2 《15歳・1》
まだ六月だというのに、日差しは真夏のようだった。
一時間目の授業が始まった中学校の教室。颯介は机に頬杖をつき、ぼんやりと窓の外を眺める。
耳元を通り過ぎる、担任教師の太い声。くすくすと笑いあう、女子生徒のささやき声。
やがて校庭を真っ直ぐ歩いてくる、遅刻生徒の姿が見えた。
――璃子だ。
璃子は首元に絡む長い髪を、鬱陶しそうに手で払う。真っ白な半袖のブラウスが、朝の日差しにまぶしく映った。
教室の引き戸を開け、堂々と入ってきた璃子に、クラス中の視線が集まった。
「篠田ぁ? また遅刻か?」
五十代の担任教師が、あきらめまじりの声を出す。
「すみません」
そう言って少し微笑む璃子は、良くも悪くも目立っていた。
すらりと細い体に、ちょこんと乗った小さな顔。艶やかな黒髪は胸のあたりまで伸びていて、肌は白く、頬がほんのり桃色に染まっている。
十五歳の璃子がすでに、何人もの男に告白され、何人もの男と付き合って、何人もの男と寝たことを、颯介は知っていた。
教師の声を軽く流して、璃子が席につく。男子生徒のひそひそ声が聞こえ、楠木美優が璃子に小さく手を振っているのが見える。
「そんじゃあ、続き始めるぞぉ」
担任がどうでもいいように、ぽりぽりと耳の後ろをかきながら言って、教科書を開く。
璃子は鞄の中から教科書を出した。細くてしなやかな指が、ぱらぱらと教科書をめくる。
颯介はぼんやりとそんな璃子の指先を見つめた。隣の席の美優が、なにやら璃子に話しかけている。
ゆっくりと顔をそむけようとした瞬間、こちらを向いた璃子と目が合った。
「璃子ー、今日の帰りどうするぅ?」
昼休み、美優の高い声が颯介の耳に聞こえた。
クラスで一番背の低い美優は、その愛らしい体型をアピールするように、短いスカートをはいて、髪を高い位置でちょこんとふたつに結んでいる。
声は鼻にかかるようなアニメ声で、一見テレビに出ているアイドルタレントのようにも見える。
だけどこの小さな海辺の町の中学校では、彼女は微妙に浮いていた。
颯介はコンビニの袋からおにぎりを取り出しながら、璃子のそばに寄っていく美優の姿を、さりげなく目で追う。
このクラスで、璃子は美優と過ごすことが一番多かった。「浮いている」という点では、ふたりは共通していた。
「あ、ごめんね。今日約束あるの」
璃子の声を右耳で聞きながら、おにぎりの入ったビニールを引き裂く。
美優がふふんと鼻で笑って、璃子の前の席に座る。
「約束って……デート?」
「そんなんじゃないよ。バイクに乗せてやるってしつこいから、ちょっと付き合ってあげるだけ」
「あの工業高校の男?」
璃子が面倒くさそうにうなずく。
「璃子を後ろに乗せて、カッコつけたいんだね、きっと」
美優が笑いながら、弁当の包みを開けている。そんな様子を眺めていた颯介の肩を、誰かがぽんっと叩いた。
「なに見てんだよ?」
振り向いた颯介の前に、野球部の井上清四郎が立っていた。
「べつに」
「楠木美優か? それとも篠田璃子?」
「どっちでもねぇって」
坊主頭の清四郎はにやにや笑いながら、颯介の前に腰かける。
「俺はやっぱ篠田だな」
颯介がちらりと清四郎を見る。やっぱ美人だしー、と言う清四郎の口元がにやけている。
弁当を食べた後なのか、前歯に海苔がついていることに、こいつは気づいていないのだろう。
「……お前じゃ無理だよ」
「へ? なんか言った?」
薄笑いしながら璃子を見ていた清四郎が、颯介に振り向く。べつに、と言って席を立つ。
コンビニの袋に食べかけのおにぎりを突っ込んで、颯介はそれをごみ箱に放り投げた。
長い坂道を上ったところで、颯介はガードレールに腰かける。
後ろを振り向けば、海辺の町の寂しげな夜景。ぽつぽつと灯るあかりに、国道を走る車のライト、その向こうには真っ黒な海がどこまでも続く。
そしてこの場所からは、狭い道路を隔てて、璃子の家がよく見えた。
持っていたビニール袋から、パンを取り出しかじりつく。あたりは街灯も少なく、璃子の部屋のあかりだけが、垣根の向こうにぼんやりと浮かんでいた。
やがて、家からひとりの男が出てきた。暗闇の中に、金色っぽい髪だけが目立つ。
男は持っていたヘルメットをかぶり、バイクにまたがると、騒々しい音を立てて去って行った。
颯介はその姿を見送った後、ゆっくりと立ち上がり、璃子の家に向かった。
庭に回って窓ガラスをコツンと叩く。すぐに窓が開いて璃子が顔を出す。璃子はキャミソールにショートパンツをはいていて、長い髪を垂らしていた。
「入る?」
当たり前のように璃子が言う。颯介は返事もせずに窓から部屋へあがる。
シーツの乱れたベッドがすぐに目に留まったが、何も言わずに颯介は床に座った。
「あたしのプリンある?」
食べかけのパンを袋から取り出し、食べ始めようとした颯介に璃子が言う。
「ねえよ、そんなん。あの男に買ってもらえ」
「買ってくれるわけないでしょ。あの男ケチだもん。やるだけやって、さっさと帰った」
璃子はベッドの上にぼすんっと腰かける。ショートパンツから伸びた細くて白い足を、颯介はちらりと見る。
「男ってどうして、ソレしか頭にないのかな……」
ため息まじりに、両手で髪を後ろに束ねる璃子。細いうなじが、薄暗い蛍光灯のあかりにぼんやり映る。
そんな彼女から目をそらして、颯介が答える。
「そういう男とばっかり、付き合ってるからだろ?」
璃子が鼻で笑って外を見た。目の前にいる颯介を通り越し、視線を窓の外へ泳がせる。
空に浮かぶ蒼白い月――だけど璃子は見ていない。何も見ようとしていない。それを颯介は知っている。
ビニール袋をぐしゃっと丸めてごみ箱に放り投げると、颯介は璃子の前に立ち上がった。
「もう帰るの?」
璃子の視線が、ゆっくりと颯介に移る。
「今日もお母さんは夜勤?」
「ああ」
「じゃあ、真帆ちゃんが待ってるもんね」
真帆というのは颯介の妹だ。
颯介の両親は、颯介が中学に上がってすぐに離婚して、父親はアパートを出て行った。
看護師をやっている母親は夜勤も多く、そんな夜は颯介が、小学三年生の真帆の面倒をみていたのだ。
「早く帰ってやりなよ、颯介」
振り返って璃子を見る。タオルケットに身を包み、璃子はもう背中を向けていた。




