ある母狼の話 Ⅵ
いくつかの荷馬車を乗り継いで、乗り継いで。
カマラとウルフは、随分と村から離れた村に来ていました。二人を知るものは誰もおらず、また二人が知ってる人もいませんでした。
今までにないほどお金を持っていたので、宿にしばらく泊まることにしました。ただ、お金がすぐになくなってしまうことを知っているカマラは色んな人に聞いて回り、安全面はしっかりしておりさらに安い宿を見つけ出しました。
「ベッド、おおきいー!」
いつもは一人分のベッドに身を寄せ合って眠っていたので、用意された部屋にウルフは大はしゃぎです。普段でしたら着替えてからベッドに乗るように言いますが、今日は違いました。特別豪華な部屋でもなかったのですが、清潔なベッドや洗面所、そしてそれを自分で掃除しなくていいという解放感に満ちていました。
ベッドの上でカマラに怒られるのではないかとびくびくするウルフに覆いかぶさるようにして、転がりました。
「汚い足でベッドに乗ったのは誰だ!」
そう言いながら小さな足から靴を外して、ぽいと放ると、その足の裏をくすぐりました。ふひゃひゃと笑いながら「おかあさんも!」と叫んだウルフが反撃します。ぷうぷうと頬を膨らます様子の可愛らしいこと。
ひとしきりじゃれあうと二人は、天井を見上げながら寝転び一息つきました。
くすくすと笑いがこぼれでます。隣を見ると、ウルフも満足気な笑みを浮かべてカマラを見ていました。赤い頬っぺたをますます赤くして、抱きついてきます。
「おかあさん、これからはずっと一緒にいるの?」
応えるように強く抱きしめると、カマラは大きく頷きます。
「そうだよぉ。もうこれからずぅっと、ウルフが嫌ってなるくらい!」
「いやってならないー!」
腕から抜け出したウルフは、小指を差し出します。指切りで約束をする合図でした。カマラとウルフはしっかりと約束します。指切りをし終えても嬉しそうに小指を眺めるウルフに、言いました。
「さっそくだけど、一緒にお買い物に行ってくれる?」
「うん!」
さて、夕日が村の色を金色に染める頃でした。カマラとウルフは、ベッドの上に今日買ったものをどっさりと乗せました。ウルフが荷物をたくさん持ってくれたおかげで、予想よりもたくさん買ってしまいました。
「......いずれ必要となるものですし、良しとしましょう」
そう呟くカマラの横で、ウルフは買ってきた洋服を広げています。必要最低限の大人用のシャツやズボンと、子供用のシャツやズボン、ワンピースにスカートを一生懸命たたみました。そして、ふと首を傾げてたたんだスカートを広げます。
「すかーと」
「そう、スカート」
「まちがってるよ?」
「あら、買うときちゃんと聞いたじゃないの。変装するけどいいわねって」
ぽかんと口を開いたままスカートを眺めるウルフを余所に、カマラは着々と次の行動へ移りました。鏡を前にして座ると、襟足を残して髪を束ねました。長い襟足をちょきちょきとはさみで切っていきます。ある程度切り揃えると、キャスケットを被り、束ねてあった髪をしまいました。胴にはタオル布切れを巻くと。薄汚れた紺色のシャツにオーバーオールを身につけます。
ほっそりとしたカマラの身体は、見違えるように変わりました。
仕上げに、たっぷりと絞ったレモンとアルコールを混ぜたものでうがいをします。喉を潰すつもりでした。
立ち姿としゃがれた声はまるで、
「男の人みたい!」
余裕のある服とさらしや、詰めた布、キャスケットから覗く短い髪のおかげでカマラは、一瞬見ただけではその辺にもいるずんどうの男のようです。満足気に笑ったカマラは、次にウルフを鏡の前に座らせました。
「訓練中、切る時間はなかったのね」
肩まで伸びたウルフの髪を、カマラは指で梳きました。子ども特有の細くさらさらの髪が、指からゆっくりと、空気を孕んで落ちました。大きな琥珀色の瞳に、柔らかそうな頬。ほんの少しだけ水準より多いであろう筋肉質な身体は服で隠せるでしょう。髪の先を、整えるだけで済みました。
「ねぇー、やっぱりこれを履かないとだめぇ?」
紺色のワンピースの裾を摘まみながら、不満ありげにウルフは言います。ウルフが女の子だったら、周りの男の子はきっと惚れてしまうのではないかと、カマラはいらぬ心配をしました。そして一抹の安心を感じながら、にっこりと笑いかけます。
「次のお家に行くまでは、それを着ててほしいな」
◆
カマラとウルフがこの村に行き着いて、数週間が経ちました。
二人は今、宿での生活をしていませんでした。村から外れた森の中。可愛らしい大きさの家。悪い言い方をしてしまえば、ただの小屋。
大きな部屋と小さな部屋、外には小さな物置が一つ。狭いですが二人で暮らすには十分な大きさでした。
そんなところに、二人は住んでいます。
この家を貸してくれたのは、ある老夫婦です。
木こりだった主人は年老いてしまい、この家に通うことがなくなってしまったのです。しばらく会っていない孫は、この小屋を秘密基地のようだと気に入っており、壊すには惜しく、しかし手入れもままならないため、代わりに管理してくれる者はいないかと貼り紙を出しておりました。村の掲示板から偶然見つけたカマラは嬉々として申し出ました。老夫婦は男装をしている黒髪の女に警戒心を抱きましたが、狼の皮を被ったその娘を見ると表情は柔らかくなりました。孫娘と同じ年頃に見え、手を貸したくなったとのことでした。
そうして、老夫婦に要求されたのは数枚の銅貨と、小屋の手入れをすること。それさえ守ってくれれば、
「好きに使っていいのですって」
軋む窓を開け放して、水色の絵の具でぺたぺたと部屋の壁を塗りながら言いました。ところどころ板で補強した部分も、水色で塗り潰してしまえば、目立ちません。
ウルフと運んできた材木は、屋根や壁の補強に使われ、どんどんその数を減らしていきます。身軽で力持ちなウルフは、その能力を使ってカマラを手伝います。生き生きとしたその姿から、とても嬉しいということが滲んでいました。
「大きな部屋は台所とダイニング、小さな部屋は私たちのベッドを。物置は、……とりあえずは物置として使いましょ」
「うん、そうしよう!」
「前の家より狭いけど、許してね」
「狭いけど、一緒に入れる方がいいよ」
この作業は、いつも日が沈む頃には一旦中断します。もともと寝泊まりをしていたこの小屋には、小さいながらもかまどもあります。近くに小川も流れ、不便ですが暮らせそうでした。夕ご飯はカマラの分だけ作り、ウルフは残っている輸血パックをちびちびと口にするのでした。もう残りも少なく、これだけはなかなか良い解決策が見つかりませんでした。お腹は満たされず、パンを浸して口にすることも多くなりました。
時折、倒れることもあります。汗を滲ませ、腹をよじりながら、発作のようにひどく身体を震わすのです。
カマラが自らの腕を切り裂き、唇に血を落とすと、治まります。しかし、ウルフはもう限界でした。
そして、最後の子どもの歯が抜け落ちました。小さな小さな白い歯は、なんの変哲のない子どもの歯。ウルフの成長がなんだか嬉しくて、なんだか恐ろしくて仕方がありませんでした。カマラは頭を悩ませました。
腕に巻いた包帯からは、いつでも血が滲んでいます。
しばらくの間、そういった日々が過ぎました。時々、様子を見に老夫婦が訪れました。特におばあさんは張り切っていて、かごいっぱいに料理をたくさん用意して、振る舞ってくれるのです。小屋の修復が完成することをとても楽しみにしており、特に壁の青空模様がお気に入りでした。「こんな素敵なことになるなんて、想像もしていなかったわ。ありがとう」と涙ぐみながら口にします。小屋が完成してから、おばあさんはよりいっそうやってくる頻度が多くなりました。
場所を貸してくれる恩から、断ることができません。
息子夫婦のもとで何か大変なことが起こっていること。
だから、孫娘を預かることになったと言うこと。
なぜだかわからないがもう一人の孫は来れないと言うこと。
とても楽しみだと言うこと。
普段夫婦という二人だけの生活に入ってきた、訳あり親子はいい話し相手でした。
紅茶を片手に話し続けます。
嬉しいこと、楽しいこと、素敵な出来事、嫌な出来事、あれ、それ、どれ、これ、カマラにとってどうでもいいこと。
考えてはいけないと思いながらも、日に日に不安と焦燥感が募りました。ウルフもせっかく見つけた洞穴や登りやすそうな木に、ワンピースを脱ぎ捨てて遊びに出ることができず、何だか不満がありそうでした。
それにカマラから見てもウルフの顔色は悪く、おばあさんが帰ると決まって胃の中の物を吐き出しました。
「お腹空いたぁ」
全て吐き切ると力ない声で、言うのでした。
その日もおばあさんは訪れました。どうやら今日は、おじいさんもいるようです。カマラとウルフは慣れた手つきで変装をして、二人のノックをしばらく待ちました。
こんこん。
いつも通り、ウルフはその扉を開けました。
老夫婦がいました。いつものような笑顔でした。
女の子がいました。どこか懐かしい笑顔でした。
いつもはいないその女の子に、ウルフは首を傾げました。なぜなら、本来その女の子はここにいるはずもない。だけど、嗅いだことのある優しくて、泣きそうなほど懐かしい匂いがしました。不思議に思ったウルフは振り向いてカマラの顔を見ました。一瞬ですが、カマラの表情は真っ黒に陰って見えました。しかしすぐに陰りは消え去り、普段のものに戻ります。
震えた声を抑えつけながら、カマラは老夫婦に挨拶をしました。にこやかに二人は返し、そして言いました。「カジさんと、ループちゃんの話をしたらどうしても来たがってね」と。
「カジさん、ループちゃん、はじめまして──」
ぺこりと頭を下げると、茶色のおさげが揺れました。小さな口からカマラ達の“嘘”の名前を何の疑いもなく紡ぎ出し、にこりとあの頃と変わらない笑みを浮かべました。
「──レムです」
彼女の名前を聞き、カマラは唇をきつく噛みしめました。対して、ウルフは琥珀色の瞳を細めてにっこりと笑います。
「レム、いらっしゃい!」
その女の子は、ロムの妹。
カマラが殺したこととなっている男の子の、妹でした。
◆
自分達の正体を、誰にも気づかれてはいけません。
そう、ウルフと約束してきました。きちんと言いつけを守り、人前では女の子の仮面を被ってきました。
カマラの立ち回りを見て学んだウルフは、悲しいことに嘘をつくことがどんどん上達していきます。涙だって、どんな気持ちのときでもぽろぽろとこぼすことができるのです。
しかし、二人の闇のように黒い髪は何色にも染めることはできず、瞳の色を変えることもできませんでした。
そのため、いつもでしたら小屋の中で窓に背を向けたまま食事を取っていました。逆光に加え、老夫婦の弱くなった視力ではカマラとウルフの見た目を意識させることがないと思ったからでした。
さて、カマラとウルフは、レムがいるという場面であったのにもかかわらず、完璧に演じきりました。誰が見たってそうでした。カマラはしわがれた声で、動作で、男のように。ウルフは無邪気で、可愛らしい女の子のように振る舞いました。
ただ、今日は人数が多く小屋で食事をするのはとても窮屈でした。そこで、外で食べることになったのです。いつもだったら頼れる日の光も、木陰に入ってしまえば関係ありません。澄んだ青空なのに、どこか憂鬱な気持ちになりました。
「今日はとってもいい天気ね!」
カマラの気持ちを知って知らずか、レムはクッキーをかじりながら笑います。
天真爛漫でころころ変わる表情がとても愛らしいレムの姿を目にすると、なぜだか心が弾みます。昔と変わっていませんでした。そういえば、ウルフが治療を始めてからは彼女には全然会うことがなかった。そう思いました。
「ループちゃんも、クッキー食べる? それともハムのサンドイッチ?」
差し出されたクッキーとサンドイッチを交互に見て、ウルフはクッキーを手に取りました。小さくお礼を言うと、齧ります。
ふと、レムがウルフの顔をじっと見て訊ねました。ウルフは困ったように首を傾げました。
「ねえ、ウルフっていう男の子とカマラさんっていう女の人知ってる?」
ロムとよく似た瞳に見つめられたカマラは、素早く笑みを作り上げると言いました。
「それは妹だね。そこいらの村で、慎ましく暮らしていると聞いたよ」
「そっかぁ」
ひどく落胆した様子のレムに、カマラは質問しました。
「カマラがどうかしたのかな」
レムは目を潤ませると、袖で拭いました。老夫婦はおろおろと、孫娘の涙を止めようとパンや果物を薦めます。ウルフも眉を下げながら、その輪に加わりました。
唇を噛み締めて、目に力を入れないと涙が止まらないのでしょう。一瞬、鋭い目つきをカマラに向けました。睨まれたのでしょうか。気のせいだ、とカマラは思うことにしました。
カマラが思わず伸ばした手を止めるかのように、レムは言います。
「なんでもない!」
そして、おばあさんに抱きつくと、黙りこくってしまいました。ウルフが差し出す紅茶にも、目を向けることはありませんでした。戸惑うカマラに、おじいさんは謝ります。
「ランさん、すまんな。この子は最近、兄を亡くしてな……」
それから老夫婦は、何度か謝ると今日は帰ることにしました。片付けをしている間も、レムは何も話しませんでした。木に寄りかかりながら、じっとその様子を見ているだけでいした。カマラは帽子を深く被り直すと、こっそりとため息を吐きました。
敷いていたシーツを家に持ち帰ろうと、立ち上がったときでした。いつの間にやら側に来ていたレムが、シャツの裾を掴んでいました。気づかれないように距離を取ると、どうかしたのか聞きました。
「かえるまえに、もう一回壁が見たいの」
作業をしている老夫婦に声をかけようとしましたが、レムはカマラの手を引いて家へ向かいました。抵抗しようとしたカマラでしたが、大人しくついて行きました。
家に、押し込まれるように入るとレムは扉を閉めました。
「イスに乗ってちかくで見てもいい?」
レムの問いかけに、カマラは笑顔でうなづきます。靴を脱いで、椅子に乗ったレムは壁の方を向きませんでした。手を伸ばすと、カマラの帽子を髪ごと鷲掴みにします。椅子ごと横に傾いたせいで、レムとカマラは床に転がってしまいました。
「きゃっ」
思わず声が漏れました。一瞬何が起こったのかわからなくなってしまい、それが大きな隙になってしまいました。ドアの真ん前に立ったレムが、たった今取った帽子を抱きしめています。
「ほ、ほら! やっぱりあんたがカマラさんだった!」
帽子と一緒に掴まれた髪は結っていた紐が解けて、さらさらと肩に落ちました。カマラはその髪を払いながら、ゆっくりと立ち上がります。
「おばあちゃんがカジっていう人の話をしたとき、ママとパパも変って言ってたもん! 黒髪の親子なんてそんなにいないって! ウルフだけ助けて、逃げたんだって言ってたもん!」
大きな声で叫ぶレムに構わず、カマラはシャツのボタンを外し、巻いていた布をぼとぼとと床に落とします。頭の中にぐるぐると渦巻いていた不安や焦りが、布の塊が一つ落ちる度に冷めていくのを感じました。
「パパとママに言ってやる、パパがふくしゅうしに来るから! もう、あんたのこと村中にばらまいてやったんだから! あんたもウルフも早くしんじゃえ!」
ドアノブに手をかけたレムは、今にも外に飛び出して行くでしょう。
ボタンを首までつけ直し、カマラは一歩、前に出ました。
「人殺し、おにいちゃんを返せ!」




