ある大人の村 lV
シープは傷が回復します。
シープは心臓が破壊されなければ、何度でも再生します。
おぞましい音を立てて、シープという姿を形成するのです。
まるで化け物のよう。
それなのに、それなのにウルフはシープを庇いました。
「ウルフ、あなたは本当にお馬鹿さんです」
シープは呟きました。ウルフは一緒にいません。
シープだけが暗くて狭い、ゴミ箱の中に身を押し込んで縮まって、ガタゴトガタゴトと揺れに身を任せていました。
徐々に遠くなる喧騒。たがが外れた大人たちは、子どもを通り越してまるで獣でした。ああ、でも獣に対して失礼な考えです。伝う涙を拭うと、シープはくすりと笑います。
木の棒で打たれた右手から骨の再生する音は、もう聞こえません。痛みも、違和感も治まりました。
しかし右手の人差し指にはまだ抉られたような浅い傷が残っています。
咄嗟にウルフの牙に押し当てた、人差し指。
この血はきっと、ウルフの癒しとなるでしょう。力となるでしょう。
「ウルフがやらかしてしまう前に、止めなければなりませんね」
今、自分がどこにいるのかさえもわかりません。けれど、この状況で大人たちに見つかるのは危険だということはわかっていました。シープはポーチに入れていた地図を取り出します。ゴミ箱の中は薄暗くて何もわかりません。
一か八かで蓋を開けると、シープは素早く地図上のホテルに印を付けました。それをお掃除ロボットのカメラに掲げました。カメラを通してジグへ届けます。
お掃除ロボットはゆっくりと方向を変え、進み始めました。
「あら、いいこですね」
シープは再びゴミ箱の中へ身体を滑り込ませます。箱の中に染みつくタバコの臭いが鼻を掠めました。お掃除ロボットが動く度、ガタゴトと揺れて身体にぶつかります。居心地の悪いところでしたが、それを気にする余裕もないほどシープはひどく疲れていました。
ホテルの一階に位置するシープとウルフの部屋の前で、シープはお掃除ロボットから排出されました。いつの間にか意識を失っていたシープはその衝撃で目が覚めました。
「ひゃ、あ、着いたのですか」
手帳にここで待っていて欲しいと書くと、またお掃除ロボットのカメラに掲げます。すぐに鍵を開けると部屋に入りました。
一番初めに目に付いたのは黒くてぴかぴかと光を反射するバイクです。それに駆け寄ると、シープは荷物を漁ります。時折頷きながら、最後に大きく頷きました。
それからベッドに散らばる衣服や、持ち物をきちんとまとめて鞄に詰め、サイドカーに積みました。
「焦るんじゃありません、シープ」
額の汗を手の甲で拭うと、手帳の一枚を千切りました。ピーターに宛てて、真実を書き連ねます。
これを知ったピーターはどうするのでしょう。
悲しむのでしょうか。憤るのでしょうか。この村を壊しに来るのでしょうか。
シープにはわかりません。
文字で真っ黒に埋め尽くされた紙をシープは読み返します。満足したように頷いて、鳥籠に近づくと鳩に指を近づけました。鳩はご機嫌ななめのようです。お腹いっぱいご飯を食べてすやすやと眠っていたところを起こされれば当然でしょう。
シープの指を小さなくちばしで軽く突くと、鳥籠の奥へ逃げてしまいます。
「大丈夫ですよ……」
両方の腕を鳥籠に突っ込み、シープは鳩の足に手紙を結びつけることに必死です。ようやく鳩の細い足に手紙が紐でしっかりと結びつけられた頃にはシープも鳩もへとへとでした。
しかし休んでいては何も進みません。
時間経っても、シープの隣にウルフが戻ってくることはないのです。
シープは大人しくなった鳩を手のひらで包むように持ち上げます。
「さぁ、もう一仕事、お互い頑張りましょう」
弾みを付けて、鳩を空へと放ちました。鳩の小さな爪がシープの手のひらを引っかきます。いくつかの傷を残して、鳩は空へと飛び立ちました。シープの柔らかな髪が風を孕み、宙に舞います。
傷のなくなった手のひらをきゅうと握り締めたシープは、にこりと微笑みました。
それからシープはホテルのロボットを呼び出して、お代を払い、チェックアウトを済ませます。シープはロボットが大人を呼ぶのではないかと緊張していました。しかし、ロボットは特に何も動くことなく、律儀に礼の言葉を述べました。安心して胸をなで下ろしたシープも、礼を返しました。
重たいバイクを引いて、ホテルを出ます。付いてきたお掃除ロボットにジグの元へ届けて欲しい手紙を持たせます。お掃除ロボットはがたごとと帰って行きました。
シープはバイクに跨がります。ゴーグルを装備すると、エンジンをかけました。振動が身体中に伝わり、手に汗が滲みます。
「大丈夫、大丈夫ですよ」
ぶちりと舌を噛み切り、血の味と共に昔習ったバイクの乗り方を鮮明に思い出していきます。
「サイドカーが、重いですね。ふっ」
足に力を込めギアを入れ、右手でアクセルを捻るとバイクはゆっくりと進んでいき、ドルンッと音を立てました。
そして平坦なタイルの道を、スピードを徐々に上げシープを乗せたバイクは走ります。力を入れていないとシープの華奢な身体は風に持っていかれてしまいそうです。
ぐんぐんとスピードを出し、バイクはホテルから離れていきます。シープは後ろを振り返ることなく、ミルクティーの髪を靡なびかせます。外套はありません。冷たい風がちくちくと皮膚を刺しました。
そのうち城門に辿り着きました。
「出村かね」
徐々にスピードを落とすシープに守衛の大人が言いました。シープは城門の手前でバイクを止めると、頷きました。守衛は手元の電子端末を確認すると訊ねました。
「もう一人は?」
シープは眉をひそめた後、花が咲くようにひっそりと笑いました。
「大人になるそうです」
守衛は納得したように、そして仲間が増えたことに満足げに頷くと門を開きました。シープは再び、エンジンをかけて村の外へ走り出していきました。
黒いバイクは傾いた日の光を浴びて、ぴかぴかと光ります。
「大人、ですか」
シープが振り返ることは、ありませんでした。
◆
「う……」
横たわるウルフの口から、呻き声が漏れました。闇色の前髪が、汗と血で額に張り付いています。ゆっくりと目蓋を持ち上げると、白い壁が目に入りました。身体を動かそうとしました、が動きません。全身に響く鈍い痛みのせいだけではないようです。
「あ、手が縛られてる……」
ウルフの両手は後ろに組まされ、縄で縛られていました。どうやら足も縛られているようです。この縄が解かれない限り、ウルフは芋虫のように横たわることしかできないでしょう。
「はあ……」
ウルフは大きなため息を吐くと、右手の手袋を無理矢理外しました。手袋が外れると、滲んでいた汗に冷たい風が当たります。どうやら扉はウルフの背中側にあるようです。
ウルフはぼぅ、と白い壁を眺めながら右手の鋭い爪を使って縄を擦り始めました。きしきしと音が部屋に響き、ゆっくりと繊維が切れていきます。
視線を壁から、天井へ移しました。通気ダクトはありますが、ウルフは通れそうにもありません。
「真正面から行くしかないかぁ」
ウルフは腕に力を込めます。そしてくっついている両手を離すかのように、腕を広げました。ぶちりと縄の最後の繊維を千切り、縄は力なくぽとりと床に落ちました。
「ふう」
足首を縛る縄も爪で掻き切ります。手首と足首は縄で擦れ、ひりひりと痛みました。それ以外にもウルフの身体は傷つけられいます。特に服で隠れて見えない部分は赤い痣が散らされていました。数日もすれば鮮やかな青色になるでしょう。
ぺろりと口の端を舐めました。シープの血の味がまだ微かに残っていました。
さて、とウルフは立ち上がって猫のように大きく伸びをしました。部屋の中をぐるりと見渡します。窓がなくとても息苦しく感じられます。物置なのでしょうか。大量の箱と、ガラス戸の棚、それから監視カメラ。ただの物置ではなさそうです。
「監視役はさぼっているのかな」
監視役の大人はきっと、監視という役割の他にもたくさんの仕事があるのでしょう。村のために真摯に働く大人の仕事が“監視”だけで済むはずもないのですから。しかしずっとずっと見ないわけではありません。
棚のガラス戸を外し、脚をかけて登ると監視カメラに手が届きました。
「ばいばぁい」
にやりと犬歯をちらつかせ、笑みを浮かべました。
普段見る機会があまりない、物置のような存在の部屋「442」の監視カメラ。その監視カメラから流れる液晶画面では琥珀色の双眸が瞬き、直後、砂嵐のような画が延々と流れ続けるようになったのは監視員の男が遅いお昼ご飯のパンを齧っているときでした。
旅人で“大人”にされる、異例中異例の少年。意識を失っているからと言って、頭の片隅に転がしたまま油断していたのです。
少年はパンを出す前には力なく横たわっていたのです。一体いつ目覚めたのか、どうやって天井に設置されている監視カメラを破壊したのか男には、わかりません。ただ咄嗟にマイクを取ると
『442での異常確認! 監視カメラは破壊。直ちに向かってください』
館内放送のスイッチを入れていることに気付くことなく、話しました。
「おい! なに館内放送してんだ、向こうにも聞こえるだろう!」
別の監視カメラを見ていた同僚から叱られた男は、不安気な表情を浮かべます。そんな男を見た同僚は、鼻で笑うと男の肩を叩きました。
「相手が子どもで良かったな。どうせ理解できっこないし、大人の力に勝てるわけねえ」
「そ、そうだよな……」
「さ、旅人の女の子も出て行ったことだし、男の子も直に捕まるだろう」
旅人の女の子が残っていたらそちらも大人にするようにと命令を受けていましたが、肝心のその女の子はもういません。 残る二人の仕事は旅人の男の子の行方を、言われたとおりに報告するだけです。
男は安心したように、液晶画面の前に戻りました。
縄と手錠、そして麻酔銃を携えた警備員の大人たちが「442」へと向かっていました。
そして、ここにも安心した男の子が一人。ウルフです。
「よかったぁ、監視カメラってこれだけで壊せちゃうんだぁ」
棚にかけていた足をひょいと降ろし、床に音もなく着地しました。
「機械は紐を千切るといいんだ、なるほど、ねっ」
踵を軸に振り返る勢いを借りて、拳をガラス戸に打ちつけました。ガラス戸は薄氷のように、ばりんと音を立てて割れてしまいます。
ウルフはにっこりと笑みを浮かべながら、大きなガラスの破片を一つ拾いました。まるでおもちゃをもらった子どものようです。
それから残りのガラスを足でばりばりと割り砕いてしまいます。まるで地面に列を作る蟻を無邪気に踏み潰す子どものようです。
革靴は履いたままだったので足の裏は全く痛くなかったのですが、やっぱり新しい革靴が欲しいなぁと思いました。
「まぁ、あとで考えればいっかぁ」
そういったウルフは握っていたガラス片を、扉の隙間から漏れる光に透かしました。扉の向こうでは大人たちの足音と、話し声。ガラスがちかりと瞬くころにはウルフは闇の中へ溶け込んでいました。
直後、鍵が回され扉が内側に開きます。
銃を構えた男が、一人。
その後ろには、お揃いの制服で身を包んだ五人の大人たち。さすが、監視員の男とは違います。どんな相手でも気を抜きません。三本指を立てて、後ろの男らに向けます。きっと先頭を切る男がリーダーなのでしょう。
リーダーの男は息を潜め、足を踏み入れます。
───ジャリ
粉々になったガラスを不思議そうに見つめました。
その時、棚の向こう、部屋の隅で小さな物音がかたりと響きました。
さらに緊張の糸をぴんと張り、男は奥へ。続く後ろの二人が同じく銃を構え、入ってきました。
───ジャリ
───ジャ
にゅう、と扉の裏から伸びた二本の腕が三人目の男の口を塞ぎ、音もなく闇の中へ引き込みました。
ウルフはくすりと笑います。
「しー……」
耳元でそう囁くと、ウルフは男の腕を曲がらない方へ無理矢理曲げて、へし折りました。ぼきりと大きな音が響きました。
「───!」
声にならない声を上げ、男は崩れ落ちました。地面に付いた膝、天井に向けられる膝裏にウルフは躊躇うことなく足を降ろしました。すごい勢いです。膝のお皿がぱかりと割れてしまいました。
さて、やっと部屋にいる二人の意識がこちらに向きました。が、もう遅い。
リーダーの男の目の前にはウルフが立っていました。
急いで銃を構えますが、気付くと後ろに回っています。まるですばしっこい獣のようです。
「おじさん、その銃を俺に渡して」
リーダーの男の首に冷たいガラス片を当てながら、弾んだ声で言いました。リーダーの背中は恐怖で粟立っています。なにせ、今まで子どもごときに歯向かわれたことなんてなかったものですから。
「早く。あと、二人とも動いたらぶすって刺しちゃうからね」
鋭いガラス片は少し力を込めただけで、ぷちりと皮膚を破り血の玉を作ります。
「わ、渡すから、やめてくれ」
ウルフはしっかりと銃を受け取りました。ただ、首筋にはガラス片を当てたままです。
「これって、実弾?」
黒々とした拳銃の重さを手で感じながら、ウルフは二番目に入ってきた男に向けました。
響く発砲音。
ウルフは引き金を引いた指を離します。
「あれ、変な形」
男の太ももにぶっすりと刺さった筒状のモノを見ました。ウルフは銃に装填されていた弾が実弾ではなく、他のモノだと理解できました。
「あっ、あっ、リーダー……!」
太ももに筒状のモノを刺した男は戸惑った表情を浮かべ、リーダーの男に視線を送りました。
「はやく抜くんだよ! 眠っちまうだろ……っ」
ウルフはその言葉に安堵を交えたため息を零しました。
「あは、よかった、おれを殺す気はないんだね」
じゃあ、どうするつもりなの? とウルフはさらに深くガラス片を押し込みました。いくつもの血の玉が膨れ、弾けて首筋を伝います。
「私たちは言われたようにやってるだけだ。捕獲しろ、それだけだ」
「捕獲ねぇ。“ 大人 ”にされるんだね、きっと」
ウルフは頷き、勝手に納得しました。そして、麻酔銃の筒が刺さった男を見ました。抜くのが遅かったのかすでに朦朧としていて、今にも眠ってしまいそうです。
「おじさんそろそろ解放してあげるね」
そう言ったウルフはガラス片を、ちゅぽりと抜いてポケットの中へ。そして、男の手と自分の手を絡めると
「なっ、」
ぼきんっ。手首を折りました。
それからガラス片を入れた反対のポケットから縄を取り出すと、男の両手を縛りました。ご丁寧に、その際見つけた無線のコードも断ち切ります。
「じゃあね、おじさん」
光を湛えた琥珀の瞳を見たのを最後に、男の意識はなくなりました。お腹には、いつの間に刺さったのか筒状の麻酔が生えていました。
「あっと、二人~」
ウルフは背後で男らが倒れる音を聞きながら、扉を勢い良く開きました。その時きちんと、ガラスのつぶてを、投げるものですから扉の外の二人は思わず目を瞑ってしまいました。
それが命取りでした。
一人は顎に掌を、一人は鳩尾に膝を叩き込まれたのですから。
倒れようにもウルフに胸倉を掴まれ、倒れることもなく二人は扉の奥へ放り込まれました。
扉は無慈悲に閉まります。
「一丁上がり!」
ウルフはリーダーの男から頂戴しておいた鍵で扉をしっかり施錠しました。かちゃり。
ウルフは白い廊下を走っていました。監視カメラが所々あるので、死角を搔い潜ることがとても大変です。それでも頑張って進みました。
「ただ、この施設の地図がわからない」
そう、ぽつりと呟きました。
誰かに訊ねようにも、人がいません。不思議なことです。
ただ開いている部屋を見る限り、ここはどうやら病院のようでした。
「あっ!」
角を曲がったところでやっと一人、見つけました。白衣をはためかせ、ウルフの前を行く女性。
ウルフは駆け寄り、肩を叩きました。
「おねえさん」
「はひゃいっ!」
女性はとてもびっくりした様子です。見たところか弱く、鉄の臭いがしないので武器を持っていないように思います。
「ジョンっていうコックさんが、お昼過ぎここに来なかった?」
「ジョン……ジョアンヌ系統の人ですよね。き、来ましたけれど」
「どこ?」
「え、……それは教えることができません」
怪訝そうに女性はウルフの様子を窺います。それからそぅっと、腰にある無線機に手を伸ばしました。が、気付いたウルフに手首を掴まれます。
「どこ?」
ぎりぎりと強い力でウルフは女性の手首を締め上げます。しかし、女性は首を横に振りました。
「手荒なことはしたくなかったんだけど」
ウルフはポケットから血の付いたガラス片を取り出しました。それを女性の首もとへ。ちくりとした痛みに女性の顔はみるみるうちに凍り付きました。瞳に涙が溜まり、唇も震えています。
「にっ、……二階の一番右の部屋、……228号室です」
ウルフは女性の瞳の奥を覗き込むかのように、じぃと眺めると満足気に笑いました。花の咲いたような温かい笑みでした。
「ありがとね、おねえさん」
ウルフは素早く無線機のコードを切ると、廊下を走っていきました。女性はウルフの手が離れると、へなへなと崩れ落ちてしまいました。
そして、ウルフは何人かの大人を見かけながらも何とか228号室へ辿り着きました。何度か警報が鳴っていましたが、ウルフの逃走ではなくどこかで火事が起きていたようです。
ウルフは額の汗を手の甲で拭うと228号室の扉に手をかけました。思い切って扉を開きます。
「ジョン……!」
部屋の中にいたのはジョンでした。
ジョンでしたが、なんだか様子が可笑しいです。
部屋の中にぽつりとあるベッド。
そこにジョンは手と足を布きれでベッドの柵と結ばれ、拘束されていました。
「ジョン?」
ウルフはベッドに近づき、覗き込みます。
ジョンは焦点が定まっていませんでしたが、透き通った空色の瞳がそこにありました。あの濁ったような色ではありませんでした。
ジョンの唇は微かに開き、何か呟いているようです。ウルフは耳を澄ませて、言葉を拾い上げます。
「しろいはなだよぉ、きれいだねぇピーター、あかちゃんはいつくるだろぉねぇ、おおきくなったらぼくのつくる、おかしをたくさんたべさせてあげるんだよ、ぼくのおかしはとてもおいしいって、いってくれるんだよぉ、ねぇ、ぴーたー、べるやりりー、みんなみんなおいしいっていってくれるんだよぉ」
時折ばたつく手足は、布きれで無理矢理止められ、ベッドが軋みます。ウルフは心が締め付けられるようでした。ウルフはジョンの手を締め付ける拘束を一つ外しました。そのときです。
扉の外から話し声が聞こえました。
ウルフはベッドの下へ潜り込みます。じっと息を潜めました。扉が開いて、目に入ったのは二人の大人の足でした。どちらも手入れの行き届いたぴかぴかの革靴に、白衣の裾がひらひらと揺れていました。
「おい、このジョアンヌ系統もう使い物にならないだろ」
「仕方ないだろ、上から再手術しろって言われているんだから」
「気持ち悪いことばかり呟きやがって、“ ピーター ”ってあいつだろ?」
「大人になれない出来損ないの人間、さ」
「人間もどきに育てられてるからか? やっぱ03は質がいい」
「だから、再手術だろ。殺すより効率がいい。検査おわったあとで221に運んでおけよ」
「二度もあの機械に繋げられるのか、不憫な奴だな」
「全くだ」
けらけら笑いながら、一人は何かを置いて出て行きました。もう一人はベッドの下からではわかりませんが、ジョンに何かの検査をしているようでした。機械音と、ジョンの囁き声、軋むベッド。ウルフはいつの間にか唇を噛み締めています。
今、ウルフの脳裏に浮かぶのはただ一つだけ。
───大人になるための機械を破壊すること
ただそれだけでした。
検査が終わって、白衣を着た男は去って行きました。ウルフはそぅっとベッドの下から這い出し、ベッドの側に立ち上がりました。
睡眠剤を打たれたのか、ジョンはすやすやと落ち着いた寝息を立てています。
「過去を失うなんて、なんて可哀想なことなんだ」
ウルフはジョンに語りかけるわけでもなく、言葉をぽとりと落としました。強く拳を握りしめ、ウルフは228号室から抜け出しました。
目線を上げると、廊下の先にあるのは221号室。きっとあそこに、“大人になるための機械”があるのです。
ウルフは何も考えることなく、廊下を走り出しました。
ものの数秒で、221号室に辿り着き、ウルフは体当たりをするように扉を開きました。
手術台の横にある、機械。
管がいくつか伸びていて、何かの液に漬けられています。
「あれだ」
ウルフは大きく息を吐き出しました。
再び駆け出します。
なんと不愉快なことでしょう。
なんと胸くそ悪いことでしょう。
人を弄ぶように頭をいじくるだなんて、過去を改変するだなんて、村の思い通りにするだなんて。
「胸くそ悪い……っ」
機械の側まで駆け寄り、ウルフは踵を叩き入れようと膝を抱えるように身体に引き寄せました。
弾くように革靴が機械に伸びました、靴底が機械の側面に勢いよく吸い込まれたかのように思われました。
しかし、ウルフが踵を叩き込んだのは、遥かに柔らかくて、白いモノでした。
骨が折れるような感触と、壁に物がぶち当たる音。
ウルフがそのモノを視線で追いました。
冷たい汗が、背中はをぐっしょりと濡らします。
「シープ……?」
床に、壊れた人形のように横たわっていたのは、村を出たはずのシープでした。




