19 《23歳・9》
「あ、あの……こちらに篠田璃子さんが住んでいると聞いたので」
男は表情を変えないまま颯介を見ていた。細身で真面目そうな、サラリーマン風のこの男が、加奈を殴っていたとは到底思えない。何かの間違いではないかとさえ思えてくる。
「璃子の友達?」
「……そうです。どうしても話したいことがあって」
男がわずかに口元を緩ませる。
「璃子は君に話したいことなんて、ないと思うけどね?」
顔を上げて男を見る。眼鏡の奥の視線が、急に冷たく感じる。
「加奈と別れた途端に今度は璃子かい? 未練たらしく璃子の後を追うのは、もうやめてくれないかな?」
「なんで、そんなこと……」
「ちょっとね。加奈の男関係は、全部調べさせてもらった」
男が見下したようにふっと笑う。体中に嫌な汗が流れる。
「加奈から何を聞いたか知らないけど、被害者は僕のほうなんだよ」
男は指先で眼鏡を触る。平凡なスーツ姿に似合わない、気障な指輪が左手についていた。
「加奈が僕と結婚したのは、財産目当てだったんだ。この家で暮らしながら、陰で昔付き合っていた男に貢ぎ続けていた。そのことを知って責めたら、勝手にアパートを借りて、工場のパートなんか始めて、そこでまた新しい金づるを見つけた」
「金づるって……」
男が不気味な笑顔を見せて、体が縛られたように動けなくなる。そんな颯介に一歩近寄り、男はささやくようにこう言った。
「加奈とのセックスはどうだった? よかったから付き合い始めたんだろう? 笠原颯介くん」
汗ばむ右手をぎゅっと握って、男を睨む。しかし目の前の男は動じることもなく、薄笑いを浮かべたままだ。
「加奈は昔の男ともまだ関係を持っている。君から金を巻き上げて、その男に貢ぐつもりだったんだろう。君はあの女に騙されていたんだよ」
男の声を聞きながら、無邪気な加奈の笑顔を思い出す。騙されてたって……何を言っているんだ、こいつは……。
「それより、君のことを調べているうちに、彼女の存在を知ってね」
「……璃子のことか?」
「そう、篠田璃子。あの子は不憫な子だ」
颯介から目をそらし、男は二階の部屋を見上げる。
「僕と出会った頃の璃子は、まるで自らの罪を償うかのように、自分で自分の体を傷つけていた。あまりにも痛々しくて見ていられなかったから、僕が引き取ってあげたんだ」
「何が引き取っただよ? あんたこそ璃子に、暴力ふるってないだろうな?」
男が颯介の前で、わざとらしいため息をつく。いちいち人の気持ちを逆なでするような、その男の態度に、颯介が思わず声をあげた。
「加奈のことも殴ってたんだろ!」
「まったくわからない人だなぁ。そんなの、君の気を引くために作った、加奈の作り話に決まってるじゃないか」
今度こそ殴ってやろうかと右手を握る。だけど男はまあまあ、と言うように、両手を広げた。
「君、何か取られたりしてないかい? 通帳やカードは調べたほうがいいよ。加奈がこの家を出て行った時も、ごっそり金を持って行かれたからね」
「いい加減なことばかり言うな! いいから璃子に会わせろよっ!」
男を押しやり、颯介は玄関のドアを叩いた。璃子、璃子と、その名前を呼ぶ。だけどドアは固く閉ざされたままだった。
「璃子は君には会わないよ。そう言われたんだろう?」
男が颯介の腕をぐっとつかみ、ドアから引き離した。
「もう帰ってくれ。でないと警察を呼ぶぞ?」
男がポケットから携帯を取り出す。おもむろに開いて数字ボタン押して話し始める。
「もしもし? 迷惑な人がいて困っているんですが」
こいつ本気か? 携帯をひったくって耳に当てる。
『はい? こちら110番ですが? 何がありましたか?』
耳から離して男を見る。男は携帯を取り上げると、颯介の体を突き飛ばした。
「帰りなさい。それが璃子のためだ」
呆然として振り返る。男は携帯を耳に当てたまま、口元をゆがませると、ドアを開いて家の中へ入っていった。