21 《23歳・11》
「なんで……」
振り絞るようにして、やっと出した声はかすれていた。
「なんで、ここにいるんだよ?」
「颯介が、ここにいるような気がしたから」
璃子の声を聞いてはっとした。自分が泣いていたことを思い出し、Tシャツの袖で目をこする。そんなことをしても、手遅れだとはわかっていたけれど。
「この前……うちに来たでしょう?」
璃子の声は、潮騒にかき消されてしまいそうなほど、心細かった。
「修一さんと外で話していたの、全部聞こえた」
修一っていうのか、あの男……。そんなことを頭の隅で納得しながら、颯介は璃子に言う。
「聞いてたなら出てこいよ。何度も呼んだだろ、俺」
口調がどこか刺々しくなっているのは、なぜだろう。
「それとも中で笑ってたのか? 何も知らなかったのは、俺だけだって」
そんなはずはないと信じているのに……どうして璃子を責めるようなことを言ってしまうのか。
さりげなく顔をそむけた颯介の前で、璃子が首を横にふる。
「あたしも……何も知らなかった。修一さんと出会ったのは、ただの偶然だと思ってた」
海風が吹いて、璃子が帽子に手を当てる。
「でも、本当にあの人は優しい人なの。ひどいことなんて、何もされてないよ?」
盗み見するように、璃子の手首に視線を向ける。消えそうで消えない傷痕は、璃子自身がつけたものなのか。
「あの人は、あたしのことを大切にしてくれる」
「……そんなの、ただの同情だろ」
璃子の一言一言に胸がいらだつ。初めて味わう、行き場のない想い……。
嫉妬だ――自分はあの修一とかいう男に嫉妬している。
手を伸ばして、璃子の背中を引き寄せる。麦わら帽子がふわっと落ち、懐かしい香りが鼻をかすめる。それを確かめるように、ぎゅっときつく璃子を抱きしめる。
璃子の体に触れたのは初めてなのに、ずっと前からこの感触を、颯介は知っていたような気がした。
「璃子……好きだ」
ほんの少しだけ、璃子の体がぴくんと動く。
修一というやつが、どんな男だってもうかまわない。璃子を連れてこの町を出ようと思っていた、あの頃に戻ればいいだけだ。
「颯介……」
力をゆるめた颯介の腕から、璃子の体がすっと離れる。
「あたしなんか、好きになったら駄目だよ?」
首を横に振って、もう一度璃子の体を抱き寄せる。
「あんな男のところに戻るなよ。行くところがないなら、俺のところに来ればいい」
「ううん……駄目なの」
「あいつのことが、そんなに好きなのか?」
「……そういうことじゃないの。もう、遅いのよ」
璃子の両手が、颯介の胸を押す。ゆっくりと体を離して、璃子はその視線を颯介に向ける。
「あたしが病院に通ってること、知ってるでしょ?」
知ってる。あの雨に濡れた五階建てのビル……。
「妊娠してるの、あたし。修一さんの子供を」
強い陽射しが頭の上から照りつける。一瞬軽い眩暈を起こしそうになって、自分自身に言い聞かせるようにつぶやく。
「……嘘だろ?」
「本当なの」
璃子がバッグの中から手帳のようなものを取り出した。颯介の目に『母子健康手帳』という文字と、璃子の名前が見えた。
「だから……ごめんね? 颯介」
ごめんね、颯介。ごめんね、ごめんね……璃子の震える声が、うわ言のように頭の中を回り続ける。
ふたりの脇に一台の車が止まった。軽くクラクションが鳴って、中からドアが開く。
運転席の男が見えた。修一だった。
璃子が麦わら帽子を拾い上げ、車に引き寄せられるように歩いていく。修一が璃子を助手席に招き入れて、ドアが無情な音を立てて閉まる。
黙ったままの颯介の前を、車が静かに走り去っていった。