ある嘘の村 Ⅳ
お腹がすっかり満たされたシープとウルフは、エミーナとフィールと共に談笑をしました。
エミーナは特にサーカスの話を興味深そうに、憧れるように聞いていました。
「サーカスという場所は、とても素敵なのでしょうねぇ」
その言葉に、シープとウルフは困ったような曖昧な笑顔を返しました。思い出すあの生々しい異様な空気を脳裏に浮かばせ、そしてすぐに、消しました。今、ここで思い出すことはなんだか勿体無いものです。心の奥底へとずぶずぶと沈めました。
ふと窓の外を見ると空にぽっかりと浮かぶ雲が、薄い朱色に染まりつつあります。
シープとウルフはそろそろ宿に帰ることにしました。
「今日はありがとうございました」
「いえいえ、こちらこそ助かったわ。お手伝い、ありがとう。村はいつ出るの?」
「明日には出ると思うー」
三人が話している間、フィールはあっちの戸棚を開けたり、こっちの棚を覗いたりと、ごそごそと棚を漁っていました。エミーナがそれに気付き、声をかけます。
「フィール、何をしているの?」
「んー……確か、ここに地図があったはずなんだけど……」
「あら、それなら奥の箱に仕舞ったわ」
「そっか。シープちゃん達にあげようと思ったんだけど」
「本当ですか? 助かります」
「明日、村を出るに寄ってもらってもいいかな?」
「大丈夫です」
シープとウルフは外に出ました。
フィールが「宿まで送るよ」と言ってくれました。しかし、これ以上お世話になるわけには、と丁重にお断りしました。
「また明日ね」とエミーナが手を振りました。
二人は、挨拶をすると帰路に就きました。鞄は行きと違い、とても軽くなっています。
シープとウルフは手を繋いで、宿まで歩きました。
「魚、美味しかったです」
「あんまりお腹にも負担はなかった。今度捕ってみようかな」
「どうやってですか?」
「おれが、爪で」
「無理です」
「木の棒に、糸と針をくくりつけて」
「ふぅむ。釣り針が必要ですね」
宿に着きました。シープとウルフは荷造りをして、入りきらなかった食料を少し食べて、シャワーを浴びると、ベッドに寝転びました。
明かりを消すと、闇が漂います。
シープはふわぁ……と欠伸をして、眠る体勢に入りましたが、ウルフが声を発しました。
「フィールさんは、ハルトさんだったね」
「……そうですね」
「フィールさんは、あれでいいのかな」
シープは少し考えて、口を開きました。
「…………それは……って、え?ウルフ?」
しかし、ウルフはすでに寝てしまっていました。くぅ……くぅ……、と寝息が聞こえます。あまりにも静かだったので、眠気に打ち勝てなかったのでしょう。
やれやれとばかりに溜め息を吐いたシープは、瞼を閉じました。
◇
朝になりました。
窓から見える空は、清々しい蒼色です。
日の光に急かされて、まずウルフが目を覚ましました。大きく伸びをすると、隣に目を向けます。
シープがすやすやと眠っています。シープを起こすために、ウルフは手袋を着けた指で、かなり乱暴に頬っぺたを突っつきました。
「うにゅっ……にゃにするんでひゅか!?」
シープは目を開くと同時に、頬っぺたを突っつかれたまま、ウルフに言いました。
「起きなかったから」
「他に良い起こし方、なかったのです?」
平然と言うウルフを、シープは軽く睨みました。
二人はベッドから飛び降りると、ほんの少し体を動かしました。今日、村を出るので、動きを軽くするためでした。
シープとウルフは拳銃の掃除もしました。
用意が整うと、シープとウルフは宿の主人に代金を払い、エミーナの家へ向かいました。
こんこん。ウルフは扉を叩き、
「ウルフです」
きちんと名乗りました。
エミーナは、今回はウルフが後ろに下がってから、扉を開きました。
ウルフとシープが笑みを向けると、エミーナが嬉しそうに微笑みました。
「いらっしゃい」
昨日、ハーブティーをご馳走になった部屋に、再び招かれました。手招きをしたフィールの元に二人は向かいました。
フィールが広げていた地図をくるくると纏めると、シープに手渡します。
「はい、これ」
「ありがとうございます」
フィールは「いえいえ」と笑いました。そして、台所へ向かいました。
「これから疲れるだろう?お茶を用意したんだ。飲まないかい?」
シープとウルフはありがたくいただくことにしました。
フィールがお茶を淹れている間、エミーナは向かいに座っている二人を、どこかぼうっとした様子で見つめていました。
シープとウルフは、テーブルに地図を広げて、真剣な眼差しで視線を動かしていました。時折、ぼそぼそと囁く声が聞こえます。
テーブルに肘を付き、組んだ手に顎を乗せたエミーナは呟きました。ぽろっと、思わず溢してしまったようでした。
「いいわねぇ」
シープとウルフは視線を上げて、エミーナを見ました。きょとん、と首を傾げます。
「何がですか?」
エミーナは自分が声を発したことに気付いていなかったのでしょう。「ああ」と言うと、ほんのり頬を染めました。
「……昔、ハルトがいたとき、よくそうやって遊んだのよ。それを、思い出して……」
目を細めて、淡い夢を見るように言いました。目線を棚に飾ってある色が薄れた写真に移して、小さく溜め息を吐きました。溜め息と共に、エミーナの唇から言葉が転がりました。不安気に、悲しげに。シープとウルフの耳に滑り込みます。
「私は、ハルトに……忘れられていないかしら……」
カチャン。ハーブティーを注いだティーカップが、エミーナの前に置かれました。エミーナの吐息と、ハーブティーの湯気が、空中で混ざりました。
フィールのどこか安心する、柔らかな声が、エミーナに降りかかります。
「忘れていないさ。──絶対に」
フィールは春の陽射しのように微笑みました。
瞳を潤ませたエミーナはほっとした様子で、ティーカップに、唇をつけました。
「彼が、戻ってくるまで、よろしくね」
頬を桃色に染めながら、囁くように呟きました。
シープとウルフは「ありがとうございました。さようなら」と声を揃えて言うと、軽い足音を立てながら出ていきました。
エミーナとフィールは、二人に手を振って見送りました。
エミーナとフィールは静かな部屋に戻ります。テーブルには、お茶のなくなったティーカップが二つと、半分ほど注がれたティーカップが一つありました。
「あっ」
不意に思い出したかのように、エミーナは声を上げました。
「どうかしたのかい?」
カチャカチャとティーカップを片付けていたフィールが訊ねます。
「忘れていたけど、今日は外に出ても良い日だったわ。少し出掛けるわね」
フィールの返事を待たずに、エミーナは上着を羽織ると、出ていきました。
フィールは呆気に取られたように、エミーナが出ていった跡を見ていましたが、ふっと微笑みました。誰もいない部屋で、呟きました。
「いってらっしゃい」
◆
シープとウルフは、村の外を歩いていました。頂いた地図を片手に、きょろきょろと辺りを見回しています。
「シープ、ちょっと止まって」
ウルフの耳は、ある微かな音に気づきました。
「何です?」
「なんか、足音」
ウルフが答えた、そのときです。
「シープちゃん! ウルフくん!」
シープとウルフのだいぶ後ろの方から、二人を呼ぶ声が聞こえます。
振り返ると、エミーナがスカートを翻しながら走ってきていました。
「……」「速いな……」
スカートの割には、けっこう速いです。
シープとウルフに、やっとのことで追いついたエミーナが、肩で息をしています。何か喋ろうとしているようですが、まずは呼吸を整えさせました。
「ふぅ……はぁー……」
「どうしたのですか?」
エミーナはえへへ、と子供のように微笑みました。
「こ、これ……旅で役に立つかなぁと思ったの」
そう言って、エミーナはウルフの手に膨らんだ麻袋を無理矢理渡しました。
「え、良いの?ありがとう!」
その場で無遠慮に袋の口を開いたウルフは、表情を明るくしてお礼をいいました。
袋の中には、日保ちする焼菓子と黒パン、そして小さな小瓶に入ったイチゴのジャムが入っていました。
「いいの。気をつけてね」
エミーナはにっこりと笑いました。
「あなた達に、幸せが訪れますように」
シープとウルフは、一瞬目を見開き驚いたような表情をしました。しかし、表情を緩めると、エミーナに言いました。
「貴女も、お幸せに」
シープとウルフは一礼すると、エミーナに背を向けました。そして、歩み始めます。
エミーナはその場所から動きません。唇を開き、穏やかな笑みを浮かべて、
「私は、幸せよ。村の皆の優しい嘘も。愛しい人の温かい嘘と、とても愛しい人の隣で生きていけることも、全て──」
先を行く、シープとウルフに言いました。
「……え?」
二人が、振り返ったときには、すでにエミーナは走り去っていました。
シープとウルフは立ち止まり、その小さくなる後ろ姿を見つめました。
風が吹き、シープとウルフの髪を、マントを優しく撫でました。
「……この村の人は、皆嘘つきだ」
ウルフは、言いました。
「とても、思いの込もった嘘ですね」
シープが言いました。
二人は、村をしっかりと目に映すと、道を歩いていきました。
雲一つない、澄みきった蒼い空の下を、二人は手を繋いで進んでいきました。
それぞれの想いが詰まった"嘘"が、今日も村に溢れます。




