ある縋る村 Ⅱ
本の苦しい息遣いを感じてしまう感覚に陥るほど、壁目一杯の棚に詰められていました。
充満する古い、香り。乾いた頁を捲る度に、掠れた音が聞こえてきます。
数個ある、あまり使われていない机はララの手によって綺麗に磨かれていました。その椅子に腰かけるシープは本を読んでいました。赤い革の表紙に、金の文字で"ルーロの歴史"と書かれていました。もしシープがこの本を机に立ててしまえば、向かいからはシープの頭が見えなくなってしまうほど大きな本でした。
そして、その大きな本を読むシープの傍らには数冊の本が積まれています。
プチ、とシープが唇の端の肉を破る何度目かの音が聞こえます。口内にじわじわと鉄に似た味が広がります。それと同時にシープが目で追っていく文字が、情報が頭に流れ込みます。
ふっ、と集中して読み込むシープに薄く影がかかりました。
「シープさん。飲み物はいかがですか?」
ララがティーセットの乗ったトレイを持ち、立っていました。本から顔を上げ、焦点の合っていない瞳でララをしばらく見たシープは、
「……ん?」
と、首を傾げました。ララは一瞬目を丸くしましたが、すぐに微笑みました。
「ティータイムにしませんか?」
シープはやっと、声をかけられていたことに気がつきます。仄かに頬を染めながら言いました。
「は、い……っ。頂きます……」
「随分集中していたのね」
細かな薔薇の絵が描かれたティーカップに、紅茶を注ぎながらララは言いました。薄く白く湯気が、天井へ向かって立ち上ぼりました。
「すいません、つい……」
ティーカップを受け取ったシープが申し訳なさそうに言いました。
「いいのよ。よくリリシア様も、そのように没頭していたの」
ミルクと砂糖を入れた紅茶を、小さなスプーンで混ぜながらシープは、話を切り出しました。昨日から気になっていたことでした。
「そういえば、リリシアさんの両親はいらっしゃらないのですか?」
ララは笑みを浮かべつつも、少し困った表情を作ります。トレイから、クッキーの並ぶ皿を机に置きました。
「あ、言いにくいのなら大丈夫です……」
気になっただけですから、と言うシープにララは人差し指を口元に持っていきました。
「全然平気よ。でもリリシア様には内緒、ね」
「え?」
「リリシア様は、この話を嫌うから」
「わかりました」
ララはシープにクッキーを勧めました。有り難く頂き、シープはそのクッキーをかじりました。
ララは頬にかかった金色の髪を掻き上げると話始めました。
「 この村ってとても閉鎖的なの。森の深いところにあるし、草木が生い茂っていて入り口が見えないのよ。でもね、そろそろこの村だけで村人を支えていくのが困難になってきたのよ」
「……」
シープは昨日通った道を思い出して、頷きました。あの森の暗さでは、食物も充分に育たないのでしょう。
「だから、リリシア様のご両親……村の村長夫妻は、他村と交流出来るように交渉しているの……。これからも、この村で生きられるように……」
「そうなのですか」
「それで今、村を仕切っているのはリリシア様よ。リリシア様はとても頭が良い……十四歳とは思えないの」
シープはリリシアが村長代理を務めていることに純粋に驚きました。リリシアとシープの年齢は変わりません。思わず訊ねました。
「で、でも……どのように仕切っているのですか?」
ララは憂いを帯びた色素の薄い瞳を伏せると、本棚に歩みより、一冊の本を抜き出しました。真っ黒い革の表紙で、題名は何一つ書いていません。そして、その本には、錠がついています。
「リリシア様は混乱したの……壊れてしまったわ……」
ララは黒い本を机に、慎重に置きました。そして、話を続けます。
「シープさんは村の歴史の本を読んだでしょう?それで、わかっていると思うのだけれど、この村には伝説があるの」
「ジンロウ……でしたよね」
「そう。"神"の"狼"と書いて、神狼と読むの。その神狼様は、村を救う……」
ララは漆黒の本を、シープに差し出しました。シープはおそるおそる受け取ります。
「そこに全てが記してあるわ……村人が読むことは禁忌なの……。でも、リリシア様は、何も教えてくれない……。
シープさん──」
ララは胸の前で祈るように手を組むと、シープに言いました。
一人の少女に願いました。
「──お願いします。村の人々に全てを教えてください」
◆
広場がありました。村の女たちがベンチに集まり、談笑をしています。その周りでは、子供らが鈴の鳴るようなはしゃぎ声を発しながら走り回っていました。
そして、その広場に繋がる道がありました。敷石はでこぼことして、整備がなっていない道でした。
その道の真ん中には、ウルフがいて、隣には黒い塊がありました。
「リリシアさーん?大丈夫?」
ウルフは黒いフリルの塊に声をかけます。
「うぅ~……」
リリシアの呻き声が、フリルとフリルの隙間から溢れました。その、黒いフリルの塊の正体は、段差に蹴躓いて転倒したリリシアでした。
珈琲色の髪を揺らしながら、体を起こします。
「大丈夫では……、ないわよ……」
リリシアはあまりにはしゃぎ過ぎた結果、転びました。そのことに赤面しながらもウルフに手を差し出しました。
「……ん?」
ウルフは首を傾げながら、リリシアの顔を見つめました。リリシアの眉が若干つり上がります。
「起こしてくれる?普通、女の子が目の前で転んだら手を差し伸べるのよ」
「ふぅん。そういうものなんだ」
勉強になった、とウルフはリリシアの手を取り、かなり荒く引き上げました。
「ありがとう」
リリシアは礼を言うと、さきほどの恥を無かったことにするかのように、にっこりと微笑みました。
「ウルフさん。あそこにいる人たちに挨拶してきたら、どう?」
リリシアは提案しました。
「リリシアさんは?」
「あたしは……嫌われているから、ね」
訊ねたウルフに、困ったような笑みを浮かべたリリシアは言いました。
「何で、嫌われているの?」
ウルフはさらに訊ねました。
「皆が嫌なこともしないとならないのよ。村を救うためには」
真剣な眼差しで言うリリシアに、ウルフは首を傾げました。そして、思いました。なぜ、リリシアはこんなに悲しそうな顔をしているのだろうか、と。
「リリシアさんは、皆のこと思ってやっているんでしょ?なら、平気だよ」
そう言って、ウルフはリリシアの手を引きました。そして、困惑するリリシアを他所に、ウルフは広場へ入っていきました。
突然の来訪者に、広場の人々は驚きました。なぜなら、この村には存在しない──リリシアと似たような髪色──子供だったのです。
さらに、その子供の後ろにいるのは、リリシアでした。村人たちは、感情を隠せる仮面のような笑みを貼り付けて、子供たちを自分のもとに呼び寄せて、二人を迎えました。
「あら?リリシア様……と、」
「おれはウルフ」
「あらあら、そうなの。ウルフくん、ね 」
村人の作った笑顔に、同じく作り笑顔を返すウルフの下腹部に軽い衝撃がありました。
ウルフが下を見ると、青色の瞳と、淡い金色の髪の男の子がウルフに抱きついています。呼び止める、母親の元から離れて、やって来たようです。好奇心が溢れ出る瞳がウルフを見つめています。
「おにいちゃん。リリシャアさまの、おともだち?おにいちゃんも、まほうがつかえるの?」
呂律の回らない口調で、男の子が質問します。
そのあどけない仕草と、愛らしい姿にウルフは自然と笑みを浮かべました。
「おれは、魔法は使えないよ。だけど、おれはリリシアの友達だ」
「ほんとう?」
男の子は、ぱぁっと顔を輝かせ、ぷくぷくの頬っぺた無意味に膨らませてから
「ぼくのおねいちゃんが、どこにいるかしってる?」
訊ねました。
「へ?」
「言わなくていいのよ!」と男の子の母親が男の子に言います。しかし、男の子はそのまま言葉を続けます。
「おねいちゃん、きのうのよるからいないの。でていったきり、もどってこないの」
「……そうなんだ。ごめんね、おれは知らないや」
ウルフはその男の子の頭に手を置きました。手袋越しからでも伝わる温もりと、髪の柔らかさに驚きつつも、力を入れすぎないように撫でました。ウルフの手が離れると、男の子はウルフに抱きついたまま、リリシアの方を覗き見ました。
「リリシャアさまは?なんで、おねいちゃんがいないのかしってる?」
リリシアは突然話しかけられたからなのか、一瞬肩をピクリと震わせました。
しかし、すぐに膝を折り曲げると、男の子に視線を合わせました。
「大丈夫よ、ただ順番が来ただけよ」
「まえは、となりのいえのおねいさんだった」
「そうよ、ただそれだけ」
「おねいちゃんは、だいじょうぶ?」
リリシアはニコッと笑いました。
「神のご加護がついているわ」
「かみのごかご?」
「ええ」
「さぁ、行くわよ」リリシアは立ち上がり、ウルフの手を取りました。
ウルフは男の子を体から、そっと引き剥がすと、男の子に手を振りました。
「じゃあね」
「えぇー、いっちゃうの?ぼくらとあそぼうよぉ」
「ごめんね、今度時間があれば」
そうして、ウルフとリリシアは広場を速足で出ました。
黙ってリリシアは広場を出たところにある小道へ行きました。そこには、茂みに隠れていた格子の門があります。袖から鍵の束を取り出し、錠を開けました。
戸惑うウルフなんてお構い無しに、リリシアは奥へ進みました。門は開けっ放しでした。
「リリシアさん?」
「……」
「……どこに行くつもり?」
「……」
リリシアはウルフの言葉を無視して、靴の底を鳴らして歩きます。
「……おいっ」
ウルフはリリシアの手を振り払いました。その拍子にリリシアは尻餅をつきました。リリシアはうつ向いたままです。
「急にどうしたんだよ。何かあるなら言ってくれない?」
「……」
リリシアは口を開きません。ウルフはそんなリリシアを軽く睨みつけ、
「おれ、シープのところ戻る」
ウルフは反転しましたが、服の裾を、リリシアが掴みました。ウルフが振り返ると、リリシアはポーチから小さな瓶を抜き出します。そして、差し出しました。
「これ……食べて」
「は?」
「いいから、食べて」
そう、お願いするリリシアの瞳は、真っ直ぐウルフを見つめていました。何か覚悟を決めたように、口をきゅっと閉じています。
「最初から、言えばいいのに」
ウルフは、小瓶を受け取りました。
小瓶の蓋を開け、手のひらに出します。
コロン。褐色の、小さな塊が転がりました。
「何これ」
リリシアは言いました。
「チョコレート」
チョコレートか、と呟きながらウルフはそれを眺めました。"甘く""美味しい"チョコレート。
ウルフは口に入れました。奥歯でそれを砕きます。口内の熱で溶けたチョコレートは、トロリと舌に絡みつきました。
それは、とてもとても──
「──甘い……」
リリシアは、たおやかに微笑みました。




