29 《25歳・最終話》
アパートの階段を下りて、自転車にまたがった。
「後ろ、乗って」
颯介が言うと、戸惑いながらも素直に、璃子は荷台に腰かけた。
「つかまって。危ないから」
そう言って璃子の反応を待つ。少しの間があって、璃子の手が、恐る恐る颯介のシャツをつかんだ。
自転車を静かに走らせる。マンションの前を通り過ぎ、ブレーキをかけながら、坂道をゆっくりと下る。
二年前――手首を傷つけて自殺を図った璃子は、幸い致命傷に至らずに命を取り留めた。ただ、大量に服用した薬の影響で、お腹の子供は流れてしまった。
駆け付けた修一は、璃子の前で泣いていた。何度も何度も病院へ通い、つらそうに璃子を看病し、やがて璃子の前から姿を消した。
理由はわからない。璃子のためを思ってなのか。それとも彼自身が耐えられなかったのか。
璃子が失ったものは、子供だけじゃなかったから。璃子はつらかった自分の記憶を、すべて消してしまったのだ。
眼下に広がる真っ青な海。蒸し暑い風を受けながら、颯介はハンドルを握りしめる。
――颯介の後ろに乗って、あの坂道を下るのが好きだったの。
璃子はもう、そんなことを言わない。「颯介」って、名前を呼んでくれることもない。璃子の記憶の中で、颯介は消してしまいたい過去のひとつだったから。
国道に出て自転車を止める。後ろを振り返って璃子を見る。璃子は遠い目をして、じっと海を見つめている。
今の璃子にとって颯介は、自分の世話を焼いてくれる、ただのお節介な男なのだろう。
砂浜に降りると、璃子は眩しそうに目を細めた。朝の陽射しを浴びた海岸には、犬を連れた若い人と、散歩をしている老人の姿くらいしか見えない。
璃子は何も言わずに、そんな風景を眺めていた。潮風に長い髪をなびかせて、心地よさそうな表情をする。
一瞬強い風が吹いた。気がつくと璃子の前に小さな帽子が落ちていた。
遠くから女の子が駆け寄ってくる。璃子はしゃがみ込んで帽子を拾い、丁寧に砂を払うと、女の子に差し出した。
「ありがとう」
女の子が微笑む。璃子もかすかに微笑んで、母親のもとへ去っていく女の子の背中を見送る。そしてひとり言のように小さくつぶやいた。
「……もしあたしに子供ができたら」
颯介は、遠くを見つめている璃子を見る。
「うんと可愛がってあげるの。その子が寂しくないように。つらい目に遭わないように。あたしが守ってあげるの」
璃子の声が風に乗って流れる。颯介は何も言わないまま、そっと璃子の左手に手を寄せる。
璃子がぴくんと反応した。璃子は人から触れられることを、極端に恐れているのだ。
「何もしないよ……」
顔を少しこわばらせて、真っ直ぐ前を見つめている璃子。そんな璃子の震える指先に、もう一度指を絡ませる。
ほんの少しつながった指先から、璃子の体温を感じ取る。璃子は颯介の手を、振り払おうとはしなかった。
思い出さなくていいよ。何も思い出さなくていい。
給食のプリンを、ランドセルに忍ばせたあの日のことも。
璃子の家に駆け付けた、花火大会の夜のことも。
自転車に乗って坂道を下った、遠い日のことも。
麦わら帽子が風に飛んで笑い合った、幼い日のことも。
全部、全部、思い出さなくていい――それが璃子の望みだとすれば……。
「璃子……」
海を見つめたまま、その名前を呼んでみる。璃子、璃子……。心の中で、何度も名前を呼び続ける。
璃子の口から「颯介」という名前が、もれることはないと知っていながら……。
風が少し強くなった。
「帰ろうか」
颯介がつぶやく。すると前を見たままの璃子の指先が、颯介の指を優しく握った。
「……ありがとう」
その声は、風に流れてしまいそうなほど、か細かった。だけど、颯介の耳には届いていた。心の底まで届いていた。
「……うん」
そう言って指先をそっと握り返す。泣きそうになるのをぐっとこらえる。
指先を握り合ったまま、砂浜の上をゆっくりと歩いた。
風に揺れる向日葵のワンピース。夏になったらこの服を着て、自転車に乗って、また海に来よう。
近寄ることなく、遠ざかることなく、このままずっと、璃子のそばにいてあげるから……。
青い海はどこまでも優しく、ふたりの後ろに広がっていた。
最後までお付き合いいただきまして、ありがとうございました。