ある子どもの村 lll
「やっと泣き止んだね」
ウルフは言いました。
ピーターの腕の中では、小さな赤ん坊が言葉にならない声をあぅあぅと漏らしています。澄んだ青色の瞳は、青空のように輝いています。
「ウルフくんは昼食を食べないのかい?」
「お腹いっぱいだから、いいんだ」
「そう」
ピーターは赤ん坊の柔らかな頰を撫でます。凪の湖畔のように静かなピーターの雰囲気に安心したのでしょう。赤ん坊は小さな手でピーターの衣服を握って、だんだんと落ち着いてきました。
ベルはついさっき眠りについた赤ん坊を、揺り籠にそぅっと置くために出ていきました。空腹のシープとリリーは、昼食を食べにいきました。それらとともに喧騒は去り、壁時計のチクタクと時を刻む音が静かに響きます。
残されたウルフとピーターと拾われた赤ん坊は、とろとろとした微睡みのような空間に三人ぼっちです。
「ウルフくん、この子は白い花畑にいたのかい」
ピーターが訊ねます。榛色の瞳の端にちらつくのは悪戯っ子のような光です。ウルフはにっこり微笑んで、答えます。
「うん、そうだよ。一人で泣いてたんだ」
「グミの木からだいぶ距離があるけれど、気づけたんだねぇ」
「たまたまだよ」
ピーターは視線をウルフに移しました。ウルフの琥珀色の瞳に、ピーターの姿が映ります。それをじぃ、と見ていたピーターはくすりと笑います。ウルフも合わせて微笑みました。
「上手だねぇ」
「なんのことだろ」
二人のくすくすとこそばゆい笑い声に、赤ん坊はあぅと声をあげました。
「ミルクを取ってくるから、少ぉし抱っこしていて」
「……うん」
「手袋しているから、大丈夫さ」
躊躇うウルフにピーターは赤ん坊を押しつけました。それから、にやりと笑みを残してピーターは去って行きました。
どこからどこまで察しているのか、と昨日出会ったばかりのピーターに疑問を抱きながらウルフは慎重に赤ん坊を抱きました。まるでガラス細工のように脆く、花びらのように儚い壊れ物を扱うようでした。
「小さいなぁ」
焦っていたとはいえ、よく自分が花畑から赤ん坊をここまで運べたものだと、一人で感心しました。赤ん坊もそのことをよくわかっているのでしょう。ウルフの腕の中では安心して身体を預けていました。
ウルフの口端から、唾液と共にぽとりと言葉が滴りました。
───美味しそう
ウルフにとって、甘い香りのする赤ん坊はとても美味しそうに思えたのです。
そのことに気付き、ウルフは悲しくなりました。
◆
「はい、お昼ご飯」
ジョンが温め直した昼食を、シープとリリーの前に並べます。
「ありがとう、ジョンにぃちゃん」
リリーは大きな声でお礼を言いました。
ジョンはリリーとシープの向かいに座ります。哺乳瓶のミルクを人肌に冷ましていました。
するとシープは、何気なくジョンに言いました。
「ジョンさん、背が高いですねぇ」
ジョンは自分の頭のてっぺんを触ります。
「そうかな」
「ジョンにぃちゃん、ピーターの次に大きいもんねぇ」
シープは、首をことんと傾げます。なぜなら思い出したピーターの背は、ウルフとそう変わらないくらいだったからです。そんなシープの様子に気付くと、ジョンはにこりと笑います。
「年の話のことです、シープさん。僕は、ええと、白い花が咲いてから朽ちるまで、を十八回見ているから……十九かそこらの年齢です」
「白い花は、一年に一度しか咲かないのですか?」
「そう、今この季節しか咲かないんだ。シープさんたちは運がいいですね」
「そうですか。かなり長い間、ここにいるのです、ね……あれ?」
「どうかしましたか?」
「いえ……」
シープは、頭の片隅に小さな棘が刺さっているような違和感を覚えました。しかし空腹を訴える腹の虫の鳴き声にかき消されてしまいました。
そんなシープの隣ではリリーは、もふもふとパンを頬張り、咀嚼しています。こんなに昼食を食べて、おやつが食べられなくなったら大変です。
ジョンが、丁度良い温かさになった哺乳瓶を頰に当てました。うむ、と頷きます。あとは哺乳瓶を取りに来るピーターを待つだけでした。
本当は赤ん坊を見に行きたいジョンでしたが、ピーターに止められています。きっと自分の大きな身体では怖がらせてしまうのでしょう。
「赤ん坊、泣き声しか聞いてないなぁ」
ジョンがつまんなそうにそう呟くと、リリーがじぃっとジョンの瞳を見つめました。
「赤ちゃんねぇ、ジョンにぃちゃんと同じ目の色だよ!」
ふむ、とシープもジョンの淡い茶色の髪の毛や青色の瞳を眺めました。リリーとシープの遠慮のない視線に、ジョンは照れたように頭を掻きました。
「確かにそっくりですね。髪の毛の色も近いです」
「へぇ、そうなのかぁ」
ジョンは赤ん坊の容姿が自分に似ていることを聞いて、ますます赤ん坊を見てみたくなりました。哺乳瓶を届けるくらいならば、何の問題もないでしょう。
ジョンはピーターの言いつけを破り、赤ん坊とウルフがいる部屋へ向かうことにしました。
「哺乳瓶を……、ピーターに渡してくるよ」
そうしてジョンは、食堂を後にしました。
それから数分後のことです。入れ違いに、ピーターがやって来ました。
「ジョン、ミルクの準備はできたかい?」
そう言ったピーターは、シープとリリーを見ました。榛色の瞳は、くるりと回って部屋を見渡します。しかし、ジョンがその瞳に映ることはありませんでした。
「ジョン?」
「ジョンにぃちゃんは、赤ちゃんのとこに行ったよー!」
リリーはピーターに言いました。それを聞いたピーターは、大きく目を見開きました。すぐに、いつも通り朗らかな表情に戻りました。
「そうか……、あの子は……うん。ありがとう、リリー」
リリーはピーターに頭を撫でられてにこにこと笑っています。
「リリー、そろそろお昼寝をするといい。午後から疲れてしまうから」
「うん!」
リリーはシープの分の食器も片づけ、食堂から出て行きました。
そうしてひたりと静かになった空間に、シープとピーターだけが残されました。
「少し、お話ししてもいいですか?」
「もちろん」
一度、ピーターはキッチンに向かいます。しばらく、こぷこぷとお湯が沸く音がした後、紅茶を淹れたカップを持ったピーターが現れました。
「僕が紅茶を飲み終わるまで、ね」
シープの向かいに座って、頬杖をついたピーターは、シープに紅茶をすすめます。
一口、口に含んだシープは口元を綻ばせました。そして、小さな音を立ててカップをテーブルに置きます。揺らめく紅茶から、ピーターに視線を移しました。
「ピーターさん」
「なにかな」
「白い花が咲いてから朽ちるまで、を何回見たのですか」
ピーターは悪戯っ子のような笑みを絶やしません。
「教えて欲しいのかい?」
「ぜひ」
「ウルフくんには聞かなかったのかい?」
「ええ」
ぱ。とピーターは手のひらを開きました。
「五十」
シープは、ピーターを眺めました。艶々とした栗色の髪。煌めく榛色の瞳。ふっくらとした赤い頰。三日月型の唇。
その全てが、五十年という月日を生きてきた人間にそぐわないものでした。
「いつ頃からでしょう」
「君らと同じくらいかなぁ」
「そうですか。……貴方は──」
「残念。お話は、おしまい」
ピーターの手元のカップの中には、もう何も残っていません。
◆
扉が静かに開きました。
二人ぼっちのウルフと赤ん坊の部屋に、ジョンが入ってきたのです。
「君は……?」
声を潜めて、ウルフは訊ねました。ジョンは名を名乗り、ミルクを持ってきたことを伝えます。
ウルフはミルクの飲ませる方法を知らないので、赤ん坊をジョンに預けました。
何も知らない真っ白な赤ん坊を、ジョンは慣れた手つきで抱き締めます。まじまじと赤ん坊の髪色や瞳を覗き込み、ジョンは目を細めました。
「本当に……、そっくりだ」
ウルフは、赤ん坊からジョンへと、ジョンから赤ん坊へと視線を交互に移して、頷きました。
「そっくりだね」
赤ん坊はジョンの指をきゅうと握り締めました。花が綻ぶように笑う赤ん坊を見てジョンの胸は、早鐘のように鳴りました。なんて可愛いんでしょう。
まるで過去が見える鏡を覗きこみ、昔々の自分を見ているような錯覚に陥りました。
吸い込まれるような赤ん坊の瞳には、今の自分が映っています。このままずぅっと見ていたら、なんだか可笑しくなってしまいそうです。
その時でした。
「ねぇ、ミルク……あげないの?」
ウルフの声で、ジョンは現実に引き戻されました。哺乳瓶を傾けて、赤ん坊の唇に触れさせます。すっかり冷めてしまったミルクを赤ん坊はちゅうちゅうと吸い、夢中で飲み始めました。
ジョンが言います。
「かわいいなぁ、かわいいなぁ」
ウルフも言います。
「かわいいねぇ」
「ウルフくん。君がショーを見せてくれるんだよね」
赤ん坊にミルクを飲ませるジョンが唐突に訊ねました。ウルフはこくりと頷きます。
「うん。そうだよ」
「良かったねぇ、お前。こんなの最初で最後だよ」
ジョンはにこにこと微笑みを浮かべながら、赤ん坊を眺めました。一緒に見ようね、最後だね、とジョンがつぶつぶと囁きかけていました。赤ん坊はそれに答えず、ただミルクを飲んでいます。
赤ん坊を見ていると、時の流れが早く感じられます。いつの間にか、子どもたちはむくりと起き出して、午後の作業に向かうようです。
まだ寝惚けた子どもの泣き声が響きますが、それもそのうち止みました。
この間も、ずっとずぅっとジョンは赤ん坊を見ています。
「はぁ、かわいい」
ジョンはずっと、ずぅっと、見ています。
青い瞳は、ずっと、ずぅっと。




