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アウローラ  作者: 月野十六夜
2/2

後編

寺田さんを見送った翌日、お昼を過ぎた頃、事務長という人から私が呼び出された。


ちょうど聡にリンゴを剥いていた時だった。


事務長という会ったことのない人からの呼び出しに不安そうな顔をする聡に

「呼び出されたのは私なんだから聡は何でも無いわよ」

と言って事務長室に向かう。



余程小さな病院でなければ、通院したり入院したりしても、知り合いでもなければ事務長に会ったりする事はまずない。


ちゃんと支払いはしてるし、特別に変わった事を依頼してる訳でもないし、聡の国民健康保険料も滞納してない…。


私はいろいろと理由を考えながら一階の事務棟に向かった。


 

中央入り口に入って正面の受付の横にある通路の先は、事務所や職員や従業員の休憩室がある。


事務長室は事務室の隣だった。

ちょっと高級クラブのドアを彷彿とさせるオーク材の重そうな扉がついた部屋だった。

ノックすると低く硬く冷たい音と、同じ質の低い声の返事があった。


中は明るくて広かった。

目の前にソファーセットがあり、部屋の一番奥の大きな窓の前には執務用のまた大きなデスクがあった。

ちょっと高校の校長室を思い出した。


そこに座っていた事務長は、ぴっちりとしたスーツを着た宮原というキツそうなおばさんだった。


初めて入る事務長室におどおどしているとソファーに座る様に言われた。

挨拶のあと、事務長はダンボール箱を机に置いた。


「寺田さんの遺品の一部です。

…ご遺族の居ない方の物は本来処分するんですが、中にあなた宛の物がいくつかあったので…引き取っていただけますか?」


段ボールの中には厚く膨らんだ大型封筒が三つとライターが入ってた。


封筒には『断崖花』と書いてあった。


あっ、これ 寺田さんが言ってた小説と脚本!


本当に書いてたんだ… 


男の人に限らず、人は自分を相手によく見せようとちょっとした嘘をつく事が多い。


それは私の仕事の経験からよく解ってた。


…仕事の時に聞いてたのは『ちょっとした嘘』どころじゃ無かったけど。

イメージ的に、業界の人っていうと特にその傾向が強いんじゃないかって思ってた。


だから、寺田さんも悪気はなく、ただ私にそう大きく言う事で自分が生きてる証拠…生きる目標にしてるのかなと思ってた。


…ごめん寺田さん



『寺田氏遺品一覧』と書いてある書類を宮原事務長は取り出した。


封筒3つとライターの欄に『引き渡し希望相手』に『涼』って書いてあった。


寺田さんの直筆なのか丸く読みやすい字だ。読みやすいと言うか人に読ませる事に書き慣れた字という感じか。



私は受け取り欄にサインをした。


部屋の奥に置いてあった蓋の開いた他のダンボールが見えた。


横ににマジックで「廃棄」って書いてあった。


中に洗濯して畳んである、見覚えのある寺田さんのガウンがチラリと見えた。



何だか薄ら寒い様な気がした。


私は渡してもらった紙袋をかかえてそそくさと事務長室を出た。



慇懃無礼って言うのかな…ロボットの様な冷たい言い回しでキツい目をした宮原事務長の事を私は好きになれなかった。


でも廊下を歩いて病室に戻る時に、ふと思った


年間に何人の人がここから旅立つのかは知らないけど、一人一人の事を考えてたら精神的に持たないんじゃないかって思えてきた。


だから敢えて『機械的』に流しているのかも知れないって。



…私にはできないかもしれない




 

「何の話だった?」


部屋に戻ると聡が心配そうに聞いてきた。


私は寺田さんの事を聡に話して聞かせた。


タバコ仲間であった事

元業界の人であった事

クリスマスの劇を書いた人である事

私宛てに小説と脚本を残してくれた事


…そして昨日亡くなった事



聡はじっと聞いていたが

「あの劇を作った人の書いた小説かぁ。読んでみたいな。」

と言った。


私も気になっていたんだ。


寺田さんが力をいれたと言っていた最後の文がどんな物か読んでみたかった。


寺田さんは『涼はきっと泣くよ』と宣言もしてたし



散歩を兼ねて二人で食堂に行って読む事にした。



封筒には厚い原稿用紙の束が入っていた。


原稿用紙の束からはインクのどこか懐かしい温かい匂いがした。


その匂いに何か昔を思い出せそうで思い出せない変な気持ちになりながら一枚目を捲り、読み始めた。



最初に私が読んで、一枚読む毎に聡に渡す事にした。


『断崖花』

手書きのブルーブラックのインクの文字は丸く、読みやすい。

…どんな話なんだろう


ワクワクしながら二枚目に入る。


田舎の描写から始まってる。

柔らかく透き通った感じのする文章だ。

あのタバコを吸ってたイメージとはかけ離れた文章で思わずにやにやしてしまう。


主人公は智子って女の人だ。


私と同じ位の歳…



一枚目を読んでいた聡が話掛けてきた


「ねぇ、涼。…この人の字読みにくいね。ピンピン跳ねててさ。目がチカチカするよ」



「え?そうかな?」


字を見ても私には普通に見える。

むしろ読みやすい。


「疲れてるのかな…」


聡は目頭を押さえている


「きっとそうよ。読むの止めて、休んだ方が良くない?」


「うん…」


聡は読むのを諦めてお茶を飲みながら外を見ていた。


少し読んで聡を見ると顔が真っ青だ。



「どうしたのっ!」


「…いや、大丈夫。部屋に帰りたい…」


大急ぎで部屋に帰ってベッドに寝させると先生を呼んだ。


聡はベッドでギュッと目を瞑っていた。


どうしたんだろう…


オロオロしていたら岡野先生が看護師さんと一緒に入ってきた。


聡と二言三言交わすと私の方を見て、


「扇さん、お茶でも飲んで来てください」


有無を言わせない言い方だ。


「ここに居ます」

負けずに毅然とした言い方で言う


先生は困った様な顔をして言った。


「…野原さんの意向だから」


私は言葉を無くした

聡が私を拒絶した様な気がした。


私は部屋を出るしかなかった。

なんだか悔しくて悲しくて…でも何より心配だった。



とぼとぼと食堂に行って出しっぱなしにしてた寺田さんの原稿を片付ける。


何だか誰にも会いたくなくて、封筒を抱えて屋上に行った。


冬の日差しは弱々しく無機質な病院の屋上の配管を照らしていた。

その配管のそばに腰を下ろす


…なんでそばに居ちゃいけないんだろう

何か気に障る事でも言ったかな…

思い当たる節はない。

私が疲れてるからかなって言った聡に同調したから?

だって字が読みにくいって…ピンピン跳ねてるみたいって言ったじゃない?

疲れてくると細かい文字見たり普通の明るさが妙に眩しく感じたりするじゃない?


ただでさえ疲れやすいんだから…


それに、私は聡のそばに居るって宣言して一生懸命してるつもりよ。



それなのに部屋から出てほしいって…

聡の今の状態を一番知ってる相手として、聡の身代わりになれる位に知ってなきゃいけないと思ってるのに。


私はそこまで考えて はたと気付いた。


もしかして聡にとって私は必要ないんじゃないの?


寺田さんじゃないけど一人で入院してもここは完全看護の施設だから、看護師や介護士が面倒はみてくれる。

まだトイレだってシャワーだって一人で出来るし…




聡にとって。私の存在って何なのかな…



 

「ああ、ここに居たのね。」


声がする方を見ると看護師が立っていた。さっき岡野先生と一緒に来てくれた人だ。


「聡は…野原はどうですか?」


「専門の病院に行って診察を受ける事になったわよ」


「えっ?聡の目はそんなに悪いんですか!?」


「…私たちにも当人にもまだ解らないからね。

まずはちゃんとした設備のある病院で診てもらわないとね。

さぁ行きましょう。

ここは寒いわ」


看護師に促されて建物に入った。


病室の前に岡野先生が待っていてくれた。そのままカンファレンス室に行く


椅子に座ると岡野先生はいきなり話始めた。

「眼科に行って診察をしてもらう手配をしました。

ここから先は相談しながら話を進めなくてはいけません。」


「目が悪いんですかっ?」


「…目ならいいなと思ってるんです。」


どういう意味?


岡野先生の話はこうだ


聡当人曰わく、右目で見ると視野が狭く歪んでいるそうだ。

あくまでも推測の域は越えないけど、眼球自体に問題があるか視神経に問題があるか、最悪 脳から来ているか。

つまり、目の病気ならまだ安心。

お腹のガンが転移して 脳や視神経を圧迫して視力障害が出てるなら危険という事だ。


「…脳に腫瘍が出来ているなら脳圧も上がって他の症状もあると思うから可能性は低い様に思うんですが

…視神経とかが腫瘍で圧迫を受けてるなら何らかの手立てで腫瘍を小さくして圧力を下げれば視力は回復する可能性があります。

ただ、切除はできません。

体調も体力の事もあるので。

…一時凌ぎになりますが。」


「…」


「まぁ、まずは眼科の専門医に診てもらいましょう。

ただ、そういう可能性もあるというのは覚えていてください。」

私は何も言えなかった。


聡の中の獣は聡から目も奪おうとしている…

あの少し茶色の透き通ったあの目…


私をじっと見てくれたあの目…


聡の右目には私も映らないの…?






遠くで岡野先生が何か言ってる…


何だか苦しい…





気が付くとベッドに寝ていた。

カーテンで四角く切り取られた天井がある。


腕には点滴の針。

点滴パックが揺れている。


情けない。倒れたんだ私。


子供の頃から倒れた事はなかった。

小学校の頃、校長の長話で貧血をおこして倒れる女の子を見て なんて弱いんだと思いつつ、羨ましく感じたりもした。

倒れる女の子はだいたいみんな色白でお淑やかなタイプが多かったから。

女の子ってそういうイメージがあるじゃない?


とんでもない間違いだった。

苦しくて気分が悪いだけだ。



人の話す声や器具の触れる金属音が聞こえる。


「気付きましたか?」看護師さんが覗いてくれた。


「あの、聡…野原は?」

「お昼前にY大付属病院にうちの車で行かれましたよ。

検査だけだから多分夜までには帰れるんじゃないかって岡野先生が言ってましたけど」


「ありがとうございますっ!あの…抜いてもらえませんか?点滴。もう大丈夫ですからっ」


私は無理言って途中だった点滴の針を抜いて貰って準備をした。

4時間も眠っていたらしい。


すぐにタクシーを呼んでもらった。


聡一人で病院に行かせてしまった。私がそばに付いていながら…





Y大付属病院は要塞の様な病院だった。


タクシーを呼んでもらった時、事務の人から岡野先生がY大学出身だと聞いた。

医師になってからはY大学のERで救命医として勤務してたらしい。


タクシーが車寄せに着いたのはブルースカイから一時間近く経ってからだった。


案内表示板で位置を確認して、眼科に行く。


眼科前待合いには沢山の患者が居た。


患者を縫うように眼科受付に向かう。

さっき診察に来たはずなんですがと前置きして、野原の付き添いだと名乗って聡がどこにいるか聞いた。


受付のお姉さんはすぐ解ったらしく、今MRI撮影なのでしばらくかかりますよと言った。



私は会えないのを承知でMRIのある放射線科の位置を聞いた。



今度は放射線科の受付で同じ質問をする。

「今、中ですね。さっき入られたので、あと30分位でしょうかね」


マスクで聞き取りにくい喋り方をする医療クラークの女の子はそう言った。


イライラしながら待つこと40分。

車椅子に乗った聡が中から出てきた。

右目に眼帯をしてマスクもしている。

車椅子を押してくれている医療クラークの女の子と何か話しながら出てきた。


なんだか楽しそうだ。

女の子が笑ってる


カチンときた。


ツカツカとそばに寄って聡に話しかける


「聡、どうだった?」


聡は私が来てると思わなかったらしくびっくりしていた。


「涼!…よく解ったね。 体調大丈夫?」


あたしのセリフだ


「私は大丈夫。少し驚いただけ。で、どうなの?」


「これから眼科の方で今撮った画像を元に診察を行います。」

クラークの女の子が丁寧に教えてくれる。

でも私はあなたに聞いてるんじゃない。



「眼科に戻るんですね?解りました。私が押します。ありがとう」


実に大人気ない素っ気ない言い方をしてクラークの女の子をどかして私が車椅子を押す。


困った様な顔をしてるクラークを後にして眼科に向かう。


「涼、あのさ」


「何?」


「…いや、いいや」


確かに刺のある言い方だったかもしれないけど、最後まで言えばいいのに


なんだかイライラする。


眼科に着いて受付に聡が持っていた書類を出す。


「はい。じゃあそちらでお待ちください。お呼びしますからね」

そう言われて待合いの隅に移動する。


聡は何も言わない。


ただ真っ直ぐ前だけ見てる


何か言いたいんだけど私も何と言って良いか解らない



そこに小学校の低学年と思しき子供が私たちの前に来た。


車椅子が珍しいのは解る。

寄って来ることも仕方ない。

だけど…すごく咳込んでる


ゲホゲホと


鼻水もすごい


お願いだからマスクして

聡に風邪が感染ったら…

咳込むのもくしゃみも聡には命とりになる。


親はどこにいるんだ!


「僕、向こうに行ってくれないかな?」


鼻水で光ってる顔でこっちを見る

「なんで…ゲホン…だよ」



「あなたの風邪が感染ると困るのよ」



「なんで?ゲホゲホ…」



「涼、いいよ。大丈夫」

聡はそう言ったけど良いわけない!



「お母さんはどこ?」


「ゲホンゲホン…おまえに関係ないだろー…ゴホン」


更に聡に(正確には車椅子に)近付いてくる。




キレた!


「あんたねぇっ!

あんたの風邪が感染ったらこの人は大変な事になるかもしれないのよっ!

母親はどこなのよっ!

だいたい、

感染したら大変な患者をこんな所に待たせるってどういう事よ!

病院の責任者を呼んでっ!」


ざわついた待合いが水を打った様に静かになった。


急に我に返った私

…マズい


静かになった待合いに泣き始めた男の子の独唱が響き渡る。


途端にどこからか現れた金切り声の太ったおばさん

「うちのタッくんが何をしたって言うのよっ!」



「こんなに咳込んでるのにマスクもさせないであちこち徘徊させないで!他の患者に感染ったらどうすんのよっ!」


「まぁっ!ひとの子供を捕まえてバイキンみたいにっ!

うちのタッくんは風邪なんかひいてないですっ!

…ああ可哀想なタッくん。怖いおばさんがいるから向こう行こうねっ」


「待ちなさいよっ!あんたにおばさん呼ばわりされたくないわっ!子供の躾どころか自分の体重管理もできないくせにっ!」


「まぁっ!なんですっ…」




「う る さ ー いっっ!!」



…聡だった


私もおばさんもピタリと黙って車椅子の聡を見た



聡は、ふぅと息をつくと、



糸の切れた操り人形の様にぐったりとして車椅子から前に倒れ込んだ。


「さ、聡っ!」


私は駆け寄った


目を開けたまま引きつけを起こした様に体をピクピク震わせている。


騒ぎを聞いた職員と警備員が駆けつけた

太ったおばさんはあたふたと逃げて行った。


「聡ーっ!しっかりしてーっ」


私は叫ぶ事しかできなかった。







「体調が弱ってる時に大声出したから強めの貧血をおこしたんだね」


注射と点滴を打ってくれた救急外来の先生はそう言った


「すみません…」

私は頭を下げるしかない


「いえ。最初からすぐに処置室に入るように放射線科のクラークに伝えていたんですが、こちらの連絡ミスです。」


「あの、放射線科の方から私が何も聞かずに眼科に連れてきたので、その方は悪くないですから。」


私が言うと


横から眼科の先生が頭を下げながら言う。


「眼科外来へも伝えていたのに廊下で待つような指示を出させてすみません。強く指導しますので」

謝り合戦だ。


ただ、謝ってもらっても聡に感染ってたら取り返しがつかない…と思うとあの親子には腹がたつ。



救急の先生が部屋を出た後で眼科の先生と話をする。


「先生、聡…野原はどうなんでしょうか?」


「うーん…それなんだけどね…。」

先生はモニターに出したMRI画像を見ながら難しい顔をした。


「脳の方ではないね…。眼球でもない。

でも…これ、解りますか?

この眼の奥に…ほら白い所があるのが解ります?…これが原因だと思います。」


「なんなんですか?」


「詳しい検査をしなくては解りませんが…恐らく腫瘍です。

大きさで大体2センチ。これが視神経を圧迫してるんですね。」



「取れないんですか?」


岡野先生から手術は無理と言われていたが聞いてみる。

見る先生が変われば見識も違うんじゃないかと思ったから。


それを聞くと悲しそうな顔をして先生は言った


「岡野先生から聞いてると思うけど、野原さんは手術には耐えれないと思うんです。…例え耐えれたとしても…」


先生は話の終わりを濁した。『他の部分での進行があるから無理』と言おうとしたのは解ってしまった。


「…制ガン剤を直接入れて小さくするか…放射線で叩けば…要は視神経への圧迫を低減したら視力は戻る可能性もあるとは思うんですよ。


ただ、視力の為に…危険なカケをするのが得策かどうか…それに治療に苦痛を伴うので患者さん自身の意思も確認してみないと…」


「…視力を治す…いえ、楽にするのもやっぱり危険なんですか?」


「神経専門の外科の先生や脳外の先生や担当医との相談も必要ですが、全身症状からみると…ちょっとね。」




…最悪だ…




最悪な事は続いた


目の覚めた聡と先生が話をしてる間、私は外で待たされた。


話の内容は解ってるけど、また外に出されたのは嫌だった。

目の覚めた聡は私と口を利こうとはしなかったんだ。


聡は自分より私が先に先生と話をして事態を知った事が気に入らなかったのかもしれない。


…それとも、やはり、病院の待合いであの親子と言い合いをしたのが原因かなぁ…


なんだかギクシャクしてる…

私は聡の為に頑張ってるのに…


20分位してブルースカイの職員さんが迎えに来てくれた。

顔見知りの介護士さんだ。

コロコロと太った明るいおばちゃんだ。


「あらぁ、あなた来てたの?一緒に帰るでしょ?」

当たり前の様に言ってくれる。


おばちゃんと話をしながら聡が出てくるのを待った。

聡は出て来ても口を効かない。

眼すら合わせない。


何よ…もう…


支払いの事があるからすぐにはブルースカイには帰れない。


私が支払いをする事にして二人には先に帰ってもらう事にした。

そうしたのは聡と話もできない気まずい雰囲気に耐えれなかったのが一番の理由かもしれない。


手を振るおばちゃんにお願いしますと頭を下げて見送った。


極力聡の事を考えないように、待合いの隅のベンチに座って目の前を通り過ぎる人を見ながら過ごす。

病院には老若男女問わず色々な人が沢山いる。明るい表情で話しながら歩く人や悲しそうな表情をして肩を落として歩いてる人や…。


他の人から見たら私は間違いなく泣きそうな表情をしてるんだと思う。


一番悔しいのは聡と楽しい事もツラい事も分かち合って歩みたいと思ったしやってきたのに、聡が一人殻に籠もった様な態度を取り始めた事だ。

気に入らないなら気に入らないと言ってくれたらいいし、改善して欲しいならそう言ってくれたらいいのに…

大体私だって一生懸命してきたつもり。

それなのにあの態度ってどうなのよ?


考えないようにしてたのにいつの間にか聡の事を考え、しかも段々と腹が立ってきた。


…ダメダメ…そんな風に考えちゃ…


支払いを終えてからとぼとぼとブルースカイに帰った。



ブルースカイに帰るとすでに夕方だった。

聡はベッドに入り、眠っているように見えた。

私は静かに片付けをして病室を出た。

本当は今後の治療の事を相談しなきゃならないんだけど…眠ってるし、仕方ないよね。

そう自分にいい聞かせたけど、本当は聡と話をするのが少し怖かったんだ。


なんだか素直に聡に向き合えない気がして。


私は食堂に行ってコーヒーを貰った。

飲みながら心を落ち着ける様にした。



コーヒーを2杯飲んで少し落ち着いた。


今日は洗濯も何もしていない。

お正月以来、聡のアパートにも行ってない。

岡野先生に相談して聡に問題なさそうならアパートで少し掃除でもしよう。


そう思った。



「今日の検査結果は後日病院の方から正確な報告がくると思いますから、それを見て相談していきましょう。

野原さんは今日は検査して疲れてると思うからよく眠れると思いますよ。

扇さんもお疲れみたいだし、今夜はご自宅でゆっくりしてはどうですか?

野原さんはこちらで注意するように手配しますから」


岡野先生はそう言ってくれた。


私は一旦病室に帰って荷物や洗濯物をまとめた。

聡は横になって眠っている様に見えた。


起こしたくは無いけど黙って行くのも嫌だったから小声で今夜はアパートに行くねと話しかけた。




「涼…しばらく来なくていいよ」



起きてたの…?

え?今何て言ったの?

混乱する


「涼も疲れてるみたいだし、僕も少し考えたいんだ」


「考えるって何を?」


「…」


「何を考えるのよ?考えるなら一緒に考えようよ」


「…いや、僕一人で考えたいんだ。ちょっと一人にしてくれないか?

涼だってしたい事もあるだろ?」


「私には無いわよ。」


「僕にはあるんだ」


解ったわよ!

私の苛立ちがピークになった

私は荷物を持って病室を飛び出した


廊下を歩いてたスタッフにぶつかりそうになった。


閉まる前の玄関を抜けて正門を越える。




私は気付かない内に泣いてた。



もう知らない。


聡の事なんか





私は歩いて街まで下りた。

今まで歩いて下りた事はなかった


車で下りてもかなり掛かる道のりなのにそんなに長く感じなかったのはずっと考えていたからだろうか…



途中には淋しい通りや学校のフェンス沿いなどがあったはずなのに記憶がない。

気付いたら街のはずれのコンビニまで来てた。


コンビニに髪の毛ボサボサで簡単な格好して紙袋とバッグを持った疲れた様な女がいた。


…私だ。


コンビニのガラスに映った私の姿だった。


一旦止まってた涙が溢れてきた。

なんだか心も見た目もボロボロだと思ったら我慢出来なかった。



私のそばにピカピカな大きな白いセダンが停まった。

中からミニスカートの若くて可愛いい女の子が降りてきた。

化粧もバッチリだ。

チラッと私の方を見て フンッって笑った。


…笑った様に見えたんだ


…心が荒んでたからそう見えたのかもしれないけど


歳も同じ位なのに…


…何よ…この差は何よ…



「涼ちゃんじゃな?」


いきなり声を掛けられてびっくりした


セダンの左側から降りてきたスキンヘッドのおじさん…

派手な光る素材のスーツ…そのテの道の人…


「やっぱり涼ちゃんだ。ほれ、儂じゃ」


「?」


「儂じゃって。南無釈迦無尼仏…。」


そう言いながら金縁の薄いカラーの入ったサングラスを外した


「住職さんっ!」


「シーッ。今はオフタイムだからな。…どうした?こんな所で?

…泣いてるのか?」



私は住職に泣きながら抱きついた。


コンビニから出てきた女の子がその姿を見て目を丸くしてた。




「大変な所を見られてしまったな。ハハハッ」

住職は車を運転しながら笑った。

派手な白い左ハンドルの車は住職さんのだったんだ。


後ろの席に座らされた女の子はブスッとした顔してた。

そりゃ面白くないだろう。

いきなり現れた汚い疲れた女が助手席でバッチリメイクの自分が後ろの座席なんだから。


「私はいいんですよ住職さん。近くで降ろしてくれたら…」


「まぁご飯でも行こう。ちょうどエリちゃんを送っていく所だったんじゃ。

…ああ、エリちゃんは隣町のパブの子なんだ。こっちに住んでるから時々帰りに送るんじゃよ」


「パブはパブでもうちはお触りランジェリーパブだけどねー」

エリという女の子は笑いながら言った。


「ほ、ほれっ、この涼ちゃんは儂の昔からの友人じゃ。」

慌てた様に住職はエリに言った



「友人ねぇ…」

私が言う


「良いではないか友人で。ほれ着いたぞ、涼ちゃんもエリちゃんも一緒にご飯食べよう。なっ、なっ」


別に彼女でも奥さんでもないんだからあたふたしなくてもいいのに、住職さんはスキンヘッドに汗をかきながら必死だ。


でもその姿を見て笑うと少し気持ちが楽になった。



連れて来て貰ったのは更に隣の街のいかにも高そうな料亭。


入り口に品のいい灯りが点いている。


「儂の行きつけの店なんだ。美味いものでも食おう。」


住職さんはそう言うと中にどんどん入って行った。




懐石料理だった。

テレビでしか見たことのない料理が次から次へと運ばれてきた。


詳しくは知らないけどこういう店って予約も無しに入れたりするわけ?

それだけ住職さんが通ってるって事か…


エリも驚いてる。


高級な和室にスキンヘッドの住職とお触りパブの派手な女の子と疲れきったデリヘルの私が集まってご飯を食べてる姿なんて見ると興味深々だろうに、中居さんは普通に、にこやかに愛想よく接してくれた。



こんな店来たことないから緊張しまくった私。


それでも食べた。


半分やけ食い。


味なんか解らなかった。



食事が一段落した所で住職が話かけてきた。

「涼ちゃん、やっと顔色戻ったな。

…良かったら何があったのか話してみい。何もないとは言わさんぞ」


住職は言った。


エリもこっちを見て


「あたしの存在は気にしないで。

今まで色々と見たり聞いたりしてきたから大概の話じゃ驚かないわ。

他言するったって誰にするのよ。

それにあたしはそんな人間じゃないわよ」

そう言って笑った。


こういうシチュエーションだと話さないといけないよね…

そう思った

…いや、人のせいにする訳にはいかない。

私自身が、誰かに聞いてもらいたかったんだ。

しかも親しい人じゃない相手に。


「実は…」私は話した。


最初はポツリポツリと。でも途中からは自分でも驚くくらい早く話してた。

早く重荷を下ろしたいかの様に。


住職もエリも真剣に話を聞いてくれた。


二人とも私の事は詳しく知らないから聡との出会いからさっきコンビニの前で会うまでの事を。


二人とも殆ど口も挟まず話を聞いてくれた。

私がデリ勤務と話しした時にエリが反応した位だ。



話し終わるとすぐにエリが言った。


「それってさ、聡って言ったっけ?その聡が言うように少し間を開けたらどうよ?

あんたすごい尽くしてるじゃん。

それがその男には解らないんだよ。

あんたも疲れきってるみたいだしさ、少し休むつもりで離れた方がよくない?」


「む。それもそうなんじゃがな、儂は違う様な気がするぞ」

住職さんはそう言った


「何が違うのよ?」

怪訝そうにエリが聞く


「それはな、聡とやらが元気ならそれで良いと思うが…病気で出立が近いとなると、寧ろ離れたらいかん。」


「坊さん、意味解らん」

エリは口を尖らせて言った


「ん~、例えばじゃな、重い荷物を持って山を越える年寄りがいたとしなさい。

その年寄りを手伝ってやろうと思って手助けするとしよう。


途中で老人が『もうここらでいいですよ』と言ったとするわな。

そのまま手伝っても山を降りたら別れるんじゃ。

真に受けて『ああそうですか』と置いて行ったら、後から気になるじゃろ?

逆に断られても『まぁまぁ』


と言いながらでも最後まで付き合えば自分は納得できよう。

老人も最後まで荷物を持たずに済めば楽であろう?」


「…でも坊さん、その年寄りがさ、持ってくれて当たり前とか思ったりしてたら腹立つじゃん。

逆に本音で『もういい』って言ってたとしたらどうなのよ?」


「ふむ。老人が『持ってくれて当たり前』と思ってるのが解ったとしても自分が『やってやる』と思う気持ちは不変な物のはずじゃ。

やると決めたのは自分じゃからな。

『もういい』と本音で言ったとしたら理由は?


一つは相手が自分より辛そうだから


二つは相手が見返りを求めてるのが解ったから


三つは荷物が持てない自分に腹が立ったから


四つは相手を不幸にしてるのが自分じゃないか?と思ったから…


つまり、相手にそう思わせた原因は自分にあるのかも知らんということだ。

相手の事を思ってした事が逆に相手にいらぬ気を使わせる…本末転倒じゃの。未熟な自分に責任があるのう」



「坊さん、あたしそれどこかで聞いた事あるような気がする」


「エリ覚えていたか?

以前話した、男女の別れの時のお互いが挙げる理由とよく似ておろう。

…不倫を清算する時の男の理由とも似ておるの。」



そう言って笑った。



…相手を不幸にさせてるのは自分じゃないか…

聡はそう思ったのか…

それとも私が辛そうに見えたのか…



「坊さん、だから結論はどうなのよ?」


「だから、涼は相手がどうあれ最後まで付き添うべきではないか?

それは相手の為にもなるが涼自身の為でもあろう

…例えそれが自分の形や考えを歪めたとしてもな。


人というのはどんなに似ておろうとも相手にはなれぬ。

しかも形は複雑じゃ。

近寄れば近寄るほどこすれて傷が付きやすくなる。


では傷付かない為にはどうしたらよいか。

自分の形を相手に合わせるか、少し隙間を開けるかじゃな。喧嘩するほど仲が良いと言うのも、なかなか会えない恋愛が燃えるのも理由は同じだな。


後は『相手がこう思っているだろう』とか、『こう思われたい』とかあまり考えぬ事じゃ。

相手の事を本心から考えて動くならいらぬ邪心など働かぬものじゃ。素直に動けば邪心は起きぬ。

『素』で良いのじゃ。

それに、考え過ぎては疲れ果てるからのぉ。」


 

「解らない…坊さんの話って、いつも最後に飛躍し過ぎてついてけない…て言うかぁ、煙に巻かれてる気がするのよねぇ」

エリは投げ出す様に言った。


私も基本的にはエリの意見に賛成だけど、住職さんの言っている事がなんだか朧気に見えた様な気がした。




料亭を出て、エリを家まで送った。


「またどこかでね。

…あんた少し肩の力抜かなきゃダメよ」


エリはそう言ってマンションのエントランスに消えて行った。


聡のアパートまで送ってくれる車の中で住職がエリの事を話してくれた。


「あやつは高校を中退して北国から男を追い掛けて、東京に出て来たんだがな。その男が…まぁ想像はつくと思うが…悪い男で他の女に走ってな。

しかもその男はその女と自殺したのだ。

警察は事故だと言うんだが、事故にしては不可解でな。

…まあ、それからエリは荒れてな。

夜の街にたむろして悪い仲間を集めて滅茶苦茶したり、自殺未遂も繰り返し…墜ちる所まで堕ちたんだ。

儂が会ったのはそんな頃でな。

儂の檀家のビルのそばで倒れておって、警察にも病院にもいかんの一点張り。

終いにはこの場で殺してくれと騒いで…儂は坊主だってのに…仕方なく寺に連れて帰って、うちの関連施設でしばらく養生させたのが縁なんだ。

今は落ち着いとるがな。」


「…」


そんな風には見えなかった。


性と若さを武器に楽しく暮らしてるんだと思ってた


「…人はなみんな某かの負を持って生きておるのだ。

間違い傷つき苦しみ、ぶつかりながらも前に進むのだ。

しかしそうしながら強くなる。強くなければ優しさも解らぬからの。」

つまりは近づこうとしてる私はギクシャクして当たり前ということ?


住職は続けた

「儂は思うのだ。

まぁ常々言われておる事だがな…人はいつか死ぬのだ。その消えゆく光は最後にパッと明るく灯る。

走馬灯がどうとか言うであろうが。


その時に自分の人生がどうだったか見えるのだ。周りの人間は、願わくばその光の中に、楽しかったその人の過去が見える様にしてやりたいと思う。

そう考えれば自ずと相手に何をすべきか見えて来るであろう。


…儂が出立する時には涼ちゃんの事を思い出すからの」


そう言いながら住職の手は私の胸に伸びてきた


「もうっエロ住職ね!せっかくいい話だと思ったのに!」


そう言って住職の手を笑いながら叩く。


「そう!その顔じゃ」


「え?」


「涼は笑った顔がより綺麗なんじゃ。

その笑顔が相手の心に残る様にしてやってはどうかの。

…儂の出立の時にはそういう表情で送ってくれの」


住職はそう言ってカラカラと笑った。


笑顔…か…


確かに最近は笑える状況じゃなかったからね…


疲れた顔して…変にヤキモチ妬いて…イライラして…小さな事でも大騒ぎ…確かにそんな人が近くにいたら病人だって嫌だよね。


住職の車が聡のアパートの下に着いた。


「店にはもう出ないのか?出ないなら構わんだろう。

ホレ、これが儂の名刺じゃ。アドレスもあるからの。メールでも良いから連絡してきなさい。

デコメで返信はできぬがな」

私が車から降りる時、住職はそう言って名刺をくれた


欅龍寺 住職 神田雄大

と太めの筆書きの様な文字で書いてあり、電話番号の前には代表と書いてある。

アドレスは手書きだ。


裏には

けやき幼稚園 理事長

神田不動産 代表取締役 

オフィス神田 代表取締役社長 

けやき福祉苑 代表 …


やり手なのか単なるハッタリなのか…


住職は笑いながら帰って行った。



私はその夜、聡の部屋の掃除や洗濯をして、ゆっくりお風呂に入り、早々と布団に横になった。最近はご飯はともかく、ちゃんとしたお風呂も睡眠も出来ていなかったのをここでリセットするつもりだ。


明日から大変な状態になる事は解っていたから。聡より先に参ってしまう訳にはいかない。

肉体的に参ると精神的にも影響を受ける。反対もそう。



精神的に参るのは解ってるのだからせめて肉体的にしっかりしなきゃ

聡は間違いなく両方最悪なのだから。

支える側の私がダウン寸前じゃダメだ。



明日にはいつもの明るく元気な私で聡に会おう。


そう決めたんだ。





思ったよりも昨夜はゆっくり深く眠れた様だ。

目の下にあった隈はまだ残ってはいるけどかなり薄くなった。


洗顔を済ませるといつもより少しだけ時間をかけてブラッシングと化粧をした。


今までみたいに動きやすければ何でもいいやという服じゃなくて、ちょっとでも女の子っぽい格好にしてみた。

病院で着替えたらいいんだからせめて往復と挨拶位まではおしゃれをしようって思った。

エリに言われた様に疲れた女じゃダメダメ。


駅前のマックでモーニングセットを食べた。


今日は大きなショックが来るはずだ。食べておかなきゃ…食べなきゃもたない






「おはよ」

聡は少し驚いた様だったけど大きな反応はしなかった。


ただ少し眼帯をしてない方の目を見開いただけで、すぐに目線を逸らして反対側の窓の方を向いた。


凹みそうになったけど明るい声で言った


「今日は少し顔色いいみたいね」



「…」


聡は何も言わない。


私は荷物を置くといつもの様に洗濯物を集めて洗濯に向かった。


『強くなきゃ…優しくできない…』

そう自分に言い聞かせた


昨日の検査の結果が気になる。まだ結果は来てないのかなぁ。


洗濯機を準備してから岡野先生に会いに行く。

私が聞きたいのは昨夜の聡の様子と具合の事だ。


「今日は元気そうですね。夕べはゆっくり眠れましたか?」


岡野先生は私を見るとそう言った。

にこやかに笑ってる様に見えるけど、目は笑っていない。


「はい。おかげさまで。あの…昨日の野原の件でお話が…」

そう切り出すと先生は


「うん。その事であなたと話がしたいと思っていたんです。」


その先生の目は真剣だった



「検査結果は後日だと思っていたんですが…昨夜、Y大学の担当医師から私に直接電話があって、話をしたんです。

やはり野原さんの場合、目の奥に腫瘍ができて神経圧迫してるみたいですね。

通常、胃がんは眼への転移は少ないんです。

無論、血行性、リンパ性の転移もあるので皆無ではないでしょうが…今後更に大きくなると思われます。

で、先程、カンノ先生とも相談したんですが…正確に調べないといけないんですが、恐らく他にも…」


「えっ?」…他にも?


「ええ…モルヒネを使い始めると便秘になるんですよ。で、昨夜、野原さんがお腹が張ると言うので便秘だと思って、診察したんですが…腹水が急激に溜まりつつありますね」


「腹水?」


「…ええ。お腹に水が溜まるペースが早まってるんですよ。お気づきだと思いますが脚に浮腫も強く出てるし。多分肺にも。

一応利尿剤は追加処方したんですが…」


…何で?

…いいものじゃないよね…


「あと、背中が痛いとも言っていたんです。検査をしなくてはいけないのですが…当人には今は寝てる時間が多いからではないかと伝えてますが、腹水や浮腫の事を考えると、がん性腹膜炎の可能性もあります。

さっき肺への転移がないか一応喀痰試験用に喉の浸出物を採取しました。

胃がんは肺や膵臓、肝臓への転移が多いんです。

肺ガンでも背中が痛い事もあるので…。血液検査でも肝臓の数値の悪化もありますから肝臓も…

…現状を把握する為に明日にでも、お腹と含めてレントゲンとCTを撮るつもりです。


要は…がん性腹膜炎の可能性も含めて、あちこちで悪さを始めてるのかもしれない事を考慮して、一度ここで現状を把握した方がいいと思うのです。」


…え? なんて …


「…」ショック過ぎて声が出ない


振り絞る様にかすれた声を出す

「…先生、聡はこれからどうなるんですか?はっきり教えてください」


「経過…ですか?」


先生は少し悲しそうな顔をして私を見た。

私の顔を見て決心したようにゆっくりと


「…そうですね。辛い話になりますが…」と前置きして話し始めた。


「…上行動脈にある腫瘍がどう動くかが一番の問題ですね。

大動脈を圧迫する位大きくなるとか、血管の一部と一緒に剥離しまうとかすれば終わりです。

それ以外にも肝臓や膵臓とかへの転移が続いて…多臓器不全を起こすのが一般的ですかね。」


「…」黙る私に気を使ったのか先生は話を続けた


「…溜まる腹水は今の様に利尿剤や、更に悪化するならお腹に直接針を入れて抜くドレーンという処置でしばらくは対応できます。」


「…」


「…ここはホスピスという施設の立場上、基本的に積極的治療は行えないんです。

選択肢は大きく二つあります。

一つは副作用のリスクがありますが、苦痛を軽減する為に一回は抗がん剤の使用をしてみるという選択肢。

残念ながら今の状態では全身のがん細胞へのアタックをして、治癒させるというレベルは無理ですが。

しかし、このまま悪化するのをただ見守るのを否とするならしてみる価値はあります。」


「…」

何も言葉が出てこない


「ただ副作用に耐えれても劇的な延命は望めない事はご理解ください。」


「…」


「あと…言いにくいんですが、ここでは、本来はこの様な治療は行わないのが鉄則です。

治療をするなら病院で処置をしていただく事になります。

ちなみに…もう一つの選択肢は…ホスピスで行う一般的な手段なんですが、痛みの増大に合わせて鎮痛剤を増量して痛みや苦痛を取る事…いずれ意識も混濁し、解らなくなりますが…それだけです。

その場合、あとはガンの増殖と体力の勝負ですね。 

…10日か20日か解りませんが…」




何だかグラグラする。

吐き気もする。

太腿をギュッと抓って『しっかりしなきゃダメ!』と自分に言い聞かせる



「…先生。その事は聡には…」


「昨夜当人には説明しました。

…2・3日前からお腹の張りが気になっていたところに目の不具合が重なって怖くて、しかも苦しさや痛みもあって仕方なかったんだと思います。

でも、理解はしてくれました。


ただ今お話した事に決断はできない様でした。当たり前かも知れませんが。


はっきり言います。『苦痛と多少の延命』か『無痛と死を早める』の選択になります。」




私の頭の中がホワイトアウトした。

白い霧の中で早鐘の様に鼓動だけが聞こえる。

しっかり…しなきゃ…


「…先生、私は何をしたらいいですか?…いえ私は聡に何ができますか?」

「私はホスピス医だから…。」

先生は、ちょっと目を伏せて一旦そこで話を止めた。

一呼吸おいてから、すっと目を上げて私を正面に見て続けた。


「…ホスピス医としての意見としては、何もせず痛みや苦痛だけを取ってあげるのが患者さんには一番いいと思う。


…ですが…、個人的に言わせてもらえば…患者さんのリスクと延命時間を天秤にかけて、当人が延命を強く望むなら抗がん剤治療をする事をお勧めします。

効くか効かないかはやってみないと解りませんし、強い副作用で命を逆に縮める可能性だってある。

それでも当人がするという意志があればするべきだと思います。


上手く行ったとしても…なにぶん全身転移してる可能性が高いので治療というより、リスクを背負った上での多少の延命という事になりますが。」


私は先生の目を離さず聞いた


「…少しでも延命できる可能性があるんですね?」


岡野先生は頷いた。


「しかし、当然の事ですが、一番重要なのは、野原さんがどうしたいかという事です。本心を聞いて野原さんのしたい方向にしてあげるのが一番です。」


先生は私の肩をポンポンと叩いて立ち上がり部屋を出て行った。


…私個人の意見だけ言うなら何とかして聡に処置をしてもらいたい…

1日だって長く一緒に居たい…エゴだって解ってるけど…


…けど





病室に戻る前に洗面所に寄って鏡を覗く。

化粧は崩れてないか、眼は腫れてないか、顔色は大丈夫か


確認してから鏡に向かって笑ってみる。頬が引きつった様になっていた。ダメダメ。

何度か笑う練習をしてから洗面所を出る。


辛気くさい顔して聡に会うわけにはいかないんだ。





病室に戻ると聡はベッドに寝て窓の外を見ていた。



「何を見てるの?」明るく聞いてみる


「別に…」

 

聡は小さく呟く様に言う。

そのたった三文字に不快感というか苛立ちの様な物が見え隠れしている。


「あのね聡、…」

思い切って話しかける


「解ってるよ。」

不機嫌そうにすぐ応えが返ってきた



「…何が?」


「別れたいんだろ?」


「えっ?」


「解ってるよ。だからもう来なくていいって言ったんだ」


「ち、ちょっと待ってよ!何を言ってるのよ?」

聡が何を言い始めたのか解らなかった。


聡はくるりとこっちに顔を向けた。

眼帯が痛々しい


「…涼…さん、別れよう。




…今までの事は感謝してる。…だけどもう充分だから…」

 


想定していなかった展開だ

ショックだけど…だけど…


私の頭の中に住職の言葉が思い浮かんだ。


…これは聡の本心なのかな…



私は話始めた


「聡、よく聴いて。

あなたは私が嫌いになったの?他に好きな人でもできた?…もしそうならそう言って。

もし違うなら違う理由を教えて。

…理由があるなら聡の言うように別れるから。」



「…」

聡はゆっくりとこっちを向いて片方の目で私を見た。


そしてぽつりと言った


「…理由なんか…ないよ。」


「それなら別に別れなくても…」


そう私が言うと聡は語気を強くして言った。


「知ってるだろ?僕はこれから先、良くなる事はないんだ。痛みは酷いし、目の腫瘍も大きくなる。動脈の腫瘍は時限爆弾だ。腹水も溜まってるし浮腫もひどい。

目の奥の腫瘍が大きくなったら目が飛び出すかもしれない。


だからと言って抗がん剤を打てば副作用で心不全や脳溢血で死ぬかもしれない。


…放って置けば痛みは更に悪化する。モルヒネが増えたらいつ意識がなくなるか解らない。


…それ以前に立ち上がる事だってトイレにだって行けなくなる…そんな状態の僕の事で涼さんにこれ以上面倒かけたり苛つかせたりしたくないんだ。」



「ちょ、ちょっと待ちなさいよ!」


 

ああ…ダメだ…抑えなきゃいけないのに…



「私がどんな気持ちであなたと一緒にいると思ってるのよっ?!


私が聡の側にいるのは、好きな人の側に私が居たいからいるのよっ


確かに苛立ってた事だってあるわよ

自分の不甲斐なさや寂しさから腹の立つこともあるわ。

それが表情や態度に出てる事もある。

それについては謝る。これからは気をつける


だけど私はあなたの側から離れたいとも離れようとも思った事はないし、

これからもないわっ

私からは絶対離れないんだからねっ


私があなたの姿や状態に嫌気がさすとでも思った訳?

迷惑かける?

私が迷惑なんかじゃないって思ってるのに?あなたのそんな迷惑なら構わないから私にどんどん掛けなさいよっ。

 

私に出来る事なんてそれくらいの事しかないんだし…


それに私の決心ってのはそんなに軽いものじゃないのよっ!」



「…」

聡は驚いた様な表情で私を見た


「だって…




…私はあなたを愛してるんだからっ!」




病室が静かになる。


私の言葉がタバコの煙の様に空中に漂い、留まってる。



顔が熱い 耳も熱い


聡は片目でさらに驚いた様な顔をして私をみていた。



「…か、買物してくるわっ」


私は席を立って病室を出ようと思った

少し頭を冷やさなきゃ、それに…恥ずかしすぎる


出ようと扉に手をかけた時、後ろから声が掛かった


「…涼…お茶を買ってきてくれないかな」私は片手を挙げて返事をすると廊下に飛び出た




冷えたお茶のペットボトルを手に取って近くのベンチに座り込む。


まだ顔が熱い気がする


「女子中学生じゃあるまいし…」

口に出して言ってみる



風俗勤めをしてた女が『愛してる』って口にしただけで?



…有り得ない


しかも相手は病人だ


あーあ 私は一体何をしてるんだろう…



…でもふと気付いたんだ

私は今まで愛してるって言った事なかったなって。



そう




 私は聡を愛してる

 産まれて初めて人を愛してる



暫くベンチで火照りを冷ました後、病室に帰った。


聡は眠っていた


薬の影響かもしれない。


私はベッドサイドに椅子を近付けて座り、改めて聡の寝顔を眺めた


優しい顔つきだった聡の顔は、頬はこけて、眼窩は落ち窪んで、さながら修業僧の様だった。

息は浅く速い。

痛みもあるのかもしれない。


モルヒネを使うようになってから見た目はどんどん悪くなってる様に感じる。


…本当は逆だって解ってる。悪くなったからモルヒネを使ってるんだ。

だけどなんだかやりきれなくて、他の何かに原因を押し付けたくてモルヒネが悪いって感じてしまう。



なんだか泣けてきて、また病室を出た。




 

その日の夜、聡と今後の相談をした。


私も聡も苛つかず、ゆっくりと話ができた。




「僕は放射線や抗がん剤は嫌なんだ。

…解ってる。

生きるか死ぬかの瀬戸際に好き嫌い言ってるのはおかしいって。


…でもさ、だからこそ髪の毛が無くなったりするのが嫌なんだ。

放射線や抗がん剤で元気になれる可能性があるなら喜んで受けるよ。

でもさ、当てたって一時的にしか効かないなら…みすぼらしい格好にはなりたくないんだ。」


「…」

私は何も言えなかった。


その気持ちが解るような気がしたから。


「…だけどさ、少しでも永く生きたいから頑張って受けるよ。」


そう話が続いたのを聞いて私は泣きながらうなづくしかできなかった。



二人で暫く話し合った後、岡野先生に病室に来てもらい、抗がん剤を処置して下さいとお願いした。


私は何も言わなかった。

聡が自分で先生に伝えたんだ。


話の最後に聡は言った。


「先生…よろしくお願いします。」


片目からキラリと涙が落ちるのが見えた。


私は泣くまいと努力したけど…


やっぱり泣いた。

すごく泣いた。


翌日からY大医学部付属病院に一時転院し、ガリウムシンチグラフィーという検査とCT撮影を行う事になった。

全身の検査だ。


抗がん剤をして欲しいと頼んでも、すぐできるものではないんだ。



抗がん剤投与の前に一旦今の段階の状態を調べるという事らしい。



本来は聡位悪くなった状態では行わないらしいけど、先生と聡が話して決めたんだ。


ガリウムシンチグラフィーというのは炎症や腫瘍の位置を見るための検査で全身について行うらしい。

後から調べて解った。

Y大に到着した日からすぐに聡は院内をあちこちに移動しながら注射をしたりレントゲンを撮ったりの検査が始まった。

事前検査らしい。その場で詳しい説明を受けたけど、私には内容はあまり解らなかった。

多分聡にも解ってなかったと思う。


ただ機械的に決められた検査を順番にこなして行った。


病院っていうのはどこもこんな感じなんだろうか…

なんだか工場のラインに乗った製品の気分だ。


夕方までバタバタしてそのまま個室に移動して入院になった。


48時間したらシンチカメラという専用の機械で撮影するらしい。


その間は病院内で自由なのでブルースカイと同じ様な生活を送ることになった。


ただ、自由とはいっても聡の体調もあるし、車椅子だから移動は限られたけど。

二人で他愛のない話しをしたり持ち込んだCDを聞いたりしてゆっくり過ごした。



私はこの時、精神的に数日前よりずっとラクになってた。


聡の気持ちが良く解ってるのが一番大きかったんだろうなと思う。


更に私には聡が少しでも長く生きたいと思ってくれてるのが解ったのが嬉しかったんだ。



事態は決して良い訳じゃなかったのに私はこの数日間はとても幸せだった。



うん。幸せだった。


 





 





三階のカンファレン室

白い壁に時計

無機質なテーブルにパイプ椅子

机にはパソコン

レントゲン写真を見る為のシャウカッセ一台

それだけの部屋



暖かいのになんだか冷たい感じがする



その部屋に集まったのは全部で5人。

私、Y大の主治医、脳外科、内分泌外科、放射線科の各医師だ。


聡は撮影後は1日誰とも接触しないと言う決まりで参加しなかった。

事前に全権委任された私が聡の代わりだ。


画像がコンピュータ画像で現れる。

全身像が現れる。

レントゲンみたいだけど黒い斑点があちこちに見える


医師達は黙ってその画像を見ていた。


 

え?え?どうなの?


黙る医師達をみて私は恐怖に押し潰されそうになる。



「扇さん、大丈夫ですか?…これが野原さんの今の姿です。」

「この黒いのが…」


「そうです。一昨日注射して体内に集積したガリウムです。つまり、炎症か腫瘍がある部位です。」


「こんなに沢山…」


骸骨の写真に墨汁を垂らした様にあちこちに黒い斑点が散っている

私は椅子から立ち上がった。

走り出してここから逃げたくなったんだ


「落ち着いてください。」


狭い部屋に先生の声が響く


「野原さんの現実を見てください。


…頭部、胸部…腹部に黒いのが集中してます。

…これを見てお分かりですね。全身に転移してます…」



ああ…

これが聡の中にいる魔物の正体なんだ…



「この状態は、あくまでも今の状態という事ですから。

これから抗がん剤を使用して叩きます。しかし、罹患部位が多いのでこの中の…に…が………」


先生は説明を続けていたが私には聞こえていなかった。

正確には理解しようとする余裕も無かった。

よしんば聞いていたとしても現実は変わらない。


私は目の前の画面に映る黒い魔物から目を離す事ができなかったんだ。


私が目を離したら魔物が目を覚ましてパッと広がりそうで…




その日、私は聡に会うことはできなかった。


聡は明日まで専用の部屋にいるとの説明だったので一人で聡の病室で膝を抱えてじっとしていた。


頭の中にはさっき見た黒い魔物の写った画像がずっとチラついてた。



先生方はあの後、各科の専門の意見を出して聡に使う抗がん剤を検討したらしい。


…聡の中の魔物に効く抗がん剤が見つかります様に…

私は手を合わせて祈った



 

 

―――――――――――――――



「聡、お帰り」


「ただいまー」


「お疲れ様です。今日は遅かったのね」


「ああ、ちょっと仕事が長引いちゃってね。これケーキ。後から食べよう」

そう言って白い紙の箱を渡してくれた


「わーい」



聡は着替える為にスルスルと服を脱ぐ


「えっ!?」


背中にもお腹にも、テラテラと光る黒いシミが広がってる。しかも少しづつ広がってるのが解る…

じわじわと。


「どうしたの?」

私を見た聡の顔も既に半分位が黒くなっている!

片目は黒いぬらぬらした中でギラギラと光っている


「きゃぁぁぁぁぁ…!」

私は叫んだ


声を限りに





目を開けると聡が眠っているのが見えた


私は汗びっしょりでゼイゼイと肩で呼吸をしていた


夢だ…夢だったんだ…


病室には聡の呼吸とマスクに酸素を送る小さな音が聞こえてるだけだ。


一昨日から聡は寝るときだけは酸素マスクをする事になったんだ。


時計を見るとまだ午前4時すぎ。

私は暗い中で汗をかいた服を着替えてまた簡易ベッドに横になった。


まだ早いのにもう眠れない様な気がする。


いつの間にかこの10日程の事を思い返していた。





ガリウムシンチの結果を見た翌日から抗がん剤の投与が始まった。

聡は結果を聞いても冷静だった。

 

「解ってた事だから」と言って動揺してる私を見て軽く笑った。


あの日以来、聡は精神的に強くなったように感じた。


抗がん剤は毎日40分かけて点滴で落とす。


1クールが4週間らしいが、聡の場合は副作用の程度で打ち切りもあるらしい。




副作用も最初のうちは何も無かった。

「副作用全くないのかも」って喜んでたんだけど、三日目、三回目の点滴をした頃から吐き気が出ると同時に口内炎ができた。

聡が怯えていた脱毛は思ったほどヒドくは無かった。


でも口内炎は酷くて唾を飲み込むのも大変だったみたいだ。

抗炎症剤や吐き気止めを錠剤から注射に変えてもらうまでは、飲むのを見てる私の方が苦しかった。


なのに…辛いだろうに…聡は泣き言は一切言わなかった。


薬を注射に切り替えてもらうのも私が先生に頼んだくらいだ。


話しをしても痛いらしく時々顔を歪めてたけど「話をしたいんだ」と言って沢山話をしてくれた。



日を追うごとに聡は弱っていった。


一週間を過ぎた頃、ついに歩行器がないと立てなくなった。



医者は一過性のものだと言った。


抗がん剤の投与が終わればまた体力は戻るからと。

聡の姿を目の当たりにしてる私にはなかなか信じられなかった。


9日目の夜には酸素マスクまでしなくちゃならなくなった姿を見ると泣けてきて困った。


聡の前では絶対泣かない様にしようと決めてたから泣きたくなると病院の屋上に行って泣いたりした。




抗がん剤投与を始めて10日目で一旦中止になった。


聡はまだ続けると言ったけど、体力的に厳しいだろうという医者の判断だ。


この段階で聡の体の中に巣食う主な腫瘍の変化を調べるんだ。


事前の腫瘍マーカーの値は相変わらず高いままだったから私は期待はしていなかった。



だからCT画像をみながら


「小さくなってますよ」と言われた時にはわんわん泣いた。


嬉しくて嬉しくて。


聡も痩せてやつれた顔を綻ばせて喜んだ。




とりあえず2週間は体力回復期とするらしい。


医者は今後の事は体力次第と言った。

つまり体力があれば抗がん剤を使って更に小さくできるかもしれないって事だ。


そう解釈した私は聡が食べやすい物や食べたい物を調達することにした。

勿論病院側も回復食になるだろうし、栄養点滴も増えるらしいけど私にできるのはそういう事位だから。


「聡、何が食べたい?」


副作用の吐き気は収まったけど口内炎はまだ残っていたので液体か粥化した物しか受け付けなくなってたんだ。


「…カステラかな。飲み物と一緒ならほろほろと崩れるから飲み込み易いんだよ。栄養も高そうで消化も良さそうだろ」


確かにカステラなら食べやすそうだ。



カステラ…





――――――――――



「違うって。お前、はえーんだよ。縁の色が変わって泡が浮かんで来るまで待てって」


私は竹串を持った手を止めてカクさんの顔を見た。


「あせんなよ。簡単な菓子程難しいって事なんだよ」


カクさんはそう言ってニヤリと笑った。



――――――――――



私はクマさんに連絡して、いつかお見舞いで貰った一口カステラを買いに行ったんだ。

クマさんは隣町の商店街の奥でやってる駄菓子屋さんに連れて行ってくれた。


 

「いつもは駄菓子屋なんだけどな、祭りや町内運動会とかあると出張するんだ」

クマさんはそう教えてくれた。


店前には駄菓子が沢山並んでいた。

店内には客も居なくて忘れられた様な商品が静かに客が来るのを待っていた。


クマさんが店先から声を掛ける。


店の奥から出てきたカクさんと言う人は、名前の通り角張った顔した角刈りのおじさんだった。手に一升瓶を持っていたのが印象的だった。


事情を話するとカクさんは

「じゃ、お前焼け」

と言った。


驚く私を見ながら赤い顔して続けた。

「俺が『良くなります様に』って願かけながら焼くより、あんたが願掛けた方がいいに決まってんだろ」

そう言って笑った。


専用の粉を混ぜ、砂糖や香料を添加してから卵を入れて撹拌して型に入れて焼く。それだけの工程だがカクさんの指導は厳しかった。


「最近はよ、いかに安く見た目よく作るかが重要みたいに言われてるけどよ、菓子は旨くなきゃダメなんだ。安くて旨いものを作ろうと思ったら手間暇惜しんじゃいけねぇ」


そう最初に言った顔は真剣そのものだった。


「簡単に作って旨いなんざありえねぇ…ってやってきたんだ。

でもいけねぇや。最近はこういうのを食べたいってガキが居なくなっちまってな。

こっちに思いがあってもガキの手にまで渡らねぇ。

ガキのうちに本当に手のかかった旨い物を食べなきゃいけねぇと思うんだがな。


うちは駄菓子屋やってるけどみんな下町でちゃんと作った物ばかりだぜ。」


確かに店頭に並ぶ商品はどれも地味な色でプラスチック製品や、けばけばしい包装紙のものは見当たらない。


「一つ確かなのはな、気入れて作ったもんは食えば解るって事だ。だからお前さんも気入れて焼けよっ」



と言うことで店の奥の作業場で汗かきながら悪戦苦闘した。

2時間掛けてやっとコツを掴かみ、OK出されるまで更に1時間掛かった

その間、カクさんはひたすら呑んでた。


焼きあがったカステラを冷ましてる間、ポツリポツリと話してくれた。


「俺はよ、かみさんが生きてる時には何にもしてやれなくてな。この店かみさんに任せっきりで悪さしてさ。

クマさんに厄介になったりもしたんだよ。

…見てみろ。」


うわっ!


カクさんがシャツを脱ぐと背中には大きな風神の刺青があった。


「さっき帰ったクマさんとあんたがどういう関係かはしらねぇが、あいつは元デカだ。

色々あって今はあんな感じだけどな、昔は鬼熊って言われてたんだぜ。

俺がカタギになれたのはクマさんとかみさんのおかげなんだよ。」


事情は良く解らないが二人ともすごい人生みたいだ。


「娑婆に出てカタギになれた途端にかみさんは逝っちまった。クマさんは金ボタン辞めちまった。なんだかみんな俺が悪い様な気がしてよ。

かみさんが生きてるうちにどんな貧乏でもいいからカタギの姿見せてやりたかったよ。

…後の祭りだがな。

だから今は駄菓子屋を真面目にやってんだ。せめてもの罪滅ぼしのつもりでな。

あの世に行って会った時にまた迎えてもらう為によ。」


そういうカクさんの顔は寂しそうだった。



失敗作も含めると大量の一口カステラができたのに、カクさんは代金を受け取らなかった。


「俺からの見舞いだと思えばいい」と言い、失敗作もカクさんが食べると言って引き取ってくれた。


私は大きな紙袋2つの良品のカステラを持って病院に帰った。

帰る電車の中でカクさんの奥さんに対する気持ちをちょっと考えた。


『生きてるうちに…迎えてもらう為に』か…







私の作ったカステラと牛乳の組み合わせが良かったのか、単に副作用が無くなったからか聡の具合は次第に良くなった。

カステラの次に、アルギン酸とフコイダン(根昆布のネバネバ)がいいと病院で見舞いに来ていたおばあちゃんが言ってるのを小耳に挟んだんだ。

先生に聞くと、効果は解らないけど構わないよとの事だったから探しまくって買いに行った。


なのに、聡はカステラは率先して食べるけど根昆布は飲むのを嫌がった。

私も飲んだけどそんなクセもないし、特に問題ないのに…


私は根昆布がどんなに体にいいか説明して半分脅迫して飲ませた。


聡は苦手みたいだったけど私が見張っているから逃げられる訳もなく、渋々飲んだ。



私、根昆布の営業できそう。


カステラが良かったのか根昆布の効果か、聡は10日も過ぎると顔色も良くなり、少しふっくらした。


歩く姿も戻ったのを見るとなんだかホッとした。


2週間の『復活期間』はそんなこんなであっと言う間に過ぎてしまった。


聡の中の魔物が撲滅できたような錯覚に陥っていた私。

毎日が楽しかった。



回復期を越えた日に再びCTで画像診断をした。

腫瘍は小さいままだった。


ただ目の奥の腫瘍の大きさだけは殆ど変わらず、視野も回復しなかったけど。


それでも二人で手を取り合って喜んだ。

私は時が止まればいいのにと思った。

今この時間が永遠に続いたらいいのにと。






病院側と何回か相談して次の週から2回目の抗がん剤投与を始めるという事になった。



眼帯はしてあるけど見た目はかなり良さそうで、聡自身も具合がいいという日が数日続いた。

聡が外出したいって言ったんだ。

次の抗がん剤が始まればまたしばらく地獄の日々が続く。

それが解ってるから私もできるだけ聡のしたい事をさせてあげたいと思った。


私は今の担当になってるY大の先生に相談する事にした。



先生は話を聞くとカルテを見ながら少しだけ悩んで言った


「いくつかのルールが守れるなら許可してあげるよ」と言ってくれた。


先生の許可を貰った事を聡に伝えるととても喜んだ。


勿論泊まりは無理なので日帰りだ。


でも日帰りでどこに行ったらいいのか解らない。

車どころか免許もない。


散々悩んだ挙げ句に私はヨウコさんに相談してみた。


ヨウコさんとまるちゃんが一緒に行きたいと言ってくれた。

…正直ちょっとホッとした。


知らない出先で聡に何かあったら…と思うと…


聡の容態から考えても歩行距離が多くなりそうな所、人が多い所、近くに医療機関が無い所は行けない。それが先生から貰ったルールだ。



ヨウコさんと何度か電話で相談して、まるちゃんの車で隣の県の湖に行くことになった。湖は都市の近くにあり、車で展望台近くまで登れる。


それなら聡にあまり負担にはならないだろう。


私も聡も遠足を心待ちにする子供の様にわくわくしながらその日を待ったんだ。


当日、医者から指示書(今の容態と薬について書いてある。最寄りの病院に行くことになったら必要)と、座薬や経口薬の痛み止めを貰い、車椅子を借りて、行動の注意を受けてから看護士さん達に挨拶して出発になった。


正直、出発するまでにぐったりするほど私は疲れた。


病院玄関前には車が横付けされててまるちゃんがニコニコしながら手を振って迎えてくれた。


まるちゃんはいつも仕事で使ってる黒のワゴン車じゃないシルバーのセダンで病院まで迎えにきてくれてた。

店長の粋な計らいで二人は休みを貰い、更に自分の車を使えと貸してくれたと言ってた。


小柄な店長の姿が思い浮かぶ。

ありがとう店長。


聡はパジャマ以外の服装を着るのは正月以来だ。


「なんだか違和感があるよ」

と笑いながら少しだぶついた服をひらひらさせた。


お正月の頃も痩せてると思ってたのに、更に痩せたんだなぁと実感する。


ちょっと寂しくなった。


それでも車内はまるちゃんのいつもの明るい話で盛り上がった。

多分ヨウコさんもまるちゃんも気を遣ってくれたんだと思う。


聡も喜んでた。

聡も話に参加してみんなで大笑いしたりした。

途中のドライブインで休憩しながら進み、目的の湖の駐車場に着いたのはお昼前。

距離的に病院から100キロ位離れてる。



湖の畔は冬の平日だからか殆ど人はいなかった。


風も無く日差しは暖かかった。寒がりのヨウコさんが 「こんな暖かいのは珍しいわね。」と言った位だ。


自分で歩く気満々だったから嫌がった聡を、車椅子に乗せて、少し上の展望台にみんなで上がった。


広い展望台は散歩なのか観光なのか解らないけど歩いてる老夫婦や、小さな子供を連れた若いカップルがちらほら見える程度だ。


展望台から見下ろす湖には白いボートがいくつか浮いている。

ボートの回りに白く小さく見えているのは水鳥みたいだ。


人によっては寂しいと思うような風景かもしれない。

だけど私には心を落ち着かせる何かがあった。


「俺の故郷じゃニングルってのがいるんだよ。いわゆる精霊っていうやつだな。」


「ニングル?」



「ああ。小さな人って意味らしいよ。森に住んでるんだ。

面白いのは民話や伝説になってないんだよ。ほら、妖精とかって居たらそれなりに話題になるし話にもなるじゃん?だけどニングルの話しはない。って事は、逆に本当に居るんじゃないかって思うんだよ。普通にいるから伝説にはならないって訳さ。

でさ、ニングルから見たら俺たちの居る世界なんて、なんでゴミゴミしてて狭いんだろうって思うと思うんだよ。

自然の豊かな所に来ると俺はつい、ニングルの事を思い出してニングルの気持ちになってみるんだ。

自然には適わない。自然と共に広い自然の中で自然に生きようってさ」


まるちゃんはそう言って思い切り気持ち良さそうに伸びをした。



自然に生きる…か。



聡は遠くに見える湖をじっと見ていた。




その後四人で湖の縁まで下りた。


ボートに乗るか!とまるちゃんが目を輝かせながら言った。


ヨウコさんと私は反対した。

でも、それを聞いた聡がどうしても乗りたいと言ったんだ。


もし転覆したりしたら…いくら救命胴衣で浮けるにしても冬の湖だ暖かくはない。我々はともかく、聡には…。そう何度も説得したが聡は乗りたいと言ってきかなかった。



仕方ない。大きめなボートなら大丈夫かも知れないと妥協した。


貸しボート屋は大半が釣り用の二人乗りばかりかと思ってたのに、そこには六人乗りのボートが一隻あった。


借りる時、ボート屋のおじさんが車椅子から立ち上がる聡の姿を見て、乗るのを断られるかもしれないと思った。


でもおじさんはチラリと聡を見てから「気をつけなよ」と言ってライフジャケットを渡してくれた。


船を出す時に呟くように

「今日みたいに暖かい日は珍しいんだ。こんな季節でも、たまーにあるんだよなこんな日が。

こんな日には湖の神様も味方してくれるもんさ。

あんた達の日頃の行いがいいのかもな」

と言ってくれた。



湖面には他のボートも帰ったらしく誰もいなかった。

静かな湖面を沖に出るとギシギシいう船の音と私たちの声だけになった。


湖面は透き通り少し深くまで見通せた。ガラスに乗ってるみたい…。

その湖面の先に目を向けると薄雲を通した明るい空と繋がっていて空間に浮かんでいる錯覚に陥りそうだった。

明るい光の中に取り残された一隻の宇宙船。


なんだか四人だけの世界にいるみたい…。


このまま岸に帰ったら地球上に誰も居ないのではないかというくだらない想像をしたりした。


しばらく湖で漂った後、岸に帰った。

「僕、ボートに乗ったのは初めてだったんだ」

聡は興奮気味にそう言った。


喜んでる…良かった。


四人で湖畔を散策する。



湖面を渡る風は並木を抜け、私の頬を撫でて通り過ぎていった。

髪がサラサラと揺れる。


久しぶりに楽しくて高揚してる私の頬には冷たい風が気持ち良い。




…あ!


聡にこの風は良くないかもしれない!慌てて目を遣ると聡はまるちゃんに車椅子を押してもらいながら話をして楽しそうに笑っていた。



顔色も悪くなさそうだ。

良かった…ホッとする


だけど、ほんの一時だけど聡の事を忘れてた自分に腹がたった。

腹が立つと同時に冷たい風が私の心の中を通り過ぎていった



…私はいつかこんな風にごく自然に聡の事を忘れてしまうんだろうか…


心の中の風が更に冷たく強く吹いているのを感じた。







夕方、日が沈む前に私たちは病院に帰った。


まるちゃんとヨウコさんを見送り車椅子で病院に入った。




正面玄関からエレベーターに乗り、聡に話かけた

「今日は楽しかったねー」


「…」


「ね、ボートまた乗りに行こうね…ね…聡?」


「…くっ…」


泣いてるのかな?

前屈みになって聡の顔を覗き込んで息が止まった


聡は目を見開いたまま紫色の顔をして口から涎を垂らしていたんだ。


「聡!」

聡は私が揺さぶると人形の様に左右にぐらぐらと揺れた。

エレベーターは緩慢に上昇を続けていた。

たかだか三階に上がるだけなのにエレベーターは何時間も掛かる様な気がした。

扉が開くと同時に声を限りに助けを呼んだ。

警備員と職員の人が駆け寄ってきてくれる姿が見えた…


…そこまではしっかりと記憶がある。



次に気付いた時には廊下のベンチに座って、時計を見つめてた。


0時半…


ストレッチャーのガチャガチャ音、野原さーんという呼び掛けの声、カイキョウ準備!と言う怒鳴り声、血のように赤い手術中のランプの色、大丈夫よと言う誰かの声と肩を叩かれる感覚…


強い流れに流されるようにこの6時間位があっと言う間に過ぎた。

記憶は無かったけど感覚だけが残ってる。


ふと時計を見て、流れから顔を出せた気がしたんだ。

…『カイキョウ』って『開胸』の事だ…今になって渦の中で聞こえた言葉が意味を成す。


…え、聡…手術したの?

先生無理って言ったじゃない?

そうだ。大丈夫よって私の肩を叩いた人は誰だったんだろう…大丈夫って言い切れるの?


何で言い切れるの?

あなた、結末を知ってるの?神様なの?


なら教えてよ。


聡と私の結末ってどんななのよ?


そうだ…寺田さんならきっとハッピーエンドにしてくれる。


寺田さんは…あれ?この病院じゃないよね?

ブルースカイだよね?

…ブルースカイの岡野先生なら解るかな…


でも岡野先生は手術ダメって言ったじゃない。岡野先生が言ったのは、くれぐれも咳やくしゃみには気をつけてって…


寒い思いさせたから?


いや、あの子供の咳が感染ったんだわ。子供よりもあの親が問題よ。


…あれ?あれはどこの病院だったかしら…



…私の頭の中は時系列の無い、意味をなさない言葉が洗濯機の中の水を見るようにぐるぐると果てしなく絡みあい、引っ張りあいながら渦を巻いていた。



うん。おかしくなる前だったんだと思う。



午前2時前に手術室のランプが消えて中から数人の先生と看護師が出てきた。


「せっ先生!」


私が駆け寄り聞くと


暗がりのベンチに一人で座っていた私を見て驚いた様だったけど、

「やるべき事はしました」

と平板な声で言った


「…」


何も言えずにいる私に近くの看護師が


「明日、詳しい説明をしますから。とりあえず患者さんの病室でお休みください」

と言い、聡は手術室から廊下を通らない通路を使ってモニター室に移動になった。今後、容態が安定して集中治療室に移動になるまでは完全に面会謝絶だと説明してくれた。


つまりはここに今いても答えは聞けないんだ。先生からも聡からも。


私はふらふらと立ち上がり、聡の病室に帰り、窓際に丸椅子を置いて空を見て朝まで過ごした。


世が明けたのが解ったのは空一面の雲が見えてる事に気付いたから。




お昼前に昨日の執刀の先生から説明があった。



大動脈の腫瘍の一部が剥がれて胸部に溜まったのが原因だと思う事。

たまたま処置が早かったから一応は縫合で出血を止めているが、今後どうなるかは解らない事。

脳への血流が一時的に途絶えたのが原因かどうかは不明だが意識がまだ戻らない事。


…そして 覚悟をしておいてくださいという言葉。


私は渇いたスポンジが水を吸うように先生の言葉を全て頭に吸収した。


『覚悟をして』

『覚悟をして』

『覚悟をして』…


その言葉だけが頭の中をぐるぐると何度も何度も回り続けた。


その日は夕方まで集中治療室前のベンチに移動して座っていた。


何人かに声を掛けられた気がするが思い出せない。



その日の夜も病室の窓際の丸椅子で一睡もしないで起きてた。

不思議と眠くもないしお腹も空かないし喉も乾かない。


頭のどこかではこれじゃいけないと思っていた部分もあったけど、体が思うようには動かなかった。






その朝も前日と同じ様に、窓から陽が上る前の空を見ていた。

前日は曇りだったので、明るくなる白い雲だけだったが、今朝は好天の様で淡いオレンジとブルーと溶け合っていく空の色を見ていた。



七階の病室から見る景色には丁度ビルの隙間があってかなり遠くにある公園まで見通せた。



  …あ!




いきなり金色の光線が私の目を刺した。

遠くの公園の木立の隙間を貫いた朝日は、真っ直ぐに私に向かって来た。

細い一本の光の矢は段々太くなり私の目から顔全体、体、そして窓全体を金色の光で満たした。


振り向くと部屋はその光を浴びて全体が金色に染まってた。




…その金色の溢れる光の中にいたんだ。



縁が金色に染まる人が


アウローラだ!


夜明けの神様!





私は店長が以前に教えてくれたオーロラの語源の事を思い出した。

これがアウローラ…


アウローラに手を伸ばした。触れたいと思った


金色に輝くアウローラも私に触れる様に手をこちらに伸ばしてきた


触れると思った途端、部屋に満ち溢れていた金色の粒子は急に色褪せてただの朝日を浴びた明るい病室に戻った。


後には片手を伸ばす私と、手を伸ばす私の影が病室の壁に映っていた


…影?


朝日と影の作った幻影だったの?


…いいえ


あれはアウローラだった。


間違いなくアウローラよ



だってその圧倒的な光の渦に包まれてアウローラの姿を見た時に目が覚めた気がしたから。



こんなんじゃいけないっ。

生きてる限り前に向いて行かなきゃ!って。

聡が倒れてから、『聡が目が覚めた時に私が寝てたらダメ』っていう変な強迫観念が私をがんじがらめにしているのに気付いた。


『なんだ、僕が苦しんでいるのに君は寝てたのか』そう思われたくないって心のどこかでそう思ってた。


『私はあなたが苦しんでるのをこうやって待ってたの』っていうポーズがとりたかったのかもしれない。



…でも光に包まれて解った。

そんなちっぽけな事じゃないって。

私が聡にどう受け取られるかじゃない。

ましてもって私自身を聡や関係者にどう演技して見せたいかでもない。


なぜ聡に『自分も一緒に苦しんだのよ』っていう、アピールをする必要がある?

私が泣いて、眠らず、食べず、飲まないで衰弱していけば聡が元気になるなら…餓死、狂い死ぬ寸前まで間違いなくする。

…でもそんな事をしたって何の役にも立ちはしない。


本当に相手の事を思っているのなら形振りじゃない。



私は聡の分身なんだ。

言うなれば聡自身だ。


だから分身として逆に私が聡だったらどうなんだろう?と考えてみる。


聡が気がついた時に私がこんな状態でいいの?って




目覚めた時に、自分が相手と同じ様に苦しんでる姿を見せる。それが本当に相手の為になる?


ううん。それは違う。




目覚めた時に、私はこの朝の光の様に聡を明るく元気に包み込む様に迎えてあげなきゃならないんだ。


…それが分身の私の役目。


 そう気付いたんだ。







私は病室を出てナースステーションに行き、当直の先生に事情を話して薬を処方してもらった。


安定剤と睡眠導入剤。


私は薬を飲んでから聡のベッドに潜り込み眠った。


あれほど眠れなかったのに枕に頭がついたかどうか解らない位早く睡りに落ちた。


眠りに落ちる直前、さっき見たアウローラが笑った様に思えた。






お昼過ぎに目を覚ました。

驚く位自然にそして完全に目が覚めた。


洗面を済ませてから病院の食堂に行きご飯を食べた。

お預けをさせられてた飢えた犬みたいにがつがつと。


寝て、食べる。そして強くなるんだ。

強くならなきゃ明るく聡を迎えられない。


食べ終わるとブルースカイの岡野先生に電話をして現状を説明した。

「そうですか。私からも直接先生と連絡をとって話をしてみます」と先生は言った。


カンノ先生にも連絡した。

先生はただ一言

「これからは、一時、一瞬を大事にね」

と言ってくれた。


胸に刺さる言葉だったけど礼を言って涙が溢れそうになるのを耐えた。


泣いてる場合じゃないんだ




ナースステーションに行き夕方に担当の先生との面会をお願いしてから、病室のシャワーを借りて浴びた。




戦闘準備だ。





「昨日お話したように野原さんは今は危険な状態です。…柔らかい血管に固い腫瘍が食い込んでいる状態で…固さの違うものは剥離しやすい訳です。

現に今回は一部が剥がれて出血して胸部に溜まり、胸部の圧迫…と同時に脳への血流が一時的に減った為に意識が戻らない状態になっています。

脳にダメージが無かったらいいのですが。


患部はどうにか縫い付けましたが…それも奇跡の様な状態でなんとか止まっている状態です。」


先生はそういうとカルテから目を離して私を見た。

冷たそうな縁なしメガネの奥に見える目は悲しそうに見えた。


「…極めて危険な状態です。意識もまだ戻りませんが、もしかしたらこのまま戻らない可能性もあります。」


「…はい」


「…意識が戻らなくても腫瘍の侵食は続きますから容態の急変もあるものと考えてください。」


私は医師から叱責を受けると覚悟していたのに医師は最後に優しく笑って言った。


「…出先で倒れなくて良かったですね。

…まだ可能性はある。諦めないでください」


私は先生の目を見てはっきり言った



「はい」と。


午前8時


「聡おはよ」


ドアを開けると必ず明るく声を掛けた


『涼おはよ』

って声が返ってくるのを期待するんだけど



シューっと言う低い空気音に混じって甲高い電子音が定期的に聞こえる。



今の所、それが聡の返事だ。


ちょっとがっかりして心の奥ではホッと大きくため息をつく。


最近は朝から夜までは聡のそばに付いていて、夜は病院のスタッフの方にお願いしている。

私は聡のアパートに帰ってお風呂に入って寝るようにしている。

長丁場になる可能性があったから。




あれから一週間経って、聡は病室に帰ってきた。

…意識はまだだったけど、検査では脳波もちゃんと波形が出ていて、脳外科の先生の話でもいつ意識が戻っても不思議ではないと言われた。

そう聞くとただ純粋に嬉しかった。


たとえ鼻にはチューブが入っていて、口には酸素吸入器の薄いプラスチックのマスクが付き、細い腕に枕元に何本もぶら下がっている点滴用のバックから伸びた輸液針が刺さっていたとしても。


聡の現状を考えたら、1日顔を見て話しかけられる事ができるだけでも幸せだった。


午前中一回、午後二回の検温と検診以外は病室に二人きりだった。



いつの間にか私は聡の顔を見ながら独り言を言うようになっているのに気付いた。


「聡、アパートのね鍵が開きにくいのよ。今夜油注してみるね」

「駅前に新しいドーナツ屋ができたのよ。一口カステラより美味しいかしら?」

「夕べは暴走族が多くてね、なかなか寝付けなかったわ」


聡からの返事はない。

でもそれでも良かった。

私にしたら聡に話しかけられるだけで良かったんだ。


精神的に参ってた訳じゃないと思う。…勿論疲れてはいたけど。


途中何度かヨウコさんやまるちゃんが見舞いに来てくれたりした。

ヨウコさんは私を見ると涙ぐみながら

大変ね…私に何かできる事はない?と何度も言ってくれた。

まるちゃんはケーキや花を買ってきてくれたりした。


ヨウコさんたちと面会室で話をしたりすると私は何だか、ふっと心が軽くなるように感じた。


聡と二人きりの生活はある意味一方通行だったから私の言葉に反応してもらえる事が嬉しかった。

それは聡を否定してるんじゃなくて、反応できない聡との関係に慣れてきたから逆に新鮮に映ったからなのかもしれない。






コンコンと小さなノックが聞こえたのはヨウコさんが三回目の見舞いに来てくれた後だった。


看護師のノックは一度(ノック無しのこともしばしばあったけど)だったから、一体誰だろうと不思議に思いながら返事をすると、開いたドアからモモがひょっこりと顔を出したんだ。


「モモ!」


「涼ー!」


二人は手をとって再会を喜んだ。

久しぶりに会うモモは健康的に痩せて地味に綺麗になっていた。

丸顔がスマートになったから目が大きく見える…

それよりも目の輝きがキラキラしていて以前の疲れた様な目ではなかったのに驚いた。


ヨウコさんに話を聞いて来てくれたらしい。


「涼、痩せちゃったね?聡くんの具合どう?」

心配そうに聡の方を見ながら私に言った。


「心配してくれてありがと。聡はああいう感じよ。…モモの方が痩せちゃったじゃない」


エヘヘ とモモは笑った。


挨拶が済むと病室の窓際に丸椅子を並べて二人でいろんな話をした。

モモが持ってきてくれたチーズケーキを食べながら。


新しく彼氏は作っていないこと(「もうこりごりよ、あんな事」って言ってた)、看護師養成学校に行くための勉強をしてる事、 店も指名が増えたから出勤時間を減らしてる事…


いろんな話をした。


仕事の話を聞くと何だか古傷の後を指でなぞる様な…かきむしりたい、でもそっとしておきたい…痛い様なむず痒い様な変な感覚がした。


自分がデリ嬢をしてたのが随分昔の様に思えた。


モモは最近あった変わったお客さんの話をしてた。


「…でね、そのおじさんったらさ…」


「うんうん」


「私に頭を殴ってくれっていうのよ。殴れって言われてもねそれって…」



「…ねぇ涼。その人誰?」



「…」



「えっ?」


二人は目を合わせた


今 声聞こえたよね?


眼で二人は話をした


ゆっくりとベッドの方を向くと聡が眠そうな目を擦りながらこっちを見ていた。





!!!!!





「…どうしたの?何このチューブ?話しにくい…」


「聡ー!!」

私は聡に飛び付いた。


「ど、どうしたのさ?昨日の疲れがでちゃったみたいで…」


私はわんわん泣いた。



モモも驚き、泣きながら喜んでくれた。



聡が目を覚ましてくれたんだ


壊れるくらいナースコールボタンを押して看護師を呼んだ


スピーカー越しのナースの声も心なしか上擦って聞こえた





「おかえり…聡」





「…重いよ涼…どうしたのさ」



聡だけは事態が掴めず不思議そうな顔をしていたが










意識が戻った聡は医師が驚く位元気に見えた。

そりゃ痩せてるし顔色悪いし肌はカサカサだ。


しかも二週間口から飲食してないから呑み込む力が無くて液体以外は噎せてしまう。

噎せると動脈の腫瘍が剥がれてしまうかもしれない。


絶対に噎せさせてはいけないから個体は当分食べさせる事ができない。


「廃用性萎縮です」

担当の医師はそう教えてくれた。

人間は使わない筋肉には栄養を送らない。働かざる者食うべからず…では無いけど、人間には要らないエネルギーは無いって事だ。

だから使わないと動かせなくなる。

高齢者に多いらしい。

転んで骨折して安静にしていたらそのまま寝たきりとか。


但し、動かしていない期間が短い、若しくは若ければ復活も早い。



そう聞いて聡も復活してくれると思った。





目が覚めてからの聡は陽気で明るかった。


目が覚めて二日目には流動食でもいいから欲しいと所望した。

病院はドロドロした栄養ドリンクを出してくれた。

私はそれを時間をかけてスプーンで掬って口まで運んだ。

一本が200CCの栄養ドリンクを呑み込むのに一時間掛かった。

咳き込まない様に慎重にゆっくりゆっくり食べさせたから終わった時には二人ともぐったりした位だった。



「ねぇ、本当に僕はそんなに長く寝てたのかい?」


「先生もそう言ってたでしょ?胸には縫った後もあるし、カレンダーの記しもね」

何度か聡は同じ質問をするから私の応えも次第に簡素になる。

毎回私が応えると「…」黙って何か考え事をしていた。


だけど今回は聡は口を開いた


「疑ってる訳じゃないんだ。

信じられないだろうけど、本当にうつらうつらと寝て起きた感じでさ、その短い時間に夢を見たんだ。

…病室の窓がさ全体が金色に光ったんだよ。

…でさ、窓の外から金色に輝く人みたいな格好をしたものがガラスを突き抜けて入って来るんだ。…」


「!」

アウローラだ!

間違いない!


枕元の椅子に座っていた私は聡から見えない。

聡は私が驚くのに気付かず話を続けた。

「…こんな風に両手を広げてさ。

抱き止めてくれるみたいに。


僕も体が自由に動いてさ、手を伸ばしたんだ。


…そしたらその指先が触れたと思った瞬間に…


目が覚めたんだ」



「…そ、そう」


私は極力動揺を出さない様に注意しながら返事をした。



自分の見たアウローラについて話そうかと考えた。

…けど、何でか話せなかった。


よく解らないんだけど話しちゃいけない気がしたんだ。



「…信じてくれないだろうけどさ」


「そんな事ないわ。きっとその金色に輝く人が聡を助けてくれたのよ」


私がそう言うと聡はコクリと頷いてにっこりと笑った。





その日の午後、看護師さんが青い顔をしてやって来た。「野原さん…いえ…扇さん、来客がいらしてますけど」


「…誰ですか?」


「…それが普通の感じの方ではないみたいなんですよ。

病室の番号を書いた紙は持たれてるんですが、その…病院のガードマンに入り口で止められて来訪の理由を聞かれると見舞いと付き添いの人に会いに来たと言われるのですが、規則上一応患者さんに会われるのが目的なら…」


看護師さんがそう言ってる後ろからがらがら声が聞こえてきた

「涼ちゃん、ここか?儂じゃ。神田じゃ…怪しい者じゃないって言うのに」

ドアの後ろから病院のガードマンを後ろに従えて顔を覗かせたのは住職だった。


「住職さん!」

 

「! シーっ!今はプライベートなんじゃから大声で言うなぁ」


銀縁のグラデーション入りの茶色のレンズの入ったサングラスに坊主頭。艶やかに光る銀色の生地のスーツに目の覚める様な青い開襟シャツ。

指にはキラキラと光る指輪とバングルにロレックスのコンビの時計。


相変わらず住職のオフファッションは派手だ。


そりゃ怪しまれるわ


「怪しい人じゃないんです。知り合いです。すみません。お騒がせして」

私がみんなに謝りながら言うと、怪訝そうな表情をしながらガードマンは仕事に戻り、看護師さんは明らかにホッとした表情で病室を出ていった。

なんで私がみんなに頭を下げなきゃならないのよっ

住職を睨むと住職はちょっとバツの悪そうな顔をして後頭部を掻いて


「受付のヨウコ姉さんに此処だと聞いたんじゃ。

すまんの。

…ちょっとドレスアップしすぎたかな。なんせナースがいっぱいと思うと力が入ってな」

と言った。


見舞いに来てくれたのか看護師さんをナンパしに来たのか…

と言うか、プライベートの服装のセンスが問題な気がする。


聡もベッドの上で不安そうな表情で住職を見てた。


「えーと、儂は涼ちゃんの知り合いの神田じゃ。お主が聡か?」


「はい…」

聡は警戒心丸出しで応えている


「心配するな。本職は仏に仕える身じゃ。任侠の者ではない。具合はどうじゃ?」


「はぁ…」


「多少痩せてはおるが、即神仏まではいかんな。

顔色も悪くなさそうじゃ。

ちゃんと食べておるか?

そうかそうか。

主は幸せ者じゃな。こんな綺麗な女の子に側に付いていて貰って。

そりゃそうとな…あ、涼ちゃん、ちょっと席を外してくれんか?」


「え?」

「あ?」

聡も私もそう言われて驚いた。


「儂の本職は仏に仕える身であり迷える者の心に明かりを灯す事じゃ。聡と一対一で話がしたいのだ。ほれ、キリスト教でも懺悔室は一対一であろう?」

体よく病室から追い出された。


住職は一体何しに来たんだか…


「元気?」そう声掛けられて振り向くとそこにはエリがいた。


「あ!エリさん」


「坊さんがどうしても来るって言うから私もついて来たのよ。

ごめんね迷惑かもしれないから連絡してからにしなよって言ったんだけど、言うこと聞かなくてね。」

そう言ってエリは外国人みたいに両手のひらを上に向けて首を左右に振った。



そして急に真顔になって言った


「…それがね、お釈迦様を見たって言うのよ」


「お釈迦様?」


「ええ。何でも枕元に金色に光るお釈迦様が現れたって。

聡に会いに行けって言ったって言うのよ…


ボケたんじゃないか?って思ったんだけどね。」


 

そう言ってエリは屈託なく笑った。



まさか…住職も見たの?



私はエリと食堂に行ってお茶しながら住職が出てくるのを待った。


エリは気を遣ってくれたのか、沢山話題を振り向けてくれた。

最近の世間の事を知らない私は色んな情報を聞かせてもらった。

それはそれで楽しかったけど、それよりも、以前の私と同じ目を持った同世代の女の子とゆっくり話をしている事自体が楽しかったんだ。


モモが来てくれた時も楽しかったけど、途中で聡が目覚めるという嬉しいサプライズで中途半端に終わってしまったから消化不良おこしてたんだ。


気付いたら一時間も話し込んでた。 

検温の時間も近付いてきたから病室に戻る事にした。



エリと一緒に病室に入ると、なんの話をしていたかは知らないけど住職は大笑いをしていた。聡も笑っていた。


「お。迎えが来たか。じゃ、聡またな」


「ありがとうございました」

聡はニコニコしながら住職にペコリと頭を下げた。


「坊さん、洗脳でもしたの?」

エリが真顔で言う


「失礼なことを申すな。自然の摂理と冥界について解いておったのだ」


「はいはい。…ごめんね聡くん。退散するね。早くよくなりなよ。」


そう言うとエリは住職の耳を掴んで病室を出ていった。


二人を見送った私たちは顔を見合わせて笑った。



住職が来てくれてから聡は更に明るくなった。

ありがとう住職




…だけど聡は住職と何の話をしたのか、教えてはくれなかった。


ただ笑って「神田さんて面白い人だね。僕はあの人好きだな」と言っただけだった。





その日の夕方、先生が検査結果を持って病室にやって来たんだ。


入り口から歩いてこちらに向かいながら、具合はどうですか?といつもの感情を含まない平板話し方で言った。


医師が忙しいのはわかるけどこの先生はいつも、話しかけながらベッドに近付き、チャチャっと診て看護師さんに指示を出したらすぐに出ていってしまう。


あんな短い時間で解るんだろうか?と心配になるくらいだ。


でも、今日はちょっと違った。

聡の枕元に立って資料をパラパラと捲ってしばらく黙っていたんだ。


後ろの看護師から今日の患者の資料を挟んだ手板を受け取って頭を傾げてから徐に聡の胸に聴診器を当てた。作曲家が出来上がったばかりのデモテープを聞くように、目をつぶり、眉間にシワを寄せながらじっと聴いていた。


頷くと聴診器を外して手板に何か書き込んで看護師さんに渡してから、聡をじっと見た。


「…血液検査の結果は良くないんです。微熱が続いてるのも腹水が溜まり続けているのも気になる。」


「…」


「…そうは言っても、何だか元気そうですね。顔色もいいみたいだし…。午後の利尿剤と坑炎症剤の薬と点滴を少し増やしましょう。

…今はこの程度しかできないので。」


先生はそう言うと小走りに病室を出ていった。


最後の言葉がなんだかすごく悔しかった。

 

だってこんなに元気そうなのに…











先生の言った言葉がきっかけになったように翌日のお昼前から聡の容態が急変したんだ









「看護師を呼んでくれないかな?」


聡はすごく普通に私に声を掛けた


「うん。どしたの?」


「…」


聡は少し微笑んだ様に見えたけど何も言わずに片目で私を見た。


本当にそんなに悪そうには見えなかった。


コールボタンを押して来てくれた看護師に

「頭の中がぼんやりして胸が苦しい」

と普通に言った。


「どこか痛いですか?」


「うん。全身が…」

と話すと同時に大きなため息をつくように息をはいて、目を瞑った。


萎んでいく風船みたいに聡の痩せて薄い胸がパジャマの下で凹んでいくのが解った。


次の言葉を待っていたのになかなか言葉が出てこない。


凹んた胸が持ち上がらない。と、同時に呼吸を手助けしてくれている機械からいきなり耳障りな高い電子音が部屋中に響き渡った。


看護師は素早く機械を操作してしてコールを押しながら先生と応援を呼んだ。


みるみると蒼白になる聡の顔色と緊迫した看護師の姿を見て私は髪の毛が逆立ち背中に冷水を浴びせられたような気がした。


けど…何もできなかったし言えなかった。


叫ぶことも


聡の手を握ることも



ただ、飛び込んで来てくれた先生や看護師さんたちが、聡のベッドの周りに取り付き、処置してくれている後ろ姿を見る事と『心拍停止…VT!…VP早くしろっ…AED』など飛び交う言葉を聞いてることしかできなかった。



途中でマスクをした看護師に抱えられるようにして廊下に連れ出された。


私は聡の側にいたいのに…


手を握ってあげたいのに…


きっと大丈夫だよって言ってあげたいのに…


…そう思ったけど


私は、あがらう事もできず、ただ看護師に連れられるまま病室前の廊下に置いてあるベンチに座らされた

閉まりきっていないドアの隙間から先生や看護師の緊迫したやり取りが聞こえていたけど、私には水の底から誰かが話している様に途切れ途切れに、隣の家から洩れ聞こえてくるテレビの音声の様に意味の解らない言葉の羅列だった。


ただ聞き流すしか無かった。

どのくらい経ったのか気付くと私は両手を組んで祈っていた。 

神様か仏様か解らない


ただ一心に 聡を救ってくださいと


その一心に祈る中、私の心の中に金色の光が見えた


アウローラ?


そう思った瞬間に肩を叩かれて現実に引き戻された


組んだ両手が痺れ、指の色は真っ白だった。



「持ち直しましたよ」

目の前に立った先生はそう言った。


「聡は大丈夫なんですかっ!?」


私の言葉を聞くと先生は私の顔をじっと見て言った


「今は意識もしっかりしてます。

…しかし、一時のものだと思います。明日か明後日が山でしょう。会わせたい人がいたら今の内に」先生はそう言うと廊下を歩いて行った。

私はその後ろ姿に深々と頭をさげた



聡の頑張りだけじゃ無理だった。先生や看護師さんや薬や機械のお陰でなんとか繋ぎ止めてもらったんだ。




そしてアウローラが時間をくれたんだ




私はそう思った。




病室に入るとチューブとコードに繋がれた聡がベッドにいた。

口にはプラスチックの酸素マスク。その透明なマスクの下に見える鼻にも口にも細いチューブが見える。


ちょっと片目でこっちを見て、にっこりと笑った。


『ごめんね。』その目はそう語ってた。


泣きそうになった。


「もう、心配ばっかりかけて…。早く老けたら聡のせいだからねっ」

そう冗談めかして言う


聡は目を細めて笑った



その夜は私は聡の枕元に椅子を付けて手を握って話しながら聡が眠りにつくまで話しかけてた。




翌日は、先生が何度もやってきてくれた。

その度に『良くなりましたね』って言葉を期待したんだけど、先生の口からは何も出て来なかった。



私は聡と会話を続けた


「…あなたと最初に会った時はこんなに好きになるとは思ってなかったわ」


『僕だってそうだよ。でも最初にホテルの部屋に涼が来てくれた時は、美人で良かったと思ったよ』


「本当に?」

疑わしい目で聡を見る


『本当だって。最初で最期に好きになる相手が涼で良かったよ』


「私はキツいからね」


 

『そうかな?涼は自分に対しても厳しいだろ?無理してたんじゃないかって心配したよ』


「そんな事ないって言ったら嘘になるかな。

…でもね、私は聡に出会えて…なんて言うのかな…人の暖かさって言うのかな…優しさって何か少し見える様になったような気がする。

まだまだ発展途上だけどね」



『僕も病気になって初めて人の優しさって見えた気がするよ。

ずっと前から…いや、もう少し早くに涼やみんなと出会えてたら良かったなって思うんだ。

…でもあの時に涼に会えない可能性もあった訳だから、会えた事を今は感謝してるよ』


「聡、お願いがあるの。元気になったら…

やっぱり止めとく。

元気になったら言うから」

 

『何?気になるから言ってよ。

ご覧の通り、チューブやコードだらけの今の僕じゃ何にもできないけどさ、元気になったら叶えてあげるから』


「じゃ、言うね。

元気になったらオーロラ見につれて行って欲しいの。」


『…オーロラか。

よし。元気になったら、まず最初にオーロラを見に行こう。』


「ありがとう。楽しみにしてるね。」


『…てか、オーロラってどこで見れるんだ?』


「調べとくねっ」






本当はね、ちゃんとした会話じゃなかった。


聡はチューブだらけで話す事ができない。

私は普通に話し掛ける。それに対して聡は目で話してくれた。


ちゃんと通じてたよ。 

聡は話しに合わせて、目で笑ったり、手を軽く握ったりしてくれたから間違いない。


一日中そうやって聡と話をしてた


聡は強い鎮痛薬を連続して点滴で落としてもらっていたから時々眠ったりしてたけど。



翌、明け方だと思う。

私は聡の寝顔を見ながらついうつらうつらとしてしまったんだ。

言い訳になるかもしれないけど疲れがピークだったし、定期的なシューッという酸素吸入音は眠気を誘うのに充分な子守唄だったんだ。





「涼、涼ってばっ」


「…うーん」

眠い目を擦りながら腫れぼったい目を開けると目の前に聡が立っていた。

目が覚めた。ばっちりと。



「さっ、聡!!」

 

「しーッ。まだ夜明け前だから静かにね」


聡は人差し指を口に当てておどけてそう言った



「だっ、だって聡、あなたチューブは?機械はっ?苦しくないの?痛くはないのっ?」



聡を縛り付けてたチューブも点滴も酸素吸入器も全部外してあった。

オシログラフの付いたモニターも電源が切ってあって暗い画面が見えた。



「涼、落ち着いてよ。


大丈夫。


痛くも苦しくもないから。


もし、そうなら外せないよ。


むしろ外してた方が楽なんだ」



「でも、勝手に…」



「大丈夫だって。


患者の僕がそう言ってるんだからさ。


それより、外を見てごらんよ。

もうすぐ夜明けなんだけどさ、空が綺麗なんだ」そう言った。


私も立ち上がり聡の横に並んで窓の外を見た。


今日は晴れるのだろう。

いつか見た空の様に、天に近い程、濃い紺色で地表に近づくにつれて次第に青、ミルク色、オレンジがグラデーションを成している。


「綺麗」


「だろ?」


空の色はまるで大河の川面の様に微かにそれでいて大胆に動き、混じりあい、ゆっくりと地表から天へと流れていた。




「…ねぇ、涼





僕はそろそろ行かなきゃならないみたいなんだ」



「え?」


聡を見ると窓の外をじっと見つめていた



「驚かないで。



行くことは怖くないんだ



…涼としばらく別れるのはツラいし、オーロラを見に行く約束が守れないのが残念だけどね



神田さんにね、 

『あの世ってどんな所ですか?』



って聞いたんだよ




そしたらさ、しばらく考えてから『良い所と思えば良い所じゃ』ってさ




それから『お主、この世はどんな世界じゃ?』って聞かれたんだよ




だから、色々あるけど、いい世界です。って答えたら『あの世も同じじゃろうて』ってさ。




『儂もこの年まで行った事がないから詳しくは解らんがの。

どの宗教においても大体同じじゃ。

回帰するものの様じゃな


主も聞いた事があろう、あの世に行くには森を抜けると河に出る賽の河原じゃな。その河は三途の川…それを越えたら冥界じゃな。ホレ、九死に一生を得た人の話にそれを越えずに帰ってきたと言うのがあろう。実はヨーロッパでは長いトンネルの向こうに河があるといい、アメリカでも中近東でも森やトンネルの向こうに河があると言うのじゃ。

不思議じゃろ?

人種も宗教も文化も文明も育ちも教育も違うのに九死に一生を得た人はみんな同じ様な行き先なのじゃ。


だからあの世はあるのじゃろうな。

はははっ。不思議そうな顔をしておるの。


…カラクリがあるのじゃ。


大脳発達の学者が言うには、人が物を見るわな。それはどこで見ておる?

目?

違う。脳じゃ。


夢と同じじゃ。夢は脳で見ておろう?


目で見た情報は信号になって脳に送られてそれを映像に変換するのじゃ

つまり、視覚は脳なんじゃ。

…人が生まれるとまず、点だけが解るのじゃ。それが直線を理解できるようになり、次に丸を理解する。それに色々な線や色を積み重ねて行って今の視界を構成しておる。

ここまでは良いか?


九死に一生を得た人はその逆を辿ったのだ。


沢山の情報は段々簡素になり、丸だけが理解できる…トンネルじゃな…それが直線だけ解るようになる。解るな?それが河じゃ。


つまり死に近付く人間は発達の逆に向かって行くのじゃな。

今おる世界はつまりは脳が作り上げたと言っても過言ではあるまい?その作り上げた世界を元に辿るのじゃから、回帰という考え方は間違いではないぞな。

宗教に回帰思想が多いのもそれから来ておるのではないかと儂は考えておる。

その先の点の世界の先に何があるかは誰も知らんが、そこがあの世であろうな。


儂は思うのだ。点にまで回帰した意識は今度は冥界側に向かって広がるのではないかとな。

次に思考が戻った時にはあの世で今の世界と同じ様な思考でおるのではないかとな。


…儂の考えるパラレルワールド論じゃ。


まぁ、願わくば、暑くも寒くもなく、痛み、苦しみの一切がなく、酒があって若い姉さんが居てくれたらいいな』


って言って笑ったんだよ


で、最期にね


『怖がるでない。皆いつかはたどり着くのじゃ。先人達もおろうし、若い者もいつか行くのじゃ』ってさ。


そんな話を聞いてたら怖い思いが無くなった訳じゃないけど、軽くなったんだ。


だってその先に僕らの知らないパラレルワールドがあるなんて想像したら何だかわくわくしない?」


そう一気に言うと、私を見て悪戯っ子みたいな表情で笑ってみせた。



具合は最悪で、げっそり痩せて顔色も悪いのになんでそんなに明るくできるの?


あの世に行くのは怖くないって言うの?


聡、死ぬの?本当に?


嘘 嘘 嘘 嘘……



「う、嘘よね?」



「…いや、残念だけど本当なんだ。」

聡は眉間に軽くシワを寄せて悲しそうな表情をした




本当なの…




「…嘘」



「嘘ならいいんだけどな」


そう言った聡の顔が涙で滲む


「ひどいじゃないっ!もう会えなくなるんだよっ!遺される私はどうしたらいいのよっ!」



「…だからさ、今、この時を覚えていて欲しいんだ。


いつか違う世界でまた会う為に。」



「どういう事?」


「さっき話したよね。脳の話。

向こうの世界に行ってさ、点から線、丸…ってまた構築していくとしたらさ…またこんな世界で…いや、もっと明るく楽しい世界をさ作り上げるんだ。

そして、その世界で涼と会う。」


 

「そんなの無理…できるわけない」


「できるさ。きっとできる。意識の深い所できっと残ってる。それをまた初めから作り直せばいいんだよ。

だって意識の世界なんだから。年齢だって場所だって時間だってきっと再構築できるよ。


…だから今のこの時と場所と…僕の事、



  忘れないで   」





その言葉が終わるか終わらないかの瞬間、窓の外から金色の光線が聡の顔を照らしたんだ。


私には解った


聡は逝こうとしている


待って…置いていかないでっ


待って!


待ってったらっ!


私は聡にしがみついた。


聡の体は温かく、そしてしっかりとした実感があった。



聡を見上げる その光の中の顔は、私が初めて会った時より明るく、若く、健康的に見えた。


「ダメっ!逝ったらダメっ!」

私は聡の胸に顔を埋めて両手でしっかりと聡を抱き締めた。




「…涼ありがとう



本当にありがとう」




金色の光は次第に大きくなって聡全体を照らした。


抱きついた私の姿はなぜか金色にも染まらず、朝日を浴びている様に明るくも無かった。

ぴったりとしがみついた聡の体だけがキラキラと光り瞬いた。

握りしめた指の隙間からも金色の粒子は吹き出す様に散っていった。


部屋中が金色に染まった。


私は恐る恐る聡の顔を見上げた。




そこには全身を光り輝き、優しく微笑む聡が居た。


「行かないで…」


そう呟いた後、私はいい直した



「…いつかまた会おうね。その聡の言うパラレルワールドで。

私、今を絶対忘れないからっ」



聡はすごく優しく微笑んだ。






そこで私の記憶は無くなった





 








電子音で目が覚めた


ベッドで眠る聡の傍らに突っ伏す様に眠っていたようだ


夢?


…警告音!



慌てて体を起こすと同時に病室のドアが開き、先生と看護師さんが飛び込んできた。


呼吸モニターの機械から警告音が鳴り響いている

モニターの警告はナースステーションにも繋がっているからそれを聞いて来てくれたんだ


聡は酸素マスクもチューブもコードも付けたままベッドに横たわっていた。

顔は優しくて眠っているようだった。


解っていた。


聡は逝ってしまったんだ。


ベッドで眠る聡に、軽く手をあげて『また後でね』って言う姿が重なって見えた


沢山の先生や看護師さんが必死で延命処置をしてくれている姿を病室の隅から見ながら、行ってしまった聡に言った






「聡、お疲れ様。…そしてありがとう。また後でね。」





 


 


――――――――――――――――――――――





薄いコーヒーの入った紙コップは日本の物より一回り大きかった。


アラスカ航空のボーイング727は、霧のアンカレッジ国際空港を離陸して、一路フェアバンクスに向かっていた。


機内はほぼ満席だ。


私の隣には白人のカップルが座っていた。

二人とも疲れているのか、女性が男性の肩にもたれるようにして熟睡している。


私はなんとか飲み干したコーヒーの紙コップを座席の前の網に挟んだ。その時にアイマスクをみつけた。


キャビンアテンダントに毛布を借りてアイマスクを掛けて潜り込む。


ちょっと疲れた。


東京からアンカレッジまで飛んだ。トランジットの為に半日空港内で時間を潰した。

やっと乗れると思ったら霧が濃くなったらしく、天候回復待ちを四時間。

それでやっと離陸したんだ。


フェアバンクスに着いたらまずはチェックインしてシャワーを浴びよう。



毛布は暖かく、低いジェットエンジンの音がなぜか安心感を与えてくれる。



アイマスクの下で目を瞑る。

少し眠っておこう。



眠りに落ちる瞬間、この一年の出来事が走馬灯の様に鮮やかに蘇る。






聡はやはりあのまま逝ってしまった。




でも私は叫んだり泣き崩れたりしなかった。

…だってまた会えるって解ってたから。病院に手配をお願いして翌日の夕方には聡は小さな白い陶器に入る位になった。化粧箱を抱えてタクシーでアパートに帰る時に初めて泣いた。


住職に話をすると『うちの寺で供養するから連れてこい』と言われた。


初めて行った住職のお寺はびっくりする位大きくて立派だった。


何人もの他のお坊さんを引き連れて、本堂から出てきた住職は、いつもの住職とはまるで別人だった。重々しくて堂々としていた。


声も掛けられず、移動する姿を見送っていた。

一団が横を通過する時に住職は私を見つけたらしく、チラリと不器用なウインクをした。

それを見てやっといつもの住職さんだと実感した。




「そうか。大変じゃったの。

聡はこの寺で預かっておくから安心せい。」


住職はそう言ってくれた。


「住職さん、聡はパラレルワールドに行ったんですかね?」

私は敢えて話を振ってみたんだ。


あの日、聡と交わした言葉が夢だとはどうしても思えなくて。

パラレルワールドという単語に反応するか知りたかったんだ。



すると、住職は真面目な顔からいつもの表情に戻った


「ガハハ。聞いたのか聡に?

…そうじゃな、儂の考えではあちらの世界でまた産声を挙げておろう。

なにせ意識だけの存在じゃ、自由であろう。

想いさえあればまた会える。

儂はそう信じておる。


聡から聞いたか?丸から線、線から点の話を。

儂はその点になる位細い中に意識の糸の様な物が通っておると思うのじゃ。

つまりは現世とあちらの世を結ぶ細い細い意識の糸じゃな。

現世で仏様を祀るのは各々が持つ細い意識を通じてあちらの世界の相手に伝えておるのじゃ。

じゃから逝った者を悼み祀る事は必ず相手にも伝わっておると思う。」




「繋がってるの?じゃあ、聡から私にも何か伝えられたりできる?」


「ああ。勿論

ホレ、時々急に何の脈絡もなく亡くなった人を思い出したりしたりするじゃろ?

あれは向こうから伝えて来てると儂は思うんじゃ

で、付き合いが深ければ深い程その頻度は多い。つまりその意識の糸が太いんじゃな。

と、言うことはじゃ、自分があの世に行く時には、その他より太い意識の糸を辿れるんじゃないかと考えておる。」

 

「…」


いつかきっとまた出会える…

本当にそうなら嬉しい



「…ああ。聡にそういう話をしたのだ。こっちの世界とあっちの世界は繋がっておる。

死ぬのは生きる事とワンセットだってな。


…時に涼ちゃん、これからは聡の骨はこの寺にあるのじゃから、ちょくちょく会いに来ねばならぬぞ。

勿論儂に会うのが目的でもよいぞ。ガハハ…」

豪快に笑う住職の顔…




機体がガタリと揺れた。


一瞬で現実に戻る

地表は無風で霧が取れなくて困ったのに上空は荒れているんだな…


機体が安定するとまた深い暗い眠りの世界に向かう



目を閉じるとまた走馬灯が回り出す


私は聡を送った後、聡に会った事のある私の知り合いに挨拶に回ったんだ。


その時の事だ


みんな悲しんで残念がって慰めてくれた。


その中で、ヨウコさんとデリのオーナー店長が言った言葉が私を動かしたんだ。




「涼ちゃんあなたこれからどうやって生活していくの?」


デリの事務所の応接間で店長とヨウコさんと向かい会って話をした時の事だ。


「…まだ決めてません。ただ、デリは…。何か違う仕事をしたいと…」


「そうだな。それがいい」

店長はそう言った後、紙をポケットから出して渡してくれた。

『異動通知書』


「え?」


「涼よ、異動を命ずる。しばらく休んでからでいい。良かったらうちの傘下の居酒屋で働きなさい。

…今は俺の息子が社長なんだがな、それがまた頼りないんだ。

企画室を立ち上げてフランチャイズ化させるから手伝ってくれ」


「え?いいんですか?でも、私、そんな仕事したことないし」


「今の仕事だってそうだっただろ?やってみればいいんだよ。俺はできると思ってるがな」

そう言って店長は笑った。


ヨウコさんもそのやり取りを聞いて「それがいいわ」と言って笑っていた。


「ありがとうございます。頑張ります。」

そう言って頭を下げると


「ただな、条件がある。

そんな顔するなよ。

落ち着いてからでいい。お前はパスポート取ってオーロラ見てこい。

夢は一つづつ叶えていかなきゃならないんだよ」


店長はそう言って優しく笑った。




そう、だから私は今、機上の人になっているんだ。


ほぼ一年、聡の月命日以外は休みも取らずに居酒屋のフランチャイズ展開の仕事をしてきた。


帰ったら都内三軒目の物件の打ち合わせだ。

約一年で三軒目。

最初の二軒はヒットした。

雑誌の特集記事でも取り上げられた。



仕事は順調だ。



寺田さんの『断崖花』は事情を知ったヨウコさんが知り合いに話をしたのがきっかけで出版される事が決まった。



 

あの日、聡が居なくなった病室を片付けていた時。

聡の持っていたバッグに入ってた日記の様なノートが入っているのに気付いた。

いつだったか聡の部屋から持ってきて手渡したっけ…

そう思い出して手に取った時に間からするりと何かが落ちた。

それは私が聡にプレゼントしたチタンカラーのネックレスだった。

拾い上げるとセロハンテープの切れ端が付いていた。


ノートの隙間からもそのテープがちらりと覗いていた。


そのページを開く。



ネックレスが貼り付けてあったと思う空白、その下に、痛みを堪えて書いたのか、大きくて乱れた文字で『宝物』と書いてあった

その下には、

『今は検査で着けられないけど退院したら毎日着ける。僕の最愛の涼、ありがとう』と。


私は何度も読み返した。

ポロポロと涙が落ちた。


窓ガラス越しの日光が反射してノートに落ちた私の涙の上でキラキラと光った。


…!


アウローラは居る


その時に私は確信した。

昼近い日差しは窓ガラスの正面から射し込みノートの上で輝いている。

そう。窓は南向きなんだ。


この位置から太陽が昇るはずがないのだから。


あの光はアウローラだった。

間違いない。私たちに希望と夢を与えてくれる朝の神…


さっき気付いた。

離陸が遅れたおかげでフェアバンクス到着は丁度現地の日の出の時間になるという事に。


私はアウローラが見守ってくれている気がした。






 

聡と出会えてから私の人生は大きく変わった。


しかも良い方向に。



聡と出会う前の自分を今思い返せば、刺々しくモノトーンだった。

今は眩しい位に光輝いている自分がいる。



私にとって聡はアウローラだったんだと思う。

私に勇気とやる気と生きる気力をくれたんだから


次は私がこれから生きていく中で他の人のアウローラの様な存在にならなきゃならないと思った。






今、オーロラを見にアラスカに向かっているのは過去の夢を実現させるため



そして今は新しい夢がある



いつか…



そう、ずっと先になるかも知れないけど

一生懸命この世で生きて生きて生き抜いて…


いつかまた聡に会うんだ



そして


「聡、お待たせ。綺麗になったでしょ?」



って言うんだ。


『涼、頑張ってたね。僕、ちゃんと見てたよ』

そう言いながら聡はきっと迎えてくれる



アウローラがいる限りそれはきっと実現できる。





夢は必ず叶う。

叶えられる。





私はそう信じている。




機内放送は電子音の後、これからフェアバンクスに着陸すると告げた


マスクを外して窓の外を見ると雲ひとつない綺麗な星が瞬いていた。



私にはその星の中に聡の笑った顔が見えた気がした。






おしまい

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