26 《23歳・16》
九月に入った途端、陽射しが弱くなり曇りがちな日が多くなった。
今日も空をどす黒い雲が覆っている。台風が近づいているからか海は荒れていて、時折細かい雨がさーっと落ちてくる。
颯介は意味もなく堤防に座って、そんな海を眺めていた。
刑事が職場に来たあとすぐに、殺人事件の容疑者が逮捕された。その人物は加奈と付き合っていた男で、別れ話のもつれから口論となり、カッとして首を絞めて殺してしまったのだと言う。
なんだかそれは、小説かドラマのような話で、現実とはいまだに思えない。
海から生ぬるい風が吹き付ける。風に乗ってぱらぱらと落ちてくる雨は、冷たくもなく温かくもない。
颯介はずっと考えていた。あの、加奈と最後に別れた日、自分はどうするべきだったのか……。だけど、どんなに考えても答えは見つからない。加奈が戻ってくることも決してないのだ。
颯介の後ろで車が止まる気配がした。荒々しく閉まるドアの音に、ゆっくりと振り返って堤防から降りる。
車から修一が、今にも殴りかかってきそうな勢いで降りてきた。
「璃子はどこにいる!」
颯介の前で、いきなり修一が叫んだ。いつも人を見下すように、薄ら笑いを浮かべているこの男の、こんなにあわてた様子は初めて見た。
「君のところにいるんだろう?」
ぼんやりとした頭のまま、颯介は首を横に振る。
「隠しても無駄だぞ? 早く璃子を返してくれ!」
「知りません。璃子が……いないんですか?」
修一は深いため息をついて肩を落とす。そんな修一の肩に、雨の滴が染みていく。
「璃子が出て行った。こんな手紙を残して」
ポケットから封筒を取り出し、それを颯介に押し付ける。
「君のところにいないのなら、どこに行ったんだ?」
颯介が黙って首を振る。璃子の居場所なんてわかるわけない。ふと、いつかこの場所で、璃子と会った日のことを思い出す。
――颯介が、ここにいるような気がしたから。
璃子には颯介の居場所がわかるのに、どうして颯介にはわからないのか。自分で自分が腹ただしく、そして情けなく思える。
「なぜあの子は、助けを求めないんだ?」
修一の声が波の音に混じって、颯介の耳に聞こえる。
「なぜすべてを、ひとりで背負いこんでしまうんだ?」
颯介は黙って修一の顔を見た。その目がかすかに潤んでいる。もしかしたらこの男も、本気で璃子のことが好きなのかもしれない。
「つらかったら、助けを求めればいいのに……」
そしてゆっくりと颯介に背中を向ける。
「もし君のところに来たら、連絡してくれ。無理やり引き離したりしないから」
それだけ言って修一は車に乗り込んだ。
遠ざかるエンジン音を聞きながら、颯介は璃子の手紙を開く。修一宛てのその手紙には、懐かしい璃子の文字が並んでいた。
『修一さん。理由はどうであれ、あたしはあなたに拾ってもらえて、幸せでした。このままあなたの赤ちゃんを産んで、何も考えずに暮らしたいと思いました。でも、それはやっぱりできません。あたしは汚れています。あたしは母親になる資格なんてありません。ごめんなさい。あなたの赤ちゃんを産めなくてごめんなさい。あたしのことはもう忘れてください。お願いします』
「……なんだよ、これ」
手紙を持つ手がかすかに震える。璃子の書いた文字が、雨に濡れてにじんでいく。
――なぜあの子は、助けを求めないんだ?
さっきの修一の声がどこからか聞こえる。
――あたしは汚れています。
あの日だ。すべてはあの日から始まった。
璃子は何も悪くないのに。悪いのは大人だったあの男なのに。
すべてを自分のせいにして、璃子は助けを呼ぶことができなかった。
血のつながった母親にさえ、頼ることができなかった。
いつだって、いつだって、いつだって、たすけて欲しかったはずなのに……。
手紙をぐしゃっと握りしめ、国道を渡り、坂道を駆け上る。
璃子の行きそうな場所なんてわからない。だけどもしかしたらいるかもしれない。
すべての始まりのあの場所に……。
ドクドクと高鳴る鼓動と共に、璃子の言葉が颯介の頭を渦巻いていた。
――颯介は、あたしの一番大切な人。