8 《18歳・4》
夏休みが始まると、颯介はもうひとつバイトを増やした。食品工場のバイトだ。高三だったが受験するつもりはなかったし、時間だけは余るほどあったから。
その日は朝から暑い日だった。コンビニで早番のバイトを終えて、自転車をこいでいた颯介の目に、見覚えのある黒い軽自動車が映った。
璃子の家の前に止まっているそれを見た瞬間、颯介の胸にどろどろとした記憶がよみがえってきた。
自転車を止めて様子をうかがう。家の中はしんと静まり返り、人のいる気配はない。
だけど――おそらくこの家の中にいる。璃子を人形のように弄んだあの男が。
突然玄関の引き戸が開いた。颯介は反射的に垣根に身を隠す。
家の中から出てきたのは、あの男だった。少し頬がこけて白髪が増えたが、目だけぎらぎら光らせたアル中のような男の顔を、忘れるはずがない。
男は颯介に気づかずに車に乗り込もうとしている。
復縁したのだろうか? 璃子の母親と。またこの家で暮らすつもりなのか? 璃子はこのことを知っているのだろうか?
「お兄ちゃん!」
突然声がかかって驚いた。垣根にもたれる颯介の後ろで、真帆がにこにこ笑っている。
「なにやってんのー? 璃子ちゃんち前で」
「しっ……黙ってろ……」
そう言ったときは遅かった。男が車のドアに手をかけたまま、こちらを見る。
颯介は凍りついたように動けなかった。隣で何も知らない真帆が、不思議そうな表情をしている。
男は颯介のことを冷たい目で見たあと、ゆっくりと顔を動かした。舐めるような視線を真帆に浴びさせ、片方の口元だけ引き上げ、にやりと笑う。
「い、行こう。真帆」
わけのわからない顔つきの真帆を、引っ張るようにして歩き出す。情けないことに足ががくがくと震えていた。
「お兄ちゃん。あの人って、前に璃子ちゃんちにいた……」
「バカ。振り向くなよ」
「だってー」
あんな男のいる家に、璃子を帰すわけにはいかない。どうしよう……どうしたらいい?
頭の中をめぐるのは、どうしようもない考えばかりで、逃げ出すだけしかできなかったあの頃と、何も変わっていない自分に腹が立った。
坂道の上から町を見下ろす。ぽつぽつとあかりが灯り始めた夏の夕暮れ。腕についた時計を見ると、もう工場のバイトに行かなくてはならない時間だった。
ここで璃子を待って、家に帰るのを止めるつもりだった。あの男がいたことを知らせて、バイトが終わるまで真帆とアパートで待たせておこうと思っていた。
「くそっ……どこ行ってんだよ……」
璃子の携帯番号なんて知らない。璃子が携帯を持っているのかどうかさえ知らない。
今どこにいるのかも、誰と一緒にいるのかも……颯介は璃子のことを何も知らなかったのだ。
小さくため息をついて振り返る。さっき車で出かけたきり、男は戻ってこない。あのままもう、ここへは帰ってこないのか? そうだったらいいのだけれど……。
もう一度だけ坂道を見下ろした。茜色に染まる海がどこか哀しく見える。
颯介は自転車に飛び乗ると、バイト先に向かってペダルを踏んだ。
バイト中は気が気ではなかった。普段絶対しないようなミスを何回もして、パートのおばさんに怒鳴られた。
すみません、熱があって頭がぼうっとするんです――嘘をついてバイトを早退する。最初からそうすればよかったのに、機転のきかない自分がとことん嫌になる。
暗い夜道を自転車で走った。考えつくのはマイナスなことばかりで、暗闇の中に自転車ごと吸い込まれていくような気がした。
息をきらして坂道を上る。もしかしたら、璃子はうちに来ているかもと思いつつも、スピードを落とさずに上りきる。
しかし嫌な予感は的中した。璃子の家にあの黒い車が止まっていた。
息をのんで心の中で祈る。どうか、璃子が家にいませんように……。
立っているのもままならなくて、薄明りの灯る玄関に行き、引き戸を叩く。このあとどうなってもいい……もうそう思っていた。