13 《23歳・3》
春の陽射しが暖かい休日。ご飯を食べに行こうと誘ったら、加奈は喜んで颯介についてきた。
ほとんどシャッターが閉じたままの商店街を歩き、颯介は定食屋の引き戸を開ける。
「あらぁ、颯ちゃん、久しぶり!」
店の椅子に腰かけて、のんびり新聞を読んでいた富士子が顔を上げる。そして颯介の後ろからぴょこんと顔を出した加奈を見て、まあまあまあ……と繰り返した。
「店は古いけど、絶対うまいから」
颯介はそう言って、加奈と向かい合って座る。富士子は奥からお茶を用意して、ふたりに差し出す。
店に客はいなかった。お昼を過ぎたこの時間は、昔からこんな感じだった。
「まったくこの子は、昔から女っ気がなかったからね。女に興味ないのかと心配したもんだよ」
富士子の言葉に、加奈がふふっと笑って颯介を見る。
「でもこれであたしも、安心してあの世にいけるよ」
「おばちゃん。おしゃべりはいいから、早くご飯作って」
富士子がおかしそうに笑って背中を向ける。そして少し間を置いた後、颯介に言った。
「この店ねぇ、そろそろ畳もうかと思ってるんだ」
「え?」
「こんな年寄りが道楽でやってるような店、もう客も入らないしね。あたしも持病があるし」
颯介が工場に就職してこの店を辞めてから、富士子はひとりで店を切り盛りしていた。常連さんはいたから、昼はそれなりに混んでいたけれど、近所の店が次々と店じまいしていることを、颯介も知っていた。
「颯ちゃんには、中学生のころから手伝ってもらってたけど……」
「え? 中学生ですか?」
加奈が口を挟んでくる。
「そうだよ。わずかな給料、丸々銀行に貯金してね。遊んでる気配はなかったから、相当貯めこんでるんじゃないかい? この子は」
「おばちゃん。もういいから」
言葉を遮る颯介の顔を、加奈がじっと見つめている。颯介はなんとなく決まりが悪くて、そんな加奈から視線をそらす。
「アジフライ定食でいいかい? おいしいよ」
富士子が笑ってふたりに声をかける。お願いしまーす、と加奈が嬉しそうに答える。
できあがった定食を加奈と一緒に食べた。
「本当においしいっ! これどうやって作るんですかぁ、ってやっぱ企業秘密ですよね?」
「そんなことないよ。教えてあげようか?」
「わぁっ、うれしい!」
人見知りをしない加奈は、すっかり富士子に打ち解けている。颯介は富士子自慢のアジフライを、一口一口かみしめて食べた。
「いい人だったねぇ?」
店を出て、海岸に向かってふたりで歩いた。すぐに海が見えてきて、加奈は堤防の向こうの海をまぶしそうに眺める。
「おばさん、結婚式には呼んでね、だって。ちょっと気が早すぎるよねぇ?」
颯介の隣で、加奈がけらけらと笑う。海から吹く風が、いつの間にか柔らかな春風に変わっている。
やがて加奈がぽつりとつぶやいた。
「結婚式って言えば……あいつも結婚するのかな……」
「……あいつって?」
ゆっくりと振り向いて加奈を見る。
「別れた旦那」
「……ああ」
「女の人と、暮らしてるみたいなの」
加奈はふっと笑って、また海を見る。
海を見つめる加奈が、どんな表情をしていたのかわからない。だけど加奈の横顔が、なんとなく寂しげに颯介には見えた。
「俺だったら、そんなことしない……」
自分の声が、どこか遠くから聞こえてくるようだ。
「俺だったら、加奈さんを殴ったりしない」
加奈が振り向いて颯介を見る。そしていつものように微笑んだ加奈の頬を、つうっと一筋の涙が流れ落ちた。
「……颯介」
加奈の細い体が颯介の胸にすっぽり収まる。背中をなでるようにして、加奈を抱きしめた自分の手が、かすかに震えているのはどうしてだろう。
罪の意識? 違う。何も考えるな。このままでいい。このまま流れるように生きていけば、それでいい。
颯介の胸から見上げるように、加奈が笑顔を見せる。そっと顔をよせて、その唇にキスを落とす。
お互いを探り合うように舌を絡ませ、体だけを熱くする。貪るように求め合い、壊れるくらい抱き合えば、きっと好きになれる。きっと加奈のことを好きになれる。
加奈の体を抱きしめながら、颯介はそう思っていた。