二
沢渡しげるは、変な子だった。やばい。なんでこんなやつとかかわってしまったのだろう……。
「僕はですね、ここに毎日来る、とある女の子を見るためだけにサークル室へ来ているんです」
「ストーカーじゃん」
「違いますよぉ」
そうして沢渡くんは照れたように笑う。
私は豚肉を鍋からとりながら、そんな笑顔を見ていた。そして、なぜ私は彼をこの鍋の席に座らせたのかを悔やんでいた。だって、鍋は食べれないっていってたのに。
「君、アルコールは?」
「いえ、未成年なんで」
そのことを楽しむかのような声が、ちょっと癇にさわった。どうせ私はもう二十過ぎだ。
「それで、その女の子って誰なの?」と聞いて、彼が口にした名前は見知った人物の名前だった。そしてその子は、沢渡くんよりも年上のような気がした。
「年上の女性を女の子と表現するのは、なにかとマズイ気がする」
「あっ、そうか」と彼はちょっと背筋を伸ばした。
「ちなみに、その子、彼氏いたよ、確か」
「えっ、えっ! ちょ、ちょっと、それ、どういうことれすか?」
「落ち着けって。飲んでないのに呂律回ってないよ」
伸ばされたばかりの背は一気にしぼんでいき、鍋のむこうにその姿は消えた。沢渡くんは、小さい子でもあった。
「マイ・ファースト・ラブがぁ……」
とりあえず、放っておくことにした。肉がうまい。白菜の葉もおいしい。
ひととおりいじけたあと、彼はすくっと背を伸ばし、「でも、同じ女性を愛したそいつはきっといいやつです」と勝手に立ち直っていた。いろいろツッコミどころはあったが、とりあえずおまえじゃケンシロウのモノマネすらできねぇよとだけ思っておいた。ちょうど彼の坐っている後ろにある棚に、文庫版『北斗の拳』の一巻がささっていた。指し示してみたが、沢渡は勘違いして「やだなぁ、そんな、いいことなんて言ってませんよ」とはにかんだ。勝手に笑ってろ。どんな誤解の経路を辿ったのかは気になるが。
「そういえば、なんで田湖さんは飲み会に参加されていないんですか?」
ひとしきりくねくねしたあと、沢渡は今さら気づいたとでもいうふうに聞いてきた。と思ったが、そういえば私は答えをはぐらかしたんだということを思いだした。
「ちょっとね、私、人前でお酒を飲むとマズイんだ」
私はビール缶に手を伸ばしてそう答えた。ぐびぐびと飲むと、沢渡はちょっと戸惑っていた。
「あのう、今のは笑えば良かったですか?」
そう聞いている時点で、おまえはすでに終わってると思ったが、それだけにしておいた。
「冗談じゃないさ。人のいるところでお酒を飲むと、私の目はちょっとおかしくなるんだ」
「視力が落ちるんですか?」
「違う」
そんなの聞いたことがない。なんでアルコールと視力が関係するんだ?
「私はアルコールを摂取すると、死んだ人が見えるようになるの」
「幽霊、ですか? アルコール飲んで?」
そう。私は幽霊が見える。
「そんなの、聞いたことありません」
うるせぇ。
最初にそのことに気づいたのは、やはりサークルでの飲み会だった。飲んでいたら、突然隣に女の子が座っていたのだ。いつの間に来たのだろうと不審に思ったが、なんとなく話していた。その子は最初驚いていたが、やがて会話を弾ませていた。
しかし、サークルメンバーがおもむろに、さっきから独り言ばかりで気分よさそうだねと苦笑混じりに言ってきたのだ。そんなまさかと笑い返した。だってほら、ここにいるじゃないと女の子のほうへ顔をむけると、すでにその子の姿はなかった。
それからも、お酒を飲むとみんなには見えない誰かを見た。やがてそれらは、死んだ人たちであると結論づけた。そう思わないと、気がふれてしまいそうだった。しかしやがて、私はお酒を飲まなければいいことに気がついた。だから、飲み会には参加しないことにした。
しかしすでに、私はアルコールを摂取しないといけない身体になっていた。アルコール依存症ではない、と思う。うん。
だから、家でもときどき飲む。もちろん、そうすると幽霊を見る。最初に見たあの子は、あのあと私のあとでもついてきたのか、家にいつもいる。ムラサキレミコという、享年一九歳の清楚で文学的な少女だ。そんな女の子が棲みついている。他人からしてみれば羨ましがられて、最悪ねたまれてしまうから、誰にも内緒。まあ、話したところで信用はされないだろうが。
――ルミエさん、ルミエさん、わたし、今度大学へいってみたいのです。
しばらく前に彼女はそう言っていた。いけばいいじゃないと言うと、私について大学へ遊びに来た。それからもたびたび彼女はこの大学へ遊びに来ている。もちろん大学にいるときはアルコールを飲んでいないので、構内で彼女の姿を見かけることはない。しかし、なんとなくその気配は感じるもので、不意に背中に触れる手を感じたり、誰もいない隣の席に意識の塊を感じたりする。そんなときは、なんとなくその方向を見て頬笑んでみたりする。
――ルミエさん、ルミエさん、サークル棟にお住まいの幽霊のお方が、なんとなくおもしろいお方なのです。
無邪気に彼女はある日そう言った。いや、ちょっと待て。なに怖いこと言ってんの、この子?
――ルミエさん、ルミエさん、なんだかその方と話していると、とても楽しいのです。
ほろ酔い気分のままで見た彼女は、大好きな音楽を勧めているように活き活きとしていた。それはなんだか、とても頬笑ましいことだった。
そして私は不安になって、そのサークル棟の幽霊に会ってみたいと思った。
「沢渡くんさ、幽霊って恋をすると思うかい?」
鍋の中身はだいぶ減ってきた。ビール缶は三本空いていた。沢渡のやつは、相変わらず鍋越しにむかいあっていた。しかし、その表情はすこし硬くなったように思えた。幽霊なんて存在を話題に挙げたせいか、それとも、いいかげん居心地が悪くなってきたのか。はたまた――
「そりゃあ、すると思いますよ? だって幽霊なんて、想いの塊でしょう?」
まともなことも答えられるんじゃないかと、すこし感心した。
「じゃあ、君が想いの塊となったとして、その想いをすべて、誰かへの好意にすることはできると思う?」
「そんな、極端で単純なものではないと思いますけれど……というか、酔ってますね、田湖さん? もうそろそろ、お開きにしたほうがいいんじゃないですか?」
私には、沢渡の様子がよく見えていた。すこしくだけてきたようで、呆れたように目もとが柔らかくなってきている。私は机に肘をつき、頬杖した。沢渡くんの顔を正面にとらえて、目尻と口の端を緩めてみた。沢渡くんは途端に目をそらした。
なんだ。変わったやつでありながら、可愛げもあるじゃないか。
彼を好きになる子は、きっとそんな彼のダメっぽいところに惹かれてしまうのだろう。だとしたら、そんなところに惹かれてしまう子の性格は、大いに危険をはらんでいる。あえて破滅への道へ散歩しにいくような子に違いない。不幸が木陰から飛びだしてきても、グッド・イブニーング! なんて呑気に挨拶してしまうにきまっている。そんなものを受け入れてしまう間抜けさが、あるに違いない。ならば、その子を保護する何者かがいないといけないだろう。
「沢渡くんさ、さっき私、君が好きな子、彼氏いるよって言ったけれど、あれ、嘘。ほんとうは、その子は好きな人がいるだけ」
「やっ、えっ、それ、喜んでいいんでしょうか? というか、酔っぱらいの言うことだし……」
沢渡くんは背筋を伸ばし、油断ならないと警戒し切った表情で私のことを見る。へんなところで警戒心が強い。危機意識が、きっと夏に食べるキムチ鍋ぐらいズレているのだろう。
私はとりあえず、笑っておいた。ひとしきり乾いた笑いを発してから、カセットコンロの火力を最大にした。
「なに、してるんですか?」
「ちょっと、ボヤを」
「ボヤ?」
私はポケットから、一枚のルーズリーフをとりだして、彼のまえにおいた。沢渡くんはその文面を一目見て、顔色を変えた。「なにを企んでいるんですか?」と、初対面のインテリにむけるような目で、私のことを睨む。
「そう睨まないでよ。私はちょっと、みんなに知ってもらいたいだけなんだから」
精いっぱい笑顔をつくってみたけれど、沢渡くんの表情は厳しいままだった。だけれど、彼がなにもできないことはわかっている。それこそ、私が彼のことを足音だけでしか認識できなかったときから。……つまり、はじめからってことなんだけれど、いかんな、酔ってるな? 思いがふらついている。
ルーズリーフには、「わたしのこと覚えてますか? 村崎黎美子」と書かれていた。