20 《23歳・10》
「颯ちゃん、お願い。お給料入ったらすぐ返すから」
加奈に一度だけ、金を貸したことがあった。通信販売で買った家具の、支払い期限が迫っているが、給料日前で金が足りないのだという。
たいした金額でもなかったから、いいよと言った。ただ颯介の手元にも現金がなくて、銀行に行って引き出してこようとしたら、加奈が「あたしが行く」と言い出した。
「颯ちゃん、今日日勤でしょ? あたし夜勤で昼間暇だから、銀行行ってくるよ」
そのほうが助かると思い、加奈にキャッシュカードを貸して暗証番号を教えた。別に何の疑いも持たずに……。
「嘘だろ……?」
男に庭から追い出され、自転車を押しながら財布を開いた。あの時、加奈に貸した銀行のキャッシュカードがなくなっていた。
寮に置いてあるのかもしれない。そう思って部屋中を捜す。だけどカードは見つからない。
自転車に飛び乗って銀行に向かった。中学の頃から貯め続けた通帳に記帳する。そして印刷された数字を見て、颯介は愕然とした。
昨日、今日の二日間で、限度額いっぱいの金が引き出されている。
――君はあの女に騙されていたんだよ。
あの男の言葉が、頭の中でぐるぐると回る。
銀行を出て、加奈のアパートへ自転車を走らせる。嘘だ、嘘だと、心の中で念じるように繰り返す。
だけど部屋は引き払った後で、その後行った職場でも、加奈が今日付けで仕事を辞めたと聞かされた。
騙された? 世話好きで人懐こい笑顔も、心配そうに額に触れた手の平も、柔らかくて甘いキスも、全て嘘だったのだろうか。
すみません、今日は休みます。そのまま職場でそう告げた。事務員の女性が、眉をひそめて颯介を見る。小さく頭を下げて、事務所を出た。
クビになるかもしれない。こんないい加減な社員、迷惑以外の何ものでもない。
照りつける陽射しの中を、自転車を押して歩く。足が重くて、首筋がじりじりと焼き付けられるように痛んだ。
白い波が、浜辺に打ち寄せる音を、颯介はぼんやりと聞いていた。
カードを盗まれて、勝手に金を引き出されたことを、銀行と警察に連絡しようかと何度も思った。
あの金は、璃子とこの町を出ようと思って貯めた、大事な金だったから。
だけどそれをしなかったのは、心のどこかで、まだ加奈のことを信じていたからかもしれない。
きっと、どうしても金が必要な理由があって、そのうちひょっこり「颯ちゃん、ごめんね?」と返してくれるのではないだろうか、なんて……。
波打ち際で、水着姿の子供たちがはしゃいでいる。地元の子供と、海水浴に来た近隣の家族連れがいるくらいの、小さな海水浴場。
小学生の頃、颯介も璃子と一緒にここへ来た。あの忌まわしい男が、まだ璃子の家に出入りする前の平和な頃――。
璃子はいつも、向日葵の造花がついた麦わら帽子をかぶっていた。海のそばで育ったくせに、泳げないから海に入りたくないと言って、いつも波打ち際で足を浸しているだけだった。
強い海風が吹いて、璃子の麦わら帽子が飛ぶ。追いかける璃子の長い髪がなびいて、花柄のワンピースの裾が揺れる。
手を伸ばした璃子の目の前で、麦わら帽子がぽちゃんと水際に落ちた。颯介はそんな璃子を見て、からかうように笑った。水の滴る帽子を拾い上げながら、璃子が振り向いてほっぺたを膨らませる。
あの頃から好きだった。璃子のことが好きだった。
璃子が自分を避けるようになってからも、他の男と付き合うようになってからも、璃子の行方がわからなくなってからも……ずっと璃子のことが好きだった。
こんな単純なことに、どうして今まで気づかなかったのだろう。鈍くてとろくさい自分がおかしくて笑える。
何か温かいものが頬を伝わる気がして、右手で触れた。そこで初めて、自分が泣いていることを知る。
泣きたいのか、笑いたいのか……自分で自分の気持ちをコントロールできないことに、今度は無性に腹が立つ。
「颯介」
耳に璃子の声が響いた。気のせいだ。こんなにも璃子のことを想っているから。
「颯介」
重たい首をひねって振り返る。堤防に腰かける颯介の前に、麦わら帽子をかぶった璃子が立っていた。