川にはたくさんの
「ひゃあっ」
「あっ……と」
シープはずるり、と足を滑らしました。慌ててウルフが手を伸ばしましたが、少し遅かったのです。
シープは派手に転びました。
シープの革のブーツが砂利の中に混ざる、大きめの石を踏み外したのです。
「うぅ……」
シープが自分の手のひらを見ます。擦ったのでしょう。ぷくりと、小さな血液の玉がいくつか浮かび、弾けて手首まで伝いました。
「痛いです……」
「休もうか……」
ウルフはシープを抱き、起き上がらせると、近くの濡れていない岩に腰かけさせました。シープの荷物を受け取り、木の枝に引っ掛けます。
そして、ウルフはシープの隣に座りました。
シープはもう一度手を見ると、血は止まり、皮膚の傷は再生していました。溢れた血液だけが、まだ乾かずに皮膚を濡らしていました。
「……ウルフ、舐めます?」
シープが思いついたように言い、ウルフに両手を差し出しました。
「え?いいの?」
「アーデル村でたくさんご飯を食べたので、ご褒美です」
「やった。ありがとう」
ウルフはシープの手を掴むと、血液をペロリと舐めました。もう片方の手の血も残さず舐めとりました。
「んぅ……、美味い」
「いつまでも人間のお肉を食べていないとどうなるのかわかりませんが、次の村では考えものですね」
「ん。そうだね」
ぺろ、と自分の指に付着したシープの血を舐めながら言いました。
シープが自分達が来た方向を見ました。そして、溜め息を吐きました。
「どのくらい歩いたのでしょうね」
「一晩越しているから、それ抜くと、丸一日歩いているんじゃないかな」
「はぁ……まだまだかかりそうです。日が暮れる前に、もう少し進みましょうか」
シープは立ち上がろうとしましたが、ウルフが止めました。
「あと十分は休もう?」
異常な早さで怪我が治るシープですが、疲労は溜まっているはずです。通常ならバランスを保てるシープが、先程は転びました。ウルフはそんなシープを心配していたのです。
「でも……」
「じゃあ、おれがシープを背負う」
「はい?」
「シープはリュック背負って、鞄持って」
ウルフはシープにリュックを背負わせ、鞄を掛けました。
「よいしょおっ」
掛け声と共に、シープを強制的に背負います。荷物とシープの重さが、ずっしりと感じました。
「ウルフ?え?ちょっと……!」
「川沿い、川沿い~」
ウルフはシープの声を無視して、ひょいひょいと進んでいきます。
ウルフの体力は完全ではないですが、先程のシープの血液でかなり回復していました。
アーデル村を出たときよりも元気があるように見えるのはシープの気のせいでしょうか。
「ウルフ!速いです!速いです!」
「聞こえなーい」
ウルフはにやり、と笑いながらあっちの岩を跳んで、こっちの砂利を散らせて、ぐいぐいと進んでいきました。
◇
ウルフは、一時間程走っています。まだまだ走れそうです。
しかし、シープがウルフの首襟を引っ張りました。
「ウ、ウルフ。止まってくださ……」
ウルフは気づきません。
「ウルフ!」
シープはウルフの首を、きゅっと絞めました。「ふぐぅっ」とウルフが呻きます。
「ゲホッ……シープ!? おれ死んじゃうよ!?」
「一度降ろしてください……ぅ」
「え?どうしたの」
シープは口元を押さえていました。
「気持ち悪くなりまして……。ウルフ酔いです」
シープの機嫌も気分も悪くなっています。ウルフは急いで近くの石にシープを降ろしました。翠玉色の瞳でウルフを睨みます。
「ウルフ、揺れすぎです。揺らすのは止めてください」
「それ、おれに動くなと言ってるの?」
シープはよろめきながら、健気にも立ち上がりました。ウルフが背中を差し出しましたが、シープは首を縦には振りませんでした。
「もう充分です。行きましょう」
「う、うん」
ウルフとシープは歩き出しました。シープがウルフの手を握ります。
「手だけ借ります」
二人は先に進みました。
走っているときには気づきませんでしたが、川のせせらぎが耳に心地好く流れてきました。
二人は互いが躓くことのないよう、用心して歩きました。
シープとウルフは、この時間が暇だったので喋り始めました。
落ち葉や小枝を踏む音と、川の音に混ざって二人の声が聞こえます。
「シープ。やっぱり乗り物欲しくない?馬とか」
「馬ですか?けっこう体力を消耗するらしいですよ。それに乗るまでに時間が必要です」
「そっか。……バイクは?」
「バイクですか。よくご存じで」
「前、サーカスを観に来た旅人に乗らせてもらった」
「あれは私たちでは手を出すことができないのお値段ですし……、ウルフの適応能力からすればどこかで練習すれば乗れるとは思いますが」
「うーん……。やっぱ歩きか」
「一番楽ですしね」
シープとウルフは歩いています。
森に降り注いでいた木漏れ日は、いつしか薄くなりつつあります。
シープとウルフは正確な時間がわかりません。
そろそろ夜を越す準備を始めました。
昨晩も野宿をしたので、この森には血の匂いがしない限り、獣は出ないことがわかりました。
しかし、用心するに越したことはないので、二人は火を焚いて、木の上で眠ることにしました。
夕飯は、シープは不味い携帯食料。ウルフはラガットからもらったリンゴを食べることにしました。
「相変わらず不味いですね……」
きちんと沸かした水で口の中の携帯食料を喉に流し込んだシープが憎々しげに言いました。ラガットからもらったパンは昨日のうちにシープとウルフの腹に収まっています。
「味しない……」
空腹を満たすためにリンゴを咀嚼と飲み込む単純作業を繰り返し行ったウルフは言いました。
「リンゴは平気なのです?」
「果物とか野菜ならいけそう。肉は無理」
「ふぅん。そうですか」
シープはもう一口、水を飲みました。ウルフは残ったリンゴの芯を火の中に放り込みました。
「ごちそうさま」
食事が終わると急に静寂が訪れます。パチパチとはぜる薪の音。焚き火の炎が揺らめき、シープとウルフの顔を照らします。
「……」
「……」
シープとウルフは喋りません。二人共、黙ったままです。
そうこうしているうちに、ウルフの目蓋は重力に抗えなくなり、ついには、船を漕ぎ始めました。
ぼぅっとしていたシープが気づきます。
「ああっ、ウルフ。まだ寝ないでください」
シープはウルフの肩を揺さぶりましたが、ウルフの琥珀色の瞳は徐々に隠れていきます。
シープは最後の手段を使うことにしました。
「熱ぅぅぅぅっ!?」
ウルフは悲鳴と共に体を大きく揺らして、目をぱっちりと開きました。
シープは焚き火の近くにあった、熱々の小石をウルフの頬に押し当てたのです。
「シープ、躊躇いがなかったね」
「そうですか?」
シープはしれっとした顔で小石を投げ捨てました。ウルフは頬をごしごしと擦りました。火傷にはならなかったみたいです。
「ウルフ。眠るなら、せめて足を洗いましょう」
「たくさん歩いたもんね 」
シープがウルフに言うと、ウルフは立ち上がりシープに手を差し出しました。シープは手を握ります。タオルを一枚引っ張り出すと、そのまま二人は川岸に行きました。
最初にウルフが石に腰かけました。靴を脱いで、川に足を突っ込んで、ばしゃばしゃと濯ぎます。
シープはその間、ウルフの腰に抱き着くような形で、ウルフが川に落ちないように支えていました。
「冷たー」
「早く洗いなさい」
「はーい」
ウルフは足をごしごしと拭いたら、次はシープの番です。
役割を交代してシープが川で足を濯ぎます。
終わったら、次は顔を洗います。
二人が膝を付いて、川の水面を、微かな月光を反射するその水面を、覗き込みました。
チカリ。ウルフの視界の端に、光が映りました。ウルフがその光の源を見ました。
「シープ?」
「はい?」
「これ……何だろう」
ウルフはシープにそれ指差さして。
「小瓶ですね……たくさんの」
ウルフの指した先には、石や窪みや流れの関係で塞き止められてしまった小瓶が、いくつもありました。
シープとウルフは腕を出来る限り伸ばして、それら全てを集めました。
どれも汚れ、微かな傷がついていますが、中身は無事でした。
小瓶の硝子越しに中身を確認することが出来ます。
「これ、番号が書いてありますね」
「それに、全部の瓶に紙……が入ってるね」
小瓶は数えてみたところ、合計二十四本もありました。




