表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
28/29

28 《25歳・1》

 夜勤を終えて、雨上がりの道を自転車で走る。

 会社の寮へは戻らずに、朝市が行われている市場で買い物をして、ひっそりとした商店街に向かう。

 長い間シャッターが閉じたままの元定食屋。その脇にある外階段を、颯介は荷物を抱えて上っていく。

「あら、颯ちゃん」

 ドアを開けると、テレビを見ていた富士子が、座ったまま顔だけ向けた。

「あ、いいよ、おばちゃん。座ってて」

 勝手に部屋に上がらせてもらって、買ってきた荷物を台所に置く。

「今日は米も買ってきた」

「いつも悪いねぇ、颯ちゃん。年取ると足腰鈍って、買い物にも行けやしない」

 富士子は、痛たたたたと腰をさすりながら、颯介を見て苦笑いする。

「いいよ、どうせ通り道だから。また何かあったら言って」

 牛乳を冷蔵庫に入れて扉を閉める。

 店を畳んでからの富士子は、すっかり年老いてしまった。持病の腰痛も悪化して、今ではほとんど外出もせず、店舗の二階のこの部屋で毎日を過ごす。

 そんな富士子のために、颯介は週に何度か買い物をして、実家のアパートに行く途中、この部屋に寄って届けていた。

「でもねぇ、颯ちゃん。あんたいくつになったんだっけ?」

「二十五」

「だったらこんな老いぼれの相手なんかしてないで、早くいい子見つけて結婚しちゃいなよ。あたしゃ、あんたが心配で、いつまでたってもあの世に行けやしない」

「そんなら、俺、一生結婚しなくていい」

 笑いながらそう言って玄関に向かう。

「また来るよ。おばちゃん」

「……ありがとね」

 寂しげに微笑む富士子を残して、颯介は静かにドアを閉めた。


 商店街を自転車で通り抜けると、すぐに堤防が見えた。ふと颯介の頭に、ほろ苦い記憶がよみがえる。

 涙を流した加奈を抱きしめて、ここでキスをした。

 ――颯ちゃんのこと、最初に好きになればよかった……。

 最後に聞いた加奈の声は、まだ頭の片隅に残っている。それはたぶん、一生消えることはないのだろう。

 ……さよなら。

 一瞬ゆるめた足に力を込めて、颯介はペダルをぐんっと踏み込んだ。


 六月の海を左手に見ながら、海沿いの国道を自転車で走る。風は少し湿っぽく、ペダルを踏むたびにじっとりと汗がにじむ。

 道路を右折して、腰を浮かせて坂道を上った。

 坂の上に見えるのは、茶色いタイル張りの三階建てマンション。去年、このあたりの古い平屋を何軒か壊して、新しく建てられた。

 二階のベランダで、若い女の人が洗濯物を干している。優しい色のベビー服が、風にぱたぱたと揺れる。

 颯介はそんなマンションの前を通り過ぎ、実家のアパートへ向かった。


「あ、颯介。お疲れー」

 ドアを開けると台所に立つ母親が、颯介を見て言った。

「母さんもう出かけるから。あと、頼むわね」

「うん」

 看護師の母は、まだ病院勤めを続けていて、毎日忙しそうに動いている。

 玄関で靴を脱ぎながら、颯介は奥の部屋をのぞきこんだ。

「あ、お兄ちゃん、ちょっと見てみて!」

 鏡の前で真帆がなんだか騒いでいる。

「昨日璃子ちゃんと服買いに行ったの。ねぇ、これ、すごく可愛いでしょ?」

 真帆に言われてゆっくりと視線を移す。鏡の前に立ち、黒地に向日葵の柄がついたワンピースを着ている、璃子の姿が見える。

 向日葵――璃子の好きな花だ。なんとなく思う。

「わ、やだ、お兄ちゃん。璃子ちゃんに見とれてる」

「見とれてなんかねぇって」

 そう言いながら、もう一度璃子を見た。璃子ははにかんだような表情で、ほんの少しだけ微笑んだ。

「じゃあ、お母さん、行ってくるから」

 玄関で靴を履きながら母が言う。

「あっ、あたしももう行かなくちゃ!」

 バッグを手に取り、ばたばたと支度を始める真帆。真帆はバスと電車を乗り継ぎ、母と同じ看護師を目指して、専門学校へ通っていた。

 そして璃子は――二年前から、颯介の母と真帆と一緒に、この家で暮らしていた。

「それじゃ、お兄ちゃん。あと、よろしく」

 真帆がそう言い残し、璃子に小さく手を振って部屋を出て行く。急に静まり返った室内には、颯介と璃子だけが残された。

「……璃子。海に行こうか?」

 颯介の言葉に璃子が静かに顔をあげる。

「外、今日は晴れてるよ」

 璃子は何も答えずに、またかすかに口元を緩ませた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ