4 《15歳・3》
「おかえりー、お兄ちゃん」
古臭い木造アパートの二階のドアを開けると、真帆の明るい声が響いた。颯介はびしょ濡れのまま、玄関に揃えてある女物のサンダルを見下ろす。
「あ、やだぁ、お兄ちゃん。傘持ってなかったの?」
あきれたように顔を出す真帆の向こうに、璃子の姿が見えた。
「お邪魔してます」
居間の畳に座った璃子が、こちらに顔を向ける。
「あのね、さっきスーパーで璃子ちゃんに会ってね。宿題教えてもらってたの」
「へえ……」
颯介は靴を脱ぎ、真帆から商店の名前が入った白いタオルを受け取る。
「飯は?」
「もう食べちゃった。璃子ちゃんがね、カレー作ってくれたんだよ」
「あ、そう」
どうりで、この六畳二間の狭い部屋を開けた途端、カレーの匂いがしたわけだ。
タオルで頭を拭きながら、颯介は流しの横に濡れたビニール袋を置いた。定食屋の残り物をいつものようにもらってきたのだ。
「ね? 璃子ちゃん、言った通りでしょ?」
真帆がちらりと颯介を見ながら、璃子に耳打ちをする。
「お兄ちゃん、全然しゃべらないんだから。ふたりでご飯食べても、なんにも面白くないの」
「そうね。颯介は学校でも無口だから」
璃子の視線が颯介に向いた。颯介はさりげなく視線をそらすと、奥の部屋に入って襖を閉めた。
「暗いんだよねー。だからお兄ちゃん、彼女できないんだよ」
くすくすという笑い声を聞きながら、濡れたワイシャツと黒い学生ズボンを脱ぐ。Tシャツとジーンズに着替え、また襖を開けると、ふたりはもうテレビを見ていた。
コンロに火をつけてカレーを温め、その間にご飯をよそう。居間のテレビには真帆の好きなアイドルタレントが映っている。
盛り付けたカレーを持って居間に入った。冬はこたつにしている正方形のテーブルの上に、開いたままの算数の教科書とノートが置いてある。
真帆と璃子はアイドルの話に夢中だった。ちらりと盗み見する璃子の横顔は、教室でおしゃべりしている普通の女の子と、何の変わりもなかった。
「あーあ、真帆、お姉ちゃんが欲しかったなー」
「真帆ちゃんには、お兄ちゃんがいるでしょ?」
「お兄ちゃんじゃなくて、お姉ちゃん! 璃子ちゃんみたいな」
テレビの笑い声と、ふたりの笑い声が重なる。颯介はそんな声を聞きながらカレーを食べる。璃子が作る、いつもの甘口カレー。颯介はこの味が好きだった。
久しぶりに心地がよい。このままずっとこうやって、カレーを食べていたかった。
辛いことも、哀しいことも、すべて忘れて……ただ普通に幸せになりたいだけだった。
「真帆ちゃん寝たから、帰るね」
台所で洗い物をしていたら、奥の部屋から璃子が出てきた。
璃子は真帆にせがまれて一緒に風呂に入り、真帆の布団で添い寝をしていたのだ。
「……うん」
「お邪魔しました」
璃子が玄関を出てドアを閉める。カンカンという階段を下る音がする。
颯介は水道の蛇口を閉めると、玄関に立てかけてあった傘を持って外へ飛び出した。
外は細い雨が降っていた。璃子は傘も差さずに暗い夜道を歩いていた。
「璃子っ」
ゆっくりと振り返る璃子に傘を差し掛ける。
「送ってく」
「すぐそばなのに?」
小さく微笑む璃子の顔を、颯介は傘の中で見つめた。
颯介のアパートから璃子の家まで約五分。雨はもう小雨になっていた。
狭い傘の中で、身長百六十五センチ程の颯介の真横に、璃子の顔が見える。
「真帆ちゃんって、かわいいよね」
しばらくの無言のあと、璃子が口を開いた。
「あたしも妹、欲しかったなぁ」
颯介は何も答えなかった。隣で璃子が少し笑って、そしてぽつりとつぶやいた。
「聞いたんでしょ? 噂」
ドキンとして隣を見る。立ち止まる璃子の向こうに、雨でぼやけた街灯が見えた。
「大丈夫。颯介が言いふらしたとか、思ってないから」
璃子はそう言って静かに微笑む。
「颯介はそんなことしないって、知ってるから」
ふたりの脇を、水たまりを蹴散らしながら、車が一台走り去る。璃子の家は、もうすぐそこだった。
「それに全部、本当のことだしね」
璃子の体が傘の外に出た。目の前に見える家は真っ暗で、不気味なほど静まり返っている。
璃子の母親と付き合っていたあの男は、半年前に家を出て行った。だから今この家に住んでいるのは、璃子と璃子の母親だけだ。だけどまだ、その母親が帰ってくる気配はない。
今夜も璃子はこの家にひとりぼっちだった。
「ありがとね、颯介」
点滅する街灯の下で璃子が言った。
「いつも、いろいろ、ありがとね」
颯介の前から、璃子の背中が消えていく。
大丈夫? ひとりで。怖くない? 俺が一緒にいてあげようか?
言えない。そんなこと。これ以上近づいたら、きっと壊れる。ふたりの微妙な関係が、きっと壊れる。
引き戸が閉まって、鍵のかかる音がした。傘をずらして夜空を見たら、雨はもうやんでいた。
黒い傘を閉じ、引きずるようにしながら、今ふたりで歩いた道をひとりで歩く。
早く大人になりたい――水たまりを力任せに踏みつけたら、安物の靴に雨水がじわっと染み込んだ。