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ある母狼の話 l

 カマラ。

 解体屋のカマラ。

 そう呼ばれる女性がいました。






 カマラには、今年で七つになる病弱の息子がいます。その息子が原因で、旦那が他の女と出ていったと村では噂をされています。

 旦那が出ていってから、女と子どもの二人暮らし。女手ひとつで息子を育てるには、朝から晩まで働く他ありません。夜明け前に家を出て、夜遅くに帰ってくるような生活を繰り返しました。

 カマラの息子は、走ることも容易くできませんでした。辛うじてできることといえば、簡単な料理と洗濯物を畳むこと。それにベッドの上で微睡んだあとは家の庭を散策して、遅く帰る母親のために花を詰み、野イチゴを摘むくらい。カマラの作った狼の毛皮のマントを羽織ると、天気の良い日はふらふらと歩き、庭に生える一本のリンゴの木の陰で休んでいます。本を読んで時間を潰すことができれば、と何度思ったことでしょう。

 しかし、彼は本を、文字を読むことができませんでした。なんといっても、村の外れにある家から、村の中心部で行われている学舎は、彼にとっては遠い道のりであったのです。字が読めるカマラが教えることができればよかったのですが、体力の問題で夜遅くまで起きていることのできない息子と、家のことをしなければならないカマラです。

 そんな暇はありません。

 家事が終わると、とうに日付は過ぎています。小さな息子の眠るベッドに身体を滑り込ませて、夜明け前まで夢の世界に落ちるのです。

 カマラが朝の支度をしていると、息子は大抵目を覚まします。一目でも母の姿を見ようと、必死なのです。今日も、カマラが熱がないか、そぅっと額に触れたとき、彼は目を覚ましました。


「おかあさん、おはよ……おかえり? いってらっしゃい?」


 毛布に包まりながら、彼は目を擦ります。ぱっちりとまぶたが持ち上がり、まるで琥珀が埋め込まれたような美しい瞳を現しました。それは射し込む朝日にきらきらと光り、ずぅっと見ていたくなってしまいます。


「おはよう、かわいいこ。もうじき、おかあさんは出ていくわ」


 寂しそうに唇を尖らす息子を、カマラはむぎゅうと抱きしめました。つやつやの黒髪を、ささくれた手のひらで撫でました。その手のひらに柔らかな頬を押し付ける息子のなんと愛しいことか!

 カマラは目一杯、そのふにゅふにゅと柔らかな頬に触れていたい気持ちが沸き上がりましたが、大切な息子をこのがさがさとした肌で傷付けるのが億劫でした。


「おかあさん?」


 その表情が、一瞬固くなったことを見てとった小さな息子は、不安そうに母を呼びました。カマラは、はっと気づいてすぐに息子に頬を寄せました。甘いような、なんだか心がふわふわして眠たくなってしまうような匂いがします。それでも、そろそろ家をでなければならない時間です。毎朝、胸が張り裂けそうな程に寂しいのですが、カマラは意を決して息子から離れました。


「いってくるね、シチューを作ったから温めて食べなさい」


「うん」


「火には気をつけてね」


「だいじょうぶだよ、だってもうすぐ七つになるんだよ」


「そうね、ふふ」


 息子はぷくぷくの頬っぺたを赤く染めながら、こそっとカマラに訊ねました。だぁれもいるはずがないのに、きょろきょろと辺りを見渡しています。

 小さなお鼻もぴくぴくと動いています。


「きょうってさ、もしかしてさぁ、……アップルパイのひ?」


 同じ色の瞳が星屑を散りばめたかのように、ちらちらと輝いています。

 カマラが愛しそうに笑ったのを見て、彼は嬉しそうに抱きついてきました。熱を持った小さな身体を、カマラは壊さないようにぎゅうと抱き締めます。

 小さな息子の鼻に、自分の鼻先を擦り合わせると、くすぐったそうに笑います。この大切な息子を守るために、カマラは今日も獣を解体するのです。

 







「カマラ! 今日は鹿二体だ」


「うい」


 解体屋、というのは他の村では建造物を解体する職業だということが多いと聞いたことがありました。しかし、カマラの住むこの村で“解体屋”というものは、獣を解体する仕事です。

 森の真ん中にあるこの村には、生活を脅かす多くの獣がいました。それを猟師が撃ち、カマラの働く解体場に運びます。時折、大きな獣を解体するために森へも赴きます。解体屋が解体し、食べてるように切断したり、皮を剥いだりと、加工できるように、他の村へ売れるようにしていくのです。

 カマラは解体屋で、ただ一人の女でした。

 日々の賃金も良く、村の女と一緒にいるより楽なのです。父のように年の離れた男たちが、愛息子を孫のように可愛がってくれるのですから。

 昨日の夜仕込んだシチューにも、ここでもらった鹿や鳥の肉の切れ端がごろごろと入っています。


「親方、放血は」


「もう終わる」


「うい」


 黒く長い髪を結ってカマラはキャスケットに押し込みます。首元まである上着を着込み、手袋をはめました。脛まで覆うブーツも忘れません。

 何種類ものナイフが収まるポーチを腰に引っ提げて、カマラは吊るされる鹿の前へ立ちました。地面には切り裂かれた頸動脈から落ちる血液が広がり、嗅ぎ慣れた匂いがむわりと鼻腔に満ちます。

 白濁と濁る瞳。この子は何を考えていたのか、それはカマラには、いえ誰にもわかりません。ずっと、働いていてもわからないのです。

 抱くのは敬意だけ。流水で毛に付着する血液と泥を丁寧に洗い流します。洗浄しつつ、鹿全体の様子を見てにっこりと微笑みました。水を止めて、手を伸ばして、つつと鹿だったものの角を撫でました。


「立派な角ね」


 カマラは先の鋭くないナイフを腰からひとつ抜くと、鹿の中腹から尻に向けて、皮を切りました。尿道を切ると、尿が肉に付着してしまうので慎重に。しかし、とても素早く。

 刃を胸へと向かって滑らせると、腹の毛を巻き込みながら皮を裂いていきました。胸骨に当たる直前で、刃をとめると、つぷりとその下の薄い膜を切るのです。覗く赤い内臓が、射し込む朝の日の光を反射してらてらと光りました。

 ずちゅ。指を突っ込んだ湿っぽい音が響きました。内臓に傷をつけないように冷たい臓器をかき混ぜながら、ゆっくり、ゆっくりと掻き出していきました。

 黙々と。カマラはなにも話さず、目を逸らさず、息を吐いて吸って。淡々と作業を行います。

 もう、可哀想だなんて思いません。慣れてしまったのです。村の女はこの仕事を大層忌み嫌うのですが、カマラにとってこの作業はどこか神秘的でもありました。理由はわかりません。

 掻き出した内臓は銀のトレイに乗せて、異常がないか確認します。赤くて、さっきまで生命の温もりがあったそれ。今はトレイの上で、しんと動きません。

 カマラは異常なしと呟くだけでした。

 縄を引き、鹿だったものを台の上へ移動させます。縄を切ると、どさりと重い音がしました。

 使い終わったナイフを台の隅に揃えて並べ、また新たに腰からナイフを抜きました。足の周りに、くるぅりと一周、切れ込みを入れます。足先まで切れ込みをいれて、皮膚と肉の間に刃を滑らせて、剥いでいきました。

 肉に傷がつかないように、慎重に行っていきます。カマラにとってこの作業は最も快感が走るものでした。

 指に、手に、伝わるその感覚と、毛の生えた皮膚の裏側。鹿から、鹿だったものへの移り変わり。

 皮は別の係りに受け渡され、カマラの前には赤い肉の塊と、切断した鹿の頭部だけが残されます。

 鹿に向き合い、カマラは微笑みました。濁った瞳に、カマラの顔が映ります。


生命(いのち)をありがとう」


 あとは、赤々てらてらとすっかりお肉の大きな塊になってしまった鹿の部位を分割する作業だけが残りました。またまたナイフを変えて、次は刃先の鋭いものを手にしました。骨からお肉を剥がし、銀のトレーに置いていきます。

 それらがすべて終わったころ、カマラの背中には汗がじわりと滲んでいました。手袋を外して、籠に放ると、新たな手袋をはめました。筒から水を口に含むと、喉をしっかりと潤します。


「よし」


 口を拭うと、もうひとつの鹿の解体を開始しました。なんといったって今日は早く帰ることができるのです。カマラはアップルパイを見つけて、嬉しそうにはしゃぐ息子を思い浮かべました。


 





 



 男と同じ獣の血で汚れた衣類をさっさと籠に突っ込み、カマラは村の女が着るワンピースに着替えます。獣の血やノミ、虫が息子の身体になにか悪い影響を与えてしまわないかという恐怖と、村人に見つかったときのひそひそと静かに響く悪口を聞きたくなかったからでした。

 ナイフはそれを生業とする男に渡して、毎日研いでもらいます。カマラは今日ももらった余りの肉と山菜を鞄に入れると笑顔で帰って行きました。

 そんなカマラを、仲間の男らは微笑ましそうに見ています。カマラの息子に対する愛情を、彼らはよぅく知っていました。









「ただいま」


 家の戸を開けると、息子の姿は見えません。


「あら……?」


 寝室にもいません。ベッドに手を置くと、ほんのり温かく、つい先程までいたことがわかります。カマラは庭に出て、いつも彼がお散歩をする道筋を視線で辿りました。庭に一本だけ生える木の下にいました。彼だけではなく、彼と仲良くしている数少ない友人たちも一緒です。彼より五つほど、年が上のロムという名の少年と、その妹で彼と同じ年のレムでした。ロムとレムは、彼と違って村の中心の学舎へ通っていました。時折、こうやって学舎から帰るときなど隣のカマラの家まで来るのです。


「おかあさん、おかえりなさい!」

 

「カマラさーん、おかえりなさーい」



 ロムとレムが学舎で習ったことを、息子に教えてくれるおかげで彼は少ぅしずつ絵本が読めるようになるのでとても嬉しいようです。


「おにいちゃん、カマラさんの帰りがはやいわ」


「そうか、今日はアップルパイの日なんだね」


 ロムとレムはとても優しく、気のつく子達でした。カマラが早く帰る意味を知っており、さっさと身支度をしました。


「かえっちゃうの?」


 そう問う息子に、ロムとレムはにっこりと笑みを返します。


「おれたちはまた来るからさ! カマラさんと一緒にいないと」


「そうよ、あしたもくるわ」


 ロムはレムを抱き抱えると、あっという間に柵の外に放ります。そして助走をつけると、ぴょーんと跳ねてレムの隣へ着地をしました。低い柵ではありますが、それでもロムの胸の当たりまであります。息子は目をきらきらとさせてその姿を見ています。ロムは息子の憧れの存在です。しかしカマラはそうして見ている暇はありません。


「あら、ちょっと待ちなさい」


 急いでアップルパイを二切れ包むと、二人に渡しました。小さなお礼です。二人は驚いた顔をしましたが、嬉しそうに受けとります。包みから漂う甘酸っぱいリンゴの香りに、うっとりとしていました。


「カマラさん、ありがとうございます」


「ええ、いいのよ。いつも息子と仲良くしてくれてありがとう。それに二人では多すぎるもの」


 アップルパイを大事そうに抱えて、ロムとレムは自分達の家へと帰って行きました。カマラは息子を抱き上げると、柵に近づきます。手をぶんぶんと振る息子と一緒に、二人を見送りました。


「さ、冷えたでしょう。ホットミルクを作るわ、アップルパイを食べましょ」


「だいじょうぶ、おおかみマントね、あったかいもん」


 そう言って、彼は狼の毛皮でできた外套にカマラの手を突っ込みました。着込むうちに馴染んだのでしょう。初めは固かった皮は、今ではすっかり彼のものです。小さな彼の熱い身体を覆ってぽかぽかと温めていました。大丈夫、と彼が言っても身体は正直です。楽しくて興奮したのでしょう。とっ、とっ、と心臓はいつもよりはやく動いています。

 

「……そう、ならよかったわ」


 抱いたまま家のなかに辿り着くと、カマラは息子を椅子の上に降ろしました。ちたちたと地面に着かない足を振り、彼はカマラが隣に座るのを待ちました。外套を、近くのソファーにかけました。そうっと、カマラはそれを撫でます。この外套がそれは綺麗な狼の姿をしていたことを思い出します。本来ならば売りに出すものでしたが、あまりにも強く、勇ましいこの狼に苦戦した猟師によって、横っ腹と背中、腿の部分にそれぞれ大きな穴が空いていたのです。縫っても修正の効かない事態に、最初からなんだか手離しがたく思っていたカマラはそれを手にいれたのでした。

 ふと、感慨深く思っていると


「おかあさん、たべようよぉ……」


拗ねたように頬っぺたを膨らませた息子がこちらを見ていました。ちたちた。まだ小さな足を振っています。


「ごめんね。今用意するわ、待ってて」


 急いで牛の乳を鍋で沸かし、蜂蜜をとろりと落とします。二つのカップに、とぷとぷ注ぎ、テーブルへと置きました。

 テーブルでは、自分のフォークとカマラのフォークを持った両手をぷるぷると震わせながら、息子が一生懸命アップルパイを一切れずつお皿に移しています。

 椅子に座り、その様子を眺めました。自然と笑みが浮かび、カマラはとても幸せそうです。


「おかあさん、きたなくなった」


 潤んだ琥珀色の瞳の息子が差し出したお皿の上ではさくさくのパイから、砂糖でことことと煮たリンゴがこぼれ、金色に輝いてみえました。ぺちゃんこに潰れたこの一切れのアップルパイが、カマラにはとても美味しそうなものに見えるのです。

 さらさらの黒髪に手を伸ばし、優しく、壊れないように撫でると息子も幸福そうに目を閉じました。

 

「ありがとう、とても美味しそうよ。ふふ、お腹ぺこぺこ……食べましょうか」


「うん!」


 フォークでパイを一欠片、そして傍に落ちたリンゴをすくって口に含みました。バターがたっぷりと入ったさくさくのパイ生地と、甘酸っぱいとろとろのリンゴが混ざりあって、胃にじゅわりと染みるようです。

 隣に座る息子も、ぷくぷくの頬を小さな手で押さえながら夢中で食べています。


「おいしい~!」


 目を細めて、言いました。

 愛しさが爆発しそうです。こんな可愛い息子を、仕事の都合で一人にしているなんて……、そう申し訳ないような悔しい気持ちがが溢れます。それをアップルパイと一緒に飲み込んで、訊ねました。


「ねえ、ロムとレムとなんのお話をしていたの?」


「あのねぇ~、ロムがね、おおきくなったらね、へいしにね、なりたいはなし」


「兵士?」


「うん。ロムはね、とてもね、ちからがつよいし、あしもはやいからね、へいしになるの」


 その話はよく耳にしました。ロムには武術の才能がある、と。ロムとレムの父親も同じ解体屋なのです。そういえば、ロムは身体の使い方が上手く、今日も柵を飛び越えていたことを思い出します。


「それは、すごいわねぇ。ロムならきっと優しい兵士さんになるわ」


「でもね、ロムはね、まだね、おべんきょうがにがてなの、だからテスにね、まけてる」


「テス……、ああ村長の息子さん。そうなのね」


 この小さな村では兵士になれるのはほんの一握りです。勉強、体力、力の強さ……、総合的に見て優秀な者が年に一度隣の大きな村へ送り出され、学校に入学できるのです。ただ他にも点々とある小さな村からも、入学したい子どもがたくさんいるので、ひとつの村からはたったの三人しか選ばれません。

 やはり、生まれも関わってくるので一般家庭で育ったロムは必死でした。対してテスは、村長の息子。家庭教師も雇っているとか。


「でも、ロムはとても強いと聞くわ。大丈夫よ、きっと」


「そぉなの! ロムね、木のぼりもとくいでねぇ、すこぉしだけ、へっこんでるところに足のおやゆびをかけてね、すぐ手をのばして、えだをつかんでねぇ、えいってけるの」


 目をきらきらと輝かせて、彼は喋りました。フォークに乗ったアップルパイの存在は、今はないようです。ぽとりと皿の上に落ちてしまいました。


「あら、ロムは裸足で木登りしてたの?」


「ううん。それでね、えいってのぼってね、いちばん高いところのってね、すわって。おしりと、まえにねおもいのわけるの。じょうずなの!へいしになったら、きっとかっこいいんだ」


「そうなのね、すごいわ……」


 カマラはじぃと、その瞬く瞳を眺めています。

 急にアップルパイを思い出した彼は、もう一度欠片をすくうと、ぱくりと食べました。拙く、舌っ足らずな口調でお話をする息子に、カマラはふわりと疑問を浮かべながらも聞いていました。身体が弱くても、こんなに元気に明るく生きてる可愛い息子。もっと身体が丈夫であったらと、何度思ったか。ふと、カマラは訊ねてみたくなりました。


「ねえ、大きくなったら、何になりたい?」


 大きな琥珀色の瞳を、もっと大きく見開いて、彼はカマラを見つめました。悪戯っ子のような笑みを浮かべると、言うのです。


「解体屋さん」


「兵士さんや、猟師さんじゃないの?」


「おかあさんみたいな、解体屋さんになる」


 息子は細い指を、ソファーに向けて指しました。狼の外套が、黒灰の毛を日に煌めかせています。


「あのおおかみは、たたかってケガをしたんでしょ。それをおかあさんが解体したんでしょ。ぼくはね、おかあさんみたくね、あのおおかみみたくね、つよくなりたいの」


「強い?」


「うん。おかあさんはいつもわらってる。ぼくはくるしいと、わらうのむずかしいの。おかあさんはくるしくてもわらってるの」


 はっきりとした口調で、決して冗談のようではありません。揺るぐことなく、小さな息子は言いました。血生臭く、普通の女の仕事ではない、解体屋。小さな息子は、カマラのそんな姿をしっかりと見てきたのです。


「そう……」


「まずは、元気にならなくちゃ、だめだよね。おくすり、ちゃんとのむ」


「そう、ね。ええ、そう……」


 カマラはふわふわとした、淡く温かい感情が胸を通り過ぎ、目元で渦巻いたような感覚に襲われました。

 産まれて間もない頃から、大人になるかわからないと、告げられました。

 恥だと言われ、かつての愛しき人は自分のもとを去りました。

 誇りを持つ仕事を、村の女に笑われてきました。

 高価な薬を買うために、惨めに頭を下げたこともありました。

 大事な息子を一人家に残し、血が滲むまで働いてきました。

 そんな心をきつく縛っていた鎖のような、肺を巣食っている虫のような重い黒いものが、どろりと溶けたように感じました。どろどろと溶けたそれは熱く、目元に這い上がっていくような。そんな、気持ち。


「おかあさん、どうしたの?」


 慌てふためき、困ったような表情でカマラを窺います。不安そうに、小さな手はフォークをきゅうと握りしめていました。


「ごめんね、嬉しいだけよ」


 涙をこぼしたら、きっと心配してしまうわ。そう思ったカマラは残ったアップルパイを頬張りました。さっきより、なんだか甘ったるくて喉が締め付けられるようでした。きっとこれは、幸福の味なのでしょう。カマラは幸せでした。


「外でたくさん走り回れるような身体にしないとね。おかあさん、がんばるわ。あなたが元気になるように──」


「うん!」



 ───どんな手段でも。













 ───実のところ、村の医師が処方した薬は、何年経っても効果は現れずカマラはため息をつく日々でした。

 ロムとレムと遊び、アップルパイをたくさん食べて、母に甘えた小さな息子は、すっかり体力が尽きてしまいました。大きなベッドで、一人すうすうと寝息をたてています。

 日が傾き、窓から夕日が差し込む部屋で、カマラは残りの薬を数えました。


「あと、四日分……」


 その月にもらえる賃金は、どんなに解体する獣が多くても少なくても同じです。賃金の殆どが薬代に消えていくなか、貯金することは難しく、カマラは頭を抱えます。

 小瓶に入った粉薬は、もう残り少なく、何度計っても四日分あるかどうか、でした。このままこれを飲み続けて効果はあるのか、この先良くなるのか、カマラはお医者さんではないのでわかりません。

 ただ、飲むことをやめてしまえば彼の身体はどんどん悪くなり、終いには───、その未来を母親であるカマラが奪ってしまう可能性だって有り得るのです。いっそのこと、二人でこの村を出て、優秀な医者のいる村へ移ろうかと何度考えたでしょう。

 しかし、職がなくなってしまったら、ましてやその途中でお金が尽きてしまったら、息子が倒れてしまったら、盗賊に襲われたら、……そんな想像ばかりが浮かんで消えません。カマラは結局、死んだ獣を解体することしかできないのですから。

 どんなに考えても、結論は決まってます。

 きっとこのまま、この村で二人で、暮らした方が幸せなのでしょう。彼が大人になれなくても。


「……っ」


 次第にあふれてとまらない涙を、咄嗟に手の甲で拭います。ふと、この場に息子がいないことを思い出し、涙を拭うことをやめました。ぽつぽつとテーブルに染みを作る、流れるままの自分の涙を眺めながら、カマラは大きなため息をつきました。

 薬を片して、カマラは湯を浴びることにしました。今日、はやく家に帰った分、明日ははやく出なければなりません。

 湯を浴びたカマラは、すっかりいつもの表情に戻っていました。微睡む息子が眠る毛布に滑り込み、抱き締めます。儚い生命と言われても、小さな身体は熱く、とくとくと心臓が動いています。


「おかあさ、ん?」


 薄目を開けながら伸ばす腕は、カマラの頬に触れました。カマラは、これからもずっと守らなくてはならないと、思うのです。かけがえのないこの子を失うことがあればそれはカマラの命も終わったも同然なのです。

 抱き締めていると漂う、乳のような甘い匂いに、愛しさが胸を満たしました。





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― 新着の感想 ―
[良い点] おかあさああああああああん!!!! ……おっと、つい叫んでしまいました。 なんですか、これ。尊すぎません?薄暗さを感じさせながらも幸せが見えるじゃないですか。 ロムレム兄妹も可愛ら…
2019/12/30 14:48 退会済み
管理
[良い点] ほんとに久しぶりに投稿したのに色褪せない!素敵
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