前編
テーブルに置いてある携帯が鳴る。
終了10分前の合図だ。
…本当は15分前なのだが。
やっとか…待ってたわよ。
軽くて嫌な匂いのする布団の中で、あたしの身体の上を這い回るぶよぶよの指がピタリと止まる。
…てかシャワー浴びた後で触らないで欲しいわ
相手にそろそろ時間だからと言う。
準備して早く出たい。
…お願いだから延長とか言わないでね。
「もう少し太りなよ。…俺は少し休んでいくから」と男は言って向こうを向いて布団に潜り込んだ。
余計なお世話だ。
『あんたはもう少し痩せなよ』って言いたいけど言えない。
こんな男でも客だから。
帰る準備させてもらうと言ってから服を着る。化粧も直さなきゃ。
部屋を出る時に男に声を掛けると面倒くさそうにしながらもフロントに電話をしてくれた。ロックを外して貰わないと出られないから。
カチャンと音がしてロックが外れる。
私にとってこの音は監獄の牢屋の鍵が開く音と同義だ。
ドアを開けると背後から『また呼ぶよ』と聴こえた。
『いや』小声で呟く。
この男を生理的に受け付けなかったあたしは聴こえなかった事にして相手に聴こえる返事はしなかった。
ケバケバしいホテルの外に出ると見慣れた黒塗りの古いバンが停まってる。
今日の運転手はマルちゃんだ。
「涼ちゃんお疲れー」ドレッドヘアーで痩せ型、色黒。いつもにこやかなマルちゃんは私達、嬢の中では人気がある。
以前は吉祥寺の店で黒服してたらしい。
吉祥寺の店が潰れて仕事なくなって、今はここの送迎の運転手と楽器屋のバイトでどうにか食べてるらしい。
車に乗るとエアコンが効いてて暖かい。
ちょっとホッとする。
バッグから細身のタバコを出して火を点ける。
糸の様に細く煙を吹くとマルちゃんが少しだけ窓を開けてくれる。
「ご機嫌斜めみたいだね」
バックミラーで私を見ながら言う。
「なんで解るの?」
「煙の吐き出し方でね。涼ちゃんの場合は解るんだよ。」
そう言ってマルちゃんは笑った。
「ふーん」自分の癖を人から聞くとなんだか不思議。
今日はこの後は予約もないので上がりだ。
事務所に帰る。
事務所と言っても看板が出てる訳でもない普通の古いビルの三階の一室だ。
ドアを開けるとタバコの匂いと嬢の香水の匂いが混ざった空気がドッと押し寄せてくる。
吐き気がする。
私だって同じ匂いがしてるはずなんだけど。人の匂いだと思うと我慢ができない。
ソファーに帰り支度してたり、これからの指名を待って準備してる嬢がゴロゴロしてる。
怠惰を絵にするとこんな感じか。
挨拶をして通り過ぎる。
女の世界じゃどこも同じなんだろうけど、いくつかのグループに分かれてたりして、露骨に無視したりする奴も居れば、仲良くないけど愛想よく『お疲れー』と返事してくれる人もいる。
同室のモモも今日は上がりらしくラフな格好に着替えてる。
「涼、お疲れ。待ってるよ」
そう言うモモに手をちょっと上げて返事する。
嬢たちの待合いの奥に事務所と呼ばれる部屋がある。
中は小さな会社の事務所みたいになってる。
電話番の机にはパソコンがあり、ヨウコさんが電話応対しながらパソコンを打っている。
このパソコンで予約や顧客管理や上がりの計算をしている。
奥の仕切ってある中は店長の部屋だ。
今日は居ないみたい。
ヨウコさんは電話を切るとこっちを見て 涼さん、今日は上がり?と言った。
私が集金袋と呼んでる布の袋を渡すと中身を確認する。
お昼過ぎから入って1日で4人。まあまあの売上だ。
四人目からは全額私のお金になる。
あの白豚から貰ったお金は全て私の物だ。
計算機をパチパチ叩いてお金を数えて、封筒に入れてそのまま手渡ししてくれる。
「今日もお疲れ様」
ヨウコさんはいつもお金を渡す時には目を見てニッコリする。
いつも辞めようかと思ってもその笑顔を見ると何だか頑張ろうと思っちゃうんだ。
モモと事務所を出て階段を上る。
四階から上はワンルームマンションの様に改装してある。五階は全て借り上げて嬢たちの住まいになってる。
月に二万が部屋代。
ヨウコさんが上がりから抜いてくれる。
私は去年から住んでいる。
部屋の数がないので私とモモとは同室だ。
私はどうでも構わない。
安く寝床を提供してもらってるんだから文句はない。
モモは掴みどころのない女の子だ。いつもぼーっとしてる感じがする19歳。私と同じ歳だ。
隣の県の出身だと聞いている。
丸顔でぽっちゃりしてる。
男に騙されて借金を背負わされて捨てられた。
借金は親が返済してくれた。その代わり勘当された。
一人で生きていくのにファーストフード店でバイトしたけど仕事で失敗が相次いでクビ。困り果ててた時にここの『コンパニオン募集』とウソが書いてあるチラシを見たのが入店のきっかけだったらしい。
モモはそう話してくれた。
私は父子家庭で育った。
母親は私が幼稚園に上がる前に亡くなったらしい。
その父親が私が中学生の時に死んじゃったんだ。
小学生の時に来た後添いの母親…つまりは継母と二人の生活が嫌で高校を卒業してから、喧嘩したのを機に家出した。
私も仕事が無かった。お金も住む所も頼る人も。
何日かは駅の地下街や24時間やってるファミレスで寝たりしてた。
お風呂にも入れないし財布には数千円しかない。
バイトの面接に行っても門前払い。面接こぎ着けても、住所が他県だと雇ってくれないし、未成年だから一応家に連絡すると言う。私には家はない。
そんな時、私はヨウコさんに声を掛けられたんだ。
あの日は雨で、雨宿りするためにこの雑居ビルの入り口に座ってた。
「どうしたの?」
声を掛けられて見上げると綺麗な女の人が見下ろしてた。
ニコリと笑って。
「ごめんなさい。雨で…」
「入りなさいよ」
ヨウコさんは当たり前の様に中に通してくれた。
五階の空いてる部屋に入れてくれてシャワーを浴びなさいと言ってタオルを用意してくれた。
久しぶりのシャワーは気持ち良かった。
シャワー浴びて出てくると私の下着と服が無い。
そこにヨウコさんが
「あなたの服は今洗ってるから、これ着てなさい。」
と下着やカジュアルな服を持ってきてくれた。
下着は新品で服は綺麗にクリーニングの袋に入っていた。
私がお金が無いと言うと下着も服も店に沢山あるから気にしなくて良いと言った。
それから近くの中華料理屋に連れて行ってくれてご馳走してくれた。
この街に来てから初めて食べたまともな食事だった。
夕方まで部屋で眠らせて貰った。
目が覚めると私の服も乾いていて、椅子にちゃんと畳んで置いてあった。
私は何だか泣いた。
ボロボロ涙が出た。
人に親切にしてもらう経験なんてあんまり無かったから。暗くなった頃、ヨウコさんが様子を見に部屋に来た時、この恩をどうやって私は返したらいいか?と泣きながら聞いた。
私は自分の事を全部話した。
なぜ私がこの街のこのビルの下で座っていたかまで。
ヨウコさんは頷きながら聞いてくれた。
「今日の事は気にしなくていいわよ。ただね、あんな状態でこの街にいたらライオンの檻に羊を入れた様なものよ。喰われなかっただけ良かったわ。」
そう言って笑った。
「私、雇ってもらえませんか?」
ビルの中の話し声や電話の音、服や下着の事から私はここが何か仕事をしていると解っていたからそう言った。せめて何か私にもできる事をして恩返ししたかったんだ。
ヨウコさんは急に真面目な顔になって無理だと言った。
荷物を纏めて出て行きなさいと五千円札を握らせてくれた。
私は負けなかった。
お願いだから置いて欲しい。一生懸命頑張るからどんな事でもするからと。
ヨウコさんは悲しそうな顔をして言った
「うちは風俗なのよ。デリヘル。知らないでしょ?」
風俗と聞いて少し驚いた。
だけどデリヘルって言うのは知らなかった。
経験はあった。高校の時に当時付き合ってた彼と。
でも恥ずかしくて痛かっただけ。
前にも後にもそれ一回だけだ。
何の感情も持てなかった私は性的な事なんて、大した事ないと思っていた。
「…じゃあ付いていらっしゃい」ヨウコさんは私を店長と言う人に会わせた。風俗店の店長というイメージとはかけ離れたニコニコした普通のおじいさんだった。ヨウコさんの話しではオーナー店長だという。つまりは社長でもある訳だ。
店長面接だと言われたが店長に聞かれたのは一言
「夢は?」
だけだった。
「夢ですか?…」
「ここはな、夢を叶えて終わったらすぐ辞める所だ。夢が無いなら立ち入る所じゃないよ。」と言った。
「あります!オーロラが見たいんですっ!」
私は慌てて言った。
オーロラなんて言葉が何で出たか解らないけど私はつい、そう言ってしまった。
子供の時に見た絵本の中のオーロラの絵が思い浮かんだんだ。
「オーロラかぁ…いいねぇ」
店長は優しく笑って親指を立てた。
合格らしい。
「だけどね、一応教育ビデオを見てもらって、それで気持ちが変わったら止めていいからね」
とヨウコさんは言った。
あれから1年経ったんだなぁと懐かしく思い出したりする。
モモと私は順番にシャワーを浴びる。
シャワーから出るといつも思うんだ。今日もやっと終わったって。
今日は入りが早かったから上がったのも午後10時と早かった。。
シャワー浴びて着替えて5階の隅にある共同洗濯機で洗い物を仕掛けてから食事に出る。
モモは最近、知り合った男の事に夢中らしく、ずっとその男の話をしている。どこでどう知り合ったのかは解らない。
仕事上、お客と必要以上に親密になる事はダメだ。
電話番号・アドレスの交換、店を通さずに会うことも禁止。
だけど全く店の知らない所で出会うのは仕方ない。
恋愛自体が禁止な訳ではないから。
以前に男に騙されて、痛い目にあったにも関わらず、この業界に入って、男から稼がせてもらって、また別の男に貢ぐんだろうな。
惚れっぽい性格は直らないらしい。
ちょっと呆れる反面、羨ましくも感じる。
私は一年少しこの仕事に居て沢山の男に会ったけど、一人だっていいなと思った事がない。
寧ろ、嫌悪感の方が強くなる一方だ。
都合のいい時にお金払って、上から目線で性欲満たして、また自分の世界に帰って行く。
『風俗なんて知らないし、行ったことも無いよ』みたいな顔をして。
所詮男なんてそんなものだ。
ご飯食べて終わってから、いつもの様にコンビニに寄って今日の稼ぎをATMで入金する。残高が出る画面は見ない。
仕事を始めて数カ月して、預金高が七桁に乗ったのを最後にその画面が出る時には余所を見る事にしたんだ。
手元にはいつも少額しか持たない。
いつもあのお金がなくて途方に暮れた頃の自分を忘れない様に。
モモがビールを買っていたので私も買った。
モモは楽しみの為、私は睡眠薬替わり。
呑んで寝るんだ。明日も頑張らないと。
事務所に寄って明日の予定を出す。
出勤予定ノートに○をする。
このノートを見てヨウコさんは店のサイトに予定を打ち込む。客はそれを見て電話をしてくるんだ。
私は月の内、生理の一週間以外は毎日仕事にしてる。
時折思う。
私は一体何のために仕事してるんだろうって。
子供の為に働いてる子。
田舎の両親や兄弟の為に働いてる子。
どうしても欲しい物がある子。
借金のある子…。
モモは好きな男の為に。
ここで働いてる他の嬢たちも、みんなそれぞれに、何かしら理由があって働いてる。
私だけは理由がない。
お金は貯まってるけど使い道がない。
強いて言えば貧乏になりたくないから。
貧乏を経験したから無駄遣いは恐くて出来ない。
使うのは美容院と安い服と化粧品とご飯と国民健康保険。
贅沢はしないからそんなには掛からない。
それだけだ。人を好きにもならない。
働く理由もない。
夢もない。
…何の為に生きてるんだろう。
翌日、夕方までに二本仕事を済ませた。
今日もハイピッチだ。
五本に届くペースだけど。
デリヘルは本番は無いから作り笑いで顔が疲れるのと、手首が痛くなるのと、匂いにやられる事が無ければ五本は大丈夫。
店に入って一度もsexをした事はない。仕事でもプライベートでも。よく仕事で誘われるが、店に電話して中止にしますよ。
と言うと大半は黙る。
それでもしつこい客には躊躇せずに店に電話を入れる。
サービス中止というやつだ。
その後どんなに謝ろうが服を着て外に出る。
電話番号が控えてあるので、その客は二度と連絡ができなくなる。
因みに提携してるピンサロ、クラブ、バー、他のデリにも要注意人物として携帯番号と風体、車のナンバーが出回る。
今日の送迎はクマさんだ。
大熊と云う毛深い人だ。
モジャとも呼ばれている。
あんまり話をしない人だ。移動中話をしたくない時にはいい。
マルちゃんみたいに喋らないから誰もクマさんの過去は知らない。ただ、背中に紋が入っているという噂だ。
「このままリバーオフィスの302にお願いします。」
クマさんが言った。
私は返事をしてから事務所のヨウコさんに電話を入れる。
毎回している事だ。相手が電話でどんな感じだったか聞いておくだけで会った時の仕事のしやすさが変わる。
「お疲れ様です。涼です。リバー302の人はどんな感じでしたか?」
『お疲れ様。若い感じの人ね。礼儀正しい感じだったわよ。デリヘル初めてだって。』
「了解しました。ありがとうございます。」
初めてかぁ…大当たりと大外れがあるんだよなぁ。
302号室は広くて明るい造りの部屋だった。呼び鈴押して開けて貰った扉の向こうに居たのは思ったより若い男だった。
痩せてる…と言うよりやつれた感じで顔色が白い。
顔の造りが今風の格好いい感じだから何だか違和感がある。
「涼です。今日は呼んで頂きまして、ありがとうございます。」
マニュアル通りの挨拶をする。
男はおどおどしながら頭を下げる。
ウブな男の好きな女の子ならさぞかし喜ぶ相手だろう。
こういうのが割に厄介だったりするんだよな…
一旦ソファーに座って時間とコースを決める。
値段と内容を一通り説明すると
「120分で」と言った。
デリヘルが初めてだと解らなくて120分を選ぶ人も稀にいるけど、多いのは90分だからちょっと長くないか?と思った。
男からお金を受け取って袋に入れる。
事務所に電話を入れ、時間を伝える。
「さぁ、まずはお風呂行きましょうか。」
ちょっと元気を出して明るく言ってみる。
だってこの男…何だか暗い。
自分を奮い立たせるつもりもあった。
お風呂の準備をしようと立ち上がると、男が何か言っている。
「…お風呂は入らなくていいんだ。」
あのねぇ…あなたが良くてもこっちがマズいの。
洗わないと不潔だし、何より性病とか感染症が無いか調べなきゃならないの。リスク背負うのは女の子なんだから。
「お客様、入って頂かないとサービスできません。お風呂の準備してきますね」
「いや、話してくれるだけでいいんだ。」
「へ? あの、もし私が気に入らないならチェンジで女の子変更できますよ。一回は無料ですから。チェンジしますか?」
今までチェンジされたのは一回しか無かったからちょっとムッとしてそう言うと
「…君がいい。」
「じゃあお風呂入って下さいね」
「話するだけでもお風呂必要かな?」
おどおどした感じでそう言った。
「話?」
「ああ。感染症がある訳じゃないんだ。だけど触らなくていい。僕も触らない。二時間一緒にいてくれたらいいんだ。」
「…意味解んない。あ…もしかして…勃たないとか?それなら気にしなくても…」
「そんな事ない」
「…ん~、よく解らないんだけど、お客さんはサービス無しでお金払うんですよ?後から『何もしなかった』とか言われても困るんですけど。」
「言わない言わない。」
私の中で『これって話だけならラクじゃん』って声が響く。
「…じゃあ二時間何の話するんです?」
「いきなり話も難しいから、これでもしようか?」
男はそう言ってUNOを取り出した。
UNOは得意なんだ。
ダブルベッドの上に差し向かいに座ってUNOを始めた。
ターン、+4、チェンジを巧みに使って三連勝。
「涼さん強いね」男が驚いた顔をしてそう言った。
「でしょ?任せてよ。UNOは得意なのよ」
その後も立て続けに五回勝った。
「う~強いなぁ。勝てないや。」
「ハハハッ。良かったら名前教えてくれません?」
「サトシって言うんだよ。耳に公に心って書くんだ。」
「…頭の中ですぐに漢字書けないから…ああ、解った。」
私は内心本名じゃないだろうって思った。
こういう所ではあんまり本名を名乗る人はいない。
「次はトランプしよう。スピードって知ってる?」
私たちはカードゲームをしてお茶飲んで音楽の話をした。
合図の電話があって私は帰る準備をした。
二時間ってこんなに短いんだ…。この仕事について初めてそう思った。
「では、今日はありがとうございました。」
マニュアル通りの挨拶をする。
「こっちこそありがとう。久しぶりに楽しかった。」
男はニコッと笑った。
作った感じの笑いじゃないなと思った。
この人楽しんでくれたんだ。
何だか解らないけど良かった。
その後続けて二本こなして事務所に帰る。
夜には送迎がマルちゃんに変わった。
「涼ちゃん今日はご機嫌じゃない?1日五本入るとクタクタだろうに」
バックミラー見ながらマルちゃんが言う。
「そう?実際クタクタよ。」
そう言いながらも心が少し軽い自分がいるのに気付いた。
でも罪悪感もあった。一緒に遊んだだけなのにお金貰っちゃった事に対して。
事務所に帰って精算する。
「今日もお疲れ様。あ、涼ちゃん、今日のリバーの人なんだけど…」
ああ、やっぱり。
クレームかぁ。
そりゃそうよね。何もしてないんだから。
「明日の予約も入れて来たわよ。気に入られたのね」
そう言ってヨウコさんは笑った。
えっ?あれで?…まぁ明日は多分普通に仕事になるだろうな。
今日何もしなかったんだから明日は本番要求とか…
でも私には今日見た聡が、そういう風に変化する姿が想像できなかった。
翌日夕方またリバーに向かう。
部屋に入るとやはり聡が待っていた。
さて…何と言ってくるか…
「今日も120分でお願いします。」
「はい。じゃあ今日はお風呂入って…」
「今日は負けないよ」
聡は笑いながら言った。
「え?」
「UNOだよ。昨日あれから少し練習したんだよ」
「…今日も?」この人一体何のつもりなのか?
今日もそのままベッドの上でUNOをする。
私は聡を12連勝で打ち負かした。
「勝てないやぁ」
聡はカードをバラまいて負けを認めた。
「エヘヘ」
呼び出しが無いときには嬢たちとUNOして鍛えてるから負けないよ。
聡はベッドに大の字に倒れた。私も横になる。ひんやりとしたシーツが気持ちを新たにしてくれるみたいで気持ちいい。
普通の客ならそのまま襲われそうで恐くてできないけど聡なら大丈夫みたい。
「ねぇ、手を繋いでもいい?」横を見ると聡はこっちを向いて手を伸ばしていた。
私は手を繋いだ。
下心の無い人と手を繋いだのも何年前の事だったろう…
何だろうこの気持ち。
見えるのはラブホテルの安っぽい部屋の壁と天井なのに、芝生に転がって空を見上げてる様な感覚。
ふと目を瞑るとざわざわと草が風に吹かれる音がする。
こんな感覚何年振りだろ…
携帯の着信音で目が覚めた。
あれ?
私何してるんだろう。
隣には手を繋いだままの聡が眠っている。
いけない!!
テーブルの上の鳴り響く携帯に出る。
『シャワーだったかな?あと五分だよ。』
マルちゃんの声がする。
分かりましたと言って電話を切って聡を起こす。
「ごめん、寝ちゃってたよ。今日はUNOだけだったね」
起き抜け顔で笑いながら聡はそう言った。
「ごめんなさい。私が悪いのよ。私も寝ちゃってたから…今日の代金は返すわね」
私がハンドバッグを開けようとすると聡が止めた。
「いいって」
「でも、私何にもしてないし…」
「一緒に遊んでお昼寝したじゃん。だからいいって。
楽しかったよ」
聡はそう言ってお金を受け取ろうとはしなかった。
二度目の携帯が鳴る。
ホテルを出ないといけない。
聡は私の手を握ったまま入り口まで引っ張っていった。
「さぁ、行きなよ。」
ニコニコと笑って私を送り出した。
「また明日ね」
胸の所で手を振りながら扉が閉められた。
困った私。
そんなに神経図太くないし。
笑顔で『また明日』とか言われても…
無料じゃないんだよ。私を呼ぶのもホテル代も…安くはないよ。
このリバーオフィスホテルはパーキング式のラブホテルなんだけど、車はいつも無い。
歩きかタクシーか。
私を呼んで二時間遊んだり昼寝したりするだけでお金払う?
しかも連日。
2日で六万位だよ。
何を考えてるんだろう…
夜、事務所に帰るとやはり聡から明日の予約が入っていた。
3日続くとヨウコさんも不思議がった。
「涼ちゃん、何か違う事してない?サービス以上の事?」
暗に本番してるんじゃないのかと聞いているのだ。
「してないです。本番強要も何もないです。」
嘘ではない。サービスすらしていない。
「そう。ならいいの。余程気に入られたのね。上客じゃない。」
ヨウコさんはそう言った。
明日も聡に会う。
明日こそは『仕事』しよう。
そうしなきゃ『嬢』ではなくなる。
こういう仕事であっても私はプロなんだから。
この仕事だからこそプロ意識が必要なんだと思う。
男性の欲望を中から引っ張り出して処理する。
テクニックだって演技だって必要なんだから。
ただそこにいたらいいと云うものではない。
昨日と今日の件はどうしよう…。
その夜、モモとご飯食べた後で深夜までやってる雑貨店に行った。
名目は安い化粧水を買うと云うこと。
本当は聡に何かで返そうと思ったから。
化粧水はいつものを何本か買う。大きな青いビンの安いやつ。
高級な化粧水をちょびっと使うより安いのをバシャバシャ使う方が断然いいと嬢の中では言われている。
私もそう思う。
だから買う時はまとめ買いだ。
モモは下着コーナーに入って出てこない。
私は悩んだ。
最近の男の子がどんな物を欲しがるのか解らない。
悩んだ挙げ句、一回呼んでもらった金額で男性用のネックレスを買った。
チタンカラーの渋めの細いのだ。
気に入るかどうか解らないけどこのままだと私の気持ちが収まらない。
勿論勘違いされないように一言言って渡すつもりだ。
渡して明日普通に仕事したら後は会うのは止めよう。
私はそう決めた。
モモはピンクのブラを買ったみたいだ。
翌日夕方、またリバーホテルに来た。
「定宿みたいだね」とマルちゃんに言われた。
同じホテルに3日連続も無いわけではないが同じ相手と同じホテルで3日連続はめったにない。
開けて貰うと聡がニコニコと笑って立っていた。
「こんにちは。」
「あの…昨日はごめんなさい。」
「気にしないで。昼寝気持ち良かったよ。」そう言って中に通してくれた。
「今日は時間はどうしますか?」
「今日は180分でお願い。」
3時間!
「…いいんですか?」
「うん。」
事務所に電話してお金を前払いで貰う。
「じゃあ、今日こそはお風呂入りましょうね」
明るく言ってみる。
「いや、今日も初日みたいな感じでお願いするよ」
「でも…あたしにとっては仕事はそういうのが仕事なんですよ。UNOしたりお昼寝は仕事にはならないんですょ」
遠慮がちに言ってみる。
「うん。でもね、僕はそれで満足したんだからそれで良いんじゃない?」
「私的には抵抗があるかな…」
そう言うと聡は少し悲しそうな顔をして
「涼ちゃん的にはそうなのかぁ」
と呟いた。
「はい。聡さんといると楽しいんですけど、ちゃんとお金を頂いてるのでそれに見合う仕事をしないと。」
「うん。解るよ。我が儘いってごめんな。でもお風呂は入れないんだよ。」
「なぜ?」
「…多分嫌われるから。」
「病気?」
「感染症じゃないよ。」
この人冗談を言ってるんだと思ってちょっとムッとした。
…でも、時々いる『オレ病気で近々死ぬかもしれないんだ。
たがら本番いいだろ?』とは全く逆だ。
聡は寂しそうな顔をしたと思ったら、急に服を脱ぎ始めた。
お風呂に入るのかと思ったら上半身裸になってこっちを振り向いた。
白い胸の真ん中に赤い線が入ってる。
30cm位の赤黒い線。
「これが前回の痕なんだよ。醜いだろ」
「手術の痕…?」
それ以上言葉にならない。
「ああ二年前にね。採りきれなかったらしくてね。あと3日したら2回目の手術なんだよ。」
「何の病気?」
「胃ガンだよ。前の手術後大丈夫だと聞いていたんだけどさ。再発みたいなんだよ。」
聡は傷痕を指でなぞって続けた。
「解ってるんだ…既にかなり進行してるのはさ。手術したって生存率は低いって。
…万が一、思ったより進行してなくて容易に手術できたらって希望もあるし。
むしろ手術したら動けなくなるかもしれない。
けどさ、動ける間にしたい事もあるじゃん。
まだこの歳だしさ。
それで、動ける間にしたい事を書き出してみたんだよ。
だけど…あんまり無いもんなんだよ。
旅行に行きたいというのと、彼女が欲しいっていうこと。
それだけ。
親父もお袋も僕が高校の時に事故死して居ないしさ。
親戚からは嫌われてるし、現に入院してたって来もしない。
一人で入院して一人で手術受けて一人で退院するんだ。
…退院できないかもしれないけどね。」
聡の携帯のアラームが鳴る。
ごめんと言ってからかばんから薬の袋を出して色の違う四種類のクスリを出すと立ち上がって水を汲みに行った。
『旭南病院』の薬袋だ。
氏名『野原聡』消化器外科のスタンプも押してある。
…本当なのかもしれない。
戻ってきて話を続ける。「どこまで話したかな?
…まぁ要は、旅行に行くには病院の診察があるから行けない。
彼女作るにしてもこんな病気じゃあね…。
だからさ、せめて彼女がいたとして、楽しい時間があったという記憶だけでも残して置きたくて。
ちょっと涼さんに手伝って貰ったんだよ。
…ごめんな。」
ペコリと頭を下げた。
「これが涼さんとお風呂に入ったりしなかった理由だよ。キライとかそんなんじゃないんだ。
傷痕見て引かれたら寂しいじゃん。」
「…私こそごめんね。そういう意味合いで呼んで貰ってたなんて…」
「いいって、と言うか、僕が言わなかったから。
…でも今日でおしまい。
明日から術前検査。涼さんに理由も話しできたし、傷痕も見せたし、いい思い出もできた。」
そう言って聡はウインクしてみせた。
「いい思い出?」
「涼さんの寝顔が見れた」
「もうっ」
私は怒りながら泣いた。
泣きながら笑った。
聡は笑っていた。
それから二人でぼつぼつと話をした。
時間連絡の電話が鳴る頃には互いに色んな話ができた。
別れ際に、この業界ではタブーなのだけれど私は自分の携帯のアドレスを聡と交換した。
聡に手術が終わったらメールをしてくれる様に約束をした。
時間が中途半端に終わったのと予約が無かったので今日は上がる事にした。
なんだか今日は仕事をする気になれないのが一番の理由だったが。
今日の話は事務所でも、モモにも、ヨウコさんにも話はできない。
精算の時ヨウコさんに
「今日は予約の電話無かったわね」と言われて少しドキッとした。
今夜はモモが遅いようなので部屋に先に上がる。
シャワーを浴びていて気がついた。
あ、ネックレス渡すの忘れてた!
翌日、午後から仕事。
普通にこなす。
午後2件目、ややこしい親父がいたので退場してやった。
あの親父最初から『やらせろ』しか言わなかった。
警告したけど全然止める気無かったから開始10分で事務所に電話入れて退場した。
気になる事を言っていた。
事務所には言う気はないけど
『モモはヤらせてくれたぞ!』って。
モモに後で聞いてみないと…
密室で相手と二人きり。『誰にも解らないだろ?大丈夫だよ。○円追加するからさ。』そう言われて、女の子がお金で釣られて本番をしてしまうと、店の他の女の子も本番できると思われる。
『○○ちゃんも△円でヤらせてくれたぞ』と言われた女の子は更に悩む。
○○ちゃんもしてるなら私も…みたいな感じで更に悪化する。
だから絶対にしちゃいけないんだ。
少なくとも私は絶対にしない。
迎えのクマさんの車に飛び乗ってホテルを後にする。
中断の場合、返金はできないシステムだから無理言ったあの親父は、僅か10分で数万円がパーになったわけだ。
あの親父が頭に来て事務所に電話してモモの話とかしなきゃいいけどな…。
180分の予定が10分で終わってしまったから2時間以上空きが出来た。
帰って昼寝でもしようかな…
ふと閃いた。
「ねぇクマさん、この辺りで買い物したいの…悪いんだけど駅で降ろしてくれるかしら?
次の予約までには事務所に帰るから」
「ああ。いいよ」
近くの駅のロータリーで車を降りる。
クマさんの車が見えなくなってから私はタクシー乗り場に行った。
「旭南病院へお願いします。」
そう。聡に会いに行ってみようと思ったんだ。
旭南病院はこの辺りでは中規模の病院だ。
病院前には沢山の人がいた。パジャマの人や見舞いの人や敷地外でタバコを吸ってる人や。パジャマ姿が見えなければ駅前の様な風景だ。
お見舞い受付と書いてあるカウンターで相手の名前と自分の名前と続柄を言うと案内してくれるらしい。
続柄…友人と言うことにした。
受付の女の子がパソコンをカタカタと打ってから紙に入院棟と病室を書いて渡してくれた。
あっさりとしたものだ。
メモを見ながらエレベーターに乗って、初めて聡が本当に入院してたんだ…と思った。
心のどこかではやっぱり嘘じゃないのか?と疑っていたから。
嬢の中には年齢を8つもサバよんでる人や、サイトに五年前の写真を使用してる人や、病気の父親の入院費と偽ってチップを貰って、ホストに貢いでる人や…。
客だって一流企業の部長とか輸入業者の社長とか弁護士とか…そんな訳ないだろって思う人がたくさんいる。
嘘と嘘との会話が成り立つ業界なんだ。
そんな虚と幻影との世界に居ると周りもみんな嘘の様な気がするんだ。
だから私の手の中にあるこのメモが本物であると思うと不思議な感じがした。
消化器外科入院病棟は新館の七階にあった。
メモの注意書きにあるようにナースステーションに寄って、聡の見舞いと伝えるとナースの何人かがこっちを見た。
一番手前に居た看護師が病室まで案内してくれた。
聡は四人部屋に居た。
ベッドで点滴打たれながら本を読んでいたようだ。
私の顔を見て目を見開いて驚いた表情をした。
「り、涼さん…」
「具合どう?」
看護師はナースステーションに帰って行った。
「ぼちぼちかな…てかどうしたの?」
「うん。ちょっと用事があったから寄ってみた。」
嘘だけど。
「よく僕がここに居るのが解ったね。どうやって?」
「あなたが寝言で言ったのよ『旭南病院にいるからね』って」
「嘘だぁ~」
聡は笑った。
そこに看護師が入って来て点滴の交換をしながら言った。
「今日は無断外出しないで下さいよ。彼女さんからも言って下さいよ。ここ何日も午後から急にフラッと居なくなるんですよ。」
「大丈夫。今日は出ないからさ。」
「彼女さんが来てくれてるから出る必要もないと思うけどね」
そう言って看護師は出て行った。
「無断外出してたの?」
「うん。」
「ダメじゃん。」
「もうしないよ。…てか、ごめん、看護師に涼さん彼女だと思われてるよ。」
「気にしないで。そうそう、これを渡そうと思ってたのよ」
私は、バッグの中に入れてあった昨日渡しそびれたネックレスを渡した。
箱を開けて中を見た聡はとても喜んでくれた。
早速着けようとしたが点滴で片腕が動かせないので私が着けてあげた。
聡の頸は細く白かった。
小さな百均で買ったと思う鏡で着けてる自分を色んな角度から見てた。
気に入ってくれたみたいだ。
お茶でもしながら話でもしようかと思ったけど、聡は動けないみたいだし、隣にも患者がいるから今日は帰る事にした。
帰ると言うと聡は悲しそうな顔をしてた。
病室を出てエレベーターに乗ると扉が閉まる直前に看護師が飛び込んで来た。
さっき点滴を変えに来た看護師だ。
「あの、野原さんの関係者の方ですよね?ちょっとお話があるんですがお時間ありますか?」
といきなり言われた。
同じエレベーターの箱に一緒に乗ってた人がみんなこっちを見る。
…だよね、良い話しじゃないってすぐ解るよね。
次の階で降りて面談室という部屋に案内された。
白い壁と天井。スチールの机と椅子。時計。内線用電話。
それしかない。
この部屋で今までどんな話がされてきたのだろう。
暫く待っていると白衣を着た医者がやって来た。
若そうだけど肥満体。
脂ぎっててギラギラしてる。
部屋は寒いのに汗をかいてる。
「消化器外科のカンノです。」
「扇涼子です。」
二人向かいあって挨拶する。
「えーと、野原さんの関係者の方ですよね?親戚とか?」
「いえ。…友達です。」
「お友達かぁ…親御さんはおられないのは解ってるんだけど、親戚とかご存知ないですか?」
「知りません。居ると聞きはしましたが。」
「うーん。そうかぁ。残念。」
「何なんですか?」
パッと小さな目でこっちを見る
「明後日手術なんだけどね。当人とも話はついてるんだけど、まぁ、事前検査でもあまり良くないんだよ。」
目を伏せてこちらを見ようとしない。
「良くない?」
「一応診るために開けるけど、状況に寄っては何もできないんだよね。」
なんだか人事みたいな話し方で嫌な気がする。
「分かりません。どういう事ですか?」
「あなたが親戚の方なら詳しいお話をして今後の相談ができたらと思ったのですよ。」
「今後の相談って?」
「まぁ色々と、退院からその後の事をね。ホスピスとか…実際には当院の医療ソーシャルワーカーが対応するんですがね。今まで野原さんの所には誰も面会がなくて…。親戚にも連絡して欲しくないと言われて。」
「ホスピス?ソーシャルワーカー?」
「…まぁ、それは手術の結果次第なんで…。もしあなたが野原さんのご親族か誰かをお知りでしたら、また教えて頂きたいのですよ。」
何ともはっきりしない。
礼を言われて話し合いはお開きになった。
ホスピスって聞いた事はあるんだけどな…
私は何だか重い気分で病院を出た。
タクシーで事務所に戻る。
確か、嬢の中に看護師がいたはずだ。
ユミだったかな…
今も現役の看護師だが理由があってこの仕事をバイトにしてる。
ヨウコさんにユミの予定を聞くと今夜出勤らしい。
時間があったら聞いてみよう…。
その後二本続けて仕事をこなして事務所に戻った。
精算しようと思ったのだけど事務室はモモが店長とヨウコさんに呼ばれて話をしているので立ち入り禁止という。
多分今日のエロ親父の事だろう。
腹いせに、店にモモの事を言ったのかもしれない。
中には入れないので待合いで他の女の子達とお茶のみながら話をして事務室からモモが出てくるのを待った。
女の子達との話は殆ど頭に入らなかった。
事務室が気になって仕方なかった。
「涼ちゃんさぁいっつも忙しそうでいいよねー」
女の子の一人に言われた。
「あたしさぁ、指名少ないからフリーの客の順番待ちだからね。フリーは安いしさ」
うちの店は指名するのには指名料が掛かる。指名がなければどの女の子が来るか解らない。
女の子側もフリーは還元率が低い。
『指名で呼んで貰おう』と努力した女の子と『フリーで呼ばれるまで待ってたらいいや』と待ってる女の子の差でもある。
『待ち』では客の順番が回って来ない日もある。
『待ち』の女の子は待機室で待っている間、一応時給はつく。
但し、時給は安いので1日待つより指名一本入った方が何倍もの稼ぎになる。
中には入店からラストまで全て予約で埋まってしまう女の子もいるし、フリーで呼ばれてもチェンジですぐ帰ってくる女の子もいる。
私も最初は待ちばかりだったけど最近は指名も普通に入る様になった。
「そんな事ないでしょう。私はたまたまですよ」
「涼ちゃん綺麗だからねー」他の女の子からも言われる。
「そんな事ないですよ。」
化粧も殆どしてませんし…と言いそうになって言葉を飲み込む。
言えば『肌が若いから』と暗に言ってるんだと悪く取られるから。
でも、目の前で絡んできた女の子達は決して不細工ではない。綺麗に化粧してるし髪も手入れが行き届いてるし、スタイルもいい。
私は胸もないし髪も適当だし化粧も殆どしてない。
この仕事始めた頃にある客に言われた事がある。
『普通』がいいって。
もちろん趣味や好みは人それぞれだけど、『普通』がいいって思う男は多いみたいだ。
そして普通を好む男は殆どリピートしてくれる。
他の客には『現実の延長みたいだから涼ちゃんがいい』って言われた。確かにおじさんや一般的な仕事してる男は、現実では煌びやかな女の子と付き合う事は殆どないだろう。
夢を買うならそれもいいかもしれない。
それより、『もしかしたら出会えるかもしれない』と思わせる女の子の方がより現実的で嘘の世界であってもリアリティがあるんだろうなと思う。
フランス料理を女優と食べる夢より、ちょっとかわいいなと思う女の子と街のレストランに行く夢との差みたいな感じかな。
「お疲れ様ですー」
ユミが帰ってきた。
ユミは事務室に入れないと聞くと待機室の隅に行ってタバコに火を点けた。
私もタバコポーチを持ってユミの隣に移動する。看護師が本職だからかユミはどことなくさばさばした雰囲気の女の子だ。
言いたい事はすぐ言う感じ。
目つきが悪いからかキツく見えるが、そんな事はない。
言葉は違うが行動には気を使うタイプだ。私とは話が合ってよく話をする。
『よくS?とか聞かれるの。本当はバリバリのMなんだけど』って前に笑いながら言ってた。
「お疲れ様」
「あ、お疲れ様」
そう言いながら端に寄ってくれる。
隣に座って私もタバコに火を点ける。
「ねぇ、ユミさん、ホスピスって何?」
ユミはびっくりした様な目で私を見た。
「誰か入るの?」
「まだ決まった訳じゃないらしいんだけどね。知り合いが。」
「涼ちゃんはホスピスって知らないの?」
「うん。…どんな所?」
「治療はしないのよ。痛みを取るだけの病院みたいな所。」
「治さないの?」
「うん。涼ちゃんの知り合いの人かぁ…言って良いのかなぁ…殆どは末期癌の患者さんが入るのよ。
癌は末期にはとても痛いのよ。
治療もできないならせめて痛みだけでもラクにして最期を迎えさせてあげようって施設ね。」
「…」
「びっくりした?でも入る人は多いのよ。」「ユミさん、若い患者さんに、医者が『あまり良くない』って言ったら…」
「医者によるから。気の弱い奴や腕に自信のない奴は最初から悪いって言うのよ。上手く行けば自分のお陰。失敗したらそれは手遅れ。…どっちにしても責任を追及されないでしょ?
だから医者が手術前に何か言っても、ちゃんと結果が出るまでは解らないのよ。」
そう言ってユミは軽く笑った。
…聡そんなに悪いのか…
礼を言ってユミの勤めてる病院の横柄な年寄りの患者の話を聞いてたら事務室が開いてモモが出てきた。
目が真っ赤になってる。
泣いてたみたいだ。
モモは待合いを走る様に抜けて事務所を出て行った。
精算待ちの女の子達が列を作って順番に事務室に入っていく。
私もユミと並んだ。
モモの事は心配だけど精算終わらせないと自由にならない。
「ありゃぁヤったね。飛ばされるかもよ」
とユミがポツリと言った。
精算の時、ヨウコさんに何か言われるかと思ったけど何も言われなかった。
「今日もお疲れ様。」
とニコッと笑いながら言われただけだ。
店長は仕切りの中に居る様だ。何だか電話の声が聞こえてた。
モモの話をしたかったけど、まだ精算待ちの女の子もいるし、深夜組の女の子達の入店時間とも重なってるからそのまま事務室を出た。
五階の部屋に入るとモモがベッドに座ってた。
頭を撫でて
「どうした?」
と聞いてみた。
「一昨日の客が帰り間際に『ヤらせろ』ってうるさくて…あたし断ったのよ。
そしたら誰々もヤらせてるのになんでお前はダメなんだって怒鳴りはじめて…。」
「本番したの?」
「ううん。しなかった。
断ったらいきなり、怒って帰れって。
丁度時間だったし。
あたしそういうこと時々言われるから報告しなかったの。そしたら昨日位から店に『モモはヤらせてるぞ』って電話があったり他の女の子にも『モモがヤらせてるんだからヤらせろ』って言って廻ってるんだって…。」
「モモ、あんた本当にしてないのね?」
「うん。…あいつとは」
…ああ、ダメだ。他ではしてるって事じゃん…
「誰であれ、本番は止めた方がいいよ」
私は頭に来てそれだけ言って部屋を出た。
自分だけの事で済むならまだしも相手が誰であれ本番してると噂が広まれば、狭い業界だ、周りの店からも噂を聞いて、本番目当ての馬鹿が集まる。
馬鹿が増えれば警察や組合から目を付けられて下手すれば潰される。
人というのは相手の弱みを見つけると、そこを徹底的に攻撃する。相手が潰れるまで。
それは個人でも店単位でも同じだ。
モモにはそれが解らないのだろうか…
私はむしゃくしゃしてビルを出た。
食欲もないし、する事もない。仕方なく近くのTSUTAYAに寄る。CDを見てみたが欲しい物はない。
本の売り場に行って雑誌を立ち読みする。
何にも頭に入らない。
文字や写真を目で追ってるだけだ。
帰ろうか…
そう思ってから気付いた。
『医学書・専門書』のコーナーに行く。
このコーナーは今まで寄った事が無かった。
あらゆる病気の名前が並んでいる。
私は『消化器の病気』と言う本を手に取って見てみた。
簡単なイラストで各病気の説明が書いてあって、具体的な薬や手術方法まで書いてあった。
『胃ガン・胃癌・胃がん』
何で同じのがカタカナや漢字やひらがなで書いてあるんだろうと思った。
『ガンと聞いても全てが悪性ではありません。良性腫瘍もガンなのです。』
と書いてある。
総称、良性、悪性で仮名を変えるのだそうだ。
分かり易い文章なので私はこの本を買った。
もちろん聡の病気の事を知る為に。
部屋に帰るとモモは居なかった。
出かけたみたいだ。
私はベッドに横になって今買ってきた本を読んだ。
『胃がんは切除が基本です。』と『転移し易い』の文字が私の頭に強く残った。
聡の白い顔がチラリと頭に浮かんだ。
朝になってもモモは帰って来てなかった。
時計はまだ8時を指している。私にとってはまだ明け方だ。
今まではモモが帰らない日はメモがあったり電話があったりしたんだけど…
どこに行ったんだろう…
目が覚めてしまったので起きる事にした。
モモと共同で使っている冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出して飲む。
冷たい水で体の中から目を覚ます。
着替えをしてから近くのコインランドリーに洗濯に行く事にした。
今日は午後からのシフトになってるからそれまでは自由だ。
コインランドリーで洗うのを待つ間、待合い用の椅子に座って置いてある雑誌をパラパラと見る。
聡は洗濯どうしてるんだろう…
何だかすごく気になった。
洗い終わった洗濯物を部屋の物干しに吊した。
モモはまだ帰って来ない。
私はお腹が空いているのに気がついた。
そう言えば、昨日のお昼から何も食べてないや。
ご飯を食べに行く事にして外にでたが…何を食べよう…
私は少し考えたけど、気付いたらタクシーに手を挙げていた。
「旭南病院までお願いします。」
ご飯よりも聡が気になったんだ。
病院のロビーは相変わらずスゴい人だった。
昨日来たばかりだからスイスイと新館に移動する。
昨日は気づかなかったけど途中の廊下に売店と食堂があると書いてある看板を見つけた。
そっか、病院だもん、売店や食堂位あるよね。
私は消化器外科のナースステーションに寄って看護師に挨拶して面会簿に記入した。
看護師が何人か興味深げにこっちを見てた。
聡の病室に行くと聡は今日も本を読みながら点滴を受けていた。
「あ、涼さん!」
満面の笑みだがやはり顔色が悪い。
「どう?具合は?」
「少し熱があるけど大丈夫。痛み止め飲んでるし、これを付けてるから。」
そう言って昨日私が渡したネックレスを見せた。
「ねぇ、洗濯物どうしてるの?」
「三階に洗濯機があるからそこで洗ってるよ。」
「出して」
「え?」
「いいから早く」
私は躊躇してる聡から洗濯物の入ったビニール袋のありかを聞き出して洗濯をしに三階に移動した。
自動販売機コーナーと院内理容室の間にコインランドリーの機械が何台も置いてあった。
洗濯機を仕掛けて病室に戻ると聡は点滴が終わっていた。
「…ありがとう。でもなんだか恥ずかしいな」
「気にしないで。」
「ねぇ、これから散歩に行こうと思ってるんだけど、一緒に行かない?」聡はニコニコしながら言う。
「いいわよ。…私、昨日のお昼から何も食べてないのよ。食堂に行かない?」
「もちろんいいよ。」
二人は病室を出て食堂に行った。
席に着いてから気付いた。
「もしかして聡くんは食べれない?」
聡は明後日には手術になるので既に食事制限が掛かっているから何も食べれないと言った。
「だけど、食べていいって言われてもそんな食べれないんだけどね。」
そう言って自嘲気味に笑った。
私は聡に気を遣って飲み物だけにしようと思ったが聡が定食を頼んでしまった。
「ちゃんと食べないと病気になるよ。病人の言うことは聴きなさい。」人差し指を立てながら私に言って笑った。
二人で食事をしたりお茶を啜ったりしながら話をした。
聡の学生だったころの話、病気になるまでの話、なってからの話。
学生の頃の話を除けば内容的には暗い話が多かったけど聡は明るく何でも無いように話してくれたので暗くならずに済んだ。お昼になったらしく白衣の人やお見舞いの人が食堂に増えてきたので私たちは屋上に避難した。
「あのさ、最初に入院したのもこの病院だったんだよ。いきなり吐き気がしてさ、洗面所で戻したら真っ赤でさ。元々血が嫌いだから卒倒しそうになったよ。」
「それは怖いね。私なら倒れるわ」
「涼さんはしっかりしてるから大丈夫じゃない?
…でさ、バイト先の店長が救急車呼んでくれてそのまま入院。
翌日から検査漬け。二日後に手術。
細胞診断に4日掛かって言われたのが『がんですね』…。」
私の頭の中に昨日会ったふとっちょの医者が出てきた。
「…落ち込んでさー、ここから飛び降りてやろうって何回もこのフェンスに手をかけたんだよ。」
聡の目は悲しそうに遠くのビルをみつめてた。
「…」
私は何て言って良いか解らなかった。
「ああ、ごめん、暗くなっちゃったね。大丈夫。この間からもうそんな風に思ってないからさ。今は生きなきゃって思ってるんだ。」
私の方を見て続けた。
「生きてたらいい事もあるよね。」
いつもの様にニコッと笑った。
私は頷く事しかできなかった。
明日は術前検査と準備、明後日は午前9時から手術。
終わるのは午後2時の予定。
手術翌日は麻酔の関係ではっきりしない。手術の翌、翌日つまりは金曜日位には意識もはっきりすると聡は言った。
「手術終わったら連絡するね。」
聡はそう言った。
屋上から三階で乾燥の終わった洗濯物を畳んで聡に渡して病院を後にした。
「連絡待ってるからね」
私は手を振る聡に、そう言った。
その日の午後、シフト入って予約をこなした。
頭の中は聡の事でいっぱいで仕事は上の空。
マニュアル通りに淡々とこなした。
今日最期の客は常連の『住職』だった。
坊主は絶倫 などと言われるがこのおじさんは勃たない。
一緒にお風呂に入って私の胸をちょっと触ったら満足。
お風呂から出たらお茶飲んで帰る。
いつも90分だけど、実質は20分程度。後はお話。
簡単で話の面白い人だ。
ちょっと気になって聴いてみた。
「住職さん、人は何故生きるのですか?」
「涼ちゃん、またえらく難しい事を。
色んな分野がある。
仏教的にとか、神道的にとか、哲学的にとか、医学的にとか。
どれが良い?」
「え…と、分かり易いやつを。」
「そうだな。涼ちゃん、渥美清って知ってるかい?」
「あの…四角い顔した…えーと…あ、寅さん?」
「そうそう。寅さん的に生きているっていうのは
『何年かに一回位さ、ああ生きてて良かったなと思える事があるだろ?それが生きてるって事なんだよ』
って事だな。」
細い目を更に細めて住職は言った。
「…たまに良いことがあるからその為に生きると言うことですか?」
「ん。その時の気持ちではないかな?
解釈は人それぞれだがな。ただ良いことばかりが生きてるって事じゃないって事だ。
石ころみたいにゴロゴロとダイヤがあればみんなそれが綺麗だとは思わんだろう?
ごくたまにあるから光り輝くんだ。
その光を純真な心で見れた時の気持ち、それが生きると言うことで、その人の生きてきた証なんじゃないかな?」
「…難しい」
…半分も解らない。
「ああ。生きるって事は難しいな。」
そう言って住職は笑った。
いやいや…説明が難しいんだってば。
「儂は涼ちゃんに会えた時、ああ生きてるなぁと思うんだ。」
…はいはい
事務所に帰って清算する時にヨウコさんからモモを知らないか?と聞かれた。
昨日の夜ちょっと会っただけでそれから見てないと言うと、心配そうな顔をした。
携帯も繋がらないらしい。
この業界、借金があって半強制的に仕事させられる店もあるらしいが、うちの店はそういうシステムはない。
だからモモも辞めたければいつでも辞める事ができる。
飛ぶ(逃げる)必要はない。
一言辞めますと言えば済むのだ。
もしデリの仕事が嫌ならグループにはファッションヘルス、クラブからピンサロ、バー、居酒屋まであるから移動もできる。
つまり消える意味が解らない。
他グループからの引き抜きの場合は色々と面倒らしいけど。
…ただ、モモは引き抜かれるタイプではないのだけど…
後はゴタに巻き込まれるか業界から脚洗うつもりなのか。
一番怖いのはゴタだ。
性を売り物にする以上そのテのゴタはよくあるらしい。
ストーカーされたり監禁されたり刺した刺されたの話も聞く。
昨日、店で嫌な思いして外に飛び出したモモが客のタチの悪い誰かとばったり会って…と云うことだって考えられる。
…早く帰って来たらいいのに…
モモが帰ってきたのはその日の深夜だった。
傷だらけになって。
事務所には寄らなかったらしい。
電気の灯りを点けてみると、目の下には内出血の跡、唇も腫れて髪も服もぐしゃぐしゃだ。
「モモ!どうしたの!?」
「…騙されてたの」
「はぁ?どうでもいいから横になって!」
私はモモの服を脱がす。
鎖骨の下や胸にも内出血の痕がある。
「なにこれ?!殴られたの?」
ヨウコさんに言うのは躊躇われた。
もし言うなら明日になって落ち着いてからだ。
…どうしたらいいんだろう…
私はマルちゃんに電話を入れた。 マルちゃんなら解ってくれるかもしれない。
マルちゃんはちょうど今日のドライバーが終わった所だった。すぐ部屋まで来てくれた。
「あちゃー殴られたの?こりゃ痛いわ。
涼ちゃん取り敢えず氷買ってきて。」
私はコンビニまで走った。
氷を買ってきて帰ってみるとヨウコさんと店長も部屋に来ていた。
ヨウコさんは何も言わず私が買ってきた氷をナイロン袋に詰めて顔や鎖骨に当てた。
「ごめんなさい…」
モモが呟く
「話は後。店長、病院連れて行きますか?」
「どや、モモ、病院行くか?」
店長はモモに直接聞いた。
モモは首を横に振った。
「仕方ないなぁ」
店長は携帯で誰かと話をしていた。
しばらくしたら目つきの悪い痩せたお爺さんがやってきた。
何も言わず、モモの側に寄ると内出血をしなびた指で撫でたり押したり引っ張ったりした。
「大丈夫。冷やせ」
そう言うと店長に手を出した。
店長は5万円渡した。
お爺さんはポケットに札をねじ込むとひょろひょろと部屋を出て行った。
「ああ見えて元は有名な外科医だったんだ。
色々あって免許は剥奪されたが今でも見立ては一流だ。
アル中で震えはいるがな…」
店長はみんなにそう言った。
「明日詳しい話を聞かせてくれよ」そう言うと店長は部屋を出て行った。
マルちゃんとヨウコさんと私は朝まで順番にモモの傷を冷やした。
翌日朝、生理が来た。
いつもより一週間位早い。
ヨウコさんに言って予約のキャンセルと一週間の休みをお願いした。精神的に疲れると生理の時期が前後するのは前からだ。
ここ暫く周期は安定してたのにな…。
私の生理は酷い。頭痛と腹痛と腰のダルさが5日間ずっと続く。
毎回酷いのでいつか診てもらわなくちゃならないかなと思ってる。
今日はモモと私は部屋に籠もる。食べ物はいつも寝込んでない方が買い出しに行っていたが今回はどうしようもなくて、ヨウコさんとマルちゃんに買ってきてもらう様にお願いした。
「痛いね…大丈夫?」
「私は毎月の事だから…モモはどう?」
「痛いけど大丈夫。ごめんね。迷惑かけて…」
「いいのよ。」
「あのね、聞いてくれる?…」
モモは話始めた
その男は最初は普通の客だった。
サービスも会話も普通だったが週に一度のペースで指名してくれた。
男はお金持ちに見え、会話が上手く、何より二枚目だった。ゴールドとシルバーのコンビのROLEXがあれほど似合う男は居ないと思った。
毎週呼ばれても本番強要もなく普通なサービスで満足してる様に見えた。
モモは自分が惚れている事に気付いた。
ある日男が『もう会えない』と言ってきた。
お金が続かないと言う。
『モモの事が好きなんだけどね』と言う言葉にモモはタブーを犯した。
直接連絡を取って店の外で会うようになった。
店の管轄から外れた途端、男は身体とお金を要求する様になった。
ホテル以外でも何回も会った。デートしたり男のマンションにも行った。
モモは身体もお金も貢いだ。
それは男に『結婚したい』と言われたからだ。
モモは結婚するつもりになっていたし、男も否定はしなかった。
そんな時、この前のエロ親父から店に電話が入って店長とヨウコさんから『本番をしているんではないか』と強く言われた。
ヨウコさんに疑われて悲しかった。
辞めてあの男と結婚しようと思った。
部屋を出て男のマンションに行った。
電話をしたが出ない。
マンションを見上げると電気は点いている。
インターホンで呼んでみたが反応がない。
鍵か部屋のスイッチで開けて貰わないとエントランスにも入れない。
寒い路上でマンションの男の部屋を見上げながら何度も電話をして気付いてくれるのを待った。
足がかじかみ、指が冷たくなった。
明け方、酔っ払ったサラリーマンがマンションに入る時に一緒にエントランスに入れてもらった。
まっすぐ男の部屋に行く。モモの頭の中には優しい彼が暖かい部屋に迎え入れてくれる姿があった。
男の部屋のチャイムを鳴らすが反応はない。
覗きレンズからは針先で突いた様に光が洩れている。
モモは扉を引いてみた。
あっさりと開いた。
玄関に靴があった。
彼の靴と女物の靴。
モモはつかつかと上がって行った。
インターホンの受話器が浮いていた。これでは聞こえるはすがない。
躊躇せず寝室のドアを開けた。
動けなかった。
ドラマでしか見たことはなかった。好きな男が見たことのない女とが裸で抱き合って眠っていた。
モモは無我夢中で飛びかかった。
「なんだお前!!」
モモの姿を見て男は怒鳴った。女は「何よこいつ!」と言った。
モモは女に掴み掛かった。
男に対する怒りより女に対する怒りの方が強かった。
髪を掴んで引っ張ったり付け爪で引っかいたりした。
よく覚えていない。
相手の女が鼻血を出したのは覚えてる。
ガンッという衝撃があってモモは弾き飛ばされた。
男に顔を殴られたのだ。
そのまま殴る蹴るの暴行をうけた。
モモは痛みよりも男に殴られたと云うことにショックを受けて動けなくなった。
動かなくなると二人は服を着て部屋を出て行った。
部屋を出る直前に女に顔を踏まれた。
部屋に一人になってからモモは泣いた。
泣きながら男が帰ってくるのを待った。男が帰ってきたら謝ろうと思っていた。
私から離れないで欲しいと言おうと思っていた。
だけど彼はそのまま帰って来なかった。
また夜が来た。モモは部屋を片付けた。
部屋の隅に付け爪やあの女の千切れたエクステが落ちていた。拾い集めてゴミ箱に入れた。
女の鼻血の跡も掃除した。
モモは解っていた。
男に騙されてた事。
部屋を出る時、インターホンの受話器をきちんと戻した。
「…モモ、相手の女の髪を引っ張ったの?」
「うん。エクステが二房くらい千切れてたよ。」
「ナイス」
「エヘ。でしょ?
…でもね今思うとあの女も騙されてたのかなって。
…惚れっぽい私が悪いんだよね。男が見抜けないんだから…」
モモはそう言って泣いた。
夕方、モモは店長とヨウコさんに呼ばれて事情の説明に行った。
一時間位して帰って来たモモは、店以外でのトラブルと云うことで怪我が治るまでは自宅謹慎という事にしてくれたと言った。
ただ店長が後は任せろと言ったのが気になるとモモは言った。
私は腹痛と頭痛に悩みながらも聡の事を考えてた。
聡も今頃は手術前の検査でクタクタだろう。
携帯がまだ使える所にいるかなと思って携帯を取り出した。
>聡くん 頑張ってね(^_^)v
メールを送った。
メールは苦手だ。
少ない文字だけで感情は上手く伝えられない。
メールより電話。
電話より直接会って話をした方が行き違いもなくて正確に意志を伝えられる。
そう思ってる。
だけど今、聡に伝えるのはこれしかない。
すぐ返信が来た
>ありがとう 涼さん 手術終わったら会いに来てね
軟弱者め…会いに行くねと書けよと思って少し笑った。
翌日も寝たきりだ。今日は、モモが帽子を深く被り、サングラスを掛けてコンビニまで行って食料調達をしてきてくれた。
「歩かないと太っちゃうから」と言ってたが、実際には顔に傷跡がある女の子は、買い物どころか外出もしたくないだろうに。
私に気を遣ってくれているんだと思う。
お昼を食べながら聡は今頃頑張ってるんだろうなぁって考えた。
それからうんうん唸って3日目私は楽になった。
やれやれ。やっと楽になった。
仕事はまだ2・3日はできない。
聡からメールも連絡もない。
心配だ。
私は病院に行ってみる事にした。
聡の話では手術後、数日経つから、もう大丈夫なはずなんだけどな…。
駅まで歩いてからタクシーを拾って病院に向かう。
いつもの様にナースステーションで手続きをする。
来院ノートに記入していると看護師の一人がやって来た。
「扇さんですよね?野原さんのお見舞いですよね。医師から少しお話があるのでこちらでお待ち下さい。」
そう言われた。
少し待っていたらエレベーターから白衣を着たこの前の肥満先生がヨチヨチ走ってきた。
「どうもどうも。外来の途中だから簡単に。」
「はい…」
「良くないです。また詳しくお話しますが…一応開けましたが術前検査での予測よりもう少し悪くて。当人には希望もあって告知してます。
今は表面的には安定してますが、何かあったらすぐナース呼んで下さい。
帰る時にあなたが今度いつ来られるかナースに伝えておいて下さい。」
え?家族でも親戚でもないのにそんな重要な話を…
「なんで…私に…?」
「あれ?聞いてませんか?
野原さんがあなたに説明して欲しいと言われましてね。」
先生はではまたと言い残してヨチヨチと走りながら外来に戻って行った。
正直実感がない。
聡の容体が悪いと云うのは解った。
それって…死ぬと云うことなの?
私は自分の父親が死んだ時の事を思い出した。
父親が再婚した相手はろくでもない女だった。父親の前ではそれなりの妻を演じていたのかも知れないが、私からみたら『母親』という存在にはなりえなかった。
母親が居なかった私は小学生の頃には家事も殆ど自分でしていた。
父親が仕事から帰ってきて、頭をガシガシ撫でて『家事ありがとう』と言ってくれるのが嬉しかった。だからツラくはなかった。
親子二人で仲良くやってた…
友達と遊べなくても遠足の日には自分でお弁当を作っても。授業参観には誰も来てくれなくても。
そこにやって来たあの女。
初めから嫌な奴だった。
私の事は最初から見えない様に振る舞った。
あからさまに邪魔にされるのも嫌だけど無視はキツかった。
我慢した。
父親が過労が原因で脳溢血を起こして死んだ時、冷たくなった父親を見て泣いた。
でも心のどこかで死んだと言うより休めたんだねと思った。
でもあの女は泣きもしなかった。
葬儀の時、幕の裏で笑いながら電話してた。
許せなかった。
頭にきてそれから毎晩喧嘩した。
だからか、人が死ぬと言うことはその場から居なくなる事以外に、怒りと、休めて良かったねと思った気持ちが感情として混濁して残っているだけで、本当は理解出来ていないんだと思う。
…単に冷たいだけなんだろうか。
聡が死ぬって想像がつかない。勿論、彼氏でも、もしかしたらまだ友達でもない、単なる顔見知りだと自分のどこかで思っているからなのか…
…でも、
自分の中に湧き上がるこの気持ちは何なんだろう…。
聡の病室に向かう。
今朝、元の病室に戻ったんだそうだ。
カーテンを開けるとベッドに聡が眠っていた。
胸からお腹まで布団が大きく盛り上がっている。
ビニール温室の支柱みたいなものに布団が乗ってるみたい。
「寝てるだろ?」
隣のベッドのおじさんが小声で言った。
「はい。」
「今朝この病室に帰って来てな、傷口が痛いらしくてナース呼んでさ鎮痛剤打ってもらって、さっき眠ったんだよ。」
「そうですか…」
「あんたが来てから野原くんは変わったよ。明るくなったな。」
私と会ってから変わったんだ…
しばらく聡の寝顔を見てた。
まだ少年の様に見える。
顔色は白く痩せている。
瞼や唇が時々動くのを見て生きてるんだなと思う。
聡は私の事どう思ってるんだろう…
おじさんにまた来ると伝えて下さいと言って病室を後にした。
翌日のお昼過ぎに聡からメールが来た。
>復活したよー 昨日来てくれたんだね ありがとうね 会いたかったぁ
返信
>聡の寝顔じっくり見たわ(*_*)
欲しいものある?また持って行くから。
>うん。
リハビリがてら一緒に売店に行きたいかな(笑)。
来てくれるだけですごく嬉しい。
…このメールだけ見たら彼氏だよね。
モモの怪我もかなり目立たなくなってきた。
モモは明日からファンデーションを濃くして仕事に出るという。
私も明日から仕事に入る事にした。
その日の夕方、店長が部屋にやって来た。
モモに大型封筒を渡す。
「ほら。お前の夢のかけらだ。」
モモが封筒をひっくり返すと中から現金が出てきた。
束になってる物もある。
「これ…」
「あいつから取り返してきたんだ。名目は借りてたお金を返すって事だがな。」
「…」
「本来ならこっちの営業妨害やモモの慰謝料も取れるんだがな。モモは、そういうの嫌だろうから、モモが貸してた金だけ貰ってきた。
心配すんな。
普通に話をして出させただけだから。
ただ、全額じゃないと思うぞ。足りないなら言えよ。」
「そんな…」
店長はタバコを取り出して火を点けた。
「あいつはな、モモみたいな女の子を何人も抱えてんだよ。
実際に住んでるのは隣の県だ。隠れ蓑に女のマンションを使ってたんだ。
女が居ない時に他の女の子にちょっかい出してるんだよ。
…男のゴミだよまったく。」
「…」
「何人も騙されてたんだから見る目がないのはお前だけじゃなかったんだ。
心配するな。
…また次の夢を探せばいい。」
「…はい」
モモは夢の残骸を抱いて泣いた。
「頑張りなよ」
そう言って店長は部屋を出て行った。
夢かぁ…
翌日、私は早起きした。と言うか、眠れなかったんだ。
珍しく朝7時から起きだして準備をすると8時の電車に乗って西へ向かった。
9時半に降り立った駅は、出て行った時の風景そのままだった。電車に乗った時の気持ちが浮かび上がる。
なんだか子供っぽいような、それが故に純真で真っ直ぐな気持ち。
希望と恐怖とが入り混じった独特な感情は今でも手に取るように思い出される。
何だか気恥ずかしくて足早に歩く。
ロータリーに客待ちしているタクシーに乗り、目的地を伝える。
途中、スーパーで買い物をしてから目的地に着いた。
運転手さんに少し待っていて欲しいと頼んで、スーパーで買った花束とお線香を持って車を降りる。
「お父さん久しぶり。お母さんも。」
花を供えていつものライターでお線香に火を点ける。
風に煽られて線香の煙が纏わりつく。
…目に沁みる。
ポロポロっと涙が零れる。
止まらない…。
「お父さん…」
お父さんと写真でしか見た事のないお母さんが笑っている姿が見えた気がした。
私は決めた。
「二人共、見ててね。あなた達の娘は頑張るからね」
私はそう呟いて立ち上がった。
待っていて貰ったタクシーに乗り込んで事務所に電話を入れた。
体調が良くないので今日は仕事をキャンセルして欲しいと。
本当は体調は頗る調子が良いのだが。
「ねぇお客さん、まさか早まるつもりじゃないよね?」タクシーの運転手がそう言った。
女の子独りで墓参りに行って、泣きながら帰って来て、仕事をキャンセルしてる電話を聞いて、真顔だからそう思ったんだろう。
私はついそれを聞いて笑ってしまった。
「そんな事ないですよぉ」
本当はその逆だ。
とことん生きてやると決めたんだ。
恋愛を遠ざけていたのも、仕事が何の為なのか解らないのも、
友達を増やさなかったのも、心のどこかで、『生きてる意味が解らない。死ぬなら何もしがらみを作る必要はない』と思う自分がいたんだ。
でも決めた。
生きてやる。幸せを掴んでやるんだ。
タクシーを降りると、以前この街を出た時とは違った思いで駅舎を見上げた。
幸せへの出発だ。
電車を途中で降りるとタクシーに乗って旭南病院へ向かう。
カンノ先生に面会したいとナースステーションで申し込んだ。
「外来が長引いてるのと部長会があるので3時間位掛かるんですが…」
と看護師が申し訳なさそうに言った。
アポ無しだから構わないと伝えて聡の病室に行った。
どちらが先でも同じね。
聡はベッドで寝たまま驚いた様な顔をして、嬉しそうに笑って迎えてくれた。
「来てくれたんだ。あれ?仕事は?」
「今日は休みよ。あのね聡、私これから先、あなたの面倒みるわ」
「え?」
「あなたの世話をするって言ったの。」
「…一体どうしたのさ?」
「聡のそばにいる。迷惑なの?」
「そんな事ないよっ…でも迷惑掛けるよ…」
「掛けなさいよ。できる事はするから。ホラ、まず洗濯物出して。」
私は以前に置いてあった所から洗濯物の袋を出して三階に向かった。
三階のコインランドリーに向かいながら これでいいのよね と自分に問いかけていた。
洗濯物を仕掛けるとそのまま隣の売店に行って小さな花瓶と小さな花を買って病室に戻った。
男ばかりの病室。私が出入り始めたんだからせめて花位はね。女の子が来てる感じがするでしょ?
花瓶を窓際の目立つ所に置いた。
「おー。この病室に花なんて初めてだな」
隣のベッドのおじさんが言う。
向かいのベッドのお爺さんもウンウンと頷いている。
もう一人は日本人では無い様だ。浅黒い顔でカタコトの日本語で
「キレイダネ」
と言って真っ白い歯を見せた。
「3時間したら先生と会って話してくるわ」
「なんの話?」
「これから私があなたの世話をするって。後はあなたの為に何をしてあげたらいいかと聞いて来るのよ。」
「…うん。ありがとう。」
そういう聡は最初に会った時より白く、細くなっている様に見えた。
聡はお腹を切っているから起き上がったりするのがキツい様だ。
それでも何とか自力で立ち上がって病室の一角にあるトイレにいく事ができた。
リハビリの為にも必要だろう。
トイレから出てきた聡は、せっかくベッドから出たのだから売店に行きたいと言った。
売店までは距離がある。
歩けるの聡?
ナースステーションに行って車椅子を借りて来たらいいと隣のおじさんに教わり、借りてきた。
私は車椅子を押すのは初めてだ。
スーパーのカートみたいな物だと思っていたけど案外難しい。
「右、右だよっ…あ行き過ぎっ左っ左!あ~」
ゴンッ!
廊下の手すりにぶつかった。
聡の顔が歪む。ぶつかるとお腹の傷に響くらしい。
「ごめんね。これ難しいね」
「…安全運転でお願いします。」
聡は苦笑いしながら言った。
エレベーターに乗って三階へ。聡はサッカーの雑誌と文庫本を数冊買った。
「前はサッカーしてたんだよ」
ポツリと呟いた。
またフィールドを走りたいんだろうな…
聡、また走れるのかなぁ
その後、隣の売店で私はシャンプーとリンスを買った。
選んでる私の姿を見て
「洗ってくれるの?痒かったんだ」
と嬉しそうに笑った。
「うん。洗わないとペタペタだよ。」
「だよね。あの水無しで洗えるシャンプーだけだと痒いんだよね…」
ついでにお菓子も買おうと思ったけど止めた。
あの科は殆どみんな食事制限があるはずだから。
病室棟には各階の角に入浴設備がある。ちゃんとした浴室。
シャワー室もある。家庭のと違うのは広い事。
介助が必要な人の為に広くなっている。
他の棟には介助用の簡易移動機…クレーンみたいなのが設置されてる浴室もある。
他にも美容院にあるような洗髪台が3つと、流しが何台か設置してある。
私達は洗髪台に行った。
聡を専用の椅子に座わらせてリクライニングさせる。
美容院とかでしてもらう事はあるから、どんな風にするかはだいたい解る。
シャワーで髪を濡らして…あ、付け爪が…痛いかなぁ。
「ちょっと待ってて」
と言い残して売店に髪を洗うブラシを買いに行った。
「お…い」
聡が何か言っていたがすぐ帰るから「待っててね」と言っておいた。
帰ってくると所在なさげな表情で待っていた。
「こうやって寝てるとお腹の傷が引きつって痛いんだよ…起きようとするともっと痛いし…」
「あ…ごめん」
そうか…こういう姿勢は無理なんだ…
髪を洗ってドライヤーで乾かす。
聡の白い首筋を見ると痩せてるのが更によく解る。
この細い首の中に骨とか気管とか動脈とか食道とか筋肉とか…いっぱい入ってるのか…。
聡は満足したらしくニコニコして病室に帰った。
帰りは車椅子の操縦も巧くなり一回しかぶつからなかった。
病室に帰ると聡は疲れたらしく眠ってしまったので私は一人で屋上に行った。
屋上からビル群を見ながら考える。
私のしてることって間違えてないよね…。
しばらく空を見てから指定されたカンファレン室に向かった。
予定より20分遅れてカンノ先生は巨体を揺らしながらやって来た。
「すみませんね…会議が長引いちゃって」そう言いながら汗を拭いた。
挨拶の後で先生にこれから先、私が野原聡の代理人としてやると言った。
先生は私がそういうと喜んだ。
確認書と同意書と言う紙をホルダーから取り出してサインをして欲しいと言った。
聡のサインを貰ったら有効になる書類だったが既に聡のサインはしてあった。
「ああ、これはね、特殊例なんだよね。親戚の人が来られた時に意識がないと同意がとれないからね。
当人の了承は貰ってるから。一応、親類縁者が誰もいなくても病院の方で手続きして決定はできるんだけどね。」
私はよく解らなかったけどサインして住所と携帯番号と名前を書いた。
「じゃ、詳しく説明しましょう。まずこれ見て。」
レントゲンを写す白い壁みたいな物にスイッチを入れてレントゲン写真を貼り付けた。
「これ。わかるかな?白くなってるでしょ?あとここと…ここ。」
黒いもやもやの中に白っぽい影がはっきり写っている。
「胃は前の手術で大半摘出してるんだけどね。
リンパに入ってたのがあちこちに散ったみたいなんだよ。
問題はこれ。
肝臓に深く食い込んでるのと膵臓の横のこれ。
大動脈に当たってるんだ。
…CT画像はこれね。MRIで見ても…食い込んでるかどうかと云うところでね。」
「取れないんですか?」
「動脈に食い込んでるとすると引っ張れば大出血だ。」
短い指を上に向けて弾ける形にしてみせた。
「どうにかできないんですか?」
「…できるならしてるよ。
内分泌の先生や第一外科の先生と相談してもあまりいい話にはならないんだよ。」
「じゃあどうするんですか?!」
「放射線と抗がん剤で叩くか…このままか。」
「叩くって?」
「抗がん剤入れてガンを小さくして放射線で焼くんだよ。」
「なぜそれをしないんですか?」
「どれもが同じ抗がん剤が効く訳じゃないし、強い副作用があるんだよ。
…変な話、
薬の副作用で死期を早める場合もある位なんだ。
あと、野原くん自身が延命を望んでいないんだからね…。」
死期を早めるって…
「…」
何も言えない。
「で、扇さんにお願いしたいのは、延命処置を本当にしないのか。
もし、本当にしないなら、せめて少しでも楽になれるホスピスに入ってみたらどうかと当人に話して貰いたいんだよ。」
「…もし処置しないならどの位まで生きられるんですか?」
先生は小さい目でこっちを見て言った。
「動脈のガンが悪さしないと仮定しても…持って半年だね。」
…え…
来年の夏までは持たないと言うこと…?
痩せて白いけど元気そうだよ。
今は確かにお腹切ったばかりで痛そうだったけど…
嘘だ。嘘だよね…
ポロリと涙が落ちた。
帰ったのは午後8時を回っていた。
事務所はちょうど忙しい時間だ。
今日は素通りする。
話をしたい気分ではない。
そう言えばモモは今日から仕事だって言ってたんだ。
食欲は無かったけどコンビニでサラダを買ってきた。
食べてみるけど味がしない。
自分が死ぬよと言われた訳でもないのに、ツラい。
聡は自分の事、全部知ってるはずなのにあんなに明るい。
弱く見えるけど強いんだな…
私だったらどうなるんだろう…。
日付が変わる頃、部屋にヨウコさんがやって来た。
「電話で体調悪いって言ってたけど具合どう?」心配そうな表情で聞かれた。
「え?…あ、すみません。もう大丈夫だと思います。心配かけてしまってごめんなさい。」
わざわざ心配して来てくれたんだ。
「体調よくなったのならいいのよ。」
そう言ってニコリと笑った。
「はい…あ、モモはどんなですか?」
「頑張ってるみたいよ。涼は明日はどうするの?」
「夕方から復帰しようと思います。」
そうは言ったけど私、このテンションで仕事ができるんだろうか…
翌朝起きると、モモは隣のベッドで眠っていた。
モモがいつ帰って来たのかも解らない。
余程疲れてたんだな私。
布団の中で昨日の自分の行動を思い返してみる。
失敗だらけだったな。
知らない事だらけだし。
反省。
ちゃんと勉強しなきゃなと思う。
モモを起こさない様に準備して部屋を出る。
午後2時までには帰って来ないといけない。
今日もしなきゃならない事があるんだ。
「鍵?」
「そう。カチャカチャとドアを開ける」
「…それ位は解るよ。でも何でうちの?」
「何か不都合な事があるの?」
「…いや、無いけど…散らかったままだし…」
「聡の着る服が足りないんだし、部屋にもしばらく帰ってないんだから心配でしょ?
あと、退院してから汚い部屋に帰るの?侘びしいよ。」
「…」
聡は認めて鍵と住所と地図を書いてくれた。
「あのさ、あんまり片付けてくれなくていいからね」
「やっぱり何かあるな?」
「ハハハッ…」
男の一人暮らし、そりゃ色々あるんだろうな。
私は洗濯物を仕掛けて病室に戻り、仕事があるから今日はこのまま聡の家に寄ってそのまま帰ると伝えた。
「涼さん、机の上にノートが出てると思うんだけど今度来るときに持ってきて欲しいんだけどいいかな?」
と言った。
聡の部屋は駅から歩いて15分位の所にあるアパートだった。
二階の聡の部屋のドアを開けると澱んだ冷たい空気が私の横を通り過ぎていく。
1LDKの部屋は私の部屋と同じ位の大きさだった。
居間に移動してカーテンと窓を開ける。
明るい光と冷たいが新鮮な風が部屋の空気と闇を駆逐する。
光の中にうっすらとした埃と思っていたよりずっと綺麗に片付いている部屋が浮かび上がった。
「案外片付いてるじゃない。」正直もっと汚いかと思っていたんだけど。
服を出すのと掃除機を出す為に押し入れを開けたけど、ちゃんと片付いていた…というか、違和感がある理由に気付いた。
物が無いのだ。
最低限の物しかない。
人間は生きて生活すれば必ず生活感が出てくる。
それは要らない物が貯まったり、人から見たらどうでも良いような物が置いてあったり。
この部屋にはそれが無い。
モデルルームの様な、ビジネスホテルの様に暖かさや人の生活の匂いがない。清潔と言うより病室に似ている。
小さなタンスの上に聡と中年の男女とが写っている写真立てがあった。
聡の家族写真だろう。
いつの物かは解らないが、この写真を撮った時にはこの三人とも今の様な状態を誰も想像しなかっただろう。
にこやかに笑う三人が寂しかった。
掃除機を掛けて拭き掃除をして気付いた。
聡は自分で片付けたんだって。
もし自分が帰って来れなかった時に誰が来ても恥ずかしくない様に片付けたんだ。
聡が部屋を片付けてる姿が見える気がした。
電話の留守電ランプも点いていない。
聞く必要はないという事なのか。
机の上のノートを持って帰る様に鞄に入れる。
大型のビニール表紙の厚いノートだ。
中を見ると日記の様だが人の日記を黙って読むほど人間腐ってはいない。
戸締まりをして部屋を出る。
駅まで歩きながら聡はどんな気持ちで部屋を片付けたんだろうって考えてた。
その日から私の日常が変わって行った。
今までの生活に聡の時間が組み込まれた。
一週間もするとパターンの様なものが出来てきた。
朝7時に起きる。モモを起こさない様に準備をして部屋を出る。
近くのバス停まで行ってバスで移動。駅で乗り換えて病院に行く。
タクシーだと20分位で着くがバスだと1時間はかかる。
だけど値段は三分の一で済む。
時間的にラッシュと重なるのでバスは満員だ。
9時半に病院に着く。
ナースステーションに寄ってから給湯室にある電子レンジで蒸しタオルを作って聡の病室に行く。
病室のみんなに挨拶してからカーテン閉めて聡の服を脱がして蒸しタオルで体を拭く。
清拭は看護師さんが夕方してくれるらしいが、夜中に汗をかいている様だったから。
洗濯物を回収してから洗濯へ。
売店でスポーツ新聞と日刊紙と牛乳二本を買って病室に戻る。
隣のベッドのおじさんにスポーツ新聞、向かいのお爺さんに日刊紙、アフリカの青年には牛乳を一本渡して、それぞれ代金を受け取る。
私は牛乳を飲みながら聡と話をする。
その時に聡の体調を伺う。
それからリハビリ兼ねての散歩に出る。
お昼前に洗濯物を回収して畳み、聡や他の人達の必要な物を聞いて病院を出る。
病院で手に入らないものは帰りに買い物して翌日届ける。
同室の皆も身よりがない、若しくは来れない人ばかりの様だったので私が代行だ。
帰りに駅から歩いて聡の家に寄って掃除と片付けをしてから事務所に出る。
着替えて化粧して予約をこなす。
夜10時を目安に上がり、精算してからシャワー浴びて寝る。
毎日がその繰り返しになった。
聡は日に日に手術後の傷口も良くなり少しづつだけど元気になっているように見えた。
二人とも、聡の体の中では怪物が息づいているのは知っていたが、どちらもその事については口にしなかった。
今は目の前の事で一喜一憂してるだけで手一杯。
先を見る事なんてできない。
先には明るい未来がない事が解っているのだから、わざわざ暗い未来を先に見て落ち込む事はない。
点滴以外にも医療用高栄養ドリンクを飲める様になって喜び、歩いて売店に行ける様になって喜んだ。
なんでも無いことができないって大変な事なんだなと思った。
私が病院通いを始めて二週間程してカンノ先生から話があるとナースステーションで伝言を受け取った。
聡ではなくて私に、と言うから気が滅入る。
聡は今、処置室にいると言われた。
荷物を置きに病室に行くと同室のみんなが複雑な表情をしていた。
「昨夜痛がってね。普通の鎮痛剤が効かなくて運ばれて行ったんだよ。」
と隣のおじさんが教えてくれた。
カンノ先生は約束の時間より早く来て待っていた。
席に着くとすぐ先生は話はじめた。
「昨夜遅くなんですが、痛みが出ましてね。今、まだ処置室なんですよ。あ、心配いりません今は眠っています。」
「なんで痛みが…」
「末期の場合は痛みは色々な形で現れますが、殆どの場合、痛みから逃げる事はできないんですよ。
野原さんの場合は腫瘍が神経に当たっているのが原因です。」
「…」
少し良くなって元気になっているように見えてもやはり怪物は聡の中で虎視眈々と暴れる時を待っているんだ…。
「麻酔科の先生にお願いして取り敢えず痛みは止めてるんだけどね。…話難いんだけど、今の薬が効かなくなるのも時間の問題なんです。そうなると医療用麻薬を使う事になる。」
「麻薬…」
「モルヒネです。使うとボーっとしてしまって話もできるかどうか…。血管にも影響があるから、野原さんは動脈の腫瘍の事もあるし。モルヒネも段々量が増えるし…」
「…」
「でね、うちの病院では麻酔科がペイン…痛みをとる係なんですが、基本的にそれだけだと治療にならないんです。」
「?」
なんだか含みのある言い方…
「…病院はね、治療をするのが基本なんです」
カンノ先生は顔を上げて小さな目で私を見ながら続けた。
「…ホスピスか長期療養型の病院への転院をお願いしなきゃならないんです。」
変な沈黙が広がる。
「…痛みを取るのは治療じゃないんですか?」
「治療に関して言えば痛みを取るのは治療なんですが、それは患部を治すのが大前提なんです。」
「治す気がないなら病院を出ていけと言うことですか!?」
先生は目を臥せながら言った
「…ホスピスはそれが専門だから野原さんにとっても良いんじゃないかと思うんですがね。
探すのが難しいならこちらでも幾つか探してみますから、二週間を目安に検討してください。
その件を当人と相談して頂きたいのです。」
私は何も言えなかった。
カンノ先生は「ではそういうことで」
と言ってそそくさと部屋を出て行った。
どうやって聡に話したらいいんだろう…
その日は病室に寄らずに帰った。
仕事までまだ時間がある。
部屋にはモモがいるかもしれない。
私は部屋には帰らず屋上に上がった。
一人で少し考えたかったから。
屋上は冬の日差しがキラキラとしていて腹がたつくらい明るかった。
給水タンクの下のコンクリートの基礎に腰掛けてタバコに火を点ける。最近殆ど吸っていないからクラクラする。
煙を糸の様に吐いてる自分に気付いた。 やっぱり私、イライラしてるんだ。
でも、聡にどんな顔して、何て言って、死ぬのを待つだけの施設に送らなければならないんだろう…。
聡がどんなに苦しくても生きていて欲しい。
ツラい治療でも耐えて欲しい。
私も頑張るから…
「涼さん」
振り向くとクマさんが立っていた。
「ああ、大熊さん。」
「そこ特等席だろ。」
「はい。あ、大熊さんの指定席ですか?」
「構わないよ。」
クマさんは隣に座ってタバコに火を点けた。
「涼さん最近変わったな。」
「解りますか?」
「ああ。それに、悩まなきゃここにゃ来ないだろ」
そう言ってニヤリと笑った。
「…」
「話し聞くだけなら聞くよ。知っての通り無口で口下手だからな。」
私は疲れていたのかも知れない。
誰かに相談したかったのかもしれない。
聡との出会いから今日先生に言われた事まで全部話してしまった。私は話の途中から泣いてしまったが。
クマさんは黙って聞いてくれたが話が終わるとゆっくりと口を開いた。
「涼さん、厳しい事言うけどよ、聡ってのは、あんたの何なんだい?」
「…何って…」
「親でも兄弟でも恋人でも友達でもないよな。身よりが無くて可哀相だからか?」
「そんなのじゃないですっ。間柄の問題じゃない…可哀相だからとかとも違うっ。」
「じゃ、何なんでだ?
人は何かを期待してしか行動しないものなんだよ。
あんたは何を彼に期待してるんだい?」
「…期待…元気になって欲しい。」
「元気になってあんたのそばから居なくなってもいいのか?」
「…」
「博愛主義はいいよ。みんなに愛情をってな。
でもな、一部の聖職者でなけりゃ難しいぜ。
下手すりゃ犠牲だけ背負わされるんだ。あんたそれで満足かい?
あんたはそいつが好きだからやってるんだろ?
良くなって一緒になりたいんだろ?もし、そう思わないならそれは単なる一時に浮かんだエセヒューマニズムだ。
辞めときな。良いことにはならんよ。」
「エセヒューマニズム…」
「『こんなに優しくして尽くしてる私って素敵』ってやつさ。自分に酔ってるだけだ。」
「…」
「違うと言い切るなら、余程できた人間なのか、自分を偽ってるからだよ。
自分のついた嘘は嘘だって自分だけは解ってるからな。
いつかは覚める。覚めたらツラいぜ。」
「私は…あの人の事好きです。一緒に生きていきたい。…だけど相手は生きられない。好きだと言っても続けられない愛情って伝えると重荷になるかもしれない…。
せめて生きてる間だけでも…」
「だったらみんなそうだよ。みんないつかは死ぬんだから。
愛情もなく、義務や自己憐憫に浸りつつ、何十年も一緒にいるより、愛に充実した3日間の方がずっといいと思うぜ。」
「愛してもいいのかな…」
「俺はいいと思うがな。
そうでなきゃならないだろ。
その分、後悔しない時間にしたらいいんだよ。
中途半端な考えで手を伸ばしたら相手はもっとツラい事になる。」
「…」
「だからよ、腹括って気合い入れてやるならやりなって事だ。
ツラい事がある度に凹むのは気合いが足りねぇんだよっ。
愛するってのは相手の清濁合わせ飲む気持ちでやんな。
いい所だけ吸っても悪い所だけ吸っても後に良いことにはなんねぇよ、
伝えにくいのは解るけどいつか誰かが伝えなきゃならないなら、相手の事が一番好きな自分から伝える位の意気込みがねぇと。」
ショックだった。
そういう考えもあるのか…
甘い考えの自分に喝を入れられた気分がした。
確かに聡の人生に荷担した。
でも自分はいつも一歩退いていたかもしれない。
面倒を看るだけ。
そばにいるだけ。
いつでも離れられる位置にいたかもしれない。
何故なら相手には未来が無いと心のどこかで思っていたからなのか…。
「深く考えんなよ。ストレートにイージーにさ。二人が一緒に笑顔になれる回数が増えること。
それが一番。」
「笑顔…」
「そう。後悔しないようにな。
…後から思い出した時、相手の笑顔が浮かんできたら、
相手もきっとそう思ってたって事だろうよ。
だからよ、そいつの残りの人生が笑える様に力一杯、手助けしてやりゃ、あんたもそいつも御の字なんじゃねぇかな。」
「お互いに笑える…」
「…つまんねぇ事言っちまったな。ごめんな忘れてくんな。
じゃ、涼さん、自分仕事があるんでお先に。」
クマさんはさっさと屋上から降りて行った。
…ストレートにイージーに力一杯、笑顔で。
私の中に何かが見えた気がした。
翌日、いつも通りに病院へ行く。ナースステーションでカンノ先生に伝言を渡してくれるように頼んだ。
『ホスピスを自分でも探してみますが、探すポイントがあれば教えて下さい。
見つけ次第、野原と話をしたいと思います』と。
病室に入るといつものベッドに聡がいた。
顔色がいつもより白っぽい。
「涼さん、昨日はごめん」
私がそばに行くとそう言った。
「涼か涼子でいいのよ。私も聡って呼ぶから。具合どう聡?」
「なんだかくすぐったいな。名前で呼ばれると」
そう言って聡は笑った。
笑ってはいるが、やはりまだ具合は良くない様だ。枕から頭が上がらない。
「良かったな。涼さんが来てくれて。こいつここに帰ってきてからずっと涼さんの事しか言わねえからさ」
隣のベッドのおじさんが笑いながら言った。
「リョウサン キョウハキテクレルカナァー」
斜め向かいのベッドの外国人が聡の真似をして言ったので聡以外の部屋の4人は大笑いをした。
聡は真っ赤になっていた。
こんな明るい環境に聡を居させてあげたいなぁと思った。
隣のおじさんは地方からの出稼ぎでこっちに来ていたが『胃が壊れた』と言うことで入院して手術したそうだ。結果は悪くない様だが年明けまではいると言っていた。
向かいのおじいちゃんは元教師。大腸癌。
進行が遅いので持病の糖尿病の具合を待って手術だそうだ。
斜め向かいの外国人は国費留学生。馴れない日本の生活でストレス性の十二指腸潰瘍を起こして入院している。
みんな色々大変だ。
だけど同病相憐れむと言うことなのか、年齢も職業も国も違うのに仲が良い。
午前9時の検温の後、みんなまちまちな時間の過ごし方になる。
今日はおじいちゃんは内分泌科の定期検査で隣の診療棟へ。
おじさんは買い物。留学生は国際電話をしに行った。
私は聡と二人になったのを確認して話しかけた。
「ねぇ聡。私がこうしてそばに居るのは迷惑かな?」
「そんな事ないよ。涼さん…涼には感謝してる。」
「…」
言わなきゃ…言わなきゃ…
思ってるのに声が出ない。
「…最期まで一緒にいて欲しい。」
えっ?
「彼女になって欲しいとか一緒になりたいとか思わない。こんな体だから。
だけどそばに居て欲しい。わがままだって解ってるけどさ。」
聡はそう言って目を閉じた。
「…聡…」
「僕は涼に会うまで生きるなんてどうでもいいと思ってた。
生きたいとも思わなかった。
最初の手術は仕方ないと思ったけど再発して治療止めたんだ。無理して我慢してまで生きてる意味なんかないって。
だから止めたんだよ。」
「…」
「けどね、今は生きていたいって本気で思う。
涼に会えたから。
…もう遅いんだけどね。」
「…私も聡と一緒に居たい。
本当は私から言おうと思ってたの。
一緒に居てって。」
聡の顔が歪む。
私は泣いていた。
「もう間に合わないかな…」
私はついその言葉が口から出た。
どうにか間に合って…また元気になって欲しい。
私の強い想いだ。
「解らない。多分間に合わないよ。何度もきっぱりと断っちゃったから…」
隣のおじさんが病室に帰ってきたが私たちを見てそのまままた出かけて行ってくれた。
「泣いていても始まらないよね。どちらにしても早く決めないと」
私は無理に明るく言ったが泣きながらなので何だか変になった。
その後二人で手を握りながら泣いた。
翌日、聡を車椅子に乗せて院内散歩に出た。
聡の希望で屋上に行く。
冬にしては暖かい日差しが二人を包む。
下には冬の穏やかな街が広がっている。
実際には年末が近づいている街はみんな忙しく走り回っているのだが、この位置からだと穏やかに見える。
聡の病状にも似ている。
痛みが無いときはこのまま治るんではないかと思う位元気に見えるけど中は悪魔が触手を伸ばし続けているのだから。
「…カンノ先生からね、今後の事を相談して下さいって言われたの。」
「ホスピス?ああ…何回か直接言われたよ。」
「…ホスピスってどんな所なんだろうね?」
二人とも資料は読んだのでどんな所かは知識としては解っているけれど、果たして治療や環境は具体的にどうなのか解らないんだ。
「…話はケースワーカーの人に聞いたんだよ。
専門医が居て、痛みを取ってくれるだけらしい。色々と自由らしいけどね」
まだ外出許可は出そうもないし…
「…私見てきてあげる。カンノ先生に頼んでみるよ。」
私が見に行って来よう。
それしかない。
パンフレットだけじゃ判断できないし。
私はカンノ先生に面会の予約を入れた。
翌日会ったカンノ先生にホスピスの話をすると
ホスピスの見学の電話を入れてくれた。電話を切った後で先生は言った。
「あのね、野原さんの事なんだけど、治療は間に合わないと思う。
だけどうちが投げ出す訳じゃないからね。
野原さんが僕の患者であることに変わりはないから。
うちではまだ手術後だから外出や外泊の許可は出してないけど、転院になっても不安だったら、僕にに連絡してね。
ホスピスの先生とは連携して診ていく予定だから。」
先生は一旦、目を伏せてから続けた。
「…再発直後なら治療も間に合ったと思うんだけどね。若いから進行が早くて。」
私ともう少し早く出会っていたら良かったのかな…
そう思うと悔しい。
タクシーは病院から30分位で着いた。
山沿いに建つマンションの様にしか見えない。
看板も何も出ていない。
敷地に入るとパジャマ姿で散歩している人がいた。
「やあ、いい天気だね。」
いきなり声を掛けられてびっくりした。
「そうですね…」
「見たことない人だな。
この辺りは空気が綺麗なんだよ。
だから街からいくらも離れてないけど星も綺麗に見えるんだよ。」
にこやかに話をしている。
ちょっとテンション高すぎる感じはするけどごく普通だ。
パジャマ姿でなければこの人が病人とは思えない。
「オオタさんここに居たんですか。お薬の時間ですよ。」
振り向くとピンクのポロシャツの若い女性がニコニコしながら立っていた。
「ああ、もうそんな時間か。美人に出会ったからさ。」
「良かったですね。綺麗な方に会われて。」
そう言って押してきた車椅子にオオタさんを載せた。
「ご面会ですか?」
私の方に向いてそう言ったのでやっとその人が職員だと解った。
私はカンノ先生から貰ってた封書をその女性に渡した。
封筒の裏の病院の名前を見るとすぐ解ったらしく、どうぞご一緒に。と言って建物に案内してくれた。
建物までには小さいが噴水や花壇、ハーブ園まであった。
車椅子のオオタさんの説明を聞きながら歩いた。
建物に入るとホテルのフロントの様な所があり、さっきの女性職員が他のブルーのポロシャツを着た男性職員が手紙を引き継いで私をロビーのソファーに案内してくれた。
しばらく待つとグリーンのポロシャツの人が現れた。「医師の岡野です。」
名刺を渡して挨拶してくれた。
医者に見えない。
若い。長髪で顎にヒゲを生やしている。
驚く私に
「驚いたでしょ?医者には見えないもんね。まぁそう見えない様にしてあるんだけどね。」
そう言って笑った。
向かいのソファーに座って手紙を読んでいたが、読み終わると
「見学ですね。えと…自由に見て頂いて結構ですよ。」
「…いいんですか?」
「ええ。いいですよ。ここのみんなは穏やかですから。
ただ、ここでの注意点は頑張れと言わない事です。」
「え?」
「みんな充分頑張って来た人たちですから。これ以上頑張らない事です。
ゆっくりと充実した時間を過ごしてもらうのが目的ですから。だから医者も看護師もみんなポロシャツです。呼ぶときはこの名札の名前で呼んで下さい。」
「…」
私は頷いた。
そうか頑張ってきた人たちが最期にゆっくりとした時間を過ごすためにここに来てるんだ。
「自由に見てもらって帰るとき…いや、お昼を一緒に如何ですか?12時過ぎに食堂でお会いしましょう。」
そう言って岡野先生は去って行った。
私は他のスタッフが持って来てくれた名札を着けて院内の見学に出た。
一階はメインの事務所や処置室や食堂、ロビー、歓談室、娯楽室、大浴場まである。
二階と三階にはスタッフカウンターという事務所と病室がある。
四階はクラブ室という多目的な部屋が幾つかある。
部屋の扉に『手芸部』とか『絵画部』とか書いた紙が貼ってある。
中では何人かが作業をしていた。
死を待つだけの建物のはずなのだが明るい。
建物の造りが明るいと言うだけではない。
スタッフも患者も明るい。
あちこちで笑い声が聞こえたりする。
最期を前向きに受け取った人は明るく今を楽しめるのだろうか…
庭へ出てみる。
散歩道が作ってある。植え込みの中を歩いて行くと、違和感のある表示。
『喫煙所』という看板がある。一緒に併設された敷地図には喫煙所が建物の中を含めて四カ所もある。
四阿風な喫煙所には既にひとりの患者が居た。
「姉さんも一服かい?」
そう声を掛けられた。
パジャマを着た痩せたおじさんだ。変わっているのはパジャマが真っ赤だと言うことだ。
散歩だと何だか言いにくくて
頷いて向かいのベンチに座った。
カバンからタバコを出して吸うと向かいのおじさんはニコッと笑った。
タバコ吸いは変な連帯感がある。タバコを吸う相手は何だか仲間な様な気がするのだ。
「見かけない顔だな。付き添いかい?」
「はい。…まだこれからなんですけどね。」
「そうか。ここはいい所だよ。死ぬ気が無くなる。君みたいな付き添いが居てくれたら俺ももっと長生きしようと思うんだがな。」
そう言って笑った。
「俺さ、元業界人なんだよ。田舎から出てきてプロデューサーにまでなってさ、『○○の伝説』とか『○○の月』とか、聞いたことない?ある?嬉しいなぁ。あのチープロ…チーフプロデューサーだったんだよ。
※※ちゃんとかグループの※※とか仲良くてね。
遂に映画にって所で、病気になっちゃってさ、最初の内はみんな来てくれるわけよ。
『大丈夫ですか?』
『早く良くなって下さいね』
とかね。
でもね、現場離れて一年もしたら誰も来ないんだよね。自分の役に立たない奴はどうでもいいんだろうね。
俺、遊び過ぎて、嫁さんも居なかったから誰も来ない。
親もさ、地元で入院してるから言えないじゃん。
多分まだ元気で仕事してると思ってるんだろうな。
何だか虚しくてさ、入院してた大学病院を無理やり抜けて、全部捨ててここに入ったんだよ。
…そしたらさ、逆に死にたく無くなるんだよね。困ったもんだ。
もう半年ここでフラフラしてるんだ。」
そう言って笑った。
私は何も言えなかった。
「…ごめんねぇ暗い話で。でもさ俺はそんなに凹んでないんだよ。
○○テレビが苦戦してるんだって聞くと今でも俺が番組作りゃひっくり返せるのにって思うよ。
だからさ今、自分で脚本書いてるんだよ。最期に一花咲かせてやろうってさ。」
「どんな話なんですか?」
「番組になったら見てよ。泣いちゃう番組作るからさ。ハンカチ用意しといてよ。
ああ、言って無かったね。
寺田って言うんだよ。
覚えておいてよ。」
そう言っておじさんは手を上げて帰っていった。
私はしばらくひとりでタバコを吸って寺田さんが言ってた事を思い返していた。
派手な世界にいたぶん、虚しいんだろうな…。
私もゆっくりと建物に帰った。
食堂の前に岡野先生が立っていた。私を待っていてくれた様だ。
「食事はどこでも食べる事ができます。部屋でも外でもロビーでも。事前に言ってもらえれば付き添いの方1人まではこちらで準備できます。
勿論出前でも持ち込みでも自由です。
唯一アルコールだけは禁止です。
痛み止めが効かなくなる事があるので。」
先生はそう言って私にトレーを渡してくれた。
ビュッフェタイプで好きな物を好きなだけ食べれるのだそうだ。
食事の後、経費の事を聞いた。ここはモデルケースとして自治体から予算補助が下りているので保険で治療…痛み止めや入院等は賄えて、ベッド代と食事代の差額を払えばいいらしい。
治療が少ない分、安いらしい。
今は運営テストなので提携病院からの紹介のみなのでベッドに空きはあるという。
帰って聡と相談しなくては…
先生と話を終えると病院には寄らずに事務所に帰った。
仕事の時間があったから。
夜、仕事がひけると、久しぶりにモモと時間が合ったので一緒にご飯に行った。
最近変わったねとモモは言った。
やはり変わったんだろうな。自分でもそう思う。
髪も簡単に括るだけだし、付け爪も止めた。
ピアスももう塞がってしまった。
毎日が早く過ぎて行く。
あっと言う間だ。
モモも毎日忙しいみたいだ。吹っ切れたら気が楽になって明るく接客対応できるらしい。
明るく対応できると次も呼ばれる事が増える。
いい循環になっている様だ。
帰りにコンビニに寄って売上を入金する。
久しぶりに残高を確認する。
650万と少しあった。
普通の女の子なら何が買えるか悩むだろう。
今までの私なら何の感慨も思いも無かっただろう。
でも今は違う。
聡の入院費がどの位かかるのか計算してる私がいた。
翌日、病院に行って散歩に出て、私が見てきたホスピスの話をした。
「ねぇ涼、涼ならそこに入るのがいいと思う?」
「うん。…なんて言うのかなギスギスしてないのよ。ゆっくり時間が流れるっていうのかな。」
「じゃあ僕、そこに行くよ。回診の時に先生に言うよ。」
「…うん。」
私は複雑だった。
確かにいい施設だし、環境も良さそうだ。
だけど…だけど、聡の…最期の場所として相応しいのかどうか解らなかったんだ。
病室に戻る途中で
「ねぇ聡、夢ある?」
と尋ねてしまった。
言った後でしまったと思った。
死期が近づく人に夢を聞くのがどんなにツラいか考えなかったから。
でも聡は何でも無いように応えてくれた。
「夢かぁ…。あるよ。涼は?」
「私?私の夢ね、今の仕事始める時にオーナーと面接があったのよ。その時に咄嗟に『オーロラが見たい!』って応えたのよ。子供の時に見た絵本の挿し絵を思い出してね。
今は…聡と一緒にいれる事。…かな。」
「オーロラかぁ…。
僕の夢はね、どこかに涼と旅行に行きたいという事だったんだ。
…一緒にオーロラを見に行くことを夢にするよ。」
「じゃ、まずは元気にならなきゃね」
「そうだね。」
返事をして聡はニコッとして頷いた。
ホスピスに入る患者との会話とは思えないが、私たちには重要な会話だったと解るのは後の事になる。
「レントゲンとカンノ先生の所見を見させてもらいました。」カンノ先生に移動する話をしてから4日後、病室の三人と別れを告げてホスピス『ブルースカイ』に移動した。
同室の三人とも残念そうだった。
元気に退院なら素直に喜んでもらえたのかもしれないが、行き先がホスピスだと聞いて三人とも複雑そうだった。
ブルースカイの治療室での三者面談の席だ。
「…思ったより進行は進んでいないようですね。大きな痛みは一回だけですね。
…いつも多少は痛いと思うんですよ。
…ほら、見えますか?腫瘍が神経のそばまで来てますよね。
今は鎮痛剤ですが…進行したらモルヒネを使いましょう。
…痛みが少ない時は何をしてもいいですよ。
但し、動脈そばの腫瘍があるので激しい運動は禁止です。いいですね?」
岡野先生はそう言ってニコッと笑った。
もしかしたら聡治るんじゃないかと思うような笑顔だった。
「先生あの…旅行とか行けますか?」
おずおずと聡が聞いた。
「どこへ行きたいの?遊園地はダメだよ。あと自転車とかヒッチハイクとか。遠出もなぁ…何かあった時がね。」
「一泊二日で温泉とかは?」
「温泉はダメ。血流が急に変わると動脈が…。」
「旅行は無理かなぁ…」
聡はがっかりしたように言う。
「例えば車使って水族館とか博物館とかならいいよ。但し、容態が安定してる事と痛み止めの薬のチェックをしてからね。」
先生はそう言った。
それを聞いて聡は嬉しそうに笑った。
制約は多いけどちょっとだけなら出られそうだ。
私たちはそのまま病室に移動した。
部屋はホテルの個室に似ていた。
広いトイレとエキストラベッドとして使うソファーベットが置いてある。
白い壁に品のいい風景画。空色のカーテン。
部屋だけ見ると病室とは思えない。
「エキストラベッドがあるよ。これでお泊まりできるね」
私は嬉しかった。
この部屋は差額が必要な個室だ。聡は通常の4人部屋で良いと言ったが私が強硬に個室を主張した。
支払いがキツくなるから私も払うつもりだ。
こうでもしないと二人で泊まる事ができないから。
時間を気にせず話もしたい。
話をしなくても一緒にいるだけでもいい。
そういう思いの私には人の目を気にしなくて良いというのは精神的にかなり楽なんだ。
入院初日の午後からは、痛み止めの適合検査があるので私は仕事に行く事にした。
『ブルースカイ』に変わって事務所からの移動距離は病院からと比べてかなり延びた。
最寄りの駅まで電車で5駅、乗り継ぎの悪いバスに乗って30分は掛かる。公共交通機関を使うと60分で750円。
タクシーだと30分、五千円。
…やっぱり時間が掛かっても仕方ないよね。
免許を持ってたら良かった。
今から免許を取りに行く時間はない。
午後から仕事をこなす。
夜部屋に帰る。
心身共にクタクタだ。
でも明日も早起きしなくてはならない。通う距離が遠くなった分、聡との時間を今まで通りにしようと思うと睡眠時間を削るしかない。
私は寝るまでの少しの時間、考え事をした。
仕事辞めようか…。
聡に付いていれるのは限られた時間だから。
午後から深夜まで仕事して早朝からお昼までは看護だと保たないかもしれない。
…それに…大切な人ができたのに自分の性を売り物にした仕事を続けている自分ってどうなんだろう…
一番キツい時期をこの仕事で乗り切ってきた。悪くいうつもりも思いもない。
しかも私は何の資格も素質もない。
最近まで生きてる資格すらないと思っていた。
はたして私の様な人間がどこか他で仕事ができるのだろうか?
アルバイトすらした事のない私が…
考えている内に眠ってしまった…。
翌日から、よりハードな日々が始まった。
大変であっても聡の現状を思い浮かべたら頑張れる。
通勤時間と重なる電車は混んだ。気分が悪くなった頃に目的の駅に着く。
バスは通勤とは逆方向だが途中までは通学の学生で騒がしく、学生が降りてからの僅か10分程度がやっとホッとできた。
到着して聡の部屋に行き、挨拶してから洗濯。
終わると聡と散歩。
痛みが無いので歩きだ。
他愛のない話で盛り上がる。
食欲もあるとの事なので早めに二人で食堂でご飯。
お豆腐が嫌いという聡に消化もいいしタンパク質が採れるんだからと無理やり食べさせた。
私にできることはこんな事位だから。
聡が病院にいた頃と何ら変わりのない看護と付き添いだ。
ただ、ここでは時間がゆっくり流れてる気がした。
それは廊下を走る看護師がいないから、院内アナウンスが聞こえないから、消毒液の匂いに押しつぶされそうになったりしないから…だけではない。
人がみんな落ち着いているように感じるのだ。
それは生死の問題から切り離された人達の集まりだからなのか。
抵抗をやめ、今をありのままに受け入れた穏やかな人達のオーラの集積なのか…。
人によっては生きるという現状から目を背けて死を待つという負の面を良しとはしないだろう。
しかし崩壊する世界の中で、その破片を必死にかき集めるのではなく、崩壊してしまうまで元の世界を心に描き続ける生き方は周りで思うより穏やかで豊かなのかもしれない。
聡も穏やかな時間の中に身を委ねる環境にあったのだけれど、聡はそれをストレートに受け止めはしなかった。
あまりに平和な生活が続くとその生活とは違う世界を求めたくなる様に。
平たい言い方をすれば自分の居場所を見つけたからか、それを基盤に自分のしたい事、できる事を積極的にする様になった。
それは元業界人の寺田の様に、何かしなきゃと思えるのかもしれない。
痛みの少ない日はバスに乗って近くの本屋に行ったり、マックに行って食べたり、DVDを借りてきたりした。
先生の指示で痛みを経口の鎮痛剤でコントロールしながら外出できる時間を少しずつ延ばしていた。
私も聡と居る時間を少しでも延ばす為、仕事を夕方~深夜にズラした。
仕事時間が減る分、顧客も減る。
贔屓にしてくれていた客も自分のサイクルに合う女の子に切り替えたか他の店に鞍替えしたらしく、予約も減ってきた。
寝不足が続いて体がキツくなってきたある日、私は決心した。
ヨウコさんに言う事にした。
辞めさせて欲しいと。
そう言うと、ヨウコさんは思ったよりあっさりと
「そう…」と言った。
でもすぐ笑顔になって
「辞めれる状況になったのね?良かったじゃない。」
と言ってくれた。
その笑顔を見てチクリと胸が痛んだ。
…良い状態で辞めるわけではないのだから…
私の表情を見て察したのか
「…もし違うなら話を聴かせてくれない?
何か訳ありでしょ?
モモちゃんが心配なんだって先週、言って来たわよ。」
そう言ってくれた。
本当の事を云わなくちゃいけない。
ヨウコさんに助けて貰ってからずっと過ごしてきたこの店から追い出されるか、ヨウコさんに嘘をついていた事で嫌われるかもしれないが…
私は一つ息を吸うと聡との出会いから今日までの話をはじめた。
ヨウコさんは、最初ちょっと驚いた様な顔をしてたけど、うんうんと頷きながら聞いてくれた。
話終わると
「後悔しないように今は頑張るしかないわね。」
と言った。
「…」
何も言えない私
「じゃあ、こういうのはどうかしら?辞めなくてもいいわ。あなたが来れる時だけ来てくれたらいいって事で。」
「…いいんですか?」
「…あたしのね、お父さんってのが癌でね、当時学生だったあたしは病院にも殆ど行かなかったのよ。
最初の内は良く通ったんだけど行く度に痩せて弱っていく父親を見るのがツラくてね。
だから部活だとか勉強だとか言い訳して行かなかったのね。
父親は半年入院して逝っちゃった。
後から後悔したわ。
私が行かなかったのを父親はどれだけ悲しく思っただろうって思ったらね…
涼ちゃんにはそんな想いさせたくないの。
勿論、聡くんが元気になってくれたらいいなと思ってる。
だけど涼ちゃんの言うようにもしダメだったら、今してあげないと後悔するよ。私に出来るのは涼ちゃんが戻れる場所を空けておいてあげる事位なのよ。」
「…ありがとうございます。」
ヨウコさんはにっこり笑って頷いた。
私は事務所の部屋を引き上げる事にした。
そこまで甘える訳にはいかないから。
引っ越し先は聡のアパート。
あそこなら病院まで近いし、家賃払ってるのに誰もいないのは勿体ない。
私の考えた理由に、もうすぐクリスマスと正月が来ると云う事もあった。
二人きりで過ごしたいから。
…聡に一時退院の許可が下りたらということだけど。
あまり考えたくはないが、もしかしたら二人きりで過ごせる年末年始は最初で最後かもしれない。
ヨウコさんの計らいで引っ越しはマルちゃんが手伝ってくれる事になった。
電化製品や家具の大半は置いていくので大きめなバッグに2つとダンボール三箱だけが私の荷物だ。
ヨウコさんがまるちゃんに頼んでくれたのは訳があった。
今後は仕事の時には聡のアパートまで迎えに来てもらう手筈になっているから一度来てもらえば覚えて貰える。
だから引っ越しとは言ってもほんの一時間で済んでしまった。
マルちゃんは私のダンボールを抱えて運びこんでんでくれた。
「ひゃぁ、綺麗に片付いてんなぁ。俺の部屋とは全然違うな」
そう言って笑った。
この部屋には極力来て掃除をする様にしているから。
お湯を沸かしてお茶を入れてると
「なんか奥さんみたいだよ」
そう言ってマルちゃんは笑った。
それを聞いたらいきなりポロッと涙が出てしまった。
泣くつもりなんかなかったんだけど、そういう未来は私と聡には無いんだろうなって思ったら、つい…。
慌てふためくマルちゃんに謝って、簡単に聡との事を話をした。
病気の事や病院の事。
ちゃんと話しておかないと憶測が噂になると困るから。
誰にも云わないで欲しいとも伝えた。
マルちゃんは見たこと無いくらい真剣に聞いてくれて、今度見舞いに行くよと云って帰って行った。
私は自分が段々、『隠し事』という殻を脱いでいる様な気がした。
周りに対して隠し事がないと云うのはこんなに楽なんだと知った。
自分を取り繕ったり隠し事をして『自分』を、知らず知らずに演じてたんだなと。
私はモモの携帯に電話をした。
ちょうど移動中だったらしくてすぐ電話に出てくれた。
今夜、話がしたいから一緒にご飯しようと話した。
部屋に帰ったら私の荷物が無くて驚くだろうから、ちゃんと説明しなきゃね。
私は荷物の片付けもそこそこにホスピスに向かった。
引っ越しが終わった事を聡に伝えなくてはいけない。
…こうして私の聡中心の生活が始まったんだ。
目が覚める。遮光カーテンの隙間から冬特有の弱いがキラキラ光る粒子を持った光線が私の顔に当たって目が覚めたらしい。
慌ててソファーベットから飛び起きて聡を見ると聡のお腹の辺りまで光線が届いていたが聡はぐっすりと眠っていた。
良かった。
カーテンの隙間を閉じてソファーベットからゆっくり下りる。
時計は7時前だ。
部屋の奥にある洗面所に入り、洗面を済ませる。
音を立てない様にして簡単な格好に着替える。
聡が起きるのは8時前だ。
聡は薬の効果で沢山眠る。
少しだけど常にどこかが痛いらしく、一度気になるとその痛みが気になって眠れなくなると言った。
岡野先生はそれを聞くと安定剤と睡眠薬を処方してくれた。
おかげで少なくとも夜は痛みを感じる事無く眠れるみたいだ。
私はここに泊まると必ず早起きして散歩に出る事にしている。
小銭の入った煙草ポーチを手に取って病室を出る。
遮音性の高いドアなので開けると廊下のざわめき…談話コーナーにいる患者の話し声やあちこちから聞こえる挨拶の声。
そして、耳を澄まさなければ聞き逃してしまう程小さな音量の音楽…が私の耳に入り込む。
廊下を右に少し進むとエレベーターと階段がある。
私はいつも階段で一階に下りる。
スタッフの詰所と警備室を抜けて正面玄関から外に出る。
建物を右から回り込む様にして庭へ向かう。
初めて来た時に寄った四阿の喫煙所だ。
「よお、涼ちゃんおはよう」
「寺田さんおはようございます。」
最初に喫煙所で会った喫煙仲間の患者の寺田さんだ。
毎朝ここに来て話をする。
「寺田さん、進行具合はどうですか?」
「病気の方なら進展無し。創作活動なら進んでるよ」
そう言ってニヤリと笑った。 寺田独特のユーモアだ。
毎朝、最近の芸能界の裏事情をやカメラ写りの良くなる方法とか、ニューハーフの見分け方とかを教わったりした。
朝の私のブレイクタイムだ。
一本吸ったら寺田さんと別れて散歩を続ける。冷たい空気が漂う庭をぐるりと一周する。
その間に今日しなくてはならない事やこれからの事を少し考えたりする。
部屋に戻るのは8時前だ。
8時になると全館放送で音楽が流れる。
ヴィヴァルディの『春』だ。
題名は知らなかったのだけど患者さんの一人が教えてくれた。
『覚えておくといい。君の年齢ならまたどこかで聴く事のある曲だから』
と言った。
後からスタッフの人に聞いたら元音楽大学の教授だそうだ。
聡が起きると食事に行く。
一階の食堂に向かう。
差し向かいで食事をする。
聡は食べられる量が少ないので一皿だけだ。私はしっかり食べる。
偏らない様に和食と洋食と毎日交互に食べる様にしてる。
食事が終わると聡と一日何をするか話し合う。
具合と天気の状態でその日何をするかが大きく変わる。
良くない日は一日ベットで過ごし、良い日はバスに乗って街まで出たりする。
外出した時には外で何か食べたりする事もある。
外出した日には夕方には戻って岡野先生に一応診察を受ける。
夕食も朝と同じ食堂でする。
食後はDVDを見たり話したりして過ごす。
10時になると聡に薬を飲ませてベットに入れて眠らせる。
泊まりの日、私は聡が寝てから建物内の喫煙所で日記をつけたり、本を読んだりしてからソファーベットで眠る。
帰る日には、夕食が終わった時点でバスで聡のアパートに帰る。
アパートに帰るのは週に2日程だ。
アパートに帰ってもアイロン掛けやお菓子(クッキー程度の簡単なもの)を焼いたり、掃除したり洗濯したりして寝るだけ。
日付も曜日も関係ない生活が始まった。
ホスピスに入って一週間。
私たちは面談室に呼ばれた。
そう。重要な面談の日。
部屋に入ると先生は既に待っていた。
座るとすぐに先生は話始めた。
「先日出てた希望書の件なんだけど、いいよ。」
「本当ですかっ!ありがとうございます。」
「でもね、その前に一度、カンノ先生に診てもらってください。」
「…それは…どういう…」
「ああ、定期的な検診ですよ。
年末までに一度診てもらってください。
ここには大型な機械などが一切ないので。
ちなみに検診は断る事もできるんだけど…まぁ一度診てもらって。
それと新しい鎮痛剤を実践する事。
これがクリスマス外泊…2泊3日の条件です。お正月はまた検討しましょう。」
「はい!ありがとうございます!」
聡は嬉しそうだった。
その日の内に元の病院に電話を入れて翌日の診察の予定を取った。
病院もいっぱいだったらしいが、電話に出たカンノ先生が診察時間外に予約を入れてくれた。
翌日、聡に無理はさせられないからタクシーを呼んで病院に向かう。
病院玄関からは車椅子に乗せた。
歩けるからと言っていたが強制的に車椅子に座らせた。
無駄に体力を使って欲しくなかったから。
検査結果が悪ければクリスマスの計画もダメになってしまう。
「野原くんおかえりー」
何人かの看護師に声を掛けられる。
予約時間前だったので以前の四人部屋に行ってみる事にした。
病室に入ると隣のおじさんだけは居たが後の三人は知らない人に変わっていた。
「よお、色男。帰ってきたか」
おじさんは嬉しそうに言った。
検査に来たと言うと、そうかと言って笑った。
外国人の青年は2日前に本国に帰国し、向かいのおじいちゃんは聡が退院して数日して急変して亡くなったそうだ。
おじいちゃんの笑顔が思い浮かぶ。
カンノ先生の診察が始まる時間が近づき病室を出る時、聡とおじさんは握手をした。
「正月が明けたら田舎に帰るんだ。元気でな。色男、長生きしろよ。あっちの世界でまた会おう」とおじさんが言った。
「はい。僕は遅れて行きますよ。田舎に帰っても無理しないでくださいよ」
そう言う聡は泣いていた。
私も少し泣いた。
「レントゲンでも大きな変化は無いな。
顔色いいみたいだし。あっちの生活が合ってるのかな?」
と言って先生が笑った。
ホスピスの方が良いなんて。笑い事ではない。
私はカチンと来たが悪い意味で言ったのではないと解って気持ちを落ち着けた。
「悪くなってないですか?」
「ああ。変わらずといった所だな。何も治療してないのに現状維持ならいいよ。…但し、良くなってる訳じゃないからね。」先生は釘を刺すのを忘れなかった。
解ってる。
聡の中にいる野獣が少し寝てるだけなんだよね。
…そのままずっと眠っていてくれたらいいのに…
目が覚めた。
腕時計を見ると午前3時すぎ。
なんで目が覚めたのだろうと思った。
今は病室はしんとしている…しんと…
私はガバッと起き上がり聡を見た。息を止めて丸まって汗をかいている。
「聡!」
私はナースコールを何度も叩くように押した。
「どうしました?」
間の抜けた様なナースの声が聞こえた。
「早く来て下さいっ!」
「はい。すぐ行きますっ」
そう言うとカチリとスピーカーが切れた。
「痛いの!?」
汗塗れの額でコクコクと小さく頷く。
「バカっ!なんで早く言わないのよっ!どこが痛いのよっ」
ガチャンと病室の扉が開いて何人も看護師さんと岡野先生が飛び込んできた。
「野原さーん。聞こえる?どこ痛い?」
聡は脂汗をかきながらお腹を抱えている。
岡野先生は看護師に指示して注射を1本打った。
点滴も二本吊した。
「効くはずだ。暫く待って。
…一応次の段階は用意してあるから。」
私はドキリとした。次の段階って何よ?
「夜が明けたら説明するから。」
岡野先生はそう言うと病室を出て行った。
看護師も後処置を終わらせると病室から出て行った。
二人きりに戻った病室は静かで少し動いたら壊れてしまいそうな雰囲気だった。聡の手を握りしめて聡の痛みが引くのを待った。
夜が明ける前に聡の痛みは引いた様だ。浅いが安定した呼吸音が聞こえてきた。
私もそれを確認して眠ってしまったようだ。
その日の午後、聡はレントゲンの検査を行った。
その間に私はカンファレン室に呼ばれて話を聞いた。
「腫瘍がやはり大きくなってるから時折神経系に触れるのと、腫瘍の周りの組織も炎症を起こしてるから痛みが出るんだよ。」
「…痛いんでしょうね」
「ガンの場合、殆どが激痛と云うからね。で、相談なんだけど、二つ選択肢があるんだ。
まずはチューブを留置…えと、チューブを腫瘍のそばに埋め込むという処置をしようかと検討してるんだけど、どう思われますか?」
体外のチューブから鎮痛剤を注射器で送り込むと薬剤が患部付近にダイレクトに入るので効きも早いし確実なんだそうだ。
理論は解るけど聡の体内に何か無機質なモノが入るのには抵抗はあった。でも手術しておけば強い痛みが出た時に早く痛みを取ってあげる事ができる。
私は思った通りに話をした。
段々悪化していくと色々と器具が増えるんだろうかと思うと気が滅入る。
「もう一つは手術しない方法。
まぁこっちの方が一般的なんだけど、そろそろコデイン系や医療用モルヒネを使うという方向だね。」
「麻薬は嫌です。」
私は即答した。
頭に浮かんだのはテレビで見た覚醒剤の中毒や阿片中毒の人。
聡があんな風になるのは嫌だ。
「多分、扇さんは青白い顔で注射器持って、薬を所望してる人想像してるでしょ?
最近じゃそんな風にはならないよ。
副作用も少ないし普通に生活できる…それにね、チューブ入れて、今してる鎮痛剤をダイレクトに入れてもいずれ効かなくなるんだよね。
そうなったらチューブは役にたたないんだ。
個人的には最初から患者さんに楽なモルヒネ系を使った方がベターだと思うんだけどね」
岡野先生はそう言った。
私はすぐに答えを出すのは待って貰うことにした。
モルヒネを使い始めると意識がぼやけて眠ったり記憶が無くなったりする。というカンノ先生の説明を思い出した。
つまり意識や記憶がはっきりしていてちゃんと会話ができるのは今の段階までだという事になる。
しばらくして聡は病室に帰ってきた。
薬でずっとウトウトと眠っている状態だった。
私は聡の手を握って眠る顔を見ていた。
最初に会った日からそんなに経っていないのに聡の頬は痩け、目が落ち窪んでいた事に気付いた。
色の白い顔を見て、さっきの選択肢を決めなきゃいけないと思ったら泣きそうになった。
泣いちゃいけない。
私はそう思って我慢したのにポロリと涙が落ちた。
その夜、私は考え事をしてなかなか寝付けなかった。
「涼…ごめんな」
深夜、聡が目を開けてそう言った。
「目が覚めた?聡、痛かったらちゃんと伝えてね。
私がそばにいるんだからね」
本当は目が覚めた聡に抱きついて泣きたかったけど小言を言うことで感情を抑えた。
「ごめん。昨日はすぐ引くと思ったんだよ。声出そうと思ったら急に強い痛みになって声出なくなっちゃってさ。」
「もうっ!」
そうやって怒ったフリはしてみたものの内心はホッとしてた。
翌日は12月23日。
本当なら今日、一時退院のはずだったんだけど、今回の発作で延期になった。
残念。
聡が一番がっかりしてた。
「仕方ないじゃない。お正月には帰れるわよ。きっと」
そう言って慰めたけど…お正月だってどうなるか解らないよね。
朝の回診で先生に延期を言われて凹んだけど私は頭を切り替えた。
午前中は聡は検査をするという事だったので朝食を食べてから私は一旦ホスピスを出た。
街に出て近くのコンビニに寄る。
目的はおせち料理だ。
時間があったら何品かは手作りで食べさせてあげたいと思ったが、ちょっと難しそうだから。
最悪、病室でも食べれるだろう。
コンビニでの注文は今日までだった。カウンターの上のパンフレットには売り切れのシールが沢山貼ってある。すごい。高い物から無くなってる。
三段で四万もするのも売り切れてる。
おせち料理って高いんだなぁ。
私は三段で18000円のを頼んだ。
…どうにかお雑煮位は作りたいなと思った。
聡のアパートを掃除して買い物してホスピスに帰った。
病室に帰ると聡は眠っていた。
担当看護師に聞いたが今日は痛みもないらしいが処置後からずっと寝ているそうだ。
なんだかまた弱った様な気がして泣けてきた。
夕方、内線が鳴った。
『木戸葉子さんが面会に来られてますが、どうされますか?』
「キドヨウコ? …あ!ヨウコさん!はい。面会お願いしますっ」
ノックを聞いて扉を開けるとヨウコさんがにこやかに笑って立っていた。
「具合どう?あなたは元気そうだけど」
「わざわざありがとうございます。」
聡は目を開けてこっちを見て少しだけ頭を下げた。
まだぼーっとしてるみたいだ。
「聡、あなた直接話した事ある人よ」
「…え?」
「ほら、『僕こういうの初めてなんですけど…』って言ったわよ」
そう意地悪そうに言ってヨーコさんは笑った。
「あ、電話受付の…」
「そうよ。具合どうなの?うちの稼ぎ頭をヘッドハンティングして行ったんだからちゃんと良くならなきゃダメよ」
人差し指を立ててそう言った。
聡は赤くなっていた。
しばらく三人で話していたらまた内線が鳴った。
クマさんが来てるという。
病室に現れたクマさんはヨウコさんに驚いていた。偶然とは重なるものだ。
クマさんは一口カステラを持って来てくれた。
「何か持って行きたいと相談したら、俺のダチがコレ持ってけって。『これ食や元気になるから』って」
恥ずかしそうに黄色い袋を渡してくれた。
聡が礼を言うとさらに恥ずかしそうにした。
みんなで一口カステラを食べた。まだ暖かく優しい甘さで口の中でホロホロと崩れた。
「目の前で焼いてくれたんだよ。まだ沢山在庫あったけどよ、できたてが一番だって。」
本当に美味しかった。
私は嬉しかった。
聡も嬉しそうにしてた。
カステラを一番食べたのは聡だった。
暫く話していたがクマさんは仕事があると帰って行った。
ヨウコさんも また来るわと言って手を振って帰って行った。
「…涼はいい仲間に恵まれて良かったな…」
聡はみんなが帰った後でポツリと言った。
「…安心したよ」
聡はそう言うと眠った。
鎮痛剤の影響ですぐ眠ってしまうのだ。
僕が居なくなっても仲間がいるから大丈夫だねって意味に私には聞こえた。
そう思ったらポロッと涙が落ちた。
明けて翌日はクリスマスイブだ。
私達は病室に閉じこもっていた。
夜には近くの教会から牧師さんと、聖歌隊がホスピスに慰問に来てくれるという事だったので力を温存させておかなくちゃいけなかったから。
「…涼ごめんね。発作が無かったら一緒に部屋で過ごせたのに。」
「気にしないで。それより今夜のケーキ買ってくるわ」
私は笑って病室を出た。
何だか大泣きしてしまいそうだったから…
聡にしたら最期になるかもしれないクリスマス。
泣いて過ごしたくはない。
私はバスに乗って街まで出た。
街はクリスマス一色。
どっちを見てもカップルか家族連ればかりだ。笑顔の人が多い。
みんな幸せそうだ。
…来年でいい。来年がダメなら再来年でもいい。聡と一緒にクリスマスの街を歩きたい。
そういう思いが急に胸いっぱいに広がった。
クリスマスの街並みがブワッと急に滲んだ。
自分が惨めになったからじゃない。
惨めに思うのは与えられたいという想いが強いからだ。
惨めに思って泣いてる位なら自分の力で掴み取ればいい。
例え最終的に届かなくても自分が努力した事実があればきっと何かしら得る物がある。
あたしはそうやって生きてきた。
涙は叶わぬ想いにしがみつこうとした自分に腹がたったのかもしれない。
有名店が外売りでケーキを売っていたので一番小さいサイズのケーキとモスバーガーでモスチキンを2つ買った。
心の波が少し落ち着くまで街の中を歩き回ってから帰りのバスに乗った。
聡が心配してるかな…と思いながら。
その夜は聡の具合が安定していたので、ブルースカイが企画したクリスマス会に参加する事ができた。 聡は車椅子での参加ではあったけれど。
その中で10分位の短い劇があった。
病気で寝たきりの女の子が夢の中で自由に動き、色々な人々に出会って楽しく過ごす。目が覚めると夢で会った人たちがいて体も自由に動き楽しく暮らす…。
文章にするとベタで平たい感じがするし、出演者はブルースカイの職員と患者で素人役者だったけど凄い迫力で圧倒されるものだった。
終わってホールの電気が点いた時、周りでは泣いてる人が沢山いた。
…私も泣いてた。感動した。
ホールの片隅に寺田さんが居た。手には台本みたいなのを持ってた。
私と目が合うとニヤリと笑って親指を立てた。
『どうだい?まだまだやれるだろ?』目はそう物語っていた。
寺田さんがプロデュースしたんだ。
聖歌隊の澄んだ歌声や牧師さんの話も実際に目の前で見たり聞いたりしたのは初めてだったけど心にひしひしと何か伝わってきた。
今まで、こういう会は小学校のクリスマス会位しか参加した事なかったから始まるまでは期待半分だったけど想像の何倍も良かった。
感動してる間に解散となった。
食堂に移動して私たちはブルースカイが準備してくれている食事からサラダや飲み物を持って部屋に帰る。他の患者さんたちは職員と一緒に食事をしたり歓談したりする人も大勢いる。
聡のベットテーブルにケーキやサラダや飲み物を並べて二人で乾杯する。
「僕さ、今日みたいな会初めてだったよ。」
聡が嬉しそうに言った。
「私も。劇も良かったわ。 」
「学芸会みたいなのだと思ってたのに、凄く感動したよ。僕もあの女の子みたいに自由に動ける様になりたいな…」
「…」
「…そしたら涼と一緒にどこでも行けるのにな」
私にですら解った。
あの劇のテーゼが『死』だと言うことが聡には解らなかった訳がない。
あの女の子は死んで自由になれたんだ。
死は恐くない…そういう意味なのに。
聡も解ってるはずなのに。
表面ではそう言っているけど聡は本当はどう思っているのだろう…。
私たちはモスチキンやケーキを食べながら(聡はあんまり食べれなかったけど)、トナカイの話やサンタクロースとコーラの関係の話とかして過ごした。
表面的には楽しい時間を過ごした。
私は聡に何か大事な事を伝えなきゃいけない様な気がしたんだけど、それが何なのか思い出せなかった。
翌朝、早くから起きて上着を羽織っていつもの散歩に出た。
喫煙所に寺田さんがいた。
「寺田さんおはようございます。」
「涼ちゃん、メリークリスマス」
「そっか、今日がクリスマスですもんね」
「街のスーパーじゃ今日からお飾りや餅の販売が始まるんだぜ。昨日まではクリスチャンなのに今日からは神道だ。」
私が笑うと
「日本人てスゴいんだぜ、クリスマスでクリスチャン、除夜の鐘で仏教、初詣で神道、お年玉で儒教…僅か一週間で色々変わるんだ。」
「ほんとだ。凄い変わり身ですね。昨日の劇良かったです。」
「ああ。ありがとうな。言わんとする事は解った?」
「テーゼは死ですか?」
「そう見たか。
あれはな見方で色々と見えるんだよ。
『死んだ先には未来がある』と見れば『死』。
『夢は叶う』と見れば『希望』。
『仲間が居れば例え苦しくても大丈夫』と見れば『感謝』
『夢はいつか覚める』と見れば『現実』
…かな?
まぁ、創るのが10分だからワンテーマでやるのが簡単なんだけど、逆に一部だけ切り取った劇にしたから見方は千差万別。見た人次第だ。
…涼ちゃんはやはり死に対して強い恐怖があるんだな。」
「それは…」
そうでしょ。と言おうとしたら遮る様に
「ここに居る患者はそう見てない人が多いぜ。
なぜなら既に死を自ら受け入れる気持ちになってるからな。
多分、感謝と現実が多いんじゃないかな?」
寺田さんはタバコの煙の行く先を眺めながらそう言った。
解った!だから聡は昨日ああ言ったんだ。表面的じゃなくて本心で言ったんだ。
死を受け入れた聡はあの劇に希望を見たんだ!
「映画の方はもっとすごいんだぜ。完成したら配役に涼ちゃん入れとくから出演してくれよ」
そう言ってウインクして見せた。
「はい」
笑いながら応える
本当にそうなったらいいな。そう思った。
部屋に帰るとまだ8時前なのに聡はベットを起こして起きていた。
「聡おはよ。今朝は早起きね」
そう言うと
「メリークリスマス」
聡はそう言って枕の下から白い包みを差し出した。
小さな包みで赤いリボンが付いている。
「えっ?」
ベッドから起き上がるのもトイレの時ですら大変なのにどうやって…
私は手の中の小さな包みを見てそう思った。
「開けてみてよ」
聡はちょっと恥ずかしそうに言った。
リングがちょこんと入ってた。
病室に差し込んだ朝の光に照らされてキラリと光った。
驚いて聡を見る
「この前さ、涼が僕のアパートに行って掃除してくれてる間に、職員さんにお願いして手伝って貰って、三階の工作室で作ったんだ。」
そう言って照れた様に笑った。
リングを取り出して目の前に持ってきて朝日に翳す。
綺麗な曲面で真ん中に小さなハートが一つ刻んであった。
「…聡…」
言葉が見つからない
「シルバークレイっていうんだよ。粘土細工みたいに作って、オーブンで焼くと銀になるんだよ。…ハハッ、不器用でごめんな」
私の目からハラハラッと涙が零れ落ちた。
それを見てにっこり笑って聡が言った
「泣かないで。さぁ嵌めてみてよ。」
私は滲む視界の中で左の薬指に嵌めてみた。
リングはすうっと入って根元にピタリと止まった。
キツくもなくユルくもない。フルオーダーしてもこんなにきちんとはできない。
「良かった…。サイズ心配してたんだよ」
「…なんで…」
「ああ、サイズの事?
知らないだろ?涼の薬指の太さは僕の小指と同じサイズなんだよ。
この前、涼がうたた寝してる時に僕の指をそばに置いて比べたんだ」
聡の広げた指は細く骨ばっていた。
今まで我慢してた悲しみや苦しみや嬉しさ、虚しさ…いろんな感情がドッと溢れ出したんだ。
私は聡に抱きついて泣いた。
抑えられなかった。
聡は優しく肩に手を回してトントンと叩いてくれた。
「泣かないで」
「…うん」
私たちはしばらくそのままの状態でいた。
お父さんに頭をガシガシされながら誉められた時の気持ち…安心感と幸せに、よく似たものが私の中に広がって行くのが解った。
今まで感情を抑え込む為に作ってた心の壁が崩れていく…
最後になるかもしれないクリスマスの朝、私たちは朝日を浴びながら抱き合った。
メリークリスマス
翌日 雪が舞った。
この時期、この地方に降るのは稀なのだけれど、前日夕方から降ったり止んだりしてた小雨が明け方から雪に変わったみたいだ。
カーテンを少し開くと木々の上に粉砂糖を振った様にうっすらと白くなっていた。
私は聡を起こさない様に病室を出た。
聡は明け方になってやっと寝付いた。
昨日の夜、寝る直前になって急に聡が痛がりだしたんだ。
癌が暴れだした…。
ナースコールで呼んで今夜の当直の石原先生に来てもらった。
石原先生は女医さんで岡野先生と一緒にここに勤務してる先生の一人だ。
「野原さんお薬使おう。ね?」
聡は痛がり反応できない
「先生っ」
薬って、まさか
「モルヒネじゃないわ。親戚みたいなの。いいわね?このままだと野原くん苦しむだけよ」
石原先生は私の方を見てそう言った。
頷くしかない…
「オプソ…いや、オキシコ5と10で。…飲めるかな…飲めなきゃモルヒネ一単位静注しよ」
石原先生は看護師さんに指示を出した。
結果的には何とか飲んだけど…
脂汗を流し、苦しむ聡を見てるのは辛かった。
飲んで30分位してなんとか痛みは治まった。
顔色も元に戻った。
石原先生は看護師と一緒に痛みが治まるまで部屋にいてくれた。
「治まったみたいね。また何かあったら呼んでね」
石原先生と看護師が出て行くと静寂が病室に広がった。
雨が窓を時折叩くだけだ。
私は聡の手を握りぐったりした聡の顔を見つめていた。
聡の寝息が聞こえるまで。
建物の外に出る。
いつもより一時間以上早い。
雪でうっすら白くなった歩道をゆっくり歩いて四阿へ行く。
息も白い。
いつもならまだ暗い時間だけど雪の反射で青白く仄かに明るい。
幻想的で綺麗…
四阿に座って本館を見ながらタバコに火を…。
ライターが無いのに気付いた。
私はタバコを仕舞って空からチラチラ降る雪を見た。
灰色の低い雲から現れて落ちてくる白い雪。
わたしの不安や焦燥感もこんな感じに次から次へと降り積もっていく…
「よお、今日は早いじゃないか」振り向くとそこには寺田が立っていた。
「そんな薄着だと風邪ひいちまうぞ。中の喫煙所に行けばいいのに…どした?」
私は昨夜の件を簡単に説明した。
寺田はそれを黙って聞いていたが
「涼ちゃん、古いよ」
そう言って笑った
私はムッとした。何が古いのか?
「今のモルヒネはそんな意識混濁したり暴れたりしないぜ。昔は死ぬ間際にしかモルヒネ使わなかったからそういうイメージもあるんだろうが、モルヒネを使い始めたらもう長くないとか。」
「そうなんですか?」
わたしは驚いた
「ほら。これだよ」
寺田はいつも持ってるバッグから小さなペットボトルを取り出した。
「オプソって言うんだ。平たく言えばモルヒネ水だな。ちっちゃなパックを溶いて飲むんだよ」
私はモルヒネって注射で打つものだと思っていた。
…て言うか…寺田さん使ってるの?
「俺はしばらく前から飲んでるけど魔法の水だよ。飲むと普通に生活できるんだ。涼ちゃんの気持ちも解るけどさ、患者にとっては楽なんだよ。
だけど暴れたり叫んだりしてないだろ?
まぁ普通は、幾つか段階踏んでからオプソに辿り着くんだけどな。
…そうだな、例えたらこの雪みたいな感じかな」
「雪…?」
「ああ。静かに全体に降って見たくないものを覆い隠してくれる。勿論大量に降りゃ色々生活に支障も出るだろうが、適切に使かえば嫌なものを見なくて済むんだからな」
知らなかった。
単に怖い物としか思っていなかったから絶対に使わせなく無かったんだ。
でもそれはわたしのエゴだったのかもしれない…
知らなければ楽になる手立てを聡から奪ったままにしてただろう。
…思い込みって怖いんだな
私はそう思った
大晦日
私は聡のアパートで目覚めた。
昨夜は掃除もあったからこっちに泊まったんだ。
それより、聡がオキシコンチンという薬を飲み始めたのですこぶる調子が良いのが一番の理由だ。
残念だけど治った訳じゃない。12時間持つ痛み止めだ。石原先生が一度処方してくれた麻薬の親戚みたいなものだ。
岡野先生と相談して、定期的にこの薬を飲むことにしたんだ。
そして昨日の午前中、岡野先生から話があって、薬がよく効くからもし望むなら大晦日だけは外泊してもいいよって言って貰ったんだ。
それを聞いた聡はとても嬉しそうだった。その笑顔を見たらアパートに外泊させない訳にはいかない。
それで昨日の夕方には施設を出てアパートで大掃除をしたんだ。
壁の時計を見ると午前6時。
今日は忙しいわよ と 呟いてガバッと布団から起き上がった。
大急ぎで準備してアパートを出る。
ブルースカイへ。
向かう電車もバスの中は、学校や会社へ向かう学生やサラリーマンも殆ど居なくてガラガラだった。
空いた席に座って、年末なんだなぁと実感する。
事務所に顔を出す前にいつもの四阿で一服。
さすがにこんな日のこんな時間には誰も居ない。
今日の簡単な予定と計画を立てた。
数日前の雪はすっかり溶けている。
朝日が山の稜線を越えて差してきたが、寒いのは変わらない。
放射冷却もあるのだろう底冷えがする。
タバコの煙りよりも息の方が白く感じる。
今日は寺田さんも来ないみたいだ。
寒いもんなぁ。
建物内の喫煙所に居るのかもしれない。
私は建物に向かった。
聡は起きていた。
「遠足に行く日の朝みたいな感じなんだよ」
そう言ってベッドの上でニコニコしている。
薬が効いているからか、少量だったけどご飯を食べる事ができた。
おせち料理とお雑煮の為のウォーミングアップだよ。と笑って言った。
久しぶりに聡の笑った顔を見た気がした。
顔は明るいけど目の下の隈ははっきりしている。頬骨もくっきりと浮き出ていて健康というのには程遠い。
ちょっと悲しくなって涙が出そうになる。
「今日は忙しいわよー」
無理に明るく言って洗濯物を抱えて部屋を出る
廊下に出た途端にポロッと涙がこぼれた。
洗濯して清拭して片付けして一旦施設を出る。
バスと電車を乗り継いで職場に向かう。
しばらくバタバタしてて顔も出せていないから、年末位はきちんと挨拶をしておきたい。
事務所に入ると早番の嬢が何人か居た。
「あら涼ちゃん久しぶりねー」
知ってる孃から声を掛けられる。
知らない顔も混じってる。
日々刻々と世間は動いてるんだな…。
事務室に行くと店長もヨウコさんも居たので挨拶ができた。
「聡くんは具合どうなの?」挨拶の後でヨウコさんが聞いてきた。
「え…ええ。良くはないですね。」
嘘は言えない。
極力頑張って泣かない様にしてたのにまたポロッと涙が落ちた。
ヨウコさんはそばにやって来て、ぎゅっと抱きしめてくれた
「泣きなさい。泣かなきゃダメ」
私は子供みたいにわんわん泣いた。
私の中に溜まってた苦しさを全部流しちゃう位に。
泣き止んでしばらくして店長がお茶を持ってきてくれた。
私に手渡すと隣に座って話はじめた
「涼の夢はオーロラを見ることだったな。…オーロラってのは神話でアウローラから来てる夜明けの女神なんだよ。夜の闇を明るく照らし出すんだ。
俺はな、涼自身がオーロラになるんじゃないかって思ってた。
少なくとも聡って奴には涼はアウローラだな。もしまだ違うならなれるように努力しなよ」
そう言って事務室から出て行った
アウローラ… 夜明けの女神…
そんな…なれる訳ないよ
モモが部屋にいると聞いたので元の部屋に行ってみる。
モモは寝ぼけ顔でドアを開けてくれたが私の顔を見るとパッと明るい顔になって中に通してくれた。
ちょっと見ない間にモモは明るく綺麗になっていた。
あれから男に惚れる事もなく淡々と仕事をこなしているらしい。
しばらく仕事の話を聞いてきたがいきなりモモが言った。
「あたしね、新しく夢を見つけたの。あたし看護師になるんだ。イメプレじゃなくて本物よ」
びっくりした。
「涼、そんなびっくりしなくてもいいじゃない。
子供の頃にね、なりたかったのよ。メンソレータムの蓋についてる小さな看護婦さんに憧れてたのよ。
…この前殴られて怪我した時にふと思い出したの。
でね、ユミさんに聞いて専門学校に通う事にしたの。勉強もはじめたのよ。
入学金や授業料かかるじゃない?だから稼がなきゃね」
そう言ってコロコロと笑った。
夢が見つかると瞳が輝くって聞いた事があるけど本当だなと思った。
ペットボトルでお茶を飲みながらしばらく他の話をして、また来るねと言って部屋を出た。
モモは私の事を何も聞かなかった。
私が泣きはらした目をしてるのを見て、敢えて聞かなかったんだろう。
モモの優しさだと思う。
モモが看護師かぁ。
優しい子だから向いてるかもな… モモのナース服姿を想像しながらブルースカイに帰った。
「じゃあ、明日の夕方には戻って来てね。何せ新しい薬を初めて数日だから本来ならまだ許可できないって事を覚えておいてね。」
石原先生がそう言った。
岡野先生は他の病室を回っているそうだ。
今日は環境や状況の許されたかなりの人が自宅に帰る。
本当はみんな帰りたいんだろうけど、体調的な問題(痛みのコントロールが難しい人も含む)や、受け入れる家族の事情(大半がこれが理由)でブルースカイに残り、年越しをする。
私が街からブルースカイに帰ると、職員さんが私宛に岡野先生からの伝言を持ってきてくれた。私に話ががあるらしい。
呼んで貰って食堂で話をした。
「扇さん、…野原さんね、痛みの進行と血液検査からみても多分…最後のお正月だと思うんですよ。
でね、これから先は一つでも多くの思い出を作るようにしてください。こちらも極力、協力するようにしますから。」
そう言って、僅か一晩だけなのに痛み止めの薬を二種類出して使用方法の説明をしてくれた。
解ってたつもりなのに…ショックを受けた。
でも取り乱しちゃいけない。ぐっと堪えて冷静を保つ様に頑張った。
朝からたくさん泣いていたから涙を堪える事ができたんだと思う。
「…あとね、動脈に食い込んでる可能性のある腫瘍が何かの拍子に剥がれると…多分救急車でも間に合わない…だから、出来るだけ咳やくしゃみはさせない様にして。いいね。」
最後はかなり強い口調。
それだけ危険なんだ…
私はぐっと奥歯を噛みしめた
病室で石原先生の話を聞いてから車椅子に聡を載せてブルースカイが呼んでくれた介護用タクシーで施設を後にする。
明日までのお別れだ。
途中でタクシーにコンビニに寄って貰っておせち料理を受け取る。
おせち料理は発泡スチロールに入った状態で思ったより軽かった。
聡はその発泡スチロールの箱を大事そうに膝の上に置いた。
プレゼントを貰った子供みたいだ。表面に貼ってある中身の内訳を一つ一つ読んでいた。
ロブスターが入ってるのが嬉しいみたいだ。
聡のアパートに着くとまずは布団を敷いて聡を横にさせる。
大丈夫だよと言っていたが、ダメと言って横にならせた。
ぶつぶつ言っていたが目は笑っていた。
自分の部屋に戻って嬉しかったんだろう。
聡のアパートからスーパーまで歩いて10分位だ。買い物と往復で30分もあれば行って来れる。
私は聡に動き回らない様に言って買い物に出た。…おせち料理しかないからね
30分後、汗をかきながらヒーヒー言いながらアパートに帰ってきた。
重かったのよ。
聡のアパート何にもないから小さな調味料に始まって、百均のお椀やお餅までナイロン袋で4つをやじろ兵衛みたいにしながら持って帰ってきたんだ。たった一晩なのにすごい量だ。
帰ると聡は眠っていた。疲れたのかもしれない。
私は冷蔵庫に食品をしまって調味料を並べた。
生活感の出た台所はなんだか暖かい感じがした。
振り向けば布団で眠る聡がいる…
幸せだわ…
本当はそんなはずはないんだけど、一瞬私の心は暖かい気持ちで満たされた。このまま時間が止まったらいいのに…
夕方、お茶の準備をしてた時、
「涼!来てっ!早くっ」
私は慌てて聡の側に行く。
「どうしたのっ!」
「あれっ!」
聡が指す先にテレビ画面にオーロラが映っていた。
年末の昭和基地の話題だ。
『…今年は太陽の黒点の活動が活発な為、オーロラの発生が多く見られました。
ご覧の映像は今年の8月の映像です。
時期的に今、南極は夏で日が沈まない為、観察はできませんが、北極圏では綺麗なオーロラが例年より多く観察されています。…』
画面は北欧の舌を噛みそうな名前の小さな村から見たオーロラの映像に変わった。
見た感じ南極も北極もオーロラは同じ様に見える。
二人はしばらく画面に吸い付けられる様に見入っていた。
「…実際に見てみたいなぁ」
聡がポツリと言った。
「…そうだねぇ」
テレビで見たオーロラは緑色の綺麗な光がゆらゆらと揺れていた。
年越しそばを食べて紅白と民放をかわりばんこに見た。
テレビで永平寺の除夜の鐘が衝かれると新年だ。
時報と共にゴーンという音がスピーカーから流れた。
「おめでとう」
「おめでとう」
お互いに言いあって顔を見合わせて笑う。
めでたいのかどうか解らないけど…
何とか年を越す事ができた。
去年は色々とあった。
ツラい事も楽しい事もあったけど一番は聡と出会えた事。病気がなければこれから何十回もあるだろう年越し。
…聡にはこれが最後になるかも…
そう思っちゃいけないのに…
…なのに私の頭に浮かんでくる
朝6時前に二人共に起きた。
昨夜は二人で一つの布団で抱き合って眠ったんだ。
聡が気になって眠れないんじゃないかと思ったのに先に聡が眠って、その寝息を聞いてた私もいつの間にか眠っていた。
出会った頃の聡はまだがっちりしてた感じがしてたのに(細かったけど)、今は私の方ががっちりしてるんじゃないかと思う位だ。
清拭の時に背中に肋骨が浮いているのは知っていたけど、パジャマ越しでも聡が痩せてるのが解ったのがちょっとショックだった。
二人でアパートの窓から初日の出を見る。
朝日に照らされて聡の顔がピンク色に見える。痩せてるけど血色さえよければまだ元気そうに見える。
私が聡を見つめてるのに気付いて二人で見つめ合った。
キスをした。
聡に会って初めて交わしたキスだった。
私にとっては仕事抜きで、本当にしたい相手としたキスは初めてだった。
「涼、お願いがあるんだ。」
私の作った簡単なお雑煮とおせち料理を少し食べた後で聡が急に言った。
「え?何?」
「…お風呂入りたい…」
病院のお風呂は介助者がいる事が大前提でできているので入りやすいだろうし、暖房設備が付いているから体を冷やさなくて済む。
岡野先生の「咳やくしゃみには充分注意する様に」といわれたのを思い出したんだ。
さて困った。
いれない訳にもいかないだろうけど、アパートのお風呂寒いし狭いよね…
…よし!聡が入りたいって言うんだから入れてあげよう。
私はお風呂の準備をした。
ぬるめに張ったお湯、やかんで沸かしたお湯を洗い場に撒いて床と浴室内を温める。もうもうと湯気の上がるお風呂で準備してたら服が湿気を吸って気持ち悪い…
えい!私は裸になってバスタオルを巻いた。
聡は私がその姿で現れて驚いたみたい。
「一人で入るからいいよ」
聡がそう言うのを聞いて…あ、そうか 一緒に入ればいいんだ。と気付いた。
「ほら、行くわよ」
「えー?いいよ。恥ずかしいよ…」
「私ひとりがこんな格好だと恥ずかしいし寒いでしょ。一緒に入るんだから、ほら脱いで脱いで!」
私は聡とお風呂に入ること自体に抵抗はない…と言うか寧ろ入りたい。
今まで機会が無かった訳でもないんだけど入らなかったのは、聡が嫌だと云うのが解ったからだ。特に最近は清拭も背中以外は自分でできるって言ってきかない。
自分がやせ細っているのを私に見せるのが嫌なんだっていう気持ちは解る。
そんな気持ちは男の人だから特に強く思うんじゃないかな…
そう思って今まで聡の意見を尊重してたんだけど、体を動かすのがキツい位の今の聡に狭いお風呂に一人入れるのは不安だから強制的に私も入る事にしたんだ。
聡はしぶしぶの様子だったけど服を脱ぎ始めた。
お風呂は…楽しかった。そして悲しかった。
楽しかったのは狭いからなかなか自由に動けない。背中や頭を洗ってあげると気持ちいいと喜んでくれた。清拭やシャンプー台と違ってジャブジャブとお湯が使えるのが洗う私にしても楽だった。
やはり間近で見ると聡は小さくなってた。肩や大腿部やお尻にも小皺が出来ていた。
脂肪がなくなって余った皮膚が行き場を無くして縮緬みたいなシワを作るんだ。
正面も肋骨が浮いてて鳩尾から下腹部にかけてだけぽっこりと出ている。
一生懸命食べても、医療用高栄養ドリンクを飲んでも、点滴してもガンが横取りしてしまうからなかなか宿主の聡には栄養が回らないんだ。
いつも栄養不足になるからかな…いつかテレビで見たどこかのアフリカの栄養失調の子供みたいだ。
…いや、まだあんな栄養失調の子供ほど酷い状態じゃない。
私は自分にいい聞かせた。
口では明るく振る舞ってたけど、ちょっと私の気持ちを揺さぶったら大泣きしてしまいそうだったよ…
聡は初詣や初売りにも行きたがったけど、状態から考えても無理。
暖かな部屋でおせち料理を摘みながらテレビを観て過ごした。
聡はお風呂で疲れたのかうつらうつらと半分寝ていたけど。
こんなお正月で良かったのかな…私は聡の寝顔を見ながらそう思った。
正月も3日になると、外泊組も大半がブルースカイに帰ってきた。
私たちは元旦の夕方には戻って、それから三が日は当番の先生に簡単な診察を受けたり、テレビを見たり、散歩をしたり、食堂でお正月メニューを食べて過ごした。
聡のアパートで過ごした二人きりの独特な世界観は無かったけれどいつもより入院者の少ない施設での数日はそれなりに楽しかった。
ちょっとホッとしてる私がいたのも事実。
聡のアパートだと必然的に私しか居ないから何かあったら…と緊張していたんだと思う。
ここなら、(積極的な延命処置はしてくれないにしても)そばに先生は居るから何とかして貰えると思うから安心できたんだ。
いつもの様に夜明けの散歩に出た。
1月4日。
社会では今日から始動する会社も多いだろう。
四阿でいつもの様に一服する。
そう言えば最近寺田さんに会ってないなぁと思った。
室内…とは言っても三階の廊下の端にあるガラスで区切られた一角だけど…の喫煙所にいるのだろう。
私は、外を歩かなきゃいけないし、寒いし、殆ど人の来ないこの四阿の喫煙所が気に入っている。
だから室内には行かないんだけど、寺田さんと話をするのは好きだった。
ブルースカイに来る様になってからここで寺田さんと話をする事でストレスの発散になったり落ち着いたりする事ができたんだ。
いつも私が居ると来たり、着いたら既にタバコ吸ってたりしてた。会わなかったのは今日とこの前位だ。
タバコを一本灰にして灰皿に吸い殻を落とした時気付いた。
寺田さんの吸ってた銘柄のピースの吸い殻が無い。
以前に吸った私の吸い殻だけだ。
年末から朝晩は冷えるけど日中は暖かな日が続いてるから外に出れないはずはない。『俺はここが好きなんだ』という言葉を思い出して、私の心に暗雲が立ち込めた。
…まさか…まさかね…
朝食を食堂で食べながら、寺田さんの定位置を見てみる。
テレビから一番遠い観葉植物の陰。
いつもなら寺田さんは日中は殆どここに居た。
食堂のおばちゃんと軽口を叩きながらコーヒーで薬を飲んでたりする姿を何回も見た。執筆は夜中にしかしないと言ってたからいつもここで見る時は雑誌を読んでたり、居眠りしてたりしていた記憶もある。
今、その席には老人が座って点滴をしながらお茶を飲んでた。
時間のタイミングがズレてるだけ…だよね。
…きっと。
聡を病室に戻してから室内の喫煙所に行ってみた。
ガラス張りの隔離部屋の中には誰も居ない。
私は一階の事務局の前まで行って、顔見知りの職員さんが通りかかるのを待つ事にした。
私の中で嫌な感じがどうしても抜けなかったんだ。
こういう施設ではタブーなんだと思う。
親しくしていなくてもロビーでいつも新聞を広げていた男性も見なくなったし、エレベーターそばの部屋の名札も変わったのを見ていたから。
ホスピスから出るには2つ。
ひとつはホスピスでの生活を自ら止める事。例えばどうしても自宅で最後を迎えたいと決めた人とか。
もうひとつは終焉を迎えた時だ。
施設の立場上、圧倒的に後者が多い。
そうだよね。みんな静かに終焉を迎える為に入っているのだから。
しかも患者自身で決めたんだ。
その最後の決定を私の様な家族でも無い外野が何か意見する気はさらさらない。
その人の末路や行く末を聞いたりするのだってなんだか覗き見をしたり、噂話のネタを探してるみたいで嫌だ。
…そうなんだ。解ってる。
そうなんだけど…寺田さんの事は聴かないといけないと思った。
『涼ちゃん冷たいんじゃないのー?俺が居なくても気が付かないなんてさっ』って言う声が聞こえた気がしたんだ。
「あら、扇さん。どうしたの?」
通りかかった石原先生が声をかけてくれて私の横に座った。
「先生…聞いていいかな?寺田さんは具合良くないの? ここで友達になってね、しばらく姿見かけなくてさ、どうしたのかなぁって思っちゃって」
私は極力明るく聞いてみた
それを聞くと石原先生は私とは逆に辛そうな顔になった。
「…扇さん、あなたあの人の事詳しく知ってる?」
「どういう事?…元業界人で病気になってここに居るって。家族も友達も居ないからここに来たって。最近はガンの進行も止まったみたいで調子いいってクリスマスの頃には話したわ。」
「…」
石原先生は立ち上がると廊下の片隅に行って院内PHSで話をはじめた。
少しだけ話をして切るとすぐ戻って来ると
「…会う?」
と一言聞いた。
寺田さんはベッドに居た。
寝ているだけみたいだけど顔色は白く、目は少しだけ開いている。
酸素マスクとモニターはしているが点滴も何もない。看護士が一人付いていてモニターの数値を見てた。
「…大晦日の夕方に食堂で倒れたのよ。
昨日の朝は少し良かったんだけど今朝から段々と心音と血圧が下がってるの。
…モルヒネを使ってるから当人は痛みはないわ。」
「寺田さん…」
「家族も親類も居なくてね。
…一応入院時に書いてもらう連絡先に電話したの。
でもね、全く関係ない人に繋がるのよ。
仕方ないから以前にお見舞いに来たテレビ会社にも連絡したんだけど、もう関係ないの一点張りで。」
小声で私に言った。
そこに岡野先生が来た。
「良かったら手を握って話しかけてあげて。血圧も…上が50切ってるけど…まだ耳と触覚は解るから」
私はベッドサイドにしゃがんで手を握って話しかけた。
手は皺っぽく、カサカサしていたが暖かかった。
握った指がピクリと動いた気がした。
「寺田さん、解る? 涼よ。 …プロデューサーが居なきゃ次の作品できないでしょ?ほら、目…開け…てよ…」
私の目からボロボロと涙が出た。
しばらく話しかけたが血圧はそのまま下がって行った。
ピー…
電子音が鳴り、赤いランプが点滅する。
私にも解った。寺田さんは扉を開けて半身を向こうに滑り込ませたんだ。
「寺田さん…お疲れ様…」
岡野先生がやって来て瞳孔を調べて時刻を言った。
寺田さんがタバコをくわえて手を挙げる仕草を思い出した
「 じゃあな、涼ちゃん。先に行くぜ 」
そんな声が聞こえた気がした。
岡野先生に促されて一緒に食堂に行った。
熱いココアを持ってきてくれた。
「大丈夫ですか?」
「…はい」
本当は大丈夫じゃなかった。
なんだか手が震えて止まらなかった。
知り合いが亡くなるのは父さん以来だ。
肉親以外だと初めて。
…でも何でだろう、心はチクチクするけど父さんの時みたいな圧倒的な悲しさや虚しさがないんだ。
…なんでかな…心が冷たいのかな…
「寺田さん嬉しかったと思いますよ」
岡野先生が言った
「…こういう施設に一人で入られる方の中には最後は誰にも看取られずという方も多いんですよ。もちろんスタッフは家族という気持ちで接してますが、患者さんには我々はやはりスタッフなんで…。その点、寺田さんは扇さんがそばに居てくれたから、表情が安らかだったでしょう?」
確かに電子音が鳴り響いている中にいた寺田さんの顔は安らかだった。
「基本的に無理な延命措置をしないからなのか最終的に燃え尽きる様に静かに旅立たれる方は多いのですがね。心満たされて旅立たれたかどうかは我々には解りません。その点、寺田さんは恵まれてました。
扇さんにショックを与えてしまったら申し訳ないのですが…」
「いえ。最後に立ち会えて良かったです。」
私の本音だ。
そうか…最後に立ち会えたから私の中でも納得できてるんだ。
父さんの時には最後まで『懸命な延命措置』を施してもらったから家族は廊下に出されてた。
強心剤を投与して電気ショックを与えて扉の向こうに行くのを引き止めてたんだ。
だから本当に息を引き取った瞬間には立ち会え無かった。
もちろんその処置で扉の向こうに行くのを止めて生き返る人も沢山いるだろう。
…だけど…逝くのを決めた人や身体の状態で戻れない人を無理に引き止めると云うのも…酷な気がする。
私は寺田さんが扉をくぐって振り返り『じゃあな』って笑って行った気がしてた。
これがホスピスでの終焉なんだ…
《後編に続く》