15 《23歳・5》
その男に会ったのは、梅雨の季節だった。
スーパーを出て、傘を開いた颯介の隣で、加奈は凍りついたように立ち止っていた。
「どうかした?」
加奈の視線の先を見る。雨でかすんだ夕暮れの街角に、ひとりの男が傘を差して立っている。どこにでもいるような、普通のサラリーマン風の男。
「……あの人」
加奈の、雨音にかき消されてしまいそうな、細い声が聞こえる。
「あたしの元旦那」
「え?」
振り返って、もう一度その男を見た。どう見ても、女の人に乱暴をするような男には見えなかった。
誰かを待っているような男のもとへ、ビルから出てきたひとりの女が駆け寄っていく。
「ごめん。もう行こう、颯ちゃん」
男と顔を合わせたくないのか、逃げるようにして加奈が立ち去る。だけど颯介は、その場を動くことができなかった。
女に傘を差し掛けて、ふたりが雨の中を歩き出す。氷のように固まったまま、颯介は傘の柄をぎゅっと握りしめる。
やがて、傘の陰から、女がこちらに視線を向けた。
「……颯介?」
五年ぶりに聞く、璃子の声。
胸の中にどうしようもない感情があふれ出る。だけど体が動かなくて、声を発することもできなくて……颯介はただじっと立ち尽くしていた。
璃子はそんな颯介に、かすかに微笑みかける。そして、男の傘に隠れるようにして、黙ってその場を去っていった。
「颯ちゃん……どうしたの?」
少し離れた所から、様子をうかがっていた加奈が颯介に言う。
「……なんでもない」
それだけ言うのがやっとだった。加奈に傘を差し掛けて並んで歩く。
泣いているかもしれないと思った。加奈の隣で、自分が泣いていたらどうしようかと思った。
だけど涙は出ていなかった。涙さえも出てこなかった。
雨はもう一週間も降り続いている。そして颯介は雨の間ずっと、夜勤が始まるまでの夕方の時間、あのビルを眺めていた。
五階建てのビルには、内科や小児科のクリニックが入っている。そこに向かう人や出てくる人を、颯介はスーパーの軒下から、ひとりずつ確認する。
自分でも何をやっているのかと思う。ここでまた、彼女に会えるとは限らない。たとえ会ったとしても……自分は何を言うつもりなのだろう。
スーパーから漂う焼き鳥の香り。雨の中、手をつないで歩く楽しげな親子。あと十分、いや五分したら、加奈を迎えに行こう。
そう思った時、見覚えのある女の背中が、颯介の目に映った。見覚えなんてもんじゃない。ずっとずっと、微妙な距離から見つめ続けていた、あの璃子の背中だった。
道路を渡って駆け寄った。水たまりがしぶきを上げて、ジーンズの裾に飛び散る。傘を持つ手がもどかしくて、口の中がからからに乾く。
璃子が静かに傘を閉じた。今日はひとりで来たのだろうか? あの男と付き合っているのだろうか?
聞きたいことはたくさんある。颯介の知らなかった璃子の五年間を、すべて知りたかった。
「璃子っ!」
叫ぶようにその名前を呼ぶ。スローモーションみたいに振り向いた璃子の長い髪に、雨の滴が光っていた。