28 《25歳・1》
夜勤を終えて、雨上がりの道を自転車で走る。
会社の寮へは戻らずに、朝市が行われている市場で買い物をして、ひっそりとした商店街に向かう。
長い間シャッターが閉じたままの元定食屋。その脇にある外階段を、颯介は荷物を抱えて上っていく。
「あら、颯ちゃん」
ドアを開けると、テレビを見ていた富士子が、座ったまま顔だけ向けた。
「あ、いいよ、おばちゃん。座ってて」
勝手に部屋に上がらせてもらって、買ってきた荷物を台所に置く。
「今日は米も買ってきた」
「いつも悪いねぇ、颯ちゃん。年取ると足腰鈍って、買い物にも行けやしない」
富士子は、痛たたたたと腰をさすりながら、颯介を見て苦笑いする。
「いいよ、どうせ通り道だから。また何かあったら言って」
牛乳を冷蔵庫に入れて扉を閉める。
店を畳んでからの富士子は、すっかり年老いてしまった。持病の腰痛も悪化して、今ではほとんど外出もせず、店舗の二階のこの部屋で毎日を過ごす。
そんな富士子のために、颯介は週に何度か買い物をして、実家のアパートに行く途中、この部屋に寄って届けていた。
「でもねぇ、颯ちゃん。あんたいくつになったんだっけ?」
「二十五」
「だったらこんな老いぼれの相手なんかしてないで、早くいい子見つけて結婚しちゃいなよ。あたしゃ、あんたが心配で、いつまでたってもあの世に行けやしない」
「そんなら、俺、一生結婚しなくていい」
笑いながらそう言って玄関に向かう。
「また来るよ。おばちゃん」
「……ありがとね」
寂しげに微笑む富士子を残して、颯介は静かにドアを閉めた。
商店街を自転車で通り抜けると、すぐに堤防が見えた。ふと颯介の頭に、ほろ苦い記憶がよみがえる。
涙を流した加奈を抱きしめて、ここでキスをした。
――颯ちゃんのこと、最初に好きになればよかった……。
最後に聞いた加奈の声は、まだ頭の片隅に残っている。それはたぶん、一生消えることはないのだろう。
……さよなら。
一瞬ゆるめた足に力を込めて、颯介はペダルをぐんっと踏み込んだ。
六月の海を左手に見ながら、海沿いの国道を自転車で走る。風は少し湿っぽく、ペダルを踏むたびにじっとりと汗がにじむ。
道路を右折して、腰を浮かせて坂道を上った。
坂の上に見えるのは、茶色いタイル張りの三階建てマンション。去年、このあたりの古い平屋を何軒か壊して、新しく建てられた。
二階のベランダで、若い女の人が洗濯物を干している。優しい色のベビー服が、風にぱたぱたと揺れる。
颯介はそんなマンションの前を通り過ぎ、実家のアパートへ向かった。
「あ、颯介。お疲れー」
ドアを開けると台所に立つ母親が、颯介を見て言った。
「母さんもう出かけるから。あと、頼むわね」
「うん」
看護師の母は、まだ病院勤めを続けていて、毎日忙しそうに動いている。
玄関で靴を脱ぎながら、颯介は奥の部屋をのぞきこんだ。
「あ、お兄ちゃん、ちょっと見てみて!」
鏡の前で真帆がなんだか騒いでいる。
「昨日璃子ちゃんと服買いに行ったの。ねぇ、これ、すごく可愛いでしょ?」
真帆に言われてゆっくりと視線を移す。鏡の前に立ち、黒地に向日葵の柄がついたワンピースを着ている、璃子の姿が見える。
向日葵――璃子の好きな花だ。なんとなく思う。
「わ、やだ、お兄ちゃん。璃子ちゃんに見とれてる」
「見とれてなんかねぇって」
そう言いながら、もう一度璃子を見た。璃子ははにかんだような表情で、ほんの少しだけ微笑んだ。
「じゃあ、お母さん、行ってくるから」
玄関で靴を履きながら母が言う。
「あっ、あたしももう行かなくちゃ!」
バッグを手に取り、ばたばたと支度を始める真帆。真帆はバスと電車を乗り継ぎ、母と同じ看護師を目指して、専門学校へ通っていた。
そして璃子は――二年前から、颯介の母と真帆と一緒に、この家で暮らしていた。
「それじゃ、お兄ちゃん。あと、よろしく」
真帆がそう言い残し、璃子に小さく手を振って部屋を出て行く。急に静まり返った室内には、颯介と璃子だけが残された。
「……璃子。海に行こうか?」
颯介の言葉に璃子が静かに顔をあげる。
「外、今日は晴れてるよ」
璃子は何も答えずに、またかすかに口元を緩ませた。