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ある母狼の話 lll

  

 仕事終わりのカマラは、くたくたに疲れていました。普段は眠ってしまえば疲れは吹き飛び、次の日は元気に獣を捌きます。しかし、ここ一月ほどは前の日の疲労を抱えたまま仕事場に向かっていたのです。

 ぼう、とテーブルの端を眺めたまま豆のスープを口に運びます。スプーンで皿の底に残った豆の残骸を、最後に口に押し込むと椅子から立ち上がりました。台所に立ち、一人分の食器を洗います。

 一人分の、洗濯物も畳み終わっています。

 一人分の、明日の朝食の準備も済みました。

 あとは湯を浴びて、一人でベッドに横たわり、一人で眠り、一人で夜明けを迎えるのです。

 ウルフが前の満月の夜に、ヨーゼフに連れられて入院してから、もうそろそろ次の満月の日が訪れようとしていました。

 

「ウルフ、......」


 仕事終わりに病院に訪れ、何度かウルフに会うこともできました。徐々に丈夫な身体になっているのでしょう。会う度に顔色も良くなる息子に、カマラは喜びました。

 しかし、夜に一人で家にいると寂しさが募ってきます。毛布で身体を覆っても、あの温もりはないのです。

 首にかかる細い黒髪。

 胸元にかかる小さな寝息。

 腹の辺りで埋もる華奢な体躯。

 カマラはそれが恋しくて恋しくてたまりませんでした。

 そんな胸に穴の空いたような寂しさを抱えて、カマラは仕事に明け暮れました。兎を捌いて、鹿を捌いて、熊を捌いて、捌いて、ばらして、解体して、そうして過ぎ行く日々で、穴を塞いでいきました。



 そして、ウルフがいなくなって二度目の満月が昇る日のことでした。

 長閑なお昼過ぎです。


「カマラ。今日は帰れ」


 早朝からやっていた、鹿の解体が終わったカマラに親方は言いました。


「わたし、なにか失敗しましたっけ......」


 血で汚れたナイフを拭きながら、カマラは聞きました。


「いや、そんなことはない。最近仕事を回しすぎた」


「なんだ、そんなこと! まだまだ大丈夫です!」


 にっこりと笑みを向けると、カマラは残りの刃物の手入れを進めます。親方を含め、仕事場の男たちはカマラが無理をして笑顔を振り撒いていることに気づいていました。娘のような肌も荒れ、絹糸のような髪も無造作に縛っているだけ。ウルフがいると、いないとではこうも違うのか、と男たちに思わせる姿です。

 いつもはなんともなしに視界に入っていた花瓶の花も、今や萎れて茶色い花びらが土塊のように傍らに落ちています。

 なんとかして、カマラを帰らせたい彼らは脳を回転させました。そのうち、ロムとレムの父親であるラズが保存庫から鹿肉や兎肉の塊を持ってきました。

 親方はそれを見ると、カマラの手からするりと流れるように刃物を叩き落として回収し、


「あっ」


という間に、ラズが鹿肉と兎肉を握らせました。


「え?」


 親方に担がれて、更衣室に放り込まれたカマラは、ぽかんと丸く目を開いたまま、閉まる扉を眺めていました。

 はっと気づくと、飛び上がるように扉に近づき、兎肉を握った拳で扉を打ちました。


「ちょっとー! どういうこと!」


 扉に寄っ掛かりながら、親方は大きな声で聞こえるようにカマラの質問に答えました。


「早く着替えて(うち)へ帰れ!そんで明日も休め!」


 周りの男たちも「そうだ、そうだ!」と、口を揃えて言葉を投げ掛けました。唇を尖らせて文句を言いながら、カマラはしぶしぶと着替えました。ふと見た鏡に映った自分は、だいぶやつれて見えました。


「大変......、これじゃあウルフに心配されちゃうじゃない」


 頬を撫でていた手を降ろすと、カマラは親方たちの気遣いを素直に受け取ります。鹿肉と兎肉を鞄に詰めると、扉を開けました。

 カマラの怒りが治まっていないのではないかとびくびくしていた男たちは作業をしながらも、じいっとカマラの様子を窺っています。

 わざと仏頂面で出てきたカマラは、ずんずんと大股で玄関口へ行き、取っ手に手を掛けました。皆の視線を受け取りながら、カマラは外に出ていきます。それから、ぶわりとスカートを翻して皆の方を向き、花が咲くような笑みを見せました。


「みんな、ありがとね! 私がいなくなって、お仕事が大変になっても知らないんだから!」


 満面の笑みを残して、カマラは仕事場を出ていきました。カマラの様子にほっとした男たちは、自分の作業に戻りました。






 さて、早く仕事場から帰されたといってもカマラがやることはいつもと変わりませんでした。昼食にパンを胃に入れ、さっさとシチューの下ごしらえを終え、煮込んでいる間に洗濯物を取り込んでしまえば、あとはソファに腰を降ろすだけ。これが明日も続くのでは、どうすれば良いのかカマラにはわかりません。


「ウルフは私のいない間、どう過ごしていたのかしら......」


 首を捻りながら、肩掛けを羽織ると庭に出ました。仕事場の花を取り替えることに決めたのです。水をやりつつ、花を詰んでは籠に入れ、歩いていました。


 ウルフは、こうして庭を巡りながら私の帰りを待っていたのだろうか。


 そう考えながら、カマラは空を見上げていると、ウルフが自分を呼ぶ声が聞こえてくるようです。会いたいなぁ、と無性に胸が焦がれてきました。

 さらに鮮明に、かわいい息子の呼ぶ声が聞こえきました。


「おかぁさぁあぁん! たーだーいーまー!」


 こんなにはっきりと声が聞こえる訳があるまいと振り返ったカマラの目には、こちらに向かって走り寄る息子が映りました。

 瞬間。どうっ、と重い衝撃が腹に走りました。赤、黄、桃色の花と籠が青い空を背景に浮かんでいました。それから重力に従って、草の上に倒れるカマラの上に降って来ました。籠が頭を逸れて落ちたのは不幸中の幸いでしょう。

 カマラは呻き声を上げました。


「痛た......」


「痛いねぇ」


 にこにこと笑いながら、今は入院しているはずのウルフが腹の上にいました。ころんと身体の上から真横へ寝転がって、思考回路が停止しているカマラの顔を覗き込んでいます。自分と同じ色の髪には天使の輪っかのような光がかかり、潤んだ琥珀色の瞳、ふっくらと赤みを帯びた頬と、並んだ小さな歯。ゆっくりと手を伸ばして、頭のてっぺんから顎下まで優しく触れました。


「くすぐったぁい」


 高い笑い声を上げるウルフを、カマラは両手を伸ばして力一杯に抱き締めました。


「ウルフ......、おかえり」


 カマラはウルフがいなくなって、蓄積した疲れや寂しさが蒸発したかのように消えたのを感じました。温かい小さな身体、愛しいウルフ。


「ぼくも寂しかったん、だぁ......う」


 さっきまでの笑顔は消えて、顔を真っ赤にしたウルフの目の縁からぽろぽろと透明な雫がこぼれました。カマラの寂しさと同様に、ウルフにも母から離れる不安やたくさんの寂しい気持ちがたまっていたのです。

 胸元に顔を押し当てて、ウルフはうわんうわん泣き始めてしまいました。

 むぎゅむぎゅとウルフの頭に頬を乗せて、しばらくの間、そうしていました。夕方の風が吹き、ウルフの耳が冷えていることに気づいたカマラは、はっとして立ち上がります。

 ウルフを抱えたまま、カマラは部屋に戻りました。

 花を入れ直した籠をテーブルに置いて、ジーナに会釈をして、足を止めて、首を傾げます。

 再びテーブルに目をやると、小さな微笑みを浮かべたジーナが長椅子の隅っこに座っていました。


「お邪魔してます、カマラさん」


「い、いつからいたんですか?」


 疑問を浮かべながら問いかけるカマラの質問にジーナは答えました。


「ウルフくんと、一緒に」


「えっ......、そういえば鍵はどうしたの?」


 カマラとウルフは母子二人の暮らしをしていましたので、戸締まりはしっかりと行っていたはずです。なぜ、ウルフは、そしてジーナは入ってくることができたのでしょう。

 笑顔を貼り付けたままジーナは髪に手を掛けて、ピンを外します。それから手袋を着けた手を伸ばして、カマラに見せつけました。


「ピンであけたの?」


 こくん。小さく頷いたジーナに、カマラは戸惑いつつウルフをソファに座らせました。

 すぐにお茶を用意すると、ジーナに差し出します。

 向かいのソファに腰かけると、隣のウルフがよじ登り、膝の上に座りました。満足気な笑みを浮かべています。


「お砂糖、必要だったらこちらに......」


「ありがとうございます」


 角砂糖をぽちゃん、ぽちゃん、ぽちゃん、と落とします。ぽちゃん、ぽちゃん、ぽちゃん。まだ落としています。

 六つ落としたところで、ティースプーンを手に取り、くるくるとかき混ぜました。

 驚いているカマラに、ジーナは微笑えみます。


「味、感じにくいんです」


 一言残すと、こくこくとティーカップの縁に唇を当てて紅茶を飲みました。

 カチン。音を立ててティーカップをソーサーの上に置くと、ジーナは気づいたように鞄から書類を出します。


「こちら、ヨーゼフ先生からです。多忙なため、私が代わりにご説明いたしますね」


「はあ」


 カマラは羅列する文字を一通り読みました。読み終わると、視線をジーナに移します。ジーナは、カマラに笑みを送ると口を開きます。


「書かれている通り、新しい治療の提案です」


「えっと......、わたしとヨーゼフ先生とのお話の中ではウルフへの治療では生活に困難がでない段階まで身体を丈夫にするということでしたが......、その上の段階と言うことですよね」


 顔の横にこぼれる黒髪を耳にかけながら、カマラは訊ねます。ジーナはこくこくと頷きました。


「そうです。簡単に言うと筋肉の密度を普通の人の数倍にするんです。例えば......」


 ジーナはきょろきょろと辺りを見渡し、ふむぅと少し考えたあと席を立ちました。長椅子の後ろに回ったかと思うと、小さくしゃがみます。それから、白い細腕一本でその長椅子を持ち上げました。


「へ?」


 間抜けな声をあげるカマラに、ジーナは満足気な笑みを向けます。長椅子を置き、何も起こってなかったような動きで座りました。ティーカップを口に運び、一口口に含みます。


「こんな感じです。この村には、兵士を志望する子どもが多いと聞きました。そこで、新しい薬を使って身体強化を図ろうと言う話がありまして。年齢が低いほど効果があるので、掲示板にも募集を貼らせていただきました。ご存知でしたか」


「い、いえ」


 仕事に精を尽くしていたカマラには、掲示板を見に行く余裕はなかったので、そんなことは知りませんでした。素直に首を横に振ります。

 ただ、まだ先程見た驚きが取れないカマラをそのままに、ジーナは話を続けます。


「ありがたいことにたくさんのご応募がありまして、適性検査をして下は十歳から上は十八歳の七人のお子さんにその治療を施すことになりました」


「それをなぜウルフに?」


 カマラの膝を枕にして寝入ってしまったウルフの髪を撫でながら、じいとジーナの目を見ました。


「ロム......、という名の少年が選ばれまして。偶然、院内で出会ってしまったのですよ。そうしたら、ウルフくんもやりたいと言って聞かなくて」


「そんなことが」


「訓練をもっと頑張るという約束をして、適性検査を行ったのです。すると、驚くほどウルフくんの身体は薬と合っていたのですよ。そちらの、ええ、裏に結果が」


 カマラはその結果を眺めますが、よくわかりません。助けを求めるように、ジーナに紙を渡します。さすがヨーゼフの助手です。丁寧にわかりやすいように教えてくれました。

 確かに、これを見ていると指し示されたかのように数値がぴったりです。幼いほど効果があると言うのなら、ウルフはきっととても強い兵士となるのでしょう。しかし、気になるのはここではありません。


「身体に支障はないんですか」


 ウルフがヨーゼフのもとで治療を始めたのは、虚弱な身体だったからこそ。その治療と平行することでなにか身体に影響があるのだったら本末転倒です。


「こちらを見てください。薬の成分と訓練の内容です。今ウルフくんに施している治療薬を元にして作っているのです。治療期間が長くなりますが、そちらでの副作用と同じで軽度の味覚障害と歯、爪の硬化が見られます」


「そうですか......」


「どういたしますか」


 カマラは、ウルフを見てジーナを見て、それから震える自分の手に気づきました。もう一度紙に目を遠そうとしますが、止まります。


「一晩......、ウルフと考える時間をいただいてもよろしいでしょうか」


 ジーナは、少し考える素振りを見せてから鞄のポケットからいくつか小瓶を取り出すとテーブルの上に並べていきます。


「ええ、そのつもりで来ましたので。大丈夫ですよ。では、明日の夕刻までにウルフくんと病院にお越しくださいね。こちら、お薬です。ご飯前にこちらを、ご飯後にこちらを一錠ずつ飲ませてくださいね」


 では、と立ち上がったジーナは頭を下げると出ていきました。ウルフを抱いたまま彼女を見送ったカマラは、再びソファに腰を下ろします。テーブルの上の薬と、書類を見て頭を押さえました。


「はあ......」


 思わず大きなため息が漏れてしまいます。しばらくそうしていると、ウルフがうっすらと目を開きました。くぅくぅと、可愛らしい音が彼のお腹から聞こえてきます。自ら発した音に驚いたウルフは、目をまんまるく開いてカマラの顔を見ます。その様子に、カマラは思わず笑いがこぼれてしまいました。

 彼がやりたいことを、させてあげたいなぁ。

 漠然とした思いと、愛おしさがあふれ、カマラはウルフを抱き締めます。


「ご飯にしよっか」


 ひとまず、夕ご飯を食べることにしました。ウルフの器を手に取り、よそいます。


「パンも出すから、先に食べてなさい」


 眠気眼のウルフは、スプーンいっぱいに大きなとろとろのお肉や柔らかくなった野菜を頬張ります。久々に口にした母のシチューに頬っぺたがとろけ落ちそうになりました。


「ぼくね、やっぱり、おかあさんのシチューだいすき」


 切ったパンをお皿にのせて持ってきたカマラに言いました。


「そう、よかった。たくさん食べれるようになったんだって?」


「うん! せんせいにも褒められた!」


「本当ねぇ、すごいわ」


 シチューだけでなくサラダにも手を伸ばすウルフに、カマラは驚きが隠せません。感心もしてしまいます。サラダを一口食べて、ウルフはカマラお手製のドレッシングを追加でかけます。そしてまた頬張って、食事を楽しんでいました。

 楽しんで食べているうちに疲れて、ぐずぐずと泣き言を言っていたあの小さな子はどこにいってしまったのでしょう。

 そこでカマラは気がつきました。


「あら、ウルフ。ちょっとドレッシングをかけすぎじゃない?」


「いいのー」


 身体に影響はないのかしら。明日、ヨーゼフ先生に聞いてみないといけない、などと考えながらカマラはシチューを口にし、


「しょっぱい......!」


 眉をむぅうっと寄せました。コップの水を飲み干すと、再びシチューを口にします。思案顔で肉を噛み、飲み込みます。


「塩漬けだったのね、塩抜きしてなかった......」


 口元を押さえて、久々の不手際に苦い顔を浮かべました。自分一人で食べるつもりだったので、しっかりと確認していなかったのです。それから、はっと気づいたようにウルフへ視線を移します。


「ウルフ、辛くない?」


「ぜーんぜんからくないよー!」


 ぱくぱくと、美味しそうに食べています。頭のなかにぶくぶくと疑問が湧いてきますが、ジーナの言葉を思い出しました。そうです。治療の副作用です。

 軽度の味覚障害。

 そのせいで、なかなか味が感じられないのでしょう

 おいしい、おいしいと言って食べる息子を見て、不安が薄れるのでした。

 微笑んだカマラはパンを千切ると、シチューに浸して食べました。


「まねっこするー!」


 ウルフもそんなカマラの食べ方に倣って、平らげていきます。入院する前と比べて、ウルフはよく食べました。もうあの小さな器は使わなくてもよいかもしれない。そうカマラは考えました。

 ただ、たくさんの薬を慣れた様子で、しかし苦しそうに飲むウルフを見て、なんだか胸が苦しくなりました。治療の段階を上げるということは、薬の量や訓練の大変さも、上がるということなのです。

 もうすぐ、七つになるとはいえ彼自身は理解をしているのでしょうか。

 湯を浴びた後、カマラは本題に移りました。

 ウルフを隣にベッドに腰かけてさせます。不思議そうにじぃ、と顔を見つめてくる琥珀色の瞳に自分の姿が映っていました。戸惑いが見えます。これでは、この子に要らぬ心配をさせてしまうかもしれません。

 唇をきりりと噛んで、引き締めました。


「ウルフ、あのね」


「なぁに?」


「お母さん、お話ししたいことがあるんだけどね」


「うん」


 カマラは、ウルフの瞳から視線を逸らさぬように、話します。


「今、ウルフは、元気な身体になれるようにヨーゼフ先生のところでがんばっているよね」


「うん」


「でも、ウルフはロムくんと一緒に、もっと治療を頑張りたいのよね」


「うん! そうなの、もっとつよくなるの」


「そのためには、もっともぉっと頑張らないといけないんだって。お薬も、訓練もね、たっくさん増えてしまうの。わかるかなぁ」


 ウルフは、カマラの気持ちを知って知らずか、眩しいほどの笑顔で頷きます。

 カマラの腕を取り、頬を擦り付けました。ふにふにと柔らかい熱が腕から伝わります。髪をくしゃりと乱して、再び笑みを向けました。


「ぼくはねぇ、うれしいの! おそとではしれるんだ。ごはんも、のこさないでたべれる。おふろも、今日はゆっくりはいれたでしょ」


「そうね......」


 それでも、カマラの頭には本の少し小さな棘が刺さっているような、妙な感覚が消えません。

 なぜ、治療の段階を上げたいのでしょう。

 今のままの治療で、日々は満足できるのではないのでしょうか。

 沸々と沸き上がるこの感情を、取り払いたくて仕方がありません。しかし、無理なのです。できないのです。不可能なのです。

 カマラは、ウルフと過ごしていたいのですから。

 表情を保っていられなくなってしまった、その顔を見てウルフに不安の影が射します。

 無理矢理に笑みを作ると、ウルフの視線を遮るように頭を撫でました。


「......ウルフは、ロムくんと一緒に、兵士になるんだもの。それくらいの治療なんて、がんばらないといけないもんねぇ」


「ちがぁう!」


 カマラの腕を振り払ったウルフは、ベッドの上に立ち上がります。ふかふかとした毛布は足元が不安定になるのですが、しっかりと立っていました。


「ないしょだけどね、兵士になるんじゃないの」


 そっと、耳元に口を寄せると言いました。



「ぼくね、おかあさんといっしょに、解体屋さんになるの」



 カマラは予想外の言葉に、おもむろにウルフを見ました。


「......本当に?」


 嘘をつかないことはわかっています。しかし、信じられないのです。周りに暮らす人たちから、解体屋、しかも女であるカマラがやっていることについて、あまり良いように思われていないことを、子どもながらに敏感に、ひしひしと感じているということ。それをカマラも知っています。


 それなのに、


 おかあさん?とウルフに声をかけられて、カマラはむぎゅうと抱き締めます。


「そっか、そっか、そっかぁ、そうなのねぇ、ウルフ」


 熱くなる目頭を気づかれないように押さえます。耳の辺りから、頭のてっぺん、爪先まで熱が広がりました。

 ウルフは突然のカマラの様子に、慌てたようにお喋りを続けました。


「あのね、あのね、それでね、ロムにいちゃんがね、おとうさんが解体屋さんなのね、それでね、解体屋さんになるにはね、ロムにいちゃんとおなじくらい力持ちにならないとだめだって」


 そうか、とカマラは納得します。ロムやレムの父親と、カマラは同じ解体屋です。二人がやってきたときに、ウルフはたくさん遊び、たくさんお喋りをします。そのときに訊ねていたのです。

 そんな強くて憧れの存在であるロムが、治療をやるというのでしたら、ウルフも行わないわけにはいきません。


「ウルフ、頑張ろうか」














 朝が訪れました。

 窓から射し込む光がカマラの、目蓋にかかりました。身動ぎをして、重たい身体を毛布中で伸ばしました。なんだか今朝は頭がすっきりと冴えています。それもそのはずです。

 目を開くと、隣では小さな寝息を立てるウルフがいました。きゅう、と身を縮めてカマラの腹のあたりに収まっている小さな温かいウルフ。日に照らされた産毛が金色に光って、輪郭が溶けているように見えました。


「ウルフ、おはよう」


「んぅ......」


 まだ眠た気に目蓋を擦り、起きる様子はありません。揺さぶろうとして、手を伸ばしました。しかし、その手を宙で止めます。

 夕方になれば、ウルフはまた病院で過ごすことになるのです。もう少し、このままでいいか。そう考えて、カマラはウルフをさらに抱き寄せると、ゆるやかに微睡みに落ちていきました。








 夕日が斜めに射し込む部屋に、カマラとウルフは案内されました。質の良いソファに腰掛け、ヨーゼフが来るまで待っています。足元にはジーナからもらった書類に書いてあった通りにウルフの肌着やタオルがはいって膨らんだ鞄が置いてあります。

 ジーナから出された紅茶に口を付けて落ち着こうとしますが、カマラの緊張の糸はなかなか(ほぐ)れません。


「わざわざ、出向かせてしまってすみません」


 扉から現れて向かいに座るヨーゼフは、言いました。

 寝癖で跳ねる前髪を気にして指で弄っていたカマラは、ぴんと背筋を伸ばして姿勢を正しました。それに倣って、ウルフも隣で姿勢よく座り直します。

 

「いえ、お構いなく!」


 数枚の紙をテーブルの上に広げます。その横に、ことりと一本の万年筆を置きました。

 紙は誓約書でした。

 普段はたおやかに笑うヨーゼフの表情は、真剣です。


「早速ですが、本題に入りますね。カマラさん、ウルフくん、治療の段階は上げますか? 承諾していただけるのであれば、こちらに署名を」


 カマラは迷いませんでした。

 万年筆を取ると、署名欄に自分の名前と息子の名前を書いていきます。もちろん、契約書の内容もしっかり読んでから、です。

 特に不思議な点や、おかしな点は見られません。心臓がどくどくと脈打つのを感じながら、全てに署名を終えました。

 顔を上げると、ヨーゼフはとても真剣な眼差しをカマラに向けています。カマラはごくりと唾をのみました。


「よろしく、お願いします」


 深く、頭を下げて差し出します。

 ウルフも細い髪を揺らして、頭を下げました。


「ありがとうございます」


 カマラのサインを確認したヨーゼフは、にこりと穏やかに微笑みました。


「カマラさん、ウルフくん、一緒に頑張っていきましょうね」


 改めて施設の紹介をしましょう、と契約書をしまったヨーゼフは立ち上がりました。荷物はジーナがウルフの泊まる病室へと運んでくれるとこのことです。

 ウルフと手を繋いだカマラは、ヨーゼフの後についていきました。

 以前来たときと特に変わらない、受付や診察室、病棟、治療室、手術室をぐるりと一通り回ります。


「あら、先生方が増えました?」


「ええ、ウルフくんが始める治療に携わっていた先生を全員こちらへ呼び寄せたんです」


 ヨーゼフは眼鏡の位置を正します。

 それからまたしばらく歩いて、今までカマラもウルフも案内されたことのない扉の前で止まりました。


「ウルフくん、明日から君はロムくんたちとここで治療するんだよ」


 ヨーゼフが、四角い箱のようなものに、首から下げていた名札をかざすと鍵が開く音がしました。

 それにカマラはひどく驚いた様子です。


「な、なんですかそれ」


「うちの村で作られたものなんですよ。人に役立つ物を作るのが私の村の性分なんです」


 他にどんなものがあるのか気になったカマラですが、駆け出したウルフに気が取られてその機を逃してしまいます。ここにはさらに、多くの部屋がありました。どの部屋もガラスの壁に覆われており、扉には札がかかっています。そのうちの一部屋に近寄ったウルフはガラス越しに見えるロムに手を振りました。


「ロムー! 僕もこれから一緒だよーう!」


 しかし、ロムはこちらを見ているようなのに気づきません。マジックミラーと言って、これもヨーゼフの村の研究の末にできたもののようです。なんと、驚くことにこちらからは様子を窺うことはできますが、室内からですとただの鏡に見えるそうです。


「ウルフくん、今日は見学だけだね」


 そういってヨーゼフは様々な部屋に案内しました。治療室や手術室以外にも村の中心にある病院では見かけたことのないものもありました。

 例えば部屋の過半数を占めるのは訓練室。ここでは、薬物を投与したことによる身体能力の上昇を測るところです。今は個人訓練ですが、そのうち複数人での訓練も行うようでした。

 例えば、廊下の奥にある研究室。ここでは、外の村からやってきた先生たちがこの治療のための研究を行う場所です。いでんし、というものがたくさん関係しているらしいのですが、よくわかりません。

 ほかにもいくつかありますが、カマラにもウルフにもちんぷんかんぷんなものばかり。ただ質問をするとヨーゼフは、丁寧に答えてくれました。

 すべて周り終わると、とうとうカマラとウルフの別れの時間になります。


「ウルフを、よろしくお願いします」


 カマラが頭を下げると、ヨーゼフはウルフを抱き上げます。


「私たち、研究者の命に代えてでも、ウルフくんの安全を保障いたします」


 ヨーゼフの噓の影のない瞳は、カマラを心の底から安心させました。









 ウルフ、頑張ってね。


 

 

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