逃亡を選んだ男
曇り空が太陽を隠すある冬の朝、男は自殺を決意した。
方法は何でも良い。首を吊っても、飛び降りても、パラコートを飲んでも良いとさえ思っていた。
逃げたい、全てから解き放たれて自由を手に入れたい。
人を殺したわけでも、莫大な借金があるわけでもない。
でも男はとにかく死にたかったのだ。逃げたかったのだ。
男がここまで追い込まれた理由を語るために、話は一ヶ月ほど前に遡る。
これは逃亡を選んだ愚かな男の決意の話。
自身の心を守るために、人として生きることを放棄した男の話。
「暗いな、相変わらず」
もう季節は冬に変わろうとしており、日が昇るのが大分遅くなってきた頃。
男は日課のジョギングに励んでいた。
はぁ…はぁ…と吐息を漏らしながら、いつものコースを確かに踏みしめる。
慣れ親しんだ道、見慣れた家の数々。
そんないつものジョギングコースの中、男はふとある異変に気づく。
「なんだあの煙...?」
見るとそこには一本の煙がモクモクと立ち込めていた。
今いるここはコンクリート造りの公園だ。
草木を燃やす畑がある訳でもないし、キャンプをしに来る客なんかもまず居ない。
火を使う場所も理由も存在しないはずのそこに煙が立っていると言う事実に、男は奇妙な違和感を覚える。
近づいて見ると、そこには腰の曲がった背丈の小さい老人がうずくまっていた。
老人の影になっていて何が燃えているのかまでは確認できない。
しかし、その老人が火をつけたであろうことは明らかだった。
「何をされているのですか? 今日は冷えますから、風邪を引きますよ?」
「あぁ?」
老人は嗚咽に似た音を漏らすとこちらをジッと見つめて何も語らない。
焦点が微妙に合ってないその目で、ただ静かにこちらを見つめる。
老人がこちらに振り返ったおかげで、男はやっと煙の原因を見ることが出来た。
「......何やってんだよ、アンタ!」
そこで燃えていたのは猫だった。
ピクリとも動かないし、鳴き声すら上げていない。
その猫は完全に死んでいた。
「のぉ、若いの。お前さん【罪の意識】はあるかね? ワシが忘れてしまったモノなのじゃが」
老人の突然の発言に思考が止まる。
言葉の意味を理解するのに時間がかかってしまった。
「ちょっと何言ってるか分からないです......」
「罪の意識はあるかと聞いとるんじゃよ、悪いことを悪いことと認識することがお前さんに出来るのかと」
男は数秒黙り込んで、静かに答える。
「人並みにはあると思いますが...」
「カカッ! それは良かった! ここで燃えとる猫はワシが燃やしたんじゃよ、罪を作るためにの」
男はとても怖くなった。
そりゃそうだろう。日課のジョギングに出かけたら猫を燃やしている老人に出会って、挙げ句「お前に罪の意識はあるか?」なんて聞かれたら誰だって怖い。
しかし、男の抱いた恐怖は少し毛色が違っていた。
突然天から命令が下されたかのように、頭が真っ白になる。
【逃げなくては】
ただそれだけが、男の頭の中で反芻していたのだ。
男は逃げ出した。ジョギングの何倍も早い速度で地面を駆ける。
本能の赴くままに、恐怖のままに、男は走り続けた。
「さっき見たことは忘れよう・・・」
やっとの思いで家にたどり着いた男は夕食も取らずに眠りについた。
翌日、心のなかでは嫌だと思いつつも好奇心に勝てなかった男は昨日の猫がどうなったのか確認しに公園に戻る。
しかし、そこに猫の死体は無く、昨日の老人も何処にも見当たらない。
唯一残っている地面の焦げた痕が昨日の出来事が夢でないことを男に教えていた。
「なんだったんだよ、マジで」
モヤモヤした気持ちのまま帰路に就く男だったが、そこで再び奇妙な違和感を感じる。
(あれ?俺、さっきからやけに見られてね?)
「おい、そこのキミ! そんな怖いコスプレで街を出歩いたらダメだろう!」
そう叫びながら、自転車に乗った警察官が近づいてくる。
コスプレしている人は周りに居ない、それどころかその警察官はまっすぐこちらに向かってくる。
「コスプレ? なんの話ですか?」
「キミのことだよ! 特殊メイクってやつかい、それ」
男は慌ててスマホのインカメを起動し自分の見た目を確認する。
白目が一切存在しない真っ黒な瞳。左右に生えた立派なネコ髭。
そして、皮膚が存在しないむき出しになった頭蓋骨。
その姿は少なくとも人のソレでは無かった。
男は発狂を必死に堪え、警察官に向かって出来る限りの笑顔を作る。
「あらら、落とし忘れてたんですね...」
「昨日...コスプレパーティから帰った後......そのまま寝ちゃったみたいです...ハハ」
男の笑顔に警察官の顔が恐怖に歪んでいたが、その場は厳重注意と言うことでなんとか事なきを得た。
フードを深くかぶり家に戻る男。その内心は恐怖と狂気でドロドロになっていた。
「クソッ! なんで俺がこんな目に...」
男の手には血が、地面には割れた鏡の破片が。
現実を受け入れられない男は自分の顔を血まみれの手で触るや否や泣き出した。
「アイツだ...猫を燃やしていたあのジジイ...」
男は昨日出会った猫焼きジジイに関する情報をネットで調べ上げる。
しかし出てくるのはヨーロッパの伝統文化ぐらいで、老人に関する情報は全く得られない。
人の頭蓋骨に猫の髭、そして一応存在して居る黒の瞳。
容姿に関する情報も調べたがやはり何も出てこなかった。
男は悲しみに暮れたが、藁にもすがる思いで外に出る決意をした。
男の目的は唯一つ、昨晩あった猫焼きジジイに会うこと。
日も完全に暮れ、人々が寝静まった夜。
死神のような姿をした男はフードを深くかぶり顔を見えなくした上で公園へと出かけた。
煙は上がっていない、明かりも無い。
完全な暗闇と静寂が場を支配するこの公園で、男は憤怒した。
「俺は一体どうすれば良いんだよ!」
最後の頼みだった老人の姿はそこには無い。
猫の焦げ跡を撫でる惨めで寂しげな男がそこにいるだけ。
「う、うわぁぁぁぁ!」
いつの間にか後ろに学生が立っていた。
高校生だろうか、夜遊びに来たであろうその男の子は男の顔を見るや否や叫びながら逃げていった。
これに人間社会から拒絶されたことを自覚した男は一人うずくまって泣いた。
そのまま泣いて、泣いて、泣き続けて―――
気がつくと朝日が男を艶やかに照らしていた。
男はフードを外し、満面の笑みで街を歩く。
コンビニに入れば万引をし、野良犬が道を塞いでいれば蹴り飛ばし。
怪奇の眼を向ける者が入ればぶん殴り、警察が近づけば全力で逃げた。
そんな男の開き直った奇行はその怪奇な見た目と共に全国ニュースになる。
【猫死神】と呼ばれ一躍時の人となった訳だが、男の心はちっとも満たされていなかった。
受け入れられない現実、突然の現象に対する恐怖。
そこから来る男の反社性は周囲の人間が向ける軽蔑の眼によって加速した。
日夜警察に追われ、住居も捨てた男はもはや生きる意味を完全に失っていた。
猫焼きジジイを探すことも、この現象の理由を探すことも諦めている。
ただ【逃げたい】これだけが彼を動かしているのだ。
そんなこんなで迎えたある冬の朝、男は自殺を決意した。
方法は何でも良い。首を吊っても、飛び降りても、パラコートを飲んでも良い。
逃げたい、全てから解き放たれて自由を手に入れたい。
ここまで来ると男はこの世そのものが大きな檻に感じていた。
まるでゲージに飼われる猫。
自由に世界を生きる猫からその自由を奪いゲージと言う檻に閉じ込める。
そんな感覚が男を完全に蝕んでいた。
「のぉ、若者。【罪の意識】はあるかの?」
後ろから声がかかる。
脳内で何度も何度も繰り返したあの声。
男の全てを狂わせた、あの声。
振り返るとそこに、猫焼きジジイが居た。
返事はしない。
する気力も、男には残っていない。
ただ、手に持っていた護身用にかっぱらったナイフを猫焼きジジイに向けて突進する。
「ニャーオ」
「そうか、お前さんもダメだったか」
「人が社会から拒絶された時、人はルールを守る必要性から開放される」
「しかしそれは同時にヒトのルールを破り罪を重ねやすくなることを意味するんじゃよ」
「その罪って、なんじゃろうな?」
体が上手く動かない。
さっきまで持っていた筈のナイフが目の前に落ちている。
やけに地面が近い。
男が完全に猫になってしまったことを自覚したのは、カチッと言う火打ち石の音を聞いた時だった。
「ワシはのぉ、罪の意識とは何なのかを、探しとるんじゃ」
そう言って老人は、男に火をつける。
とてつもない激痛。思わず出るうめき声。
しかしソレを眺める老人の顔は、狂気的なまでに同情的だった。
「ワシがお前をこの世から【逃して】やろう」
ニャ”ァ”ァ”ォ”ォ”ォ”!!!