5 《18歳・1》
海沿いの国道を自転車で走る。七月の海はどこまでも青く左側に広がり、自転車をこぐ颯介の脇を、他県ナンバーの車が追い越していく。
颯介の通う公立高校は、自転車で五十分の場所にあった。バスを乗り継いで通えないこともなかったが、バス代が無駄だと思い、雨の日も風の日も、颯介は自転車を走らせた。
立ちこぎをして、向日葵の咲く坂道を上り切る。見慣れた平屋建ての前を通り過ぎてから、颯介は自転車にブレーキをかけた。
振り返ると、あの家の庭先にバイクが止まっていて、制服を着た女子高生と金髪男の姿が見えた。
璃子と、璃子に中学の頃から付きまとっている男だ。ふたりは何やら言い合いをしているようだった。
自転車にまたがったまま、颯介はふたりを見ていた。やがて男が璃子に手をあげて、引きずるようにして家の中に押し込んだ。
夏の日差しが、じりじりと肌に照りつける。生ぬるい風が吹いて、汗ばんだワイシャツが肌に張り付く。
颯介は自転車を道路の脇に止めると、真っ直ぐ璃子の家に向かった。
門を入って飛び石を踏みしめる。庭に回るとガラス窓に手をかけて、それを一気に開く。
目の前に男の姿が見えた。遠い日の記憶がよみがえって、一瞬吐きそうになる。
「誰だっ? お前……」
しわくちゃなベッドに押し倒されて、璃子は人形のようにぼんやりとしていた。ブラウスのボタンに手をかけたまま、男が驚いた顔でこちらを見ている。
颯介は持っていたコンビニの袋を窓から差し出した。
「これ。頼まれてたやつ」
その声にぴくんと反応して、璃子がベッドから飛び降りた。窓際に駆け寄って、颯介の手からそれを受け取る。
中にはさっき、真帆のためにコンビニで買った、プリンがひとつ入っていた。
「じゃあ、失礼しました」
立ち尽くす璃子の向こうで、男が「ちっ」と舌打ちしている。窓を閉める颯介の耳に、ふたりの会話が聞こえてくる。
「帰るの?」
「やる気なくした。なんだあのガキ」
「近所の子」
「今度会ったらぶっ殺す」
その声を聞きながら道路へ出る。足元で野良猫が、ミャーと鳴く。
颯介は汚れた猫を抱き上げて、右手でそっと頭を撫でた。
「お兄ちゃん! 今そこで事故があったの、知ってる?」
ランドセルを背負った真帆が、家に帰るなり興奮した様子で駆け寄ってくる。
真帆は今年六年生になっていた。
「バイクの人が事故ったみたい。飛び出してきた猫を避けようとして、こけたんだって」
「へえ……」
颯介は脱いだワイシャツを洗濯機に突っ込んだ。これから午後十時までコンビニのバイトが入っている。
「で、どうなったの? その人」
「えー? 知らない。救急車で運ばれたらしいけど」
「ふうん」
冷蔵庫を開ける。昨日のカレーが残っていることを確認する。
「じゃあ俺、バイト行ってくる。母さん今夜も夜勤だから、カレー食って、ちゃんと鍵かけとけよ」
「えー、またカレー? もう飽きたー」
真帆がランドセルをおろしながら文句を言っている。
「あ、そだ。お兄ちゃん、真帆のプリン買ってきてくれた?」
「忘れた」
「うそー! 昨日お金渡したじゃんー」
真帆の声を背中に聞きながら、颯介は狭い部屋を出た。
階段を駆け下り、自転車に乗ろうとした颯介は、ドキッとして立ち止った。目の前に璃子が立っていたからだ。
「颯介」
無視するように自転車の鍵を開けた。カシャンという機械的な音が、夕暮れの空気に響く。
「ありがとね」
「何が?」
そっけなく言う颯介の前で、タンクトップにジーンズ姿の璃子が微笑む。
「プリン。おいしかったよ」
「……ああ」
蒸し暑い風が璃子の長い髪を揺らす。別々の高校に通い始めたふたりは、こうやって話をすることもめったになくなっていた。
「俺……バイトだから」
「あたしは真帆ちゃんのところに。借りたいって言ってた本、持ってきてあげたの」
「そう……それじゃ」
自転車を押して背中を向ける。潤んだような璃子の目を見ていたら、気が変になりそうだった。
「あたし、あいつ嫌いだったから」
そんな颯介の背中に璃子が言う。
「ありがとね、颯介」
ハンドルをぎゅっとつかんで振り返る。軽い足取りで階段を上っていく璃子の後ろ姿が、茜色に染まっていた。