16 《23歳・6》
商店街の寂れた喫茶店に、璃子が傘を閉じて入ってくる。病院へ行くところだった璃子と約束をして、戻ってくるまでここで待っていた。
颯介の前に座ってミルクティーを注文した後、先に口を開いたのは、璃子のほうだった。
「……元気だった? 颯介」
颯介は黙ってうなずく。自分から声をかけておいて、どうして璃子の前だと何も話せなくなるのだろう。
「真帆ちゃんは?」
璃子の声に、はっと顔をあげる。そしてあの日のことを思い出す。
あの日――真帆が璃子の家に行った日。
男に服を脱がされて体を触られた真帆は、不幸中の幸いというか、それ以上のことはされなかった。ちょうどその場に、璃子が現れたからだ。
そして真帆を逃がしたあと、璃子は台所から包丁を持ち出し、あの男を刺した。
璃子がやっていなければ、自分がやってた。だから璃子は真帆を助けて、颯介の背負うはずだった罪までも、背負ってくれた。
守られていたのは――颯介のほうだったのだ。
「大丈夫……元気だよ。あいつは」
自分の声が情けないほど震えている。
「そう。よかった」
そう言ってかすかに微笑む璃子の前に、ティーカップが運ばれてくる。
窓の外に降り続く雨。外はもう闇に包まれている。工場へ行く時間が迫っていた。
「璃子……一緒に暮らしてるのか? あの男と」
少し不思議そうな顔で颯介を見て、璃子が答える。
「そうよ……あたし、あの人に拾ってもらったの」
「やめたほうがいい。あんな男」
「……知ってるの? あの人のこと」
知ってるよ。女に平気で暴力をふるう男だろ? 言葉をのみこむ颯介の前で、璃子が穏やかに微笑んだ。
「とても優しい人よ。大人だし頼りになるし。あたし今、すごく幸せなの」
呆然とした気持ちで璃子を見る。そして璃子は、ほんの少し間をあけてから小さな声でつぶやいた。
「だから……颯介には会いたくなかった」
カップを持つ璃子の指先が、かすかに震えているように見えるのは気のせいか。
「もう颯介には会いたくないの。つらいことばかり、思い出してしまうから」
テーブルの上に手をすべらせて、璃子の腕をつかんだ。するりとカーディガンの袖がめくれて、手首に何本かの傷痕が見えた。
璃子はさりげなく手を払い、カーディガンの袖口でそれを隠す。
「もう、待ち伏せなんかしないでね」
立ち上がりながらそう言って、璃子はテーブルの上に千円札を置く。そして颯介に背中を向けて、早足で店を出ていった。
――あたし今、すごく幸せなの。
嘘だ。そんなの。嘘に決まってる。
ポケットの中で携帯が震える。きっと加奈が心配して、かけてきているのだろう。
颯介は携帯を取り出すと、ディスプレイに映る加奈の名前を見つめてから、電源を切った。