18 《23歳・8》
「お疲れさまでしたー」
朝から真夏の陽射しが照りつける。夜勤明けの従業員たちが、ぞろぞろと自転車置き場へ向かう。
流れに沿うように歩きながら、颯介は加奈の姿を見つけた。
うつむき加減に、急ぎ足で去ってゆく加奈は、もう颯介のことを捜さない。
なんか食べに行こうか? と話しかけてくることもないし、天真爛漫な笑顔を見せてくれることも、もうないのだ。
さりげなく視線をそらして、自転車の鍵を開ける。近くで立ち話をしていたおばさんが、颯介に声をかけてくる。
「あら、颯ちゃん。今日はひとり? 加奈ちゃんと一緒じゃないの?」
曖昧な返事をしてから、ペダルを踏み込む。容赦なく降り注ぐ陽射しを睨みつつ、これから起こそうとしている行動を考える。
仕事をしながら一晩中考えた結論は、正しいかどうかわからない。だけどそれをするしかないと、颯介は思っていた。
もう一度璃子に会って、自分の気持ちを伝えること――このまま何もせず、中途半端な気持ちで生きるのは、加奈に対しても失礼だと思ったから。
のろのろと歩く人たちを、自転車で追い越す。
加奈が結婚していた時に住んでいた家は、聞いたことがあった。今もその場所にあの男がいれば、璃子に会えるかもしれない。
颯介はスピードを上げて踏切を渡り、駅の反対側にある住宅地へ向かう。まだ少ししか走っていないのに、背中にじっとりと汗がにじんでいた。
真新しい建売住宅が並ぶ中で、その大きな洋風の家は目立っていたから、すぐにわかった。
自転車に乗ったまま表札を確認すると、加奈の結婚していた時の苗字が書いてある。
加奈の話によると、この家はあの男の実家らしい。両親は他界してすでにいなかったから、結婚後、加奈と元夫はここにふたりで暮らしていた。
古いが立派な家を見る限り、裕福な生活をしていたと思われる。けれど実際、この家の中で起きていた夫婦の出来事は、外から知ることはできなかっただろうが……。
突然物音がして、颯介は思わず自転車を動かした。そしてすぐに情けなくなった。
これではまるで、未練がましい男が、忘れられない女をストーカーしているみたいだ。
隠れることなんかない。堂々と璃子に会って、もう一度話がしたいと言えばいいのだ。
しかし家から出てきたのは、男のほうだった。眼鏡をかけた、三十代くらいのスーツ姿の男は、庭を抜け道路に出て、駅に向かって歩いていく。
颯介は黙ってその背中を見送った後、ひっそりとした大きな家を見つめた。
璃子は今、この中にひとりでいるのだろうか。ここまで来て、足がすくんでいる自分に気づく。
自転車のハンドルを握ったまま、立ち尽くしている颯介の脇を、犬の散歩をしている人が通り過ぎる。ふと顔を上げたら、怪訝な目つきのその人と目が合って、颯介は逃げるように、自転車ごと広い庭の中へ入った。
玄関の前で一息ついて、思いきってインターホンを押す。返事を待つ時間が、とてつもなく長く感じる。
しかしいつまで待っても返事はなかった。焦る気持ちを抑えきれずに、もう一度押そうと指を伸ばしたとき、誰かに後ろから肩を叩かれた。
「うちに何か用ですか?」
心臓が飛び出るかと思うほど驚いて、振り返る。そこには先ほど出かけた男が、穏やかな表情で立っていた。