ある母狼の話 Ⅴ
目を凝らして、よぅく闇に佇むそれを見ました。そこには誰かの後ろ姿がありました。マントのフードを深く被っていることと周囲の暗させいでそれが誰なのか認識できません。物音と灯りに反応したそれは、弾かれるようにこちらへ体の向きを変えました。考える間もなく咄嗟に、ウルフを木の後ろへ隠します。それから、一歩足を踏み出しました。
早まる鼓動を抑え、カマラはその人物の顔が見えるようにランタンを向けました。
「カマラ、さん?」
突然名を呼ばれたカマラは思わず身を竦めましたが、よく聞くとそれは女の、ジーナの声をしていました。目深に被ったフードの隙間から、見慣れたジーナの顔がひょっこりと覗いています。カマラは安心で胸を撫で下ろしましたが、ひどくやつれた表情をするジーナに怪訝そうに首を傾げました。
「なぜ、ここに……」
再び近づこうとする前に、ジーナはカマラに駆け寄りました。そして、膝を崩すと額を地面に押しつけました。敷石に額のぶつかる鈍い音が響きます。困惑しながらも手を差し伸ばすカマラでしたが、その手を取ってもらうことは叶いませんでした。次第に、ジーナの方は大きく震え、我慢していたのであろう嗚咽と共に言葉が溢れました。
「カ、カマラさん。誠に申し訳あり、ありません」
きっと、先ほど追い返したことを言っているのでしょう。柔らかく微笑んだカマラは、ジーナの前に膝をつきました。
「ええ、大丈夫ですよ。気にしていませんもの」
そう言ったカマラの手を、急にジーナは両手で握りました。ぬるりと液体にような何かが皮膚と彼女の手袋の間で滑ります。不思議に思ったカマラでしたが、それ以上にもっと不可解なことがありました。起こしたジーナの顔に、水が飛び散ったような跡が残っていたからです。空いている手のひらで、それを擦りました。すでに乾いたそれは黒い粉となって指先にこびりつきました。
カマラはこれが何であるかを知っています。どんな生き物にでも流れている、赤黒いあれです。
「何があったの?」
そう訊ねると、ジーナは大きな目いっぱいに涙を溜め、ぼろぼろと溢し始めました。唇が震慄、掠れた声が漏れました。再び頭を深々と下げて、言うのです。
「ヨーゼフ先生含め、医師四名、看護師三名、患者八名は死亡いたしました」
はっきりと明確に聞こえたのはそれだけです。
「私、はウルフくんを守ると言っ、た、のに、わ、私は───」
続く言葉は嗚咽に飲まれて、滲んだ音になりました。
木の後ろに隠れるウルフにまだ動かないように、指示を出します。もう少し、話を聞いてみることにしたのです。落ち着くまで待っているわ、と囁き、ジーナの背中をゆっくりと撫でながら、言葉を待ちます。徐々に震えが収まっていくと、苦しそうな声で話し始めました。
「ヨーゼフ先生の判断で、私はウルフくんたち八名を殺害しました」
ジーナがカマラを握る手は少しずつ強くなってきます。きっと自分の能力の制御ができなってきているのでしょう。カマラはそんなことを考えました。それから何度考えてもなぜ彼女はウルフを殺したのだと言うのか、わかりませんでした。なぜなら、ウルフは先ほどまでカマラと一緒にいましたし、手を繋いだ温もりも消えてません。
もしかしたら、そこまでに至る何かが起きていて、ウルフをこの場に連れてこない方が良かったのかもしれません。ここからウルフを連れ去ってしまおうかしら。そう思った矢先のことでした。
「ジーナさん、ヨーゼフせんせいたち、しんじゃったの?」
ウルフが、木の影から姿を現してしまったのです。
この時のジーナの驚き様といったら、すごいものでした。目を大きく見開いて、石像のように固まってしまったのですから。そして、それが解けるとカマラの手を振り払い、飛ぶようにウルフに詰め寄りました。ぺたぺたと顔や全身を触り、そこにウルフが存在していることを確認します。
なんで、なぜ。どうしてここに。どうして生きているの?
心の底から安堵した表情を浮かべたあと、すぐに我に返りました。ジーナは忠実にヨーゼフの指示に従おうと、つまりウルフを殺すことへ意識を向けたのです。スカートをたくし上げ、注射器を取りました。そこからは一瞬の出来事でした。
あっ、という間に、瞬きひとつする間に、地面にはびしゃりと液体が飛び散りました。そして、一息つく間にジーナの身体は腹を蹴られた衝撃で、落ちた血に覆いかぶさるようにして倒れました。
自分のしたことに驚いたウルフは、カマラに駆け寄ると背に抱きつきました。
ウルフの爪に裂かれた手首を押さえながら、ジーナは立ちました。息を飲んで、カマラはウルフを背に隠し肉の盾になります。しかし、きっと勝ち目はないでしょう。ぎゅうっとウルフを抱きしめながら、思わず目を閉じました。
しばらく経っても、ジーナが襲いかかってくることはありませんでした。恐る恐る目を開いて彼女に目をやります。ジーナは割れた注射器を見ながら、静かに泣いていました。
「最後の薬も割れて、ヨーゼフ先生の言いつけも守れない、安らかに死ぬことのできない私はどうすればいいのですか」
白い頬に涙を流しながら、ジーナは言いました。もう、何をするにも気力が残っていない様子でした。カマラの腕から、すり抜けたウルフがジーナの側に立ちました。ポケットに入れていたハンカチを取り出して、傷口に当てました。ジーナの表情を探りながら、ウルフは言います。
「ジーナさん、重心がゆらゆらしてたよ。ちゃ、ちゃんと手でこうげきするときは、ぎゅうってりょうほうの足に力をいれてないとたおれちゃうって、ジーナさんがおしえてくれたんだよ」
震える手でハンカチを結び、不格好な手当てを終えました。上手く押さえられてないため、どんどん血は溢れて滲んでいきます。ウルフはジーナの膝を優しく折って、無理やり座らせると頭を撫でました。
「つぎ、一緒にがんばりましょおね。えっと、せきにんもってジーナさんを強くしますからねえ」
これはきっと、普段の訓練の中でウルフがジーナに言われていたことなのでしょう。意味のわからない部分もすっかり丸ごと覚えてしまっていました。不安そうに言葉を紡いだウルフは、ジーナにこの言葉であってるのか聞きました。その情けない子犬のような表情が愛おしく、可愛らしくて思わずジーナは声を上げて笑ってしまいました。
ジーナは、涙が出るほど笑ったあと、ウルフにたくさんのお礼を言いました。カマラが出血の止まらない手首の手当てを申し出ました。しかしそれを断ったジーナは、姿勢を整えて改めて頭を下げました。
事の顛末を伝える。そう言いました。
「私たちが進める、身体強化の治療、いえ研究は私たちの村では禁止されていました。追手たちから逃れ、ようやくたどり着いたのがこの村です」
カマラと初めて出会ったあの時も、実は流れ弾に当たったのではないことに気づきました。あれもきっと追手との戦いの傷なのでしょう。
ジーナがいうことには、ジーナの村では遺伝子を組み替えて研究をすることが禁止されているというのです。ただカマラにとっても、もちろんウルフにも遺伝子やらでぃーえぬえー構造などわからない単語がぽんぽんと飛び出してきて頭を抱えました。
ウルフはカマラの隣で石を積み上げて遊び始めてしまいました。
さて、危険とされる研究をなぜヨーゼフが続けてきたのかという理由の一つにジーナと他研究員の存在がありました。ウルフと同様に病弱であった彼女たちを救うために開発されてきた治療法が結果的に、彼らの村では禁止とされている内容にあたってしまったのです。この村では、強靭な肉体を持つ人間がいれば戦争をする際に他にはない最強の戦力になると判断され、病弱な子ども以外の優秀な適応者にも治療をすることを条件に許可されたというのでした。
ここでヨーゼフたち気づきます。完全な治療法が開発されてしまったあと、責任者であるヨーゼフたちが消されてしまったらこの治療はどういった意図で使われるのか。
病弱者を治そうとしていた研究は、人物兵器を作るに至ってしまうのではないか、と。
そして彼らは決めました。もし自分たち以外の人間にこの研究内容や治療法を知られてしまった場合は、全ての研究、材料、治療を受けた者を持ってこの世界から消えるということを。
しかし、全ての痕跡を消してきたと思ったヨーゼフたちでしたが、今晩とうとう破られてしまったのです。
「もしかして」
カマラの顔から血の気が引き、真っ白になりました。
そう、カマラが患者として連れてきたあの男でした。ジーナはすぐに、男が追手だということに気づいたのです。なぜなら彼は、以前村にいた時にヨーゼフの優秀さを疎ましく思っていた男だったのですから。そして、いつものように殺してしまおうと考えたのでした。
しかし、動くのが一足遅く、手に溜めていた自身の血をジーナの目にかけたのです。それから手に持っていた刃物を深々とジーナに刺しました。視覚を一時的に奪われたジーナが腹の激痛と共に視力を回復し、ヨーゼフの元に辿り着いた時には、二人は机を挟んで対峙していました。
彼は叫びます。患者の治療は元の状態に戻すまでであり、それを超えてしまえばただの人体実験である。人間的ではない。それは村の掟に反するものだ。極悪非道! 貴様は自分を神とでも思っているのか! こんな人体実験まがいのものの本質を明らかにしてやる。世界から恨まれてしまえ、と。
対して、ヨーゼフは静かに笑みを浮かべるだけでした。男の意見を肯定します。自分は神だという認識は否定します。彼は言います。元の状態に戻るだけでは、生きているのに生きている気がしないと感じる者がいることを教えました。そして、自分はただそんな人たちがいることが悔しくて仕方がないということを伝えました。
残念なことに、男はその言葉を最後まで聞くことは叶いませんでした。
追いついたジーナによって男は磨かれた床にてらてらと光る内臓をぶちまけて、その臓器のカーペットの上に身体を預けてしまったのですから。
これで一安心だと思った矢先です。男を調べると、ポケットから一通の手紙が出てきました。
それを読んだヨーゼフは、乾いた笑いを浮かべました。
なんと彼の村に、ヨーゼフの居場所が研究がばれているではないですか。
全ての研究材料を村で、未来永劫進められないように保管すると書かれているのです。
───じゃあジーナ、君にこんなことを頼む結果となってしまって申し訳ない。手順通りに頼むよ
そういったヨーゼフは、他の研究員と共にこの世を去る準備を始めました。
ジーナは計画通りに、この時のためにとっておいた真新しいぴかぴかのマグカップに、苦しまずに死ぬことのできる毒を混ぜたココアを淹れました。そして、同じものを入れたカップケーキを八つ用意して、病床に持って行ったのです。
「ただ、誤算だったのは、ウルフくんがいなかったことなんです。いつも早くに寝てしまうから、気づかなかった。まさか、病院を抜け出しているとは!」
長い話を終えたジーナは、くすくすと再び笑いをこぼしました。それだけではない。そうカマラは胸元を握りしめながら思いました。なんと言ったって、その元凶となってしまった男を招き入れてしまったのはカマラなのです。
「ジーナさん、ごめんなさい……私、なんてことを」
次はカマラが謝る番でした。取り返しのつかないことをしてしまったのは、カマラです。口を押さえて、ウルフと同じような目を大きく見開いて謝りました。目頭から熱い液体がぽろりと溢れて、敷石に模様を作りました。
「カマラさんは何も悪くありません。私の過失です」
立ち上がったジーナは、大きく伸びをしました。振った腕から血が滴ります。血の出ていない方の手で、指折り何かを確認していきます。
「あとは、この病院を燃やして……、すれば終わるんです。子どもたちの死も確認したし……ふふ、ウルフくんはいなかったのですけど。資料にちゃんと火を付け終わったし、ヨーゼフ先生もみんなもちゃんと死んでた、うん、大丈夫」
よたよたと覚束無い足取りで病院に近づきます。闇で見えなかったのですが、そこにはたくさんの壺が転がっていました。ジーナは一瞬、何かに滑ったようにバランスを崩しましたが立て直します。カマラは転びそうなジーナに肩を貸しに行くことで、壺の中身が何なのか理解しました。
大量の液体でした。獣の残りを焼く時に、よく親方がこれと似た匂いのする液体をかけていたことを思い出しました。
ジーナは暗闇の中で、必死にヨーゼフの言いつけを守るために液体を撒いていたのです。
たくさんの血が手首から流れています。それとは別に、何本もの線を足に描くように血液が伝って地面に落ち、こぼれた液体と混じり合いました。
「ジーナさん、お腹から……」
「ああ、あいつに刺されたんでした。忘れてましたけど、さっきウルフくんに蹴られたから、ふふ。ずれちゃったかな」
もういいか。そう言ってジーナは腹から刺さっていたものを抜いて、ぽいと投げました。その途端、血の匂いと熱が空気に溶け込み、周囲に漂いました。今にも死にそうな彼女は、残り一つとなった壺を前に、倒れてしまいました。びしゃん、と人が倒れたものではない重くて水っ気のある音が鈍く、森に響きます。
何かに抗うかのように、まだ立ち上がろうとするジーナを、カマラが制しました。
「手伝います」
ジーナが何かいう前に液体を病院の壁に、どろりどろりと撒きました。
「カマラさん、ありがとうございます。では私、最後の仕事をさせていただきます」
ジーナはくるりと踵を返して、先ほどまでの気力のなさはどこへやら。ウルフの目の前に立ちました。カマラが気付いて、かけ出しましたがもう遅い。
何かをウルフに耳打ちすると、言葉をいくつか交わして満足気に頷きました。最後に抱きしめると、すっくと立ち、駆けてくるカマラをウルフに向かって一度押しました。ウルフに覆いかぶさるように倒れたカマラが、顔を上げ振り返った時には、ジーナはすでに病院の扉の中。
こちらに向かって手をふりふり。
ぽとん。
火のつけたマッチが地面に落ちて、
「さようなら、カマラさん。さようなら、ウルフくん。あなたたちなら、きっとどこででも幸せに暮らせるわ!」
大きな火が生まれました。
カマラはウルフを抱き上げると急いで森の小道を駆け抜けました。ウルフは熱気で顔を押さえます。指の隙間から見えたのは、夜闇に赤々と燃える病院でした。
ウルフは赤々と燃える火を脳裏に焼き付けながら、思いました。
最後にジーナが口に含ませたものはなんだったのだろうか、と。
それはとてもとても、甘くて、
そこで、ぶつんと意識が途絶えました。
◆
火の粉が舞う。赤々と。
赤にもたくさんの色があるんだな、そうカマラは考えました。薔薇の赤、夕日の赤、血の赤、リンゴの赤。全て違う色。病院を舐めるように火が覆い、なんらかの薬品によってさらに強く激しく燃え盛ります。炎は意思を持っているかのように、ずるりと病院の建物にまとわりついては、黒く焦しました。
カマラは振り返ることなく走りました。
ずしりと背負ったウルフの体重が急にのしかかって来ました。きっと気を失ったのでしょう。熱い塊になった息子を感じながら、森の小道を抜けます。ランタンがなくても、走れてしまう。炎ってものはとても明るいものなのね、そう考えました。
無我夢中で家に帰り、カマラは勢いよく扉を閉めました。そのまま玄関に座り込み、しばらくの間ウルフを抱きしめて心を落ち着かせました。腰を下ろした途端、疲れが一気にのしかかります。気付いていなかった擦り傷や切り傷が急に熱を持ち始め、このまま何も考えずに眠ってしまいたいと思いました。
しかしここでカマラが眠ってしまうと、必然的にウルフもここで眠ることとなってしまいます。重たい体を引きずって、カマラはウルフをベッドに横たえました。ぬるま湯に浸したタオルで汚れを拭います。今すぐにでも布団に身を委ねて眠ってしまいたいカマラでしたが、ぬめる手や髪を早く洗い落としていまいたかったので急いで体を洗いました。血と油で汚れた衣服は籠に放って、明日洗わなくてはと眺めます。
寝巻きが見当たらなかったので、適当に明日着る分の衣服を身に纏ってウルフの隣に倒れるようにして眠りました。ウルフを抱き寄せると、カマラはこのまま永遠に眠ってしまえたらと感じるのでした。
朝日が登る前のことです。
カマラは扉を叩く音で目が覚めました。うっすらとまぶたを持ち上げて、その音を聞いています。しかしどうにも疲れがカマラの身体を縛り、動くことを諦めさせました。こんな朝早くに来る者が悪いのです。知らんふりしてしまおうと、再びまぶたを閉じようとした時です。
今度はカマラのいる寝室の窓が叩かれます。庭に面しているはずなのに、なぜそこに人がいるのか。カマラの頭はゆっくりと回っていき、不法侵入じゃないのかという言葉が思いつくと同時に、起き上がりました。目を擦りながら、窓の向こうにいる人物をよく見ました。熊みたいな大きな身体に無精髭の生えた強面で、実は甘い物が大好きで、カマラの作るアップルパイのおこぼれを楽しみにしている男でした。
「親方?」
そう、そのよく知る男が必死の形相で窓を叩いていたのでした。ベッドを飛び出して窓に飛びつくと、すぐに開けました。今日も休みを取ったはずだったが、本当は仕事があったのかしらと不安が駆け巡ります。もしかしてげんこつを食らわせるのではないかと、ぎゅうと目をつぶってしまいます。
しかし、親方の口から出たのは意外な言葉でした。
「昨晩、病院に行ったか?」
ぶわっと、冷たい汗が背中に流れました。カマラは親方に嘘を吐くのが苦手でした。すぐに思わず歪めた目と、噛み締めた口元に親方は眉を潜めます。
「さっき、狩猟者と解体場の男共と一緒に病院へ行ったんだ。夜中に目が覚めたとき、森の中で火が上がっているのが見えたからだ。病院は全焼、医者も子どもも全員死んだ……、ウルフもだ」
カマラの身体が震えているのは、ウルフが死んだという衝撃からだと判断した親方は話を続けます。しかし、カマラはウルフが死んだという言葉で顔を青くしている訳ではありません。なぜなら、ウルフはしっかりと生きているからです。
もしここで、ウルフだけが生きていることがばれたら、どうなるのでしょう。
そんなの、カマラが病院に火を付けた犯人であるという疑いをかけられるのでしょう。一瞬、目をやって見たときにはウルフの身体は毛布に包まれていました。このまま起きなければ、ウルフは死んでいると勘違いしてくれるはずです。どうか、起きることがありませんように。そう願いました。
「そこで、これを拾った」
布に包んでいたナイフを取り出して、親方は見せました。血に汚れたそれは、カマラが以前使っていた解体包丁です。さっと血の気が引きました。昨晩、ジーナの腹に刺さっていたナイフはカマラのものであったのです。
「こ、これは私のものですが、あの新人君に貸した、ものです……!」
親方は頷きました。滲む涙を拭うカマラの頭を少女の時にもしたように撫でました。
「わかってる。それに火をつけたのはお前じゃないこともな。ただ、これを拾ったとき狩猟者もいてな、ほらウルフと一緒に治療受けておるガキがいた奴だ。そいつが、今ここに向かっとる。ラズが止めてくれているが、危険だで一度仕事場に避難させようと思って、来たん、じゃ、が……」
親方の目がいっぱいに見開かれました。カマラははっと気付いて、親方の視線を追いました。毛布からカマラと同じ色艶の小さな頭が覗いていました。何かを言わなくてはと、親方にすぐに視線を戻しましたが、すでに窓を飛び越えて部屋に入っていました。大きな図体で恐る恐る指を伸ばし、窓から入る風にそよそよと揺れる髪の毛を突きます。温もりのある頭に触れた親方は、ウルフがきちんと実体のあるものだと確信しました。何か言いたげにカマラの方を向きましたが、何も聞きませんでした。
その代わり、口から出たのはたった一言でした。
「カマラ、ここから逃げるぞ」
親方とカマラは仕事場に向かって歩いていました。親方の大きな身体はカマラを隠し、もともと人の通らないこの道では、ただ親方が一人で歩いているようにしか見えないでしょう。ウルフは麻袋に入れられ、親方に担がれています。荷物ごっこだというと、とても上手に荷物役にを徹底し、一切喋ることはありませんでした。
親方は、声を潜めて話します。
「カマラ、お前はこの村を出ろ」
カマラは黙って聞いてました。歩いている中で、この言葉を聞いたのは何度目でしょう。絶対に返事をしないカマラに、親方は続けます。
「ウルフだけが生きている状況では、目撃者が誰もいない中、カマラの無罪を保証できんのじゃ。新人が働き出したのは最近だ。どこに住んでいるのかもまだ知らん。あそこで働いとったわしらしか、あいつの存在を知らないんだ」
ぼろぼろと溢れて止まらない涙をそのままに、カマラは地面を見て歩き続けました。返事をしないカマラでしたが、自分ではきちんとわかっています。女のくせに解体場で働くのは、旦那に捨てられたのは異常だったからに決まっているという視線も知っています。本当は実力でこの立ち位置にいるのに男だらけの職場で同等の賃金をもらっているのは身体を売っているからだと言われていることも知っています。息子の身体が弱く生まれたのは珍しい黒毛の女と旦那が交わったからで、ウルフが薬に適応したのは珍しい黒毛だからと噂されていることも知っています。
だからこそ、病院を焼いて自分の息子だけ助けたという根も葉もない、しかし最高に刺激的な噂が流れたらどうなるでしょうか。
「───わしには、お前を守りきれん」
親方の、最後の言葉にカマラは足を止めました。親方に体を向けると、大きく頷きました。こんな状況の中で、カマラが笑顔で過ごしてこれたのは親方のおかげです。解体場にも、焼け死んだロムの父親ラズがいます。ウルフだけが生きていることを隠し通せるはずがありません。
これ以上、親方に迷惑をかけてもし親方に恩を返せなかったら死んでも死に切れません。
「わかったよ、親方。私たち、この村を出ていくわ」
◇
カマラは大きなリュックサックを背負いました。先ほどまで着ていたワンピースは燃やしてもらうことにします。キャスケットに長い黒髪をまとめて、首元まである上着を着込みます。脛まで覆うブーツも忘れません。
仕事着に着替えたカマラを、一目で彼女だと判断できるものは少ないでしょう。
ウルフはいつものように狼の外套を着て、カマラが昔使っていた手袋を嵌めています。爪で、誰かを傷つけないためのものでした。二人は手を繋いで、親方に言われた場所へ向かいます。そこには毎日新鮮な肉などの商品を村の中心部へ運ぶ荷馬車が待っていました。
親方の言うことには、それを乗り継いで遠くへ逃げる手配がされているとのことでした。長年の付き合いがある信頼している御者で、預かった手紙を渡すと、何も言わずに乗せてくれました。外からは見えないように、きちんと商品や布で隠してくれました。
全ての荷物を積み終わると馬車は、大きく揺れて走り出しました。馬の蹄の音が響きます。
カマラは今まで暮らした村へ心の内で別れを告げました。
ウルフは雨風から商品を守るために覆われた固い布の隙間から、流れゆく外の景色を 物珍しそうに見ています。その間、カマラはリュックサックを開いて、改めて入っているものを確認しました。今までの貯金と、親方からもらった多額のお金。肌着や、裁縫道具や身の回りのもの。そして干し肉などの大量の携帯食料です。
それを見ると、カマラは急にお腹が空いてきました。水筒と携帯食料を一つ取り出すと、朝ごはんを食べることにしました。
「ウルフは、何が食べられるのかしら」
隣で持ってきていた絵本を眺めていたウルフに聞いてみました。顔をあげたウルフは、外套に手を突っ込むと、赤い液体が詰まった透明な袋を取り出して、見せました。全部で五つ。全てカマラの両手に収まる大きさです。
「なあに、これ。不思議な袋……?」
「ゆけつパックだよ。ジーナさんが、昨日最後にくれたの」
「ジーナさんが?」
「うん。昨日ね、ジーナさんにきかれたの」
「何を聞かれたの」
カマラはウルフの手から渡った、そのパックを眺めています。閉じ込められたどろりとした赤黒い液体に手が沈み込むような不思議な感覚です。
「あなたはにんげんを食べなくちゃいきていけないけど、それでもいきていたいですかって」
にんげん、とは一体なんなのでしょう。ぼうっとただ赤を眺めていただけの頭を回して、考えました。ウルフはさらに言いました。
「おれはいきたいっていったの。そしたらジーナさんはね、どうしてもおなかが空いたときに、これをのみなさいって。昨日、ジーナさんがおれの口に入れてくれたものと一緒なの、すごぉく甘くてねおいしかったんだあ、味がねあったの」
カマラはゆけつパックに書かれた成分を確認しました。ゆけつパックは輸血パックでした。人間の血液が入ったものでした。ウルフの話を聞きながら、カマラは首を傾げました。人間が人間の血を飲むことがあるのでしょうか。食料が人間の血液、まるで狼ではないですか。いや、狼の方が豚や牛などの家畜だって食べます。でもウルフは、言っていたてではありませんか。食べるものには味がしない、お肉を食べると気持ちが悪い、と。
そして唯一、味がするものが人の血液。
そんなの、あんまりではありませんか。
血液を甘いだなんて、あんな鉄臭い液体を甘いだなんて。どうか勘違いでありますように。でも、勘違いだったら。勘違いだったら、ウルフにとって食事は苦痛でしかありません。
「おかあさん、これのんでいい?」
うっとりと赤い液体を眺めながら、ウルフは訊ねました。きっとあの甘さが忘れられないのでしょう。
「ウルフ、お腹空いたの?」
「うん!」
わくわくとした表情で、ウルフはカマラを見ています。もしここで断ったら、ウルフはきっと我慢するでしょう。また我慢させてしまうのか。
今まで外に出て元気に遊び回ることを我慢していたウルフ。
私のもとから離れて、治療に専念するのは寂しかっただろうに。周りが美味しそうに食事をする様を眺めながら、それを真似しながら砂を噛むように食べていたウルフはどんな気持ちだったのでしょう。
私が病弱に生んだばかりに、これ以上なにを我慢させることがあるの。
カマラは、封を切った輸血パックをウルフに渡しました。
こぼさないように、そぅっと口をつけたウルフは、とろけるような瞳で、幸せそうに血を眺めました。
「おいしい?」
「うん! すっごく甘くて、とろとろで頬っぺたが落っこちそう!」
慎重に慎重に、ふくふくの唇でその液体を吸い上げます。減っていく度に、悲しそうな顔をして、大切に飲みました。喉が小さく上下しています。
ウルフのその表情は、カマラの料理を頬張るそれと同じでした。口の端についた血を指で拭って、ぺろりと舐めました。鉄みたいな、決して甘いなんてものではない。こんなものを食事になんてできない。でもそれは、ウルフに人間以外を食せというものだろう。
人間の血だからといって、なんだと言うのだ。
輸血パックを飲めばいい。なくなったら買えばいい。
「これからは、ずっと甘いものが食べられるね」
もしウルフの美味しいが途絶えてしまうなら、人を殺してしまってもいいの、私の血と肉を食べさせてやればいいの。
ウルフが幸せならそれで、いいのです。




