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ある母狼の話 ll


 夜が明ける前。

 カマラは息子の額に軽く口づけをすると、部屋を出ていきました。朝はまだ肌寒く、カマラは息子の眠る毛布の上に狼の毛皮をかけました。


「行ってくるね」


 囁くように言って家を出ると、解体場に向かって歩いていきます。昨日、早く帰らせてもらった分、朝の当番はカマラの仕事です。親方が来るまでの数時間、カマラはしばらく朝の空気に浸りながら解体場の準備をします。殆ど、こんな朝早くから解体場に、獲物を持ってくる者はいませんが、時折仕事の早い猟師が獣を仕留めてきます。

 しばらく歩き解体場に近づくと、見慣れない人影がありました。てくてくと近づくにつれ、様子が少し窺えます。解体場の入り口の前で、コートに身を包んだ人影が膝をついていました。大きな荷物を抱えています。


「誰ですか」


 カマラは護身用のナイフに手をかけたまま、訊ねます。覗き込むように男の脇から、カマラは顔を出しました。ナイフは相手に気づかれないよう、そぅっと脇腹に添えました。何かあれば致命傷くらい与えられるでしょう。

 コートのフードに隠されていたのは、若い男の顔でした。眼鏡の下にある瞳は揺れ、非常に困惑したような表情でした。


「森で、急に撃たれて……、どこでもいい、ベッドかなにか横にできる場所はありませんか」


 素早く視線を動かしますが、どうも怪我をしているようには見えません。あ、とカマラは、男の腕に抱かれているのが荷物ではないことに気づきました。

 女でした。

 肩に当てた布から赤黒い血が滲み、顔も青白く染まっています。

 男もそれと同じように青白い顔をしており、不安が見てとれます。


「大変……っ。流れ弾に当たったのね」


 カマラはポーチから鍵を取り出すと、急いで扉を開けました。咄嗟に開けたはいいものの、ここは解体場。ベッドなんて、ましてや清潔なものはありません。あるといったら、獣を包むために常備してある、シーツくらいです。それを普段仲間と一緒にご飯を食べるテーブルに何重かにしてかけました。女を横たえて、カマラは彼女の汗を拭います。

 短い呼吸を繰り返し胸が上下に動く速さに、目がいきました。肩の傷口はスコップで掘ったかのように、抉られています。どうやら、銃弾はかすっただけのようです。しかし、出血は酷いものでした。


「酷い……。大きな病院は、隣の村に行かないとないわよ」


 コートを脱いで、男は言います。


「奥さん、本当にありがとうございます……。私は、ヨーゼフ。一応、医者の端くれなので、大丈夫です」


 口許を布で覆い、髪もまとめて後ろに流します。

 手提げ鞄を広げると、小さな刃先のナイフや注射器、それから見たことのない器具ばかりが入っています。ヨーゼフは薄い手袋を取り出して、嵌めました。


「場所も借りて……、申し訳ないのですが、少し手伝ってもらいたいです。お湯をたくさん沸かしてもらってもいいですか」


「わ、わかったわ」


 カマラは大きな鍋に水を張り、火にかけました。どっどっと弾む心臓に、肺が潰れるように苦しくなります。カマラは、あんなに大量の血を、人間の血を見るのは初めてでした。

 沸いた湯を、持っていこうとしましたが、カマラは自分の格好が合っていないことに気づきます。獣を解体する作業では、汚い獣から自分の身を守るために作業着を着ます。それに、息子にも獣の汚れは悪い影響を与えるだろうと知っています。しかし、今の自分の姿ではきっとあの女性の傷によくないでしょう。そう考えたカマラは、洗濯屋が洗い、清潔にした衣服に袖を通しました。

 そう、いつもの仕事着に着替えたのです。

 長い髪もまとめて、キャスケットに仕舞い込みました。


「お待たせしました」


 とっぷとっぷと水面を揺らし、カマラはヨーゼフの指示通りの場所へ置きました。清潔なシーツも持ってくると、包帯として使えるように切り裂き始めました。時折、ヨーゼフが誰かの名前を呼んで要求する声にも反応して、対応します。その度、彼は気まずそうに謝ります。きっと、今治療している女性がいつもは側で手助けをしてくれているのだ、と思いました。

 自分の震えていた声も手も、拭われる血を見ていくうちに静まってきます。


「血は、どの生き物でも同じ色……」


 そう小さく呟きました。

 





 穏やかな、深い寝息が、カマラとヨーゼフの耳に届きました。

 シーツを何枚も重ねたテーブルの上で、銃弾を取り除かれた彼女は眠っています。女性の名前はジーナ、ヨーゼフの助手だと言います。

 ジーナが助かり、ヨーゼフはひどく安心した様子でした。眼鏡を外すと、白衣の袖で拭きました。


「でも、なぜ銃弾が……」


 血に濡れたシーツの切れ端や、鍋などを片付けたカマラはお茶を運びながら話します。


「この村は狩猟が盛んですから、流れ弾が当たったのでしょう」


「ありがとうございます……、美味しい……。そうか、そうだったんですね」


 紅茶にミルクと蜂蜜を落とすと、カマラはヨーゼフの向かいに座りました。

 カマラは、じっとヨーゼフを見てすぐに逸らします。それから、また目をやって、すぐに外す。数回繰り返していると、ヨーゼフが困ったような笑みを浮かべながら訊ねました。


「あの、私になにか……」


 カマラは気づかれてしまった……、というように頬を赤く染めると、何かを掻き消すように、キャスケットを取りました。馬の尻尾のように束ねた黒髪が、空気を孕んで背中に落ちます。


「……ヨーゼフ、先生は、なにを専門にお医者さんをやっているのでしょうか」


「ええと、専門を説明する、のが難しいのですが……、基本的には臓器を診ることが多いです」


「そうですか……、あの、この村に来たのは近くに病院を開くのですか?」


 ヨーゼフは、紅茶を一口含むます。ふむ、と少し考えたように首を小さく傾げました。


「病院、ええそうですね、そのつもりなんですが。なんと言うのでしょう……長期的に治療の必要な方を療養するような場所も作りたくて。森の奥なのですが、昔から大きな建物ありますよね、そこをお借りして」


 カマラは恐る恐る、と言うように口を開きました。ここでお医者様に出会ったのも何かの運命なのでしょう。ここを逃してしまったら息子の身体には何も変化は訪れることはありません。


「わ、私の息子、すごく身体の弱い子なんです。薬も効いてる様子がなくて……、でも村の中心の病院で見てもらうにはお金も、息子の体力の余裕もないんです、それで、あの」


 これはなんだか恩着せがましいやり方ではないのか。図々しいことではないだろうか。そういった不安がカマラの脳内を一瞬にして通りすぎました。

 どのようにして今の言葉を取り消すことができるのか、わからなくて、もどかしくてなんだか恥ずかしくなってしまいます。

 ああ、聞きたくない。そう思いましたが、ヨーゼフの返事は簡単でした。


「いいですよ。ただ、今のところ簡単な診断しかできませんが」


 その一言を、柔らかな笑みを浮かべて口にしました。

 カマラは青かった頬を、次第に紅潮させ、太陽のような笑みを見せました。ささくれだった手のひらで顔を覆い、無意識の内に緩む口許と涙腺を隠しました。


「ありがとうございます、ありがとうございます……!」


 ついに、カマラは下を向きぽつぽつと涙でテーブルを濡らしていきました。そんなカマラにヨーゼフは、応えました。


「貴女がいなければ、私は大切な人を失っていたでしょう。今度は私がお手伝いする番ですから」


 ぽろぽろと涙を流し、嗚咽するカマラに狼狽えながらヨーゼフはハンカチを差し出しました。

 ハンカチを受け取るカマラの手が、ヨーゼフの指に触れたそのときです。

 扉が大きな音を立てて、開きました。


「カマラ、今日はうさぎしかないらしい、ぞ」


 





 カマラが顔を上げたときには、ヨーゼフは勢いよく床に倒れていました。


「ちょ、まって、待ってくださ、あっ」


 次の瞬間にヨーゼフの細い体躯は軽々と、持ち上げられます。胸元には鼻血が、点々と異様な模様を描いています。


「お前なんじゃあ、カマラを泣かせよって」


 ヨーゼフの胸ぐらを掴んだまま、熊のような男は言いました。

 溢れる涙をそのままに目を点にして眺めていたカマラですが、ヨーゼフの視線を受けてすぐに立ち上がりました。


「親方! ちがうのよ、違うんだってば!」


 カマラは、そう叫ぶと男──親方、の腕にしがみつきました。しかし、親方は聞く気を持ちません。太い腕と、分厚い手のひらで重力に反して持ち上げられるヨーゼフは今にも力尽きそうです。


「たたじゃおかねぇぞ、小僧」


 それでも親方は、殺意を込めてヨーゼフを睨み付けました。


「親方~~! ちがうのよ、この人はお医者さまよ!」


 カマラは腰から鞘ごとナイフを外して振り上げると、どすりと重い音を立てて、親方のみぞおちを打ちました。


「ぐふうっ」


 それでも親方の手は、ヨーゼフの胸ぐらを離しません。もう、もう、違うの、とカマラは再び柄を叩き込みました。黒い髪がぶわりと舞います。


「むぎゅうっ」


 もう一度、と意気込んだカマラに親方は青い顔をして降参しました。ヨーゼフはカマラの姿と、お腹を折り曲げて苦悶の表情を表す熊のような大男を見て、震え上がっていたのでした。






「本当にすまなかった」


 親方は、深々と頭を下げました。

 テーブルに頭をぶつけかねない勢いでした。

 ヨーゼフは鼻にガーゼを詰めながら、苦笑いです。


「もう、早とちりしないで。ああ、眼鏡割れてないわ……良かった……」


 カマラから眼鏡を受け取ったヨーゼフは、乱れた髪を整えました。


「いえ、私も誤解されるようなことを……。カマラさんを、とても大事にされてますね」


 親子……には、見えないですが、そう言ってヨーゼフは親方とカマラを交互に見ました。

 大きな分厚い手をカマラの頭に乗せて、子どもにするかのように撫でました。


「娘みたいなものなんだ。こいつは女手一つで、息子を」


「それ以上勝手に言わないで」


 親方の口を塞ぐと、カマラはぐしゃぐしゃになった髪の毛を手櫛で整えていきます。なるほど、ヨーゼフから見たこのカマラと親方と呼ばれる男は血で繋がった親子以上の絆があるように思いました。さて、ここでヨーゼフは本題に入りました。


「息子さんのことですが、さっそく状態を診させてもらってもよろしいですか? 私の方は、時間はいつでも大丈夫です」


 カマラは目をはっと見開くと親方へ視線を向けました。じぃ、と親方の目を見て、瞳をうるると潤ませます。

 ふい、と親方は視線を外します。

 腕を伸ばしてカマラは親方の顔を自分に向けました。それからまた、手を組んで潤ませた瞳を送ります。

 髭を弄りながら、親方は窓の外に目をやりました。

 次に人差し指を、ついとヨーゼフに向けて鼻血のついたシャツを見せました。

 ばつの悪そうな表情を、親方はカマラに向けました。

 カマラの瞳は蜂蜜のようにとろけてしまいそうなほど、潤んでいます。

 まだ見つめてきます。

 親方は助けを求めるようにヨーゼフを見ますが、なよなよとしたような、困ったような笑みを浮かべるだけです。

 じぃい、っと。

 カマラは、まだまだ、見つめ続けます。


「ああーっ、もうわかったよ! 獲物はわしがやっとくから、今日は帰れ!」


 歓声を上げたカマラは、親方に飛び付くと花の咲くような笑顔を向けました。黒い髪をふわりと空気に散らして、


「親方、大好きよ」


言いました。それからヨーゼフの手を取って、引っ張りました。

 しかし、ぴたりと動きを止めます。


「ジーナさんは、どうしましょう……」


「あ、えっと、もう病院はあるのでそこにいる仲間に運んでもらいます。電話をお借りしてもいいですか?」


「ええ、もちろん」


 電話をすると、少し時間がかかるとのことでしたのでカマラとヨーゼフの二人は先に発つことになりました。

 お昼前のどこかひんやりした空気と、日の光が混ざりあい、カマラは晴れやかな気持ちにもなってきます

 息子を診てもらえるからという喜びと安心は含まれているのでしょう。ほんの少ぅし仕事を休めたことへの嬉々とした感情も入っているかもしれません。

 自然と出る足が早くなるカマラに、ヨーゼフは言いました。ちらちらと来た道を振り返っては、困り顔です。


「親方さんに申し訳なかったです、言う機会を考えるべきでした」


「いいのよ。あの人は細かい作業が苦手だから引き留めたのよ。うさぎを捌くのは簡単なのだけれど」


「それなら良いですが……。しかし、たくさん獣がいるのですね、この森には」


「だから、大きな建物も安く借りれるのかもしれないわ。わたしも一度だけれど、狼を捌いたことがあるわ」


「狼もいるんですね……! うわぁ、おっかないなぁ」


「安心して、そのための猟師よ。……流れ弾、気を付けてね」


 二人は道を歩きながら、お話をしました。大半がカマラの愛しの息子の話が占めましたが、天気の話、病気の話、お仕事の話、少しずつ、しかし互いに干渉しすぎない程度にお話をしました。

 しばらく歩くと、ぽつりと家が立っています。カマラの家です。

 木の扉を押し開けて、カマラはヨーゼフを招きました。居間を覗いて、カマラは息子の名前を呼びました。返事はありません。


「外かしら」


 庭に出ると、カマラは再び名を呼びました。


「おかあさぁん!」

「カマラさーん!」


 愛しい息子の声と、もう二つほど声音が聞こえました。ロムとレムの声でした。

 庭に一本生える木の下に、もぞもぞ動く塊がありました。カマラとヨーゼフは近づいて行きました。

 しかし、そこにいるのはもふもふと狼の毛皮を羽織った小さな息子と小さなレムです。

 ふんふんと力を入れて立ち上がった、息子はよたよたとカマラのいる方に歩いて、辿り着きました。ぎゅう、と小さな身体で抱きついてきました。


「あら、おにいちゃん。カマラさんがかえってきたわ。昨日より、もっとはやくかえってきたわ」


 レムは虚空に語りかけます。

 すると、木の上の方から、ぼふっと影が飛び出し地面に綺麗に着地しました。


「カマラさん、おかえりなさい! ずいぶんと帰りが早いんだね」


 ロムでした。にっこりと微笑みをカマラに向けます。そして、カマラの隣にいる男に目をやりました。頭のてっぺんから、爪先まで眺めます。


「その人はだれ? 村の人じゃないよね」


 じぃ、とヨーゼフを見つめます。

 カマラの腕の中の男の子も大きな琥珀色の瞳で、木の下に座るレムも不思議そうに見ていました。

 ヨーゼフは、一斉に向けられた子どもたちの澄んだ瞳に困ったように笑いながらしゃがみ込みました。それから、穏やかな声で自己紹介をします。


「私はヨーゼフ。森の奥にできた病院のお医者さんです。何か困ったことがあったら言ってくださいね」


「そうなんだ、じゃあわざわざあっちに行かなくていいんだね。おれはロム。兵士になるんだ」


 えっへん。そう、ロムは胸を張って言いました。


「ほお、それはすごい……! 不思議なほど身体の使い方も上手いですし……」


 ぬうっと腕を伸ばしたヨーゼフは、ロムの身体をぺたぺたと触ります。驚いたロムは弾くように、ヨーゼフの腕を払いました。しかし、ヨーゼフは気にすることなく、ふむと頷きます。


「ほぉお、これはこれは。体つきも良い……、逸材です」


 そう言いました。

 そこで、レムがロムの後ろにぴったりとくっつくともにょもにょと話しました。


「おにいちゃんは、うごくの上手だけど、おべんきょうが苦手だから、へいしはむずかしいの」


「む、うるさいぞ」


「そうなんですか、惜しいですね」


 レムは丸い顔をぴょこんと出すと


「わたしはね、レム。おにいちゃんのいもうとよ。大きくなったらまほうつかいになるのよ」


 そう残してまた、ロムの背中に隠れました。

 ヨーゼフは立ち上がると、訊ねました。


「じゃあ、きみのお名前はなんですか?」


 ぴくん。細いか肩を弾ませてヨーゼフに顔を見つめました。ぽっと、朱の射す頬に伏せる黒いまつげの影が落ちます。


「ぼく、……?」


「ええそうです」


 カマラは息子の背中に手を置いて、そっと促します。むずむずと身体を動かして、恥ずかしそうに自分の名前を告げました。





「……ウルフ。ぼくは、ウルフ」


 気の弱そうな、男の子──ウルフは、すぐにカマラの肩に肩を埋めてしまいました。


「ウルフはむりよぅ。からだ、よわいもの。へいしになんか、なれないわよぅ」


 レムはそう言います。ウルフは、むぅ、と頬っぺたを膨らませてカマラに降ろすようせがみました。

 地面に降り立つと、大きな瞳をうるうるとさせながらレムに向かって言いました。


「レムにはかんけいないでしょ! いいの、ぼくはつよくなるの!」


 ロムの後ろから、ひょいと出てきたレムもぷうぷうと反論します。


「おにいちゃんみたいにつよくなんかむりよぅ! おにいちゃんは特別なんだから!」


「ぼくはロムにいちゃんみたいに、なるの! レムなんかしらないもん」


 二人とも大きな瞳に大きな涙を溜めながら、顔を真っ赤にしてます。いつものことなのでしょう。あらあらと困ったように笑う見るカマラとロム、おろおろとカマラの顔と小さな二人の喧嘩に目をやるヨーゼフ。

 次第にぷつんと糸が切れたように涙が溢れた二人は、


「ウルフのばかぁあああ」

「ばかっていったほうがばかなのぉお」


地面に座ってしまいました。

 カマラとロムは、互いに顔を見合わせて笑うとそれぞれを抱き上げて回収します。


「おにいちゃぁああんが一番なのぉお!」


 ロムの肩に涙を擦り付けながら、レムは泣き叫んでいます。ウルフもカマラの胸元に涙をぽとぽとと落として無数の染みを作りました。


「ぼくも一番になるのぉ! レムのばかぁ!」


 澄んだ青空の下で、二人の泣き声が響きます。

 ロムは、やれやれとレムの背中をぽんぽんと叩きます。


「レムったら……、もう。カマラさん、いつもごめんなさい。今日は帰るね」


「こっちこそごめんねぇ。また遊びに来てね」


「じゃあね!」


 レムを担いだロムは、ひょいといつもの調子で柵を越えて帰路に向かました。

 そんな彼を感心した様子で見ていたヨーゼフは、はっと気づくと、カマラに頭を下げました。


「すみません。私があんなこと聞かなければ……」


 どうやら、ウルフとレムが喧嘩をしてしまったのは自分の質問のせいだと感じたようです。

 カマラは、まだぐずぐずと腕の中で泣いているウルフの頬から涙を指で払います。カマラとウルフの黒い髪が日に照らされて、天使のような輪っかが艶々としていました。


「ヨーゼフさん、これくらい大丈夫です。よくやるんですよ、二人とも。さ、ヨーゼフさんもお家の中へ」


よしよしと身体を揺らして、カマラはウルフの頬を優しく撫でます。


「また咳が出ちゃうでしょ、泣き止みましょ。ねえ、強い子だもんね」


うん。そうしっかり頷いたウルフは涙を小さな手で拭うとぎゅうっとカマラを抱き締めると、地面に降りました。カマラの手を握ると、じいっとカマラの姿を眺めます。首を傾げて、ぷくぷくの頬っぺたを自分で触りました。それから、


「おかあさん。どうして、おしごとの服きてるの?」


訊ねました。


「あらっ、本当ね。おかあさん、嬉しいことがあって失敗しちゃったわ」


 カマラは口元を手のひらで覆って、恥ずかしそうに笑います。


「おかあさん、その服がいちばんにあうー。ねーえ、うれしいことってなぁに」


 ぎゅうぎゅうとカマラの手を小さな手が握ります。並んで歩いているのに、ぴっとりとカマラに身体をくっつけて歩くウルフをヨーゼフは後ろから見ていました。

 突然、カマラがヨーゼフに顔を向けました。それに続いてウルフもヨーゼフに身体を向けます。同じ色の宝石のような瞳が四つ、光を湛えてヨーゼフを見ています。

 カマラは弾んだ声で言いました。


「ヨーゼフさんはね、お医者様なの。ウルフ、あなたの身体をねぇ、診てくれるのよ」


「おいしゃさま! じゃあ、ぼく、もう馬車にのらなくていいの?」


「今日は、だけどね。さ、ヨーゼフさん、いらっしゃい。狭いけど、楽にしていてね」






 カマラに示させれて腰を下ろしたソファは、驚くほどふわふわでした。よく部屋を見渡すと、母子だけで暮らしてるにしては、驚くほど物が充実しています。

 ぽかん、と目を真ん丸にして、ずり落ちる眼鏡を直しているヨーゼフの前に、紅茶が置かれます。


「ふふ、旦那だった人ね、村長さんの親戚だったのよぅ。あのこがね、産まれるまでは本当に良くしてくれたの」


 ウルフが病弱じゃあなかったらよかったのかしら。

 そういって笑うカマラに、ヨーゼフはなにも言えませんでした。はっ、とカマラは自分の言葉に気がつきます。


「ごめんなさい、居心地の悪くなる話をしてしまったわ……」


「いえいえ、構いません……。この場合、どう声をかけていいのかは図りかねますが……」


 二人の間に変な空気が漂います。それを払ったのはヨーゼフでした。


「で、では、ウルフくんが着替え終わるまでに、今までのウルフくんの様子を聞いてもいいですかね」


「は、はい」









「せんせえ、ありがとうございました!」


 ベッドに腰に横になってるウルフは、言いました。ヨーゼフは、ウルフの足元に畳まれていた毛布を広げると、そっとかけました。


「うん。よく頑張ったね、お疲れ様」


 手を伸ばして黒い艶々の髪の毛を撫でました。とても柔らかく、仄かに温かいです。


「ぼく、つよくなれる?」


 毛布に顔を埋めながら、そっと訊ねます。診断と一日の疲れで、蜂蜜のように瞳は潤んだウルフにヨーゼフは微笑みかけました。


「うん。それはこのあとのウルフくんの頑張り次第かな。大丈夫、わたしに任せて」


 安心したように、ウルフも笑います。ふ、と緊張の糸が解けたのでしょう。とろりとさらに潤んで、眠気を帯びてきました。

 そばにいたカマラは、静かにベッドに腰かけてウルフの額に口づけをします。

 ゆっくりと身体を起こして、カマラはヨーゼフに目線を移します。


「ヨーゼフさん、どうですか」


「隣の部屋で話しましょうか」


 ヨーゼフは、にっこりと笑いました。






 カマラの目の前に差し出されたのは、一枚の用紙でした。さっと目を通すと、今さっき終わった診察の結果でした。しかし、空欄もたくさんあります。

 困惑した表情で、カマラはヨーゼフに助けを求めました。


「これは……」


「まあ、目立った病気ではない……、ということです」


「は、はあ」


 筋肉のつき方や体格は確かに標準以下ですがね、そう言ったヨーゼフは言葉を続けました。


「当たり前ですが、こんな診察だけでは正確な判断はできません。病院の設備が整い次第、早急に検査と治療を行っていきます」


 カマラの目の縁に、本日二度目の涙が溜まり、輪郭をぼかします。頷く度に、ぽろぽろと透明な雫が頬を伝って空に散りました。


「カマラさん、ウルフくんと一緒に頑張っていきましょう」


 





 いままで、カマラの心にあった、どこかうっすらと霧が覆っていたような感覚は、晴れて朝日が昇るように消えました。

 愛しい息子が、小さなウルフが駆ける姿が頭のなかに浮かんで、とろりと溶けてしまいました。



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