27 《23歳・17》
息をきらして坂道を上りきると、あの忌まわしい空き家が見えた。
門の中に入って立ち止る。片足で踏みつけていた飛び石は、雑草に覆われて見えなくなっていた。
「璃子?」
つぶやくようにその名前を呼ぶ。古い平屋建ての家は薄暗くて、不気味なほど静まり返っている。
「璃子!」
もう一度呼んでみた。玄関の引き戸に手をかける。開かない。
颯介は庭へ回って、ガラス窓を叩く。思いきり引いてみると、窓はあっけないほど軽く開いた。
「……璃子?」
かつて璃子の部屋だった場所で、璃子が床にぺたんと座っている。真っ暗な部屋で、何も見ていないようなうつろな目をして、でも口元をほんの少し緩ませて、颯介につぶやく。
「颯介……来てくれたんだ」
遠い記憶が次々とよみがえる。
璃子があの男に乱暴された日も、璃子があの男に刃物を向けた日も、颯介は璃子のことを助けてあげられなかった。それが悔しくて、情けなくて……。
それなのに大人になって、加奈のことも救うことができなかった。
そしてまた、同じことを繰り返そうとしているのか?
「璃子……」
部屋に上がって璃子に近づく。その細い肩にそっと触れる。
「璃子は汚れてなんかない」
ぼんやりとした目つきで、璃子が颯介を見上げる。
「璃子は悪くない。なんにも悪くないんだよ」
震える手で、璃子の体を抱きしめる。手探りでその柔らかな髪をなでて、そして強く強く抱きしめる。
「駄目だよ……颯介」
璃子の声は今にも消えてしまいそうに儚い。
「あたしなんか、好きになったら……颯介まで不幸になっちゃう」
思いきり首を振る。自分の目から涙があふれていることに気がつく。
「俺は不幸なんかじゃないよ? 璃子がいるだけで幸せだから……俺は璃子のことが、誰よりも一番大切だから」
今度こそ、今度こそ、璃子を守ってあげる。
「颯介……ありがとう」
暗闇の中で、璃子が微笑んだような気がした。そしてその体が崩れるように、颯介の腕から沈んでいく。
「璃子? どうした……」
目を凝らして璃子を見る。だらんと垂れた左手の手首から、床に流れ落ちる赤い色が見えた。
「璃子っ!」
必死にその名前を呼ぶ。目を閉じたままの璃子に顔を寄せ、死ぬな、死ぬなと叫び続ける。
携帯を取り出して、震える指で救急車を呼んだ。颯介の腕の中で、動こうとしない璃子の体の脇に、赤く染まったカッターナイフが落ちていた。