ある縋る村 V
シープは傷が再生します。
どんなに損傷が激しくても、心臓さえ傷つけられなければ生きることが出来ます。
それだけだと思っていました。
シープは知りませんでした。
気づいてはいませんでした。
自分の恐るべき本当の性質に。
シープは他人の怪我を癒すことが出来るのです。
「……嘘でしょう?」
シープがポツリと呟きました。
少女の肩の肉が抉られてぽっかり空いた穴が、シープの血の滴がぽつりぽつり落ちる度に、じわりじわりと再生しています。
真っ赤な血液がどぷどぷ湧き出ていた傷口が聞く者が不安になってしまいそうな音とともに治っていきます。少女も自分の身に何が起こっているのかわからないのでしょう。冷や汗を流し、震えながら、黙りこんでその様子を見ています。
「……っ」
シープは先程縄を切ったナイフの切っ先を見ました。そして、辺りを見回しました。
状況の飲み込めないリリシアは、突然振り返ったシープにビクリと震えました。
ウルフはぼぅっと自らの手を見つめたまま硬直しています。こちらの声は聞こえないようです。
シープは視線を戻します。少女がシープの瞳を、怯えながらも見つめていました。まるで、この世のモノではない化物を見るようでした。
「……あなたを」
からからに渇いた口から、喘ぐようにシープは言いました。少女の肩が僅かに跳ねます。
「助けます」
目の前で、シープの存在に怯える少女に、シープは声を絞り出しました。
そして、シープは躊躇うことなく、ナイフを腕に刺しました。
鈍色に光るナイフがシープの白い肌を切り裂き、真っ赤な血が腕を伝って、少女の傷に落ちていきます。
奇妙な音と共に、少女の傷口は瞬く間に再生していきます。中のピンク色のぶよぶよのお肉はすぐに瘡蓋に覆われ、それが剥がれると、綺麗な表皮が出来上がりました。
「これで、大丈夫でしょう」
少女の傷が治る頃、すでに塞がった傷があった腕を撫でながら、シープは言いました。
少女は口を、陸に上げられた魚のようにパクパクと動かしました。座りながら、後ろへ逃げます。シープは、困ったように微笑みました。
その様子を、リリシアは見ていました。黒いフリルを地面に広げて、その場にへたりこみます。
「……あ、あ、ぅあ」
間抜けな声をあげながら、リリシアはシープを凝視しました。
そして、勢いよく立ち上がりました。シープが反射的に構えた銃に怯えることもなく、シープの手を取りました。
「……えっ」
リリシアは、シープの手を強く握ります。その異様な様子にシープは引き金を引けません。
「ぁあ貴女は!貴女は救世主様だったのですね!」
「は?」
呆気に取られ、口が開いたままのシープに、リリシアはべらべらと、喋ります。
「ああ、道理で!そんなに心がお強いのね!だから神狼様と一緒にお出でくださったのですね!」
「意味がわかりま──」
「先程は失礼しました!さぁ!神狼様!救世主様!村に希望を!あたしたちは、貴方たちを待っていたのですよ!」
言葉を遮ろうとしたシープの声に被せて、リリシアは興奮を隠しきれない様子で口を動かし続けます。
「ウルフは神狼なんかではありません」
無気力だったウルフはシープの口から溢れた、“ウルフ”という言葉に反応しましたのか、大きく体を震わせ、顔を覆っていた手が地面に落ちました。
「シー……プ」
油の切れた、錆びた機械のように、ぎこちない動きで、顔をこちらに向けました。顔にべとり、と塗られている血が、ぬらぬらと光ります。シープに、語りかけるように、ウルフは唇を動かしました。
「おおおれは、じん、神狼なんかじゃ、な、ない」
リリシアに対する恐怖か、自分に対する恐怖。どちらのせいかわかりませんが、ウルフの声は震えています。
その壊れたロボットの様なウルフを気遣う様子もなく、迷いなくリリシアはウルフに言います。
「いえ!貴方は神狼様なのよ!」
「ち、が、違う、おれは、おれは」
「神狼様!早く村を救ってください!
他の村の力なんかなくっても、この村は続いていくように!」
リリシアが、ウルフに喋りかけているとき、シープはずっと黙っています。
リリシアが喋る度に、別の生き物のように動く長い髪を見ています。
リリシアに向けていた拳銃を、仕舞います。
撃つ“価値”もない、と感じたのです。
シープには、今のこの状況が、とても馬鹿らしく思えてきました。
冷え冷えとした感情が胸に溜まっていきます。シープはリリシアのことが、気持ち悪くて仕様がありませんでした。
蛇口から流れる水が、コップから溢れるように、シープは言葉を口にしました。
「ウルフは、ウルフです」
妙に、声が響きました。もう一生終わることはないと思っていたリリシアのお喋りも途切れました。
「先程から、ペラペラペラペラと五月蝿いですね。ウルフは“神狼”ではありませんし、私は“救世主”でもありません」
リリシアは、見えない鎖で縛られたかのように動きません。シープは続けます。
「“村を救え”?馬鹿なのですか?この村はあなたたちの村ですよ。自分たちで何もしない。他者の助けを受け入れない。でも、神には縋る」
「……それは──」
「こんな矛盾する世界に否定もしない、村人たちにも驚きです。“神”は存在しません。あなたたち自身が創りあげる虚像に、あなたたちは縋っているのです」
シープは無防備に一歩、リリシアに近づきます。
今、ボウガンを起動させて射てば、シープを貫けます。しかし、リリシアは動こうとしません。
「あなたは知ってますか?真実を知っていますね?禁忌の本に書かれていましたよ。おそらくあなたは、村人には言っていないのでしょう。私は知りましたよ。この村の“神”は、他村の人拐いだと」
「……ぁ」
「偶然少女が拐われたのをきっかけに、穢れなき少女を他村に売り払い、金を儲け、この村は成り立っていたことを知っていますね?今でこそ、その行為は無くなっているようですので、あなたの両親は偏見を持たず、再び他村との関係を望んでいます」
シープの怒りが静かに音もなく、浸ってくるのをウルフは感じました。
ウルフは静かに立ち上がりました。
「あなたの両親は正しいです。恐れずに立ち向かっています。
それに比べて、あなたの行動は、考えは、間違っています」
シープがリリシアの肩を軽く押しました。リリシアは糸が切れたかのように、床に座ります。シープは、冷たい翠玉色の瞳を、リリシアに向けました。リリシアはすぐに逸らします。
「変えようとする者に従いなさい。
全ての村人に真実を告げなさい。
森を抜け、他村と交わりなさい。
勇気を出し、立ち向かいなさい。
“神”に縋ることを、やめなさい」
細い手を伸ばしたシープはリリシアの顎を掴んで、顔を上げました。リリシアは、もう逃げることは出来ません。
「これが──」
シープは自嘲するかのような笑みを浮かべました。
「──人間ではないモノからの、救いの言葉です」
シープが手を離しました。リリシアは下を向きます。氷を当てられたように背筋は粟立っています。
俯いて動かないリリシアをシープは冷たく一瞥しました。そして、扉に向かって靴音を響かせました。
扉から出ていったシープは、完全に閉まる前に、振り向きました。薄く細い光が神殿内に筋を作ります。
「頑張って下さいね」
皮肉たっぷりの声でシープは言うと、去っていきました。
取り残されたウルフは、座り込むリリシアを見下ろしていました。顔を掻くと、乾いた血がパラパラと床に散りました。
リリシアが縋るような視線を向けてきました。
「……神狼様──」
“貴方は助けてくれるでしょう?”。
続く言葉が聞こえてくるようでした。しかし、ウルフは構わず、扉の方へ向かいました。
「おれは、神様なんか、じゃない」
言葉を置いて、行きました。
◆
ウルフは、このままリリシアの屋敷に帰って良いのかと、考えました。
少し迷って、結局シープの場所がわからないので、戻ることにしました。
屋敷に帰る途中、村人たちを見かけました。皆、それぞれの家に帰るようです。血塗れの顔を見られないように、俯いて走って帰りました。
ウルフは屋敷には扉から入りませんでした。周りの木などを使って、二階にあるシープの部屋まで登りました。
カーテンがあるので中の様子はわかりません。ノックを数回すると、シープが窓を開けてくれました。
「お帰りなさい」
シープは優しい笑顔で、ウルフを迎い入れました。
俯いてにお風呂に入るよう促します。
素直に従ったウルフは熱い湯船に浸かりました。まだウルフの舌には甘い血の味がこびりついて、離れません。
「……はぁ」
ウルフはブクブクと、湯船に顔を沈めました。
お風呂から上がると、シープが仁王立ちしていました。
肩に鞄を提げて、マントを羽織っています。
ウルフに荷物を詰め終わったリュックサックを押し付けると、シープは言いました。
「今から、この村を出ます」
ウルフは、予想していたことなので大きく頷きました。
ウルフが窓から出ようとすると、シープは足を止めました。
「どうしたの?」
「少し時間を、ください」
シープはポーチから手帳を取り出しました。一枚破ると、黒炭を紙に押し付けました。そこにガリガリと文字を書いていきました。
「つい……言い過ぎてしまいました。寝床までもらっていたくせに、私は馬鹿です」
シープは文字で埋め尽くされた紙切れを小さなテーブルの上に置きました。
「ただの自己満足です」
ウルフに言いました。ウルフに酷いことをされたとしても、リリシアを傷付けたことには変わりません。
言葉は一生、彼女にまとわりついて、離れないでしょう。
「……おれの代わりに、ごめん」
ウルフは小さな声で謝りました。
「……さぁ、行きましょう」
シープとウルフは窓から木を伝って降りました。
ウルフが降りると、シープはそれについていきました。
家々の前に灯る火を頼りに、シープとウルフは村の外へと繋がるところへと向かいました。
村人は誰もいません。
シープとウルフはすぐにその場所へ辿り着けました。しかし、草や葉っぱ、蔦が邪魔をしてそこから先には進むのが困難でした。
「行きはよいよい、帰りは怖い、ですね」
シープは口ずさみました。
ウルフは手袋を外すと、爪で邪魔な葉を切って進みました。
ゆっくりゆっくり進んでいると、
「シープさん!」
声をかけられました。ランプを二つ掲げて、ララが駆け寄ってきます。長いスカートを穿いているにも関わらず速いです。
「ララさん!?」
「こ、これを。リリシア様からです」
ララがシープに小包を手渡します。
シープとウルフが準備と移動をしている間に、リリシアはふらつきながらも屋敷に戻り、シープからの置き手紙を読んだのでしょう。
ララがシープにランプを片方、渡しました。ランプの明かりに照らされたララの頬を涙が湿らせています。ララは頭を下げました。
「シープさん、ありがとうございます。あなたが言ってくれたから、この村の真実を知りました。シープさんとウルフさんのお蔭で、村は救われました」
顔を曇らせたシープは、首を振りました。
「私に、そんな綺麗な言葉は必要ありません。リリシアさんに、謝罪の言葉を伝えてください」
シープとウルフは、ララよりも深々と頭を下げました。
「ランプ、ありがとうございます」
そして、森の方を向きました。
二人は奥へと進みます。
ララはその二人の姿が草木に、完全に覆われるまで見送りました。
シープは村が全く見えなくなった頃、足を止めました。
ウルフにランプを持たせ、貰った小包を開けました。
『塗り薬』と書かれた紙切れと、ねっとりとしたクリームが入った小瓶が入っていました。
試しに、ウルフの擦り傷に塗ってやると、とても良く効きました。
シープとウルフは互いを見合うと、笑い合いました。
◇
あるところに、森の奥深くに村がありました。
木漏れ日が射し、明るく暖かな村がありました。
他村から来た人々を、金色の髪を揺らして、村人が迎えます。
他村からの商人の目的はとても良く効く薬でした。
薬の調合者である、黒髪の女性は愛らしく微笑みました。
「ようこそ、あたしの村へ」




