ある子どもの村 l
「ねえねぇ!君たちも大人に捨てられたの?」
小さな子どもらが鈴が転がるような声音で口々に同じ言葉を投げかけていきます。そうしてシープとウルフの寝床から追い出されました。
シープとウルフは大きなヌイグルミやクッションに埋まるように横たわっていました。
ぼんやりと目蓋を開いたシープとウルフの視界に最初に映ったものは大きくて白いウサギのヌイグルミです。
ひ、と小さく悲鳴を上げて、身体を揺すりました。
「ほら君たちがうるさいから起きちゃったじゃないか、ほら早く作業にお戻り」
「はぁーい」
ヌイグルミに遮られて気がつきませんでしたが、どうやら何人かいるようです。子どものとたとたと軽ろやかに走る音が響きます。
「ぅ……」
ヌイグルミの隙間から見える本物の青空と見間違えそうな模様の眩しい天井に、シープとウルフは目を細めます。風船や恐竜の飾りが青空からつり下がり、ゆらゆらと揺れていました。
「あ、眩しかったよね。ごめんね」
シープとウルフと同じ年頃の男の子が二人の顔を覗き込んでいました。彼の落とす影が、シープとウルフの視界を明確なものとします。
「でも太陽が空にある時間だから、まだ天井は夜に出来ないや」
ウルフは訊ねました。
「ここは……?」
「子どもだけの楽園さ」
男の子が答えます。ゆっくりと身体を起こすシープとウルフはずっと、手を繋いでいたことに気がつきました。すぅ、と離すと互いの手のひらと手のひらの間には、乾いた血がこびりついていました。
「君らは何かあったのかい?……いや、それを聞く前にお風呂に入ってもらおうかな」
シープとウルフはまだ寝惚けているのでしょう。男の子の言葉にこくりと頷きました。
男の子はくすくすと笑います。
「君らの手は互いをしっかり握って離れなかったんだ。どうやってもね。服だけは着替えさせたんだけどね。血塗れだったから、裂いちゃったや。ごめんね。さて、その身体で歩き回られたら困るな」
シープとウルフの髪の毛が動くと、ぱらぱらと血の欠片が降ってきます。男の子は、二人に手を差し出しました。
「案内するよ、ほら立って」
シープは、その手を握りました。ウルフは自分が手袋をはめていないことに気付き、躊躇います。
この爪が、柔らかな男の子の皮膚を引き裂くことに怯えたのでした。
男の子はウルフの手の大きさに一瞬、驚きましたが、すぐに手を取りました。
男の子はヌイグルミの山から、すぽんと二人を抜き出します。
「ありがとうございます」
後ろでぽすぽすとヌイグルミの山が崩れる中、シープがようやく掠れた声を発しました。男の子は人懐こそうな笑顔を溢しました。
視線を交わしたシープとウルフは、男の子の方を向きぺこりと頭を下げて名乗ります。
「私は、シープです」
「俺はウルフ」
「へぇ、変わった名前だね。じゃあ、僕も名乗ろ」
男の子は、くるりと榛色の瞳を回して言いました。
「僕はピーター。この村のせきにんしゃ、かな」
◆
シープとウルフが眠っていた所からお風呂場までは少し距離がありました。この大きな大きな建物は廃れた定住型サーカスを改装したものでした。今は天井に青空が広がっていますが、夜になってボタンを押すと夜空模様の天井に覆われるのです。
「それは、すごいですねぇ」
「所々に山のように積まれているヌイグルミはなに?」
「あれは僕らの寝床。五歳の女の子が考えついたのさ。じきに夜になる。見ていてごらん、作業を終えた子どもらが潜っていくから」
「作業とは何ですか」
「子どもだけでも生きていくには何らかの働きをしないと、だめってこと。ご飯作る子ぉに、洗濯する子、それぞれ役割分担してあるの」
五十人が手分けしないとねぇ、とピーターは言いました。
その後も、シープとウルフはきょろきょろと辺りを見回しては、ピーターに訊ねます。
「質問攻めだね、仕方ないけれど。あとで僕からも仕返しのように質問するからね」
でも残念、とピーターは言います。お風呂場に着いたようです。赤い扉と青い扉が二つあります。ピーターが青い扉に手をかけました。そして赤い扉に向かって声をかけます。
「ベルー!旅人さんに色々教えてあげてー!」
「はぁい!ピーター、任せといて!」
返事とともに赤い扉が内側に勢い良く開き、シープの手はがっちりと掴まれました。
「同年代の! 女の子! わたしはベル! よろしくね!」
「私はシ」
シープは最後まで言うことが出来ないまま、扉の奥へと引き込まれて行きました。パタリと、扉が閉まります。
「ベルは元気な子なんだ」
くすくすと面白そうに笑いながら、ピーターは言いました。そしてウルフの腕を、ベル同様がっちり掴むと青い扉を押し開けます。
「さぁさぁ!男の子同士水入らずでお話ししよう、ウルフくん」
「わわ」
「いやぁ、しかし汚いねぇウルフくん」
ピーターは、ウルフの背中を泡立てた石鹸とタオルでゴシゴシと固まった血液やら泥やらを落としていきます。初め、ウルフは遠慮しましたが押しの強いピーターはタオルを奪い、拭い始めたのです。
「君らはどぉしてあんなところで寝ていたの。血塗れでさ」
「……逃げてきたから」
「……あぁそぉ。傷がなかったから、誰か殺してきたのかと思ったよ」
「……」
ウルフは黙ってしまいます。実際、あの時点では誰も殺してはいませんが「殺していない」という言葉は、こんな大量の血を浴びた姿であったのを説明がつかなくなります。
それに、シープは怪我が治ってしまうのですから。
「……どっちにしろ、君は選択してきた方だったんだねぇ」
「どういうこと」
ピーターは答える前に、桶のお湯をウルフに頭から被せました。ウルフは咄嗟に目を瞑ります。
ふるふると頭を振って水を飛ばすウルフを湯船の方へ引っ張りました。
白い湯気が湯の表面から、天井まで漂っています。ピーターとウルフが入ってもまだ何人か浸かれそうな湯船でした。丁度良い温かさの湯にウルフの心はほぐれていきました。
「わっ」
不意に、和んでいるウルフの背中やお腹、手足の傷跡を、ピーターは指でなぞっていきました。揺れる水面越しにまじまじと眺めながら言いました。
「だからこんなに戦った痕があるんだねぇ、ウルフくんは」
「だからって、選択したからってこと?」
「そ。僕らは、ここにいる子どもらは全員捨て子なの」
「全員?」
「全員。選択することもなく捨てられた。近くにね、子どもを不必要とする村があるの、無力で弱者で非効率で邪魔なんだってさ。快楽は求めるのにね」
「快楽?」
「ん、まぁそれはいいや」
「へぇ。で、その村がなんでまた関係するの」
「子どもは大きくなるでしょ?ここの子どもらだってオトナになるでしょ?」
「うん」
「オトナになるとね、自立してしまいたくなっちゃうの。こんなに居心地の良いここでさえも出て行きたくなってしまうの、人間は」
ウルフは黙って聞いています。お湯がとぷとぷと揺れました。
「ある時ね、捨て子ちゃんが来てから数日後に、ここからお隣の村に出て行った、オトナがいた。捨て子ちゃんと髪色がそっくりな、オトナ。偶然に偶然が重なってそれが何度も続いた」
ピーターは額に張り付いた前髪を後ろに掻き上げます。
「それがお隣の村では“当たり前”になったんだよ。白い花畑に捨てると子どもが大人になって帰ってくるって、ね」
「それは、すごく都合の良い……」
「そう。僕はそのことを初めて見たときには、とっても驚いちゃった。今でもオトナにならなくて、よかったと思ったのさ」
ウルフはきょとんと首を傾げます。
「今でも?」
「僕は白い花が咲いてから朽ちるまで、を五十回程見ているんだ」
「え」
ピーターは悪戯っ子のように白い歯を見せて笑いました。
「話はもうお終い。のぼせてしまうから、出るよ」
ピーターはウルフの手を掴むと、無理矢理湯船の外に連れ出しました。ウルフの肌から温かな液体が、ぼたりと垂れました。
着替え場では二人と入れ違いに、小さな男の子たちがお風呂へと駆けていきます。
◇
ウルフとピーターは、廃れる前は舞台だったところへ来ました。たくさんの椅子がずらりと並んでいます。
お風呂上がりにも関わらず、サーカスでの記憶をこじ開けられたウルフの背筋は粟立ちました。しかしピーターが手を引くので、表情には表しませんでした。
「やぁ、ベル。良い飲みっぷりだ」
「やっほー、ピーター。それとウルフくん。ジュースは一人一杯だよ!」
「取ってくるからウルフくんは、ここでお待ちよ」
シープとベルはすでにお風呂から上がっていました。
ベルはごきゅごきゅとお風呂上がりの山ブドウのジュースを飲み、ぷはぁと笑顔を作っています。そして空になったコップを持って、ベルはピーターについていきました。
その隣の席ではシープがベルのふっくらとした胸元を見ています。それから自分の胸を押さえて、悲しげな笑みを浮かべていました。
「なんて、不公平な……」
ウルフはシープの手のひらが押さえる先を見て、眉を下げてからなんとも言えない笑みを浮かべました。
「脂が少ない方が喰べ応えがあるよ」
「爪を剥いでやりましょうか」
咎めるような瞳でシープは、ウルフに視線を向けました。ちくちくと刺さるような視線に、ウルフは戻ってくるピーターとベルの方へと逃げました。
そうだ、とベルが手を叩きました。
「ねえシープちゃんとウルフくんはサーカス団で何かあったの?」
ベルの言葉に、周りにいた子どもたちまでもが驚きと興奮の入り混じった声を上げます。
子どもたちは今まで突如として表れた二人の迷い子が気にはなっていたものの、ピーターが二人を困らせないように制していたのでした。
そのため子どもたちは神経を張り巡らせていることしか出来なかったのです。
今となっては、サーカスという輝かしい響きに心が沸き立っていました。
「本当に!?お兄さんたちはサーカス団だったの!?」
「えー!すごいよぉ」
しかし、ウルフはざわめく子どもたちを気にかけることはありません。
ウルフは目をまん丸くして、シープの方へ寄ります。囁くように訊ねました。
「シープ言ったの?」
シープがふるふると首を横に振りました。お風呂上がりで火照っていた顔は、すでに蒼白く血の気が引いています。何かまたラビットが関わっているのかもしれない恐怖がシープの喉を締め付けているでしょう。声が掠れて出ませんでした。
そんなシープの顔色を隠すように、ウルフは体勢を変えました。
そして代わりに訊ねます。
「どうしてそれを?」
ベルが答えます。
「シープちゃんとウルフくんの側にあったバイクと荷物をここに持ってきていたんだけどー。そこで二人のことが載っている広告があったんだ」
ベルは待っててと言い残すと、数人の子どもを連れてどこかへ行ってしまいました。ピーターがウルフの方を見ます。榛色の瞳は少年らしく輝きを帯びて、ウルフに視線を浴びせます。
「ウルフくん、本当かい?」
「……う、ん。そうだよ」
ウルフは頷きました。こちらに戻ってくるベルの手には、自らの手で配ったこともある紙の束があったからです。きっとラビットが行く先々の村でらサーカスを開いても良いと思った村に配っていたのでしょう。
ピーターはその広告をまじまじと、隅から隅まで眺めます。口角を上げて、微笑みました。
そうしてピーターは広告をウルフの手に押しつけるようにして握りました。ウルフは早く手袋が欲しい、と思いつつピーターを見つめます。紙がくしゃりとよれてしまいました。
ピーターはきらきらと瞳を輝かせて、言います。
「ウルフくんとシープちゃんは、サーカスの舞台に立つ人だったのだね」
ウルフはシープの顔を見ました。シープもウルフを見ていました。ウルフは頷いて、応えました。
ピーターが言います。
「よかったら、ここで披露してくれないかい?」
子どもたちは期待に満ちた表情で二人を見ています。
シープとウルフは、あることに気がつきました。この広告には、二人の名前の下に、もう一つの書かれていることがあります。とてもとても小さな文字で。
“人を喰らう少年と死ねない少女による、血塗れパフォーマンス!”
カラフルで、いかにも楽しげな絵に目を奪われる子どもは気付くことはないでしょう。
にこりと微笑むピーターは一歩、シープとウルフに近づきます。
二人だけにしか聞こえない声で、囁きました。
「健全な方で、大丈夫だから。ね?」




