Abstract − 樹海の聖女
あの時は、考えもしなかった。
八方行き詰まった私が辿り着く場所が彼と同じとは。
ポスドクで燻っていた彼が、なんの相談もなしに将来を悲観して森へ分け入ったのは、今から丁度、十年前。その後に体調を崩したのはストレスのせいだとばかり思っていたから、身籠っていると気付くのが遅れた。
過度なストレスと過労が原因だ。
独りで育てると誓っていたのに。
半年もたずに、流れてしまった。
彼をあそこまで追い詰めた教授は、私が退職願とともに「検体」と言って渡したタッパーを手に無言で奥へ消えた。
数か月後。
自宅を訪れた教授は1つの奇妙な球根を置いて立ち去った。
その球根がカルタヘナ法から逸脱し倫理に反した検体のなれの果て、この世界にあってはならないモノであることは明白だったけれど。
私の喪失には代償が、埋め合わせが必要だった。
喪ったものが大きすぎた。
その誘惑に勝てなかった。
この球根が、彼の最後の研究成果だと思いたかった……。
教授が彼の死後も研究を継続していて、動物実験では満足できなくなり、健康な検体を欲するようになって、それを実行してしまうなんて。さすがにそこまで執着しているとは、想像しなかった。
専門性の高い分野だ、警察も証拠固めに躍起になっていたのだろう。
十年前に研究室を去った、私の部屋にまで聞きに来た。
そこで大量の球根を目にしたのだ。
紛れ込んでいるとは考えなかった?
警察だってバカじゃない、遠からず露呈するだろう。丁度、定期的に回ってくる休眠期であったことが幸いし時間稼ぎができただけ。
彼の見つかった場所はスマホに位置登録してある。
あそこなら寂しがらずに済むのだ。
この子は、私と彼の子なのだから。
行くか――。
ガ チ ャ ン !
ハッとして周囲を見回す。
人影は……1つ、若い男。
あれは、なにしてんだろ。
警察関係者ではなさそうだ、随分と疲れた背中。
石を蹴って転がすと、ギャリと硝子の擦れる音。
安心したように嗤っている。
あれは、なに?
気持ち悪ぅ~。
そのうち樹海の奥を見詰めて、肺を膨らませた。
藪に片足を突っ込んだ。
……なにしてるんだろ。
まさか、とは思うけど。
昼日中も幽々たる森の奥へ、この時間から入る?
また一歩、踏み出した。
「入ってはなりません!」
「え?」
思わず声をかけてしまった。
疑問だらけの表情、その瞳。
最後に見た、彼と同じ瞳だ。
「なんで?」
ここはひとつ、適当な嘘でもついておこう。
「聖女だから」
「こんなところに……聖女」
「私は……樹海の聖女です」
「そうきたか」
私の目の前で行旅死亡人にするわけにはいかない。
かと言って……どうすれば。
恋人も止められなかった私が、見ず知らずの青年の人生相談でも聞いてやれば、気分が晴れて下山し仕事場へ戻って元気に明日から働けるとでも?
それなら私自身はどうだった?心の支えを失い、唯一の希望も亡くして、部屋に閉じ籠もって無為に過ごしていたのだ。
教授が成功していなければ。
この球根がただの草花だったら……私は。
今も薄暗い部屋で無気力に座り込んでいただろう。
あるいは、被疑者として取り調べ室に座っていた?
そう。
逃げ回るには限界がある。
捕まれば、隠し切れない。
この青年に託してみるか−−−−
「さぁこれを」
「なにこれ?」
「貴方を癒してくれることでしょう」
彼と同じ瞳をした青年に賭けるしかないのが現状。
ただし違法なマンドレイクについて説明できない。
この青年はどう言えば納得するだろうか?
時間は無い、こうなったら破れかぶれだ!
「千円です」
「金、取るんだ!? ……領収書ください」
首を傾げながら車に戻り、元来た道を戻っていく。
テールランプの赤い光が途切れ、見えなくなった。
買ったからには植えてみよう、そう考えてくれることを祈ろう。
あの娘は、優しい……きっと、疲れ切った青年のために花開く。
受け入れてもらえたら良いけれど ――――
と。
赤色灯が山道を照らしながら迫ってくる。
長居しすぎたか。
「さぁてと。トンズラするかな?」