12 《23歳・2》
海沿いの道路を自転車で走る。颯介は工場の近くにある、従業員用の寮に住んでいたが、今日はそこへは帰らずに、真帆と母の住むあのアパートへ向かうつもりだった。
冷たい海風が、夜勤明けの眠気を吹き飛ばす。ペダルを力いっぱい踏み込んで、颯介は坂道を一気に上った。
坂道を上り切ったところに、「空き家」と張り紙の張られた家がある。誰の目にも留まりたくないかのように、ひっそりと建っているこの家は、空き家になってもうすぐ五年が経つ。
颯介は、よみがえりそうになった記憶を必死に押し戻し、スピードを上げてその場所を通り過ぎた。
「あれ、お兄ちゃん、おはよう」
居間でテレビを見ながらトーストをかじっている真帆が、振り向いて颯介に言う。隣町にある高校の制服を着た真帆は、今年十七歳になる。
「母さんは?」
「もう仕事行った」
真帆はそれだけ言うと、いちごジャムのたっぷりついたトーストを、また一口かじる。
「お前……今何時だと思ってるんだよ? 完全に遅刻だろ?」
「わかってるよー」
真帆は最後のかけらを口の中に放り込み、皿を重ねて立ち上がった。
「お兄ちゃん。バス停まで送って? チャリでいいから」
「無理」
「なによー、ケチ。だからいつまでたっても、彼女できないんだよ?」
真帆がぶつぶつ言いながら台所に皿を運ぶ。
「……いるよ。彼女ぐらい」
「へ?」
水道の蛇口をひねった真帆が、素っ頓狂な声を出す。
「うそ、マジで? ねねっ、どんな人? どこで知り合ったの?」
真帆の声を背中に聞きながら、奥の部屋に入って窓を開ける。冷たい冷気が、朝食と化粧品の混じりあったような部屋の匂いを消してゆく。
「ねえ、お兄ちゃんてば」
「うるさいな。お前には関係ないだろ」
「関係あるよ。あたし心配してるんだから。だってお兄ちゃん、璃子ちゃんのこと……」
振り返って真帆を見る。襖の横に立っている真帆がはっと口をつぐむ。
「……ごめん。あたしはただ……」
「人のことより自分の心配しろ」
颯介が自分の腕時計を真帆の前に差し出す。
「時間」
「あっ、やば。もう行かなきゃっ」
真帆がばたばたとブレザーを羽織り、鞄を持って外へ飛び出す。玄関のドアがバタンと閉じるのを確認してから、颯介は窓の外を見る。
雨上がりの空の下、転がるように走っていく真帆。その子犬みたいな姿を眺めていたら、真帆が振り向き、颯介に向かって手を振った。
誰もいなくなった部屋で、颯介は畳に横になった。真帆の飲みかけの冷めたココアが、テーブルの上に置いたままだ。
颯介は仰向けになって、天井の染みをぼんやりと見つめる。
もう五年近く――璃子には会っていなかった。
あの花火大会の夜、血まみれでうずくまっていた男は、思ったよりも軽傷だった。幸か不幸か、あの男は死ななかったのだ。
璃子は警察の世話になり、そのままあの家には戻ってこない。そしていつの間にか、璃子の母親もいなくなり、あの家は空き家になった。
颯介は起き上がると台所へ行き、冷蔵庫を開けた。真帆が買ったと思われる、ペットボトルのお茶を開けて一気に飲む。夜勤明けで眠いはずなのに眠れなかった。
――颯ちゃんは、優しいね?
なぜかさっき聞いた、加奈の声が聞こえてくる。
――かわいそうな人見ると、放っておけないんだよね?
璃子のことは、そうだったのかもしれない。
あのかわいそうな子を、ただ助けてあげたいだけで……ヒーロー気取りになっていた。
好きだとか、愛しているだとか、そういう気持ちとは違う。きっと違う。
……じゃあ、加奈のことは?
過去の傷を引きずりながら、自分を求めてくる彼女を、なんとなく受け入れてしまっている。
助けてあげることもできないくせに。加奈のことを、好きでもないくせに。
飲み干したペットボトルを、ごみ袋の中に投げ捨てる。
そんなことは、もうどうでもよかった。薄っぺらな自分の人生は、あの日、すべて終わったのだから。
――璃子がやらなければ、自分がやってた。もしかしたら、殺していたかもしれない。
畳に寝ころび、毛布を頭までかぶって体を丸める。
忘れようと思えば思うほど、最後に見た璃子の顔を思い出している、自分に気がついた。