成長過程
シープとウルフは、目を覚ましました。
小窓から射し込む朝の光に目を細めて、二人はぐんと身体を伸ばします。
ウルフは丈夫なつくりの手袋を、ぎゅうと嵌めました。
シープはミルクティー色の髪を、ふわりと指で梳きました。
「おはよう、シープ」
「おはようございます、ウルフ」
青空が広がる今日は、旅立ちの日にはぴったりです。
シープとウルフは、身繕いを終えてから食堂へ向かうことにしました。
二人の服装は、もうここで用意してもらったような真っ白なものではありません。ラビットが着替えさせようとしていたのでしょう。ここの服をもらう訳にはいかないので、仕方なく着ることにしたのです。気味の悪い程、二人の身体に合った黒い衣服でした。
眉をひそめていたシープですが、チュニックの裾にあしらわれた繊細なレースに、ほんの少しだけ頬を緩めました。ウルフは、細身のシャツとパンツにベストを羽織り、動きやすいか確認を終えていました。
部屋を出ようと部屋の扉を開けると、寝ぼけ眼をこする三人の女の子が立っていました。
「わっ」
「おはよーございますー」
「荷物は積んで置くのでー」
「食堂へー」
シープとウルフの手から荷物を受け取り、乳母車のような台車に乗せると、すたこらと駆けていきました。シープとウルフは三人の女の子を見送ると、食堂に向かいました。
食堂に近づくにつれて、騒がしくなってきます。扉を開けると、シープのお腹の虫が思わず鳴いてしまうほどの香ばしいパンの焼けた匂いが漂います。昨日は気が付きませんしたが調理場にはジョンが立っており、てきぱきと子どもたちに指示をだしていました。彼のおかげで、食堂は回っているといってもいいようです。
食事を受け取った二人はピーターとベルの座るテーブルへ向かいました。ピーターは、ほんの少ぅしだけ恥ずかしさを滲ませた笑みを浮かべていました。そしたベルの傍らには乳母車が置かれ、中には淡い茶色の髪の赤ん坊がすやすやと眠っています。青空のような瞳は、今は瞼の下でした。
「みんな、これからいただきますをするよ~」
朝食を作っている子ども以外の子どもたちが席に着くのを見届けたベルが大きな声で言いました。その声に負けじと発した返事は、とても元気がいっぱいです。ピーターが、ベルと代わり喋りだします。
「ジョンの作る食事は、しばらく味わえないから、しっかり覚えておくんだよ!」
明るく返事をした子どもたちは悲しむこともなく、物憂げな表情を浮かべるわけでもなく、美味しそうにジョンの最後の朝食を食べ始めました。
「昨日来た赤ちゃんはジョンだったんだねぇ」
「あと何年後かなぁ? 次のわたしが来てるかも」
「向こうでも食べられるけれど、味わっておこう」
「大人になったらジョンは会いに来てくれるかしら」
口々に話し出す子どもたちに、シープとウルフは耳を澄ませています。しかし、何も言うことはありませんでした。四人が食べていると、自分の食事を持ってきたジョンが席に着きました。
赤ん坊に向けられた青空色の瞳が細められ、ふわりと微笑みます。
今日の朝食のスープは、ジョンの得意料理の一つです。たっぷりのタマネギやニンジン、ベーコンが入った澄んだ琥珀色のスープを、子どもたちは残さず食べました。
朝食の時間が終わり、ジョンの準備が整うと、いよいよお別れの時間です。子どもたちもそれぞれの作業を一度、中断すると玄関まで出てきました。
広がる木々を背に、シープとウルフが立っています。まだ、ジョンの姿は見えません。ピーターがシープとウルフの側にやってきました。
「引き受けてくれて、ありがとう」
「うん、いいよ。謝礼ももらってるし、ピーターの本音が聞けたしね」
「なんだか恥ずかしいから、言わないでおくれ。ああ、それから、この伝書鳩を使って」
そう言ってピーターが、ウルフに手渡したものは真っ白な鳩の入った鳥籠でした。ふっくらとした胸が可愛らしい鳩です。
「ふふ、頼んだぞ」
白い鳩を興味津々と眺めていたウルフは、ピーターに視線を投げかけました。にやりと笑うウルフに、ピーターも笑みを返します。
「シープに食べられないように、気を付けなくっちゃねぇ。はらぺこシープに焼き鳥にされないでね」
「たぁっくさん、ご飯を食べていたものねぇ。そのときは飛んでこちらにお逃げよ」
「どういうことです」
ぷくぅと頰を膨らませるシープに、ウルフとピーターはけらけらと笑いました。
のんきに鳩がくるっぽーと、ひとつ鳴きました。
ようやく笑いを抑えたピーターが、忘れるところだったとポケットから畳んだ紙を抜き出しました。ぺらりと広げられた紙は、ここから隣の村までの地図でした。
シープとウルフは顔を寄せ合って、地図に目を通します。
ピーターの細い指が、ぬっと伸びて地図をなぞりました。
「この道を真っ直ぐ進むんだ。いずれ花畑にたどり着く。そうしたら太陽の沈む方向とは逆に進むと丘が見えてくる。丘を越えたらたどり着くよ」
「ええ、わかりました」
シープとウルフが道の先を見据えていた時のことです。
「おねーさん、おにーさん」
「バイクだよー」
「だよー」
今朝、部屋の扉の前にいた三人の少女が駆けてきました。後ろにはバイクを引いた大柄な少年がついてきます。赤色だったラビットのバイクは黒く染められ、同じ黒色のサイドカーが取り付けられていました。サイドカーの座席の上には風から目を守るゴーグルも、三つ置いてあります。
まるで新しく買ったみたいにぴかぴかと黒く光るバイクにシープとウルフは目を丸くしました。
「わっ、すごぉい」
「サイドカーですか……わざわざつけてくれたのですか」
周りにいた子どもたちもきゃあきゃあとはしゃいでいました。
「あ、ま、前……拾って、仕組み、が気になってて、それで、えっと。バイクに一度、つけてみたくて、えと、……う」
大柄な少年は注目されることが苦手なのでしょう。顔を赤らめて、三人の少女の後ろに隠れるように下がってしまいます。しかし、大きな身体は隠れません。代わりに三人の少女たちが口を開きました。
「堂々としてなさいよー」
「おにーさんおねーさん、喜んでるー?」
「安全運転ねー。倒しちゃだめだよー」
ウルフはくすくす声を立てて笑うと、言いました。
「こんな素敵なバイクを傷つけないよう頑張るよ」
そうして話しているうちに、ジョンがやってきました。ジョンのために仕立てられたマントが風に煽られてひらひらとはためきました。花畑から風に乗って白い花びらが、子どもたちの上に落ちてきました。
「シープさん、ウルフくん。待たせてごめんね」
「いえ、大丈夫です」
「おれたちは先にバイクに乗っているから、最後の挨拶が済んだら、サイドカーに乗ってね」
ウルフは、バイクに跨りました。両足を地面に着けて、しっかりと踏みしめます。その後ろによじ登るように跨ったシープはウルフの腰に手を回します。二人は互いに身を預けながら、ジョンの姿を、子どもたちを見ていました。
「ジョンにーちゃん、頑張ってねぇ」
「にーちゃんみたく上手くないけれど、スコーンを作ったの」
「わたしはクッキーよ。途中で食べて」
エプロンを身に着けた数人の男の子や女の子が、小さな手からジョンにぐいぐいと押しつけたのは紙袋でした。まだ温かいものもあります。甘い匂いがジョンの鼻腔に押し寄せてきました。
「お前たち……」
ジョンは袋から一枚のクッキーを取り出すと、さくりと噛み締めました。細かく散りばめられたグミの実の淡い甘さが口の中に広がります。
「もう心配いらないなぁ……。これから頼んだよ」
周りを見渡すと、祝福の笑みを浮かべています。小さい頃から共に育ったベル、作る食事を美味しそうに食べてくれた子どもたち。楽しい時も、嬉しい時も、悲しい時も、苦しい時も、たまに腹が立つ時もあったでしょう。ジョンは宝石のように輝く思い出を一つ一つ、心の宝石箱に閉じ込めました。
ピーターが、ジョンの頭を撫でました。もう背丈はジョンの方が大きく、ピーターは精いっぱい手を伸ばさなければなりまさんでした。
ジョンは地面に片膝をつき、ピーターの小さな背中をぎゅうと抱き締めます。ピーターは榛色の瞳に柔らかな光を湛えると、ジョンの淡い茶色の髪に顔を埋めました。
「君はいつまでも、僕の家族だ。悲しくなったら、苦しくなったら、寂しくなったら、……懐かしいこの場所へ戻っておいで」
「うん」
ジョンは小さく頷きます。
「僕は変わらず、君を待っているから」
ピーターはそう言うと、最後にジョンが赤ん坊の頃のように頰を撫でました。ジョンは、寂しさや愛おしさを振り切ると立ち上がります。
それからベルの腕に抱かれる、赤ん坊にジョンは近づきました。柔らかな、自分と同じ色の髪を優しく撫でました。漂うミルクの甘い香りに、ジョンは愛おしそうに目を細めます。
「ここを頼んだよ、……ジョン」
そうして数歩、ピーターから、子どもたちから、愛しいこの場から離れました。
誰も泣きわめいている子どもはいません。皆、笑顔でジョンの旅立ちを祝います。ただ、一人のえいえんの子どもを除いて。
「さようなら、ピーター! さようなら、みんな! ずっと、忘れないよ」
大きな声を残して、ジョンはサイドカーに飛び乗りました。ウルフはゴーグルをジョンに投げるとエンジンをかけました。シープとウルフはバランスが崩れないように姿勢を整えます。振動に驚きながらもジョンは、シープとウルフに向かって頷きました。タンクを太ももでしっかり挟むと、ウルフは二人に聞こえるように言いました。
「行くよ」
大きく揺れると、バイクの車輪は地面を抉り、発車しました。ごうごうと耳元で唸る風に三人は息を飲みました。ジョンはもう後ろを振り返ることはありませんでした。
シープだけが、ふと振り返りました。和やかに微笑むピーターの姿がありました。
ピーターは、えいえんの子どもは、この場所で、ずっと。
ずっとたくさんの子どもだったあの子らを胸に抱いたまま、この場所で、ずっと。
咲いては枯れて、枯れては咲きほこる白い花を眺め続けるのでしょう。




