ある母狼の話VIII
余った材木で作った、大きなテーブル。
しばらくして落ち着いたら、獣を解体して細々と稼ぐことはできないかと作っておいたものでした。
偶然ウルフが近くで見つけた洞穴は、道具や解体したものを片付けるのに使えるだろうと考えていました。
まさかこんな早く活用することになるなんて思ってはいません。急いでウルフと一緒に、この近くに大きな穴を掘りました。
要らない部分を埋めるためです。適当に放置していると、それを食べに獣が来るかもしれないからです。
それに解体している瞬間を見せない、いい口実にもなり、先程までも掘らせていました。
急いでかき集めたいくつもの器に油紙を引き、こんもりと肉が乗せています。赤黒く艶々としています。予想していたよりも食べることのできる部分があるのだなと、感心さえもしていました。
これを見たウルフは、出来立てのアップルパイを見つけたかのように瞳を輝かせ、ごくりと唾を飲んだのです。それがもう、嬉しくて嬉しくて。
カマラは精一杯、手を動かしました。
正気に戻っても震える手を抑えます。
レムの笑顔、小さな手、息子を気にかける言葉が脳裏に浮かびました。おばあさんの温かな気遣いや、疎まれていたカマラに話しかけてきたレムの母の笑み、次々と脳内を駆け巡っては手に絡みついてきます。喉の奥が締め付けられるように苦しくなり、胃の中のものをぶちまけました。
それでも、カマラは手を止めません。
ずちゅりと滑る音を立てて皮膚を剥ぎ、ぶつぶつと湿った肉を削ぎ、ごつりと骨を断ちます。吹き出す血は赤色。ジーナと同じ色なのです。そして今まで解体してきた獣と同じ色です。人の皮を被ったただの獲物です。残るのはただの肉。ただの骨。
皮膚を剥ぐ。肉を削ぐ。骨を断つ。
皮膚を剥ぐ。肉を削ぐ。骨を断つ。
皮膚を剥ぐ。肉を削ぐ。骨を断つ。
皮膚を剥ぐ。肉を削ぐ。骨を断つ。
皮膚を剥ぐ。肉を削ぐ。骨を断つ。
皮膚を剥ぐ。肉を削ぐ。骨を断つ。
皮膚を剥ぐ。肉を削ぐ。骨を断つ。
皮膚を剥ぐ。肉を削ぐ。骨を断つ。
皮膚を剥ぐ。肉を削ぐ。骨を断つ。
皮膚を剥ぐ。肉を削ぐ。骨を断つ。
皮膚を剥ぐ。肉を削ぐ。骨を断つ。
皮膚を剥ぐ。肉を削ぐ。骨を断つ。
皮膚を剥ぐ。肉を削ぐ。骨を断つ。
皮膚を剥ぐ。肉を削ぐ。骨を断つ。
皮膚を剥ぐ。肉を削ぐ。骨を断つ。
皮膚を剥ぐ。肉を削ぐ。骨を断つ。
皮膚を剥ぐ。肉を削ぐ。骨を断つ。
皮膚を剥ぐ。肉を削ぐ。骨を断つ。
皮膚を剥ぐ。肉を削ぐ。骨を断つ。
皮膚を剥ぐ。肉を削ぐ。骨を断つ。
皮膚を剥ぐ。肉を削ぐ。骨を断つ。
皮膚を剥ぐ。肉を削ぐ。骨を断つ。
皮膚を剥ぐ。肉を削ぐ。骨を断つ。
皮膚を剥ぐ。肉を削ぐ。骨を断つ。
皮膚を剥ぐ。肉を削ぐ。骨を断つ。
それを、繰り返して、繰り返して。
ぷつりと、頭の中のなにかが切れました。
もうなんとも思わなくなりました。
途端に、今まで気にすることもできていなかった人間の胃の内容物やら排泄物の臭いが気になりました。動物と違ったそれは、なんだから臭くて臭くて頭がくらくらしてきます。今後はきちんと空っぽにさせてから、ばらばらにしないといけないと思いました。
血でぬるぬると滑る手袋を外します。ゴーグルと口を覆うスカーフをはずし、そのすき間にこびり付いた血液を、汲んできた水で洗いました。
ゴーグルを拭きながら、考えます。
なぁんだ、いつも通りの仕事じゃないか。
「冷たい紅茶が飲みたくなるわ......」
職場だったら、一匹解体してしまえば休憩するところです。
大きくため息を吐くと、肩を回しながら立ち上がりました。カマラは疲れで震える手を抑え込み、洞窟へと向かいます。
ここも職場であれば、男達が獣の運び込みまでやるのにと、がっかりしました。しかし、カマラにはウルフがいます。力持ちで丈夫で可愛い、頼りになる男の子です。
さぁ、あとひとり。
それさえ、ばらしてしまえば一息つくでしょう。美味しいものを食べて、頬っぺたを赤くしながら夢中になる息子を思いながら、歩きます。
洞窟へと向かい、中を覗くとラズの声が聞こえました。
喋ることのできないようにしていたのに、外してしまったのだと気づきます。
カマラの声に気づいたウルフは、ばつの悪そうな顔をすると表情を伺ってきました。その様子が可愛らしくて、カマラはすぐに許してしまいます。
「もう……、まあいいわ。ウルフ、もう一回さっきと同じことできる?」
そういうと、ウルフはぱっと顔を輝かせると大きく頷きました。力を合わせてラズを運び、台に固定します。
ラズは何が起こっているのか理解ができません。ただ唯一自由に動く目に映ったものは、艶々と赤く光る肉塊でした。
そこで気を失ったラズはとても幸せ者でした。その肉塊が愛する家族だと知らずにすんだのです。
お爺さん、お婆さん、ラズに奥さん、そしてレム。五人のお肉は、そのまま食べたり、シチューにしたり、干し肉にしたり、様々な工夫をして食べられました。
半年間は余裕を持って過ごすことのできる量でした。
飢えることも苦しむこともなく、ウルフが満足そうに過ごせたのも、この家族のおかげです。ウルフが幸せそうにしていると、カマラも幸せになるのです。
「生命をありがとう」
心から感謝の気持ちを込めて、カマラは残ったお肉に包丁を入れました。
◆
それから、カマラはこの森の解体屋さんとして過ごしました。これまで獲物を自分の手で捌いていた猟師さんにとって、少しのお金と獲物の一部で丁寧に解体してくれるので評判も良く、それなりに暮らしていくことができました。
持ち前のカマラの親しみやすさとウルフの愛嬌で、周りとも馴染むことができていました。時折、お茶に誘ってはたくさんお話をしたり、一緒に買い物に行ったりもしました。
カマラとウルフは二人で一緒に、幸せに暮らしていました。
そして、その裏でひっそりと、カマラは人を殺し続けていました。
肉も皮も綺麗に剥いでしまうものでしたから、残るのは骨だけ。解体し終えた獣の残骸と一緒に処理してしまうので、誰にも気づかれることはありませんでした。
もちろん、ウルフも解体のお手伝いをします。扱いやすいのかすぐ爪を使おうとしてしまいますが、カマラはナイフの扱い方もきちんと教えました。
二人の平穏な日々は続きました。
ある日のことです。
カマラは悩んでいました。
ここではない場所に移り住もうとしていたのです。カマラは人を殺しすぎました。
居心地も良く、解体場もよく馴染んでいました。手放すには大変惜しかったのですが、住みやすさよりウルフのためです。
頭を抱えて考えた結果、今晩で最後の狩り
にしようと決めました。
そしてそれが、本当に最後の狩りになりました。
全身がすごくぽかぽかとしています。温かいというより、熱くて熱くて仕方ありません。きっとこのまま、カマラは死ぬでしょう。自分が身を投げた崖を見上げながら思いました。木々の隙間から照らす月はうっすらと雲越しに輝いており、崖の輪郭ははっきりとしません。いや、これは月のせいでしょうか。
ほんの数分前の出来事でした。
仕事着に身を包んだカマラは、森の方へ女を誘い出しました。罠にかかった犬は、貴女の探している犬ではないだろうか。そうしてついてきた女を狩るつもりでいました。
予想外だったことは、その女に好意を寄せている男に誘い出す様子を見られていたこと。そして、ナイフを奪われて返り討ちにあったこと。それはそうでしょう。誰しも命は惜しいものです。
顔を見られる前にと、駆け出した先は崖しかありませんでした。崖の下に逃げようにも、川がごうごうと流れています。
崖とはいっても、特別高いものではないので即死はしません。川を下ることができたらよかったことでしょう。ただ、腹と洋服を縫い付けているこのナイフがそれを許しませんでした。
これまでの因果なのです。
今このナイフを抜けば、カマラの命は余すことなく流れ落ちるでしょう。いいのです。その罪は背負うつもりではいました。
ああ!でも今私がいなくなったらウルフはどうなるのか!
カマラの頭はそのことでいっぱいでした。
崖を前にして、膝から崩れ落ちてから、どうも体が動きません。ここから家に帰ろうとも血の筋が道標になるか、もしくは途中で力尽きることでしょう。
襲ったのはカマラだと気づかれてしまえば、カマラだけではなくウルフも酷い目に遭うかもしれません。
せめて仕留め損ねた彼らを殺すことができていればどんなによかったか。
それに、このことをウルフ伝えることができれば。どのくらい時間が経ったのかもわかりませんが、いつまで経っても立ち上がることはできません。右腕でナイフを抜こうとするも、深く突き刺さったこれを抜けば、すぐにここで死んでしまいます。
「…あさん」
自然と涙が出てきました。こぼれる嗚咽の向こうで、家にいるはずのウルフの声さえも聞こえてくるようです。
「おかあさん!」
茂みを掻き分け、涙で顔をぐちゃぐちゃにしたウルフが現れました。
「おかあさん!」
「なんでここに…!」
「遅かったから探したんだ。匂いがしたから、ここに来たんだけど、だけど」
カマラのお腹から生えているナイフをどうしようか迷っている様子です。
「病院に行こう?お家に帰ろう?おれが運ぶから」
離れたくない。死にたくない。この子を置いていけるはずがない。いずれ受け入れていた死に、抗いたくて仕方ありません。しかし、幾つもの命を扱ってきたカマラにはわかっていふことでした。
「ごめんね、ウルフ。ここでさよならよ」
息を大きく吸い、拒絶しようとするウルフを抱きしめて黙らせます。
「お母さん、ご飯を用意し損ねたの。きっとお母さんを探してるわ。だから一緒にはいけない」
縋りつくウルフの手に、お腹に刺さるナイフを握らせました。猟師や村の人が、カマラのものだと、いやカジのものだとすぐに気づくような特別なナイフです。
「しっかり握って。家に戻ったら、すぐにこのナイフを誰にも見つからない場所へ隠すのよ」
涙を流しながら首を振るウルフから、そっと離れます。カマラは小さな声でたくさんの、「ごめんね」と「ありがとう」と「大好き」を繰り返しました。
「幸せになって」
最後の力を振り絞り、ウルフを突き放すとカマラのお腹からナイフが抜けました。呆気に取られた顔で後ろに尻をつくウルフのお顔が可愛らしくて仕方ありません。精一杯の笑みを送り
カマラの身体は、血飛沫と共に崖の底へと落ちていきました。
さようなら、可愛い子。
元気でいて。
一人ぼっちにならないで。
ずっと笑っていて。
お腹いっぱいになって。
どうか、ウルフが幸せに生きていけますように。
こんな状況でも、まだ生きていきたいと思うほどに、ウルフの幸せを願いました。
◆
「おい、ループ。カジさんはどうしたんだ」
ループと呼ばれるウルフに声を掛けたのは、馴染みのある猟師でした。ここ数日ウルフ以外に気配のないことを疑問に思い、わざわざやって来たのです。
慣れた手つきで、おもてなしのための紅茶を淹れました。
「まだ帰って来てないの」
ウルフはにこにこと笑っています。差し出された紅茶を、猟師は一口飲みました。心を落ち着かせるためでした。
親がいなくなった子どもとは思えません。猟師はなんだか不気味で仕方ありませんでした。
「ひとりで大丈夫か? 最近、山犬が人を襲っている。もう二人はやられている。カジさんが帰ってくるまで、うちに来るか?」
不安を押し殺しているだけだろうと、さらに問いを投げかけます。
「ううん、大丈夫だよ」
それでも、にこにこ。
「それならいい。茶、ありがとな」
不審に思った猟師は、この場を去ろうとした時です。逆に、ウルフが問いました。
「ねえねえ、おじさんの幸せって何?」
足は帰り道を向きながらも、彼女の素朴な疑問に慎重に答えます。
「なんも不満がねえ、心が満たされてるときだと思う」
ふーん、と頷く彼女を一瞥して猟師は彼女の返事を待ちましたが、なかなか返ってきませんでした。なんだか考え込んでいる様子です。
「まあ、そういうもんだ。なにか困ったことがあれば言えよ」
そそくさと足早にこの場を去ろうと扉に手を掛けました。しかし、外に出ることはできませんでした。
「やっぱり、わかんないや」
ごき。と、頭の中に何かが砕ける音が響いて、猟師の意識はそこで閉じました。
猟師と話している間も、
この数日一人で過ごした夜も、
おかあさんにはもう二度と会えないとわかった後も、
ナイフを獣の骨と共に捨てた後も、
おかあさんが川に落ちた後も、
ウルフの右手にはナイフを握った感触が、自らの爪が手のひらに食い込む感触が忘れられません。疼いて疼いて仕方がありません。いくら食べてもお腹が空いて仕方ありません。
でも、お気に入りのナイフで、自分の爪で人間から食べ物の状態にしている今だけが、あふれる血と肉を頬張るそのときだけが、大きな穴が空いた心を満たすのです。
さて、このあと秘密のサーカス団へ入るのはまた別のお話。長くて短い、夢のような時間から醒めました。
目一杯に広がる白菫色に、一瞬目を奪われてウルフは乾いた喉で悲鳴を上げました。
一つの身体に、美しい二つの頭を乗せた愛らしい双子がおりました。愛らしい笑みを浮かべておりました。
この感触。
この笑顔。
あの愛情。
───ウルフはそれを思い出し、笑っていました。




