ある母狼の話 Ⅳ
さて、カマラとウルフが離れて幾日が経ったのでしょうか。
カマラはウルフも頑張っているからと、より一層仕事に励み、親方を含め解体場の男たちにはらはらと心配そうな目線を向けられていますが以前の彼女とは違いました。
カマラが元気に働くことができた一つのこととして、共に働くロムの父親ラズからロムとウルフの訓練の様子を聞くことが出来たということもカマラの気力になっていまいした。女の手ひとつで育てているカマラと違って、ロムの様子を母親とレムが何日かに一回の頻度で見に行っています。
ウルフは、新薬の適正度が治療を受けている子ども八人の中では群を抜いており、いままでの運動量や筋肉量の差はありますが、ぐんぐんと成長を見せているようです。
昼の休みになると、カマラはその様子を喜々としてラズに訊ね少女のように笑みを浮かべながら聞いていました。
ある日のことです。カマラは、大きな獲物が入ってきたのでなかなか仕事が終わりませんでした。日も暮れかけ、今から病院に行ってもウルフに会えるかどうかはわかりません。病院の入り口あたりを、行ったり来たりしていました。
すると、ジーナが扉を閉めに外へ出てきました。
「カマラさん。こんばんは」
扉の鍵を閉めると、ぺこりと頭を下げます。
出会った頃は、表情も固かったジーナでしたが、今では微笑むとそれを返してくれるようになりました。
「ジーナさん、こんばんは」
ジーナは、挨拶を返したカマラをじぃと見つめます。しばらく見つめて、なかなか帰らないカマラに首を傾げて、
「ああ」
気づきました。
「ウルフくんに、会いますか?」
「本当ですか!」
ぱあっと目を輝かせたカマラは、にこにこと笑みを浮かべながら駆け寄ります。ジーナは建物に沿って、歩いていきます。裏の扉へ向かうのです。扉は表のものと違い、ぎいぎいと掠れた金属音が聞こえます。
「ここは、先生方しか使われないので……、少し立て付けが悪いんです」
苦笑いで言いました。
病院に入り、ジーナはカマラを連れて、病床へ足音を響かせました。今入院している患者は、ウルフたち八人だけです。他に遠慮する必要がないからでしょう。部屋に近づくに連れて、子どもたちの笑い声が聞こえてきます。
ジーナが部屋の少し手前で、カマラに話さないように口元に人差し指を持ってきました。カマラは何度か頷くと、足音を忍ばせます。
静かに扉を引きました。病依を纏った子どもたちはまだ、気づいていません。低ぅい、声で、ジーナは言いました。
「皆さーん。寝る時間過ぎてますよぉ」
「うわぁっ」「おわっ」「ひいっ」
突然話しかけられた彼らから、小さな悲鳴に似たものが溢れます。
ごめんなさぁい、と間延びした声で謝った少年たちのうち、一人がカマラに気づいて声をかけました。ロムです。
「カマラさんじゃん! どうしたのさ」
「ふふ、ウルフに会いに来たの」
ちらりとジーナの顔を色を窺うと、ベッドを軋ませて降り立ちます。他の少年たちは、カマラを見てこそこそと話していました。ぽろぽろと言われたことのある単語が聞こえますが、彼らの親からの受け売りでしょう。いつも通り聞こえないふりをしました。
ただ、ロムだけは普段通りにカマラに笑いかけます。
「あのねぇ、いま、ウルフは寝てるよ」
カマラの袖を引っ張って、奥にある吊らされるカーテンに囲まれた一角へと案内しました。どうやらとなりのベッドはロムのもののようでした。しっかり勉強もしているようで、上には開きっぱなしの本や手帳が置いてあります。
「ウルフね、本当にすごいんだよ。おれたちの方が大きいのに、もう追い付き始めてる。だから疲れやすいんだって」
「そうなの……」
カーテンを開けたロムは、カマラの背中をとんっと軽く押しました。それでも足は一、二歩進みます。
「ごゆっくり~」
カーテンが後ろで閉まりました。
視線を落とすと白いシーツの上に丸まった毛布の塊があります。端をそぅっと捲るとすうすうと穏やかな寝息を立てて、眠るウルフがいました。腰を落として頭や頬を撫でますが、起きる気配はありません。
ベッドの下にはほこりを被った絵本がありました。それを拾って手のひらで軽く叩きながら、棚へと戻します。
「そうかぁ、読む時間もないほどがんばってるのねぇ」
ウルフの頬を優しく撫でると、起こさないようにむぎゅうと抱きしめました。静かにカーテンをめくって、部屋を見ると皆カーテンを閉めて寝る準備に入っています。カーテン越しに灯りが透けて仄かに足元を照らしています。
扉の外では、ジーナが待っていました。
「お茶でも、と言いたいところですが立て込んでいますので、申し訳ないですが……」
病室に鍵をかけて、言いました。
「いえ、私はウルフに会えただけで充分ですから。ただ、……頑張りすぎていないか、少し心配」
困ったようにカマラは笑います。そんなカマラを玄関先へ送りながらジーナはウルフの日々の様子を語ってくれました。こんなに話す彼女を見たことがなかったカマラは驚きつつも、耳を傾けていました。
ウルフは一番、新薬に適していること。
不利な始まりであったのに、成長がとても早いこと。
書くことは難しいが、文字は読めるようになっていること。
近々、大きい子どもたちとの訓練に移行すること。
「どんな訓練なんですか?」
「力を上手く操ることが出きるように、対人での訓練です。物を相手にするだけではわからないことを学んでいくんです」
ジーナはカマラの手のひらをそっと優しく握りました。戸惑うカマラに話を続けます。
「ウルフくんたちは、まだこの“優しく握る”という行為が苦手なんです。こういうことをたくさん学んで、時に強く時に柔い兵士になれるように……っと、ウルフくんは解体屋さんでした、ね」
「ええ。…….たくさん、子どもたちのことを考えてくれているんですね」
「当然、です。治療の研究をさせてくれる村は、ここしかなかった。これが成功したときに、なにも失いたくない。恩を返すために、慎重に大切に子どもたちと研究を守るつもりです」
くすくすと音を立てずに、ジーナは笑います。するりと手を離し、
「少し、話しすぎました。では、カマラさん。また今度」
別れを告げました。
閉まる扉の向こうにカマラは手を振ります。恥ずかしそうに手を振り返すジーナは可愛らしく思えます。
「わたしも頑張ろうっと」
カマラの笑顔は満月に照らされ、仄かに光ってるかのように見えました。それからというもの、カマラはさらに仕事に精を込め、ウルフを思い過ごしました。時折ウルフの顔を見に行き、彼の成長を感じます。身体の運びがとても上手く、ぐんぐんと力を伸ばしていく様子が窺えました。
そんな日を過ごしているうちにウルフの八つの誕生日が近づいてきました。
ウサギを慣れた手付きで解体をしながら、おずおずと親方に、カマラは話を切り出しました。誕生日当日にお休みをいただくためです。
「もちろん大丈夫だ! 新入りが入ってきてくれたからな、カマラはこいつに仕事を教えてやれ。そうしたら、もっと休んでもいいぞ」
喜ぶカマラに、親方は新入りを前に引っ張り出しました。まだまだ場の雰囲気に慣れない彼はおどおどと親方とカマラの顔を見ています。
「新人育成ってこと? お給料は?」
「もちろん上乗せ」
「よぉっし! じゃあ、よろしくね、新人君!」
カマラはいくつか年が上であろう、その男に元気良く声をかけました。
そうして仕事を開始してしばらく手順を教えていました。覚えが早く、道具の使い方も見事なものです。今はカマラが昔使っていた道具で行っていますが、そのうちきちんと自分に合った道具を持てば、さらに伸びるでしょう。
「いきなり血を見ても、驚かないのね」
いままで何人か初めて解体する男を見たことがありましたが、言われたことをその通りに行う彼を見てカマラは感心しました。
「ええ、まあ……」
恥ずかしそうに彼は表情を緩ませるとえくぼが現れて、なんだか可愛らしく思えます。もう世間話ができてしまうくらい上達したので、カマラはたくさんお喋りをしながら楽しく仕事をしました。次第に打ち解けた彼とカマラは、ウルフのことや村のことを話していました。
さて、指導の甲斐があり、めきめきと上達した期待の新人のおかげでカマラは三日間もの休みを手に入れることができました。
誕生日の当日。カマラは特製のアップルパイを焼いて、できる限りのおめかしをしました。リンゴの蜜煮物は、普段より甘く。こどもたちが食べたときにしっかり味がするように、ことことと丁寧に煮ました。
大きな肩掛けカバンにはプレゼントを、籠にはまだ温かいアップルパイを入れました。そうしてすっかり支度を終えてしまったカマラでしたが、病院に招待されているのは夕飯時。まだ数刻ほど時間がありました。
「明日持っていこうと思ったけど……」
解体場に寄ってから、病院に行くことにしました。
ひとつ余分に作っておいたアップルパイをさっさと包むと、籠に入れて軽い足取りで家をでます。
「はぁい、みんな! 差し入れだよ~!」
カマラは解体場の扉を開けると、大きな声で言いました。奥から喜びの声が聞こえます。しかし、彼らは皆お仕事中ですのでなかなか!テーブルの回りには集まりませんでした。
それもそうね、と思ったカマラは解体の道具がしまわれている部屋に行きました。
「確か、この辺に……」
カマラがお目当てのものを探し当てたときでした。なにやら仕事場の方で騒いでいるようです。咄嗟にそれを鞄に放り、駆けつけました。
駆け付けた先には、あの新人がうずくまり、慌てた男たちが様子を見るように周りを囲んでいました。
「どうしたの?」
訊ねたカマラに、ラズが答えました。
「あいつが手をかっ捌いちまった!」
握り締めた左手からぼたぼたと血がこぼれ落ちています。顔面は蒼白。身体も震えていました。どうやら解体中に手が滑ってしまったようです。
大丈夫、大丈夫です。そうかすれた声で言っていましたが、あの血の量では手のひらは深く切り裂かれているでしょう。傷口に動物の血が入ってしまうと、炎症を起こす可能性があります。すぐに洗わせに行かせます。
「おい、カマラ! 今から病院に行くだろ、こいつ連れていけ!」
「はい!」
手洗い場から戻ってきた新人の手を、綺麗な布で包むとカマラと彼は、早足で解体場を出ました。
「カマラさん、こんな日にすみません......」
「いいのよ。かまわないわ。応急措置はしなくても平気?」
「ええ、手のひらの傷は握り締めていないと……」
そうしてしばらく歩き、病院に着きました。
しかし、表の入り口には誰もいません。
ベルを鳴らしましたが、その音が響くばかり。もう少し待っていればジーナか誰かが来るかもしれませんが、おそらくすぐには来れないでしょう。
「ああ、もう。直接行くわよ」
新人を連れ、裏の扉へ回ったカマラは扉を拳で叩きました。何度か叩いていていると、ジーナがひょっこりと顔を出します。
「カマラさん、表の受付のベルに気づけなくてすみませ……ん、えっ」
「こちらに回ってしまって、ごめんなさい。怪我人です」
「そ、うですか。わかりました。中へ」
カマラもついていこうとしましたが、ジーナは申し訳なさそうに口を開きます。
「カマラさん、すみません。治療のために、今日は帰ってもらってもいいですか?」
「え」
「ごめんなさい。いつもだれかの誕生日には幸運なことに、怪我人は来たことなかったのです。だけど今日は来てしまいました。本当にごめんなさい」
トンッと軽くカマラの肩を押すと、すぐに扉を閉めてしまいました。冷たく鍵の閉まる音が響きました。
「あの、まって。アップルパイとプレゼントだけでも───」
扉を叩きましたが、返事は返ってきませんでした。
しばらく扉の前で佇んでいたカマラでしたが、もうドアノブが動くことはありません。
どうして急に。そんな思いが募り、喉の奥を熱くさせ、目頭から涙が滲んできてしまいました。手の甲で拭うと、帰り道を辿り始めました。
抱えている籠がなんだか急に重く、リンゴの甘い香りすらなんだか胸に詰まります。
気の変わったジーナが再び追いかけて来ないかと、ゆっくりと歩いていましたが、もう森の小道を抜けようとしていました。
自嘲的に笑って、呟きます。
「このアップルパイ、どうしようかしら」
「おうちでたべよ!」
会いたい気持ちが堪えきれなくなり、とうとう幻聴が聴こえるまでになってしまいました。
なんだか、可笑しくなったカマラは言葉を返します。
「ふふ。ひとりで食べちゃおうかなぁ」
そう言って空を見上げました。木々に遮られ、ちらほらと落ちる夕焼け空。そして、木にぶら下がっている可愛いウルフ。
「え?」
両足を枝に引っかけて、ぷらぷらと揺れているウルフはカマラと目が合うと手をひらひらと振って、輝くような笑顔を見せました。
「おれのアップルパイでしょー! 食べちゃダメだよ!」
ひらりと飛び降りたウルフは、カマラに駆け寄って、抱き締めました。むぎゅう、とお腹が苦しくなるほどでした。行き場のない手が宙を漂います。
「ウルフ、どうしてここにいるの」
悪戯っ子のような笑みを浮かべて、カマラの周りをくるくると回ります。何も履いておらず、裸足の足は柔らかに敷き詰められた草をふかふかと踏みました。
「ぬけだしてきたのー! あのねぇ、ロムとおにぃちゃんたちとね、この前ね、みつけたの。それでね、おれがいちばん小さいから、おかあさんにあいにいってきなって! そのかわり、ココアはのめなかったの。だけど、いいの!」
にこにこ笑うウルフの頬をふにふにと両手で触りました。嬉しさが込み上げるものの、不安を抱くカマラは病院の方を見たりそしてまたウルフに視線を戻したりと忙しないです。
ウルフを病院に帰すべきか、それとも一緒に帰ってしまおうか。カマラは迷い、笑みを作りつつも額には汗が伝いました。
「おかあさん、かえろ?」
そんな気持ちを知って知らずか、ウルフはカマラの手を握ると家の方向に引っ張りました。思っていたよりも、ウルフの力は強くなっており、くんっと重心が前へと落ちます。慌てて一歩踏み出してしまいました。その様子を見たウルフはより一層強く、カマラの手を握りしめました。
カマラはその温もりを手放すには惜しいと思い、ウルフに優しく微笑みかけました。
「明日、一緒に病院に戻ろうね」
「うん!」
ウルフと一緒にいたいという気持ちが勝ったカマラは、家に連れて帰ることに決めました。羽織っていたマントを被して、手を引きます。
どうやって抜け出したのか、ヨーゼフやジーナに見つからなかったのか訊ねると、頬っぺたを赤く染めながら嬉しそうに話してくれました。病床に抜け道はあること、身軽で小さなウルフだから簡単にできること、カーテンを閉めて寝てるふりをしてきたこと。腕を振って表情をころころと変えて喋ります。ただ、カマラと繋いだ手を離すことはありませんでした。
家に近づくと、カマラは用心してウルフを扉の内に入れました。入院している子どもの中には、もちろん家族を恋しく思っている者もいますし、家族もその子どもに会いたいという気持ちを抱いています。そんな中で、息子が誕生日なのに病院に入れなかったカマラが息子がこっそり抜け出したからという理由だけで連れて帰る。これは、不公平なことでしょう。
そのようなことを簡単な言葉でウルフに伝えると、しっかりと汲み取ってくれました。この成長に、言葉遣いに、少し大人になった横顔を見ていると胸がきゅうっと音を立てました。しかし、そんなことを思っている場合ではありません。扉の鍵をしっかりとかけました。幸いなことに、カマラの家も病院を村から随分と外れたところにありました。余程のことがない限り、見られることはないでしょう。
「さあ、手を洗ってきて。ニ人きりだけどお祝いをしましょう」
ぽん、と叩くとウルフは元気いっぱいに返事をします。駆けていくと、しばらくして戻ってきました。ちゃっかり病衣から普段の服に着替えていました。しかし、日々成長し背も伸びた身体には少し窮屈そうです。ぶかぶかだった狼のマントだけがゆるゆると揺れています。
その姿に柔らかな笑みを向け、カマラは席にウルフを招きました。急いでリボンと花で作った即席のブローチを胸につけてやりました。
「ごめんね、ご飯は向こうが用意してくれることになってて…」
テーブルに並んでいるのは、明日の朝食用にあったサンドイッチに干し肉を挟んだものと豆のスープ、そしてすっかり冷めてしまったアップルパイでした。申し訳なさそうに言うカマラの手に自分の手を重ねたウルフは、首を横に大きくなる振りました。
「おかあさんと一緒にごはんたべられるだけで、おれはうれしいんだよ!」
となりにすわってよ。そう言って、隣に座ったカマラにむぎゅうと抱きつきました。熱くなる目頭を押さえなが、笑顔を作るたカマラはウルフと一緒に食事の合図を言いました。いただきます。
サンドイッチを手に取ると、ウルフも追ってサンドイッチを掴みました。が、そこから先に進みません。カマラの動きをじっと見ています。疑問に思いましたが、試しにかぶりつきました。干し肉は薄く切っていたので簡単に噛み切ることができました。それに、しょっぱいので少量でも濃い肉の味が舌に広がります。横目でウルフを見ると、大きく口を開けてサンドイッチをかじるところでした。ごくんと飲み込むと、カマラに輝くような笑顔を見せて、すぐに、
「げぇっ」
吐き出してしまいました。咄嗟にナプキンで口を覆ったので、テーブルも何も汚れることはありませんでした。慌てて何が起こったのかわからないカマラは、「大丈夫?」と声をかけるしかありませんでした。のどにつまっただけだもん!大きな声で、そう言ったウルフはばつが悪そうに汚物をカマラの手から奪うとくず入れに放ります。何もなかったかのように再び席につくと、カマラの言葉を遮るように豆のスープの入った器を取りました。スプーンで器用にすくっては口に流し込みました。ぷはあっと息をつくと、笑顔を作ります。
「おいしい!」
呆気に取られたカマラは何も言うことができません。ただただ眺めることしかできません。伸ばした手は、空虚を掻き、テーブルに静かに戻りました。
笑みを崩さないまま、ウルフは空っぽのお皿をカマラに差し出します。
「アップルパイ、ちょうだい!」
言われるがまま、カマラはお皿に切り分けたアップルパイの一片を乗せました。お皿を受け取ったウルフは、うっとりとアップルパイを眺めています。たっぷりのバターを練り込んださくさくのパイ生地。パイでできた籠に、蜂蜜でことことと長い時間煮詰めたリンゴは大きくごろごろと、たっぷり敷き詰められ、金色に輝いて見えました。バターの香ばしい匂いと、甘酸っぱいリンゴの香りを肺に溜め込み、勿体なさげに吐き出しました。
フォークでパイ生地をさくりと崩し、大きなリンゴの欠片ごとすくい上げると、ゆっくりと口に含みました。
一口。
もう一口。
味わうようにして、ウルフはお皿の上のアップルパイを平らげました。
フォークをテーブルに置くと、ウルフは顔を覆って何も言わなくなってしまいました。
「ウルフ、気分が悪くなったの?」
小さく震える背中を、ゆっくりと手でさすりました。どうしたのかわからない。何が最善なのかわからない。こんなことしかできない自分に腹が立って、情けなくて仕方がありません。ウルフの言葉が出てくるまで、カマラはずっと背中をさすり続けます。それでもウルフは顔を覆ったまま、動くことはありません。随分と重たくなった息子を抱き抱えると、ソファーに移動しました。膝の上に乗せ、顔を胸に寄りかからせました。
ゆぅら、ゆら。
今よりもっと小さくて、細くて、触れたら壊れてしまいそうなウルフにも、こうしてやったことを思い出して、なんだか無性に泣いてしまいたくなりました。背中をとんとん叩きながら
ゆら、ゆら。
ゆら、ゆ、ら。
次第にウルフの身体の緊張が溶けていくのがわかりました。ささやくように、再び何があったのか問いました。
蚊の鳴くような声で、応えます。
「おれね、もうね、おかあさんのアップルパイの味わからなくなっちゃった」
顔を覆う手を外して、カマラの首に回します。首元に押し付けられたウルフの瞳から、温かい涙が溢れてじわりと滲みました。
「ロムはね、おにぃちゃんたちはね、びょういんで出るごはんの味がわかるの。でもね、おれはわからないの。もうね、味がしないの。だからねおれはね、ロムの真似をしてるの。食べかたもね、おいしいことばもね、おいしいかおもね、ぜんぶ真似するの」
おれがおいしそうにしたら、せんせいたちは、うれしいっていうの。
そしてまた、しくしくと泣いてしまいました。
お肉を食べると気持ちが悪くなると言うのです。お腹の中がぐるぐると捻れるような、そのまま大きく揺すぶられるような。頭が締め付けられるような。そんな気分になるのです。
ふるふると身体を震わせて、ウルフは何度も謝るのでした。
お肉をぺってして、ごめんなさい。
おいしいが言えなくてごめんなさい。
おいしいかおができなくてごめんなさい。
カマラは黙って聞いていました。それと同時に、衝撃に襲われました。
味覚障害が出るとは言われていたが、こんなにひどいことはあり得るのでしょうか。
そっと手のひらをウルフの頬に押し当てて、涙を拭いました。
「ねえ、ウルフ。今まで、ご飯が食べられなくて怒られたことはあった?」
顔を上げることなく、首を横に振りました。
「ウルフがご飯をたくさん食べられるようになって、おかあさんはね嬉しかった。でもね、食べられないものを、無理して食べて欲しいなんて、おかあさんは思ってないよ」
小さく首を縦に振って、ウルフはカマラの言葉を聞いていました。
「それはね、先生たちも一緒なの。ウルフが食べられないものがあることを知ったら、先生たちはウルフとたくさんお話しして、ちがう食べ物を用意してくれたんじゃないかなあ」
「……ん」
時計を見ると、まだ夕飯時でした。カマラは、あと数刻したらウルフを病院に連れて帰ることを判断しました。それがウルフにとって、その身体にとって最善の案であると悟ったからでした。
「ウルフ、病院に戻ろう」
その言葉を聞いたウルフは、泣き腫らした顔を持ち上げてカマラを見据えました。潤んだ大きな琥珀色の瞳に、カマラの姿が映ります。なぜ、そんなことを言うのか理解し難いような表情でした。抵抗するようにゆっくりと横に首を振りかけましたが、カマラの眼差しに動きを止めました。
「なんで」
伏せたまつ毛に透明な滴が溜まって、落ちました。
カマラは手のひらでウルフの濡れた両の頬を包みます。
「おかあさんには、ウルフをこうしてギュってすることはできるけど、ウルフが困っている気持ち悪いお腹とか、味が分からなくなった舌とか、それを治すことはできないんだ。わかる?」
「うん」
「じゃあ、これを治せる人は誰でしょうか」
「ヨーゼフせんせい」
「ヨーゼフ先生はどこにいるかわかる?」
「……びょういん」
そう答えたウルフに、カマラはにっこりと笑いかけました。正解、と言いながら頭を何度も撫でます。
自分なりに納得したのでしょう。ウルフは何か言い聞かせるように、しばらく呟いていました。それから、頷くと、カマラの瞳を覗き込んできました。
「びょういん、いく」
しっかりとした口調で言いました。
えらいえらい、そう言うとウルフは嬉しそうに頬を赤く染めてカマラの頬に自分の頬をすり寄せました。しばらくの間、ぽかぽかと温いウルフの体温を感じていました。我慢強さは、変わらないことに少しの安心とそれを強いてしまっているのは私だと、実感しました。そして、カマラはウルフに聞きました。
「いいこのウルフ。今日は何の日か覚えてるかしら」
「おれのたんじょうび!」
「そう、と言うことは……?」
「プレゼント!」
表情を輝かせるウルフをソファーに腰掛けさせると、カマラは軽い足取りで贈り物を持ってきました。口元は緩み、待ちきれないということ思いがあふれてくるようでした。
カマラが背に隠した包みを、ウルフは視線を外せないでいます。
水色の綺麗な紙に包まれたそれを、手渡しました。リボンを解き、紙に指をかけて、爪を引っかけて繊維を切り裂きました。
中から出てきたのは、絵本でした。絵本をまず手に取って、ページをめくります。空の絵がたくさん描かれた美しいものでした。大はしゃぎでそれをめくりました。一通り、読み終わり、カマラに満面の笑みを浮かべます。
「ありがとう、すっごくきれい!」
カマラも嬉しそうに笑っていました。ただ、背中から出したもう一つの手にポーチのようなものがありました。
「なあに、これ」
「開けてみるよ、見てて」
ボタンを外して、中を覗きます。それでも何だかわからないようです。首を傾げます。カマラはそのポーチを一度、受け取るとミニテーブルに中のものを並べて行きました。ウルフは、真剣な顔で全て並べ終えるのを見ていました。
「本当は、もっと大きくなってからあげようと思ってたんだけど」
部屋の灯りを反射して、銀に光るのは丸みを帯びた刃でした。
「これって……」
「おかあさんがいちばん初めに使ってた、解体道具」
ウルフは、次第に紅潮する頬を抑えて次々に出てくる包丁を眺めています。子ども特有の甲高い喜びの声をあげて、ぴょんぴょんと跳ねています。
「さわってもいいの?」
カマラに抱きつきながら、ウルフは言いました。自分が実際に刃を使ったのは十三のときでした。少し悩んでから、答えます。
「今日は見るのと、腰に吊るだけにしましょう。次に、ヨーゼフ先生からおうちに帰っていいよって言われたときに、仕事場に行って一緒に使おうかな」
「使っていいの!?」
一瞬、曇りを帯びた表情でしたが、すぐに明るく輝きました。ウルフは気づいたのです。そう、つまり早く身体の使い方や力の使い方を学んで退院することができればカマラの仕事を見ることができるのです。ポーチが吊り下げられた太いベルトをまだ細い腰に巻かれながらウルフは考えました。カマラの手が離れると金属の冷たい重さを感じます。
「ふふ、まだ大きいわね」
膝をついていたカマラはその姿勢のまま、目を細めながら眺めています。そんなカマラの手をウルフは握ります。ほんの少し、握る力が強く思わず顔を歪めてしまいそうでしたが、それを抑えました。ウルフは言います。大きな声でした。
「おかあさん、もどろう! はやくヨーゼフせんせいのところ行って、ちりょうしてもらわないと!」
琥珀色の瞳に光を散らし、彼は言いました。もっとはやく身体を強く、上手く使えるようになれば、カマラと同じ時間を過ごすことができるようになると気づいたのです。そこからのウルフの行動は早いものでした。
カマラが急いで準備するものの、その周りをぴょこぴょこと跳ねるように様子を見ては急かすのです。解体道具を渡したのは、少し早かったかしら。カマラはそう思いながら家を出る支度をしました。
ウルフはすでに狼の外套を羽織って玄関で待ち構えています。時折腰に下がる道具をうっとりと眺めては、お砂糖で頬がとろけてしまいそうな笑顔を浮かべるのでした。
◆
心地の良い夜風が外套の隙間を縫って肌を撫でました。普段から人のいない道でしたが、夜も深くなるとより一層静まりかえっていました。二人の瞳のように真ん丸な満月が夜空にぽっかりと浮かび、地面に薄く影を落としています。
手を繋いで揺らしながら二人は森の小道を進んで行きました。灯したランタンもそれに合わせてゆらゆらと揺れ、木々や小道に光の筋を記していました。それを楽しそうに辿るウルフをなだめながらもカマラの口元には笑みが浮かんでいました。
ウルフがふとカマラに訊ねました。
「おかあさん、かってに病院でたのばれたら、おこられるかなあ」
ようやく、病院を勝手に抜け出してしまったことの恐ろしさに気付いたようです。さっきまでのうきうきと弾んだ気持ちはどこへやら。外套の端をぎゅうと握りしめていました。そんな様子のウルフに、思わず笑いがこみ上げてきたカマラでしたが、それをぐっと抑えます。
「そうねえ、きっとジーナさんにも叱られるわね」
言いながら横目でウルフを見ると、あわあわと口を震わせていました。きっと、ジーナにこっ酷く叱られたことがあるのでしょう。悪いことをしたという自覚を持ったことを褒めてから、言いました。
「ふふ、今回はお母さんも悪いから、一緒に叱られましょう」
カマラの言葉に、ウルフは諦めたように頷きました。
ランタンを掲げて、カマラは当たりを照らします。足音が硬いものに変わり始めました。そろそろ病院が近づいてきているのです。薬品の臭いがあたりに漂っています。ウルフが急に足を止めました。このきつい匂いに気分を悪くしたのでしょうか、それとも叱られることに怖気付いてしまったのでしょうか。
ウルフの顔を覗き込むと、どうやら違うようです。大きな目より一層丸く開かれています。カマラが物を言う前に、ウルフは指を灯りの先に向けました。それから、内緒話をするように言いました。
「おかあさん、あそこにだれかいるよ」




