かにしていたが、すこしばかり勿体ぶって荷物を見せると、意味がわからず小首を傾げた。
ゆっくりした動作で荷物を置き、上着を脱いでから、近くにあった果物ナイフでスーッと端を切断して、中から取り出し蓋を開けた。
かわいらしい水色の靴が入っている。
思わず頬が緩んだ。
「そう、大変なことになってる」
「どうするの?」
水槽から球根を掬い上げると、小柄な女の子の幻覚になった。
床におろしてバスタオルを手に取り、少女の頭を拭いていく。
わしゃわしゃ髪の毛をかき混ぜて、1分後。
ぼたぼたと床を濡らすほどではなくなった。
まだ上を向いたまま、ぽかぁんと口を開いている。
思わず苦笑いしながら、タオルを手渡した。
また、首を傾げた。
「綺麗に拭いたら、お洋服に着替えて、靴のサイズがきちんと合うか試してみて?明日は一緒にどこかへ出かけよう。 ……会社がお休みになっちゃったから」
ん? ……動かなくなってしまった。
これ、植物に持つ疑問じゃないけど。
「 え え ぇ え ~ っ ?! 」
「そんなにビックリした?」
「日曜日なのに会社がお休みっ.:*☆ 」
「対外的には日曜休みの会社なんだよ」
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
一緒に玄関を出て、扉を閉め、鍵をかけてから振り向いた。
いなかった。
そう遠くまで本体の球根から離れることができないらしい。
半分に切ったペットボトルに水を少しと球根を入れ、それをポケットに挿してみたのはいいけれど、球根から伸びた人間部分が丸見えだ。
昼日中に買い物に来た男が、ポケットに人形を入れて、女の子の手を引く現場に遭遇したら、賢明な行動は『警察へ通報』それが善良な市民の義務だ。「この娘を千円で買いました」なんて言った日にゃ問答無用で即・逮捕されるだろう。
これは見た目が駄目だ、駄目すぎる。
まいったな……ん? あ、そうかっ!
少女の姿をしたマンドレイクの幻影、その娘が選んで調達したのはゴスロリ服、それについてきた付属品一式のなかに緊急事態を打破するアイテムが含まれているとすれば……何度も取りざたされてきた「クマさんポーチ」。
これは、外出のための前振りだった?
そう考えると、ピッタリ辻褄が合う。
球根を、「クマさんポーチ」で運ぶ。
なんとも絵になるしキャラ立ってる。
「これをクマさんポーチに入れて解決」
「なるほどなるほど、これはいいね!」
「じゃあ出かけるか」
「レーッツ・ゴー☆」
ぱたたたっ ず で ん びっしゃー!
ぉぃぉぃ…ぅ…そ、だろ?
完璧と思われた『クマさんポーチ本体持ち運び計画』が、エレベーターまで到達できずに、玄関からたったの3mで廊下にぶちまけて幻覚少女は消えてしまった。なにひとつ障害物なんて無い真っ平らな床面、さっきまで濡れてなかった、なにが原因で、どうして転んだ?
脳内再生してみる。
右足、左足、右足、左足の着地点がそこ?
右足が左足に衝突……そして飛んだっ?!
勝手に足がもつれて、転倒したのか。
「なんて言ってる場合じゃなかった!」
本体とゴスロリ服と靴とペットボトルを回収して部屋に戻り、服を乾かしているうちに幻覚少女がもわもわ出現しはじめたのでホッとした。
「にしても、なんで消えたんだろ」
「球根飛んでっちゃったから~?」
「しょうがない、ポケットに入れるか。勝手に走り回ると消えちゃうかもしれないから、手をつないで歩こう。 ……どこか行きたいところはある?」
「本!」
「本?」
「 本 屋 さ ~ ん ♡ 」
本。
いつも独りで帰宅を待っている。
本があったら暇つぶしにはなる。
「わかった、行こうか」
あまり考えたこともなかった。
テレビやラジオのない部屋で、2日も3日も、待っている。
話し相手にもならない小魚と、孤独で退屈な時間を過ごす。
建物の隙間から変わらぬ風景が見えるだけの、窓辺の水槽。
こうして外出するのも初めてだ。
どちらがつらいだろう。
職場で文句ばかり言われて、ひどい扱いを受けているのと。
なにをするでもなく、いつ戻るともしれない相手の帰りを待って、ひとりで扉を見詰め長い1秒を何度も積み重ねていくのは、どちらがつらいだろう。
どちらが ――――
「ね! ……どうしたの?」
「ん? ……あぁ、考え事」
「ここ?」
「あ! そう。 ……これが本当の本屋さん」
実店舗の書店に来たのは、いつ以来だろう?
知らぬ間に、本は宅配されるものになった。
通販で注文しておけばポストに投函される。
こどものころは違った。
本は本屋で買っていた。
「すっごお――ぉい!!」
「思ったより広い。どのコーナーから見る?」
「お花のそだてかた~❀」
「農業・園芸、ここかな」
「よ~し! シッカリ体力つけるぞぉ~っ☆」
「……張り切ってるなぁ」
このところ元気がないけど、散歩や腹筋・腕立て伏せじゃ体力づくりにならないから、マンドレイクは園芸コーナーで「なか見を検索」か。
そういうことならと目に付いた背表紙を引っ張り出してペラペラ捲っていくと、イラストや写真が豊富に掲載されているのに、結局わかりにくい。専門用語が多いのと、全部、土に植えて育てる方法。
「マンドラゴラって観葉植物はあるんだけどなぁ」
鉢植えの植物、抜いても叫ばない。
いかにも南国っぽい模様の葉っぱ。
しゃがみこんで本を覗き込む姿と写真を見比べる。
幻視・幻聴・幻触・幻臭がある。ここに来店してから時間も経つので影響範囲が拡がったのだろう。お目当ての本が手に取れず、ピョコピョコ動いて主婦っぽい人が後ろで隙をうかがっている、書店員さんやお客さんも知覚しているらしい。
整えてきたのに髪の毛がニョロニョロはねている。
女の子の、幻覚だ。
こ の 娘 は 『 農 業 ・ 園 芸 』 で は な い な ?
「どこにもなぁ~い!」
「どうやらそうらしい」
「あとは、ひとつだけ」
「心当たりがあるの?」
本を元の場所に戻して「んふ♡」と得意気に鼻を鳴らした。
通ってきたルートを少し戻って指差したのは、『宗教』の棚でひときわ目を引く広辞苑みたいに一番ブ厚い本だった。
「 旧 約 聖 書 ♡ 」
「それが? ……聖書に?」
ホテルの引き出しに入ってる手帳みたいな聖書じゃない、紙は薄いのに2448頁、新旧でどうちがうんだろ。お値段も、それなりに……うっわ?!
他は、聖書をタイトルに含む解説本が多い。
漫画、スピリチュアルなタイトルのペーパーバック。
これらのことではないだろう、潔く諦めるしかない。
間違いなく長く愛されてきたベストセラーではある、体調不良の原因はストレスとか、克服するのが精神論だとか、そんなことを書いた本ではないと信じて。今は祈ろう、神様に。 ……アーメン?
「わかった。これは読み応えがありそうだし、手に持っているだけで筋トレになる気がする。筋肉つけて、どうなるもんでもなさそうだけど」
「えぇえ~?!」
完全に「クマさんポーチ」では運搬できない。
これは単なる装飾品、フラグじゃなかったか。
書店員さんが気を利かせ2重にしてくれた紙袋を受け取ると、4本の紙紐が指に喰い込んで、第二間接から先がみるみる色が変色していく。
想像以上に重い。
これ以上、この状態で、行動するのは難しい。
「指、ちぎれそう」
「うわ、凄い色!」
「もう、帰りたい」
「うん!大満足☆」
「そうか、そうか」
「☆*:. 本屋さんでデート 楽しかった!!! .:*☆」
店員さんが「ごちそうさまです」と、完全にマニュアルにはないであろう接客をしたので、「ぁ、ぃぇ、お粗末様でした」と小声でボソボソ返しながら、瞬く間に頭の血が沸騰していくのを感じた。
突発的にできた休業日。
予定もなにもなかった。
休みの日にオシャレして一緒に出掛けて、本屋さんに行って欲しい本を探して、買って貰った。この娘にとってはデートで、旧約聖書はプレゼント。
そう考えると、さして大きな出費じゃないし、やたらと重い荷物ではないと感じるから不思議だ。
「危なっかしいから」と前置きすると、小首を傾げた。
無言で左手を差し出すと、嬉しそうに手を繋いできた。
そうか、これはデートだったのか ――――
「帰るか」
「うん♡」
挿絵:Ⓒ管澤捻さま