25 《23歳・15》
夜勤を終えて外へ出る。八月も終わりだというのに、朝から真夏のような陽射しが容赦なく照りつけていた。
重い足を引きずるようにして、颯介は自転車置き場へ向かう。すると立ち話をしていたおばさんたちが急に口をつぐみ、バラバラと散らばっていった。
あの人たちが話していた内容は、聞かなくてもだいたいわかる。
この工場で働いていた女が殺人事件に巻き込まれたなんて、噂好きな主婦にとっては、たまらなく魅力的な話だ。ついでにその女と付き合っていた男が、警察に事情を聴かれたことを、おもしろおかしく膨らませて付け加えているのだろう。
自転車に飛び乗って、絡まりつく視線から逃げるようにペダルを踏む。
振り払おうとすればするほど、どうしようもない考えが頭の中を駆け巡る。
あの時――加奈をひとりで行かせなければ……彼女は殺されることはなかったのでは?
電話の向こうで、たすけてと言った加奈の声が、耳の奥から離れない。
突然クラクションが鳴り響いた。目の前に車がせまってくるのが見えて、あわててハンドルを切る。バランスを崩した颯介の自転車は、道路の端の草むらに突っ込んだ。
けたたましい音を鳴らしたまま、車はスピードを落とさずに去っていく。のろのろと体を起こして、倒れた自転車をぼんやりと見つめる。
半袖シャツから出た腕に、うっすら血がにじんでいた。なぜか璃子の持っていた、血の付いたナイフを思い出す。
どうしてうまくいかないのだろう。どうして狂ってしまったのだろう。多くのことは望んでいないのに。ただ普通に幸せになりたいだけなのに……。
颯介の脇に車が止まった。運転席の窓が開き、男が顔を出す。
「大丈夫かい?」
地面に座り込んだまま、その顔を見上げる。
「ひどい顔をしてるな。乗りなさい。送ってあげるから」
修一がそう言って、助手席のドアを開けた。
修一の運転する車に、颯介は乗っていた。乗せてもらうのはしゃくだったけれど、壊れた自転車を押して帰る気力もなかった。
「どこへ帰るの? 会社の寮? それとも実家のアパート?」
修一が何でも知っているような口調で言う。そして返事をしない颯介をちらりと見て、ポケットからハンカチを差し出した。
「血、出てるよ」
「……大丈夫です」
「車を汚されたくないからね」
だったら乗せるなよ、と思ったが、颯介は素直にハンカチを受け取った。どこかいい香りのするハンカチだった。
「君も災難だったね。刑事が来たんだろう?」
修一が前を向いたまま話し出す。
「僕のところにも、もちろん来たけどね……」
ふうっと小さくため息をつく修一の横顔を、颯介はぼんやりと見つめる。
「まぁ、犯人はほとんど確定してるんだろうけど。加奈の交際相手を一人ずつ調べれば、すぐにわかることだ」
加奈の言っていた「やくざみたいな男」という言葉を思い出す。やはりそいつが犯人なのだろうか……。
「加奈は……どうして殺されなくちゃならなかったんだろう」
颯介がぽつりとつぶやいた。
あの金を使って、逃げたんじゃなかったのか? 逃げるふりをしただけで、本当は男のところに戻ったのか? それとも逃げたところをつかまって……ひどいことをされたのだろうか?
ふたりの間にどんな理由があったとしても、殺されるほどの理由なんてあるはずがない。
「そういう男と付き合ってしまったんだから仕方がない。僕のせいでも、君のせいでもないよ……」
修一の声が狭い車内にぽっかりと浮かんだ。颯介はそれ以上何も話さなかった。修一も何も話さなかった。やがて車が社員寮の前に止まる。
「ここでいいかい?」
「……ありがとうございます」
小さく頭を下げてドアを開ける。
「ハンカチ……今度弁償しますから」
修一は首を横に振ると、全く別のことを口に出した。
「璃子のことは、気にならないのかい?」
顔を上げて修一を見る。
「加奈のことで頭がいっぱいで、璃子のことまで思考が回らないようだな」
修一がふっと笑って、フロントガラスから外を見つめる。
「璃子は最近元気がないよ。つわりがひどいこともあるけど……それだけじゃないのかもしれない」
「なんで……俺にそんなこと……」
「君に関係があるような気がして」
修一の視線が颯介に移った。表情は穏やかなのに、目つきだけが鋭く光っている。思わずそらしそうになった視線を、颯介は意識して止めた。
「……関係があったらどうなんですか? 俺が、璃子をもらってもいいんですか?」
颯介の声に修一が鼻先で笑う。殴りたくなる衝動を抑えて車を降りる。
「近いうちに婚姻届を出そうと思う。璃子の気が変わったら大変だからな」
思いきりドアを閉めたら、修一はすべるように車を走らせた。それを見送る颯介の上から、眩しい陽射しが照りつけていた。