11 《23歳・1》
「お疲れさまでしたー」
夜勤明けの従業員たちが、食品工場をあとにする。自転車置き場に向かう、パートのおばさんの群れに紛れて、颯介も朝日の中を歩く。
四月といえども、朝の空気はまだ冷たかった。昨日降った雨のせいで、舗装されていない土の部分を歩くたび、スニーカーがぐしゃっと沈む。
何台も並ぶ自転車の中から、自分の自転車を引っ張り出す。鍵を開けようと颯介が手を伸ばしたとき、聞きなれた声がかかった。
「お疲れっ! 颯ちゃん」
「いてっ」
背中をバッグでぼんっと叩かれる。振り向くとパートで働いている佐々木加奈が、にこにこ微笑みながら立っていた。
「お腹すいてない? なんか食べに行こうか?」
周りの視線も気にせずに、あっけらかんと話す加奈。細身で小柄な体に、明るい色のショートカットがよく似合う。そしてその姿は、まだ学生と言っても通用するくらい若く見えた。
すると、加奈の声を聞いたパートのおばさんが、ふたりの間に割り込んできた。
「もてるねぇ、颯ちゃんは。いい男だもんねぇ」
「あら、だめですよ、細谷さん。颯介はあたしのモノですから」
加奈と細谷さんというおばさんは、楽しそうにげらげらと笑い合っている。この人たちは、疲れというものを知らないのだろうか……。
颯介は何も言わずに、自転車を押して歩き出した。
「あ、ちょっと待ってよ、颯ちゃん! じゃあ、お疲れですっ、細谷さん!」
律儀に挨拶をしてから、加奈が後を追ってくる。
「ね、颯ちゃん。なに食べようか?」
そう言って腕に絡みついてくる、加奈の温かいぬくもり。
「それとも……あたしのうち、来る?」
返事の代わりに加奈を見る。加奈はちょっとおどけて、えへっと颯介に笑いかけた。
佐々木加奈は、颯介より三歳年上で、今年二十六歳になる。
二十二で結婚したけれど、夫に暴力をふるわれて離婚したと言っていた。加奈の細い体には、まだいくつもの傷や痣が残っている。
「きたないよね。顔は目立ってヤバいから、見えないところばかり殴ってくるの」
毛布の中で颯介に肌を寄せながら、加奈がそう言って笑う。颯介は加奈の胸元からへそのあたりについた傷痕を、指先でそっとなでる。
「そういうこと……笑いながら言うなよ」
颯介の言葉に加奈が微笑んで、耳たぶに軽いキスをする。
「颯ちゃんは、優しいね?」
耳元でささやくような加奈の声。
「かわいそうな人見ると、放っておけないんだよね?」
隣に寝ている加奈を見る。加奈は颯介に笑いかけると、体を起こしていつものテンションで言った。
「さ、朝ご飯作るよ! 颯ちゃん、なに食べたい?」
加奈の満面の笑顔が、どこか寂しく見えるのは、彼女の過去を知ってしまったからだろうか……。
「帰るの?」
朝食で使った皿を流しに運んで、颯介は玄関でジャケットを羽織る。
「ねぇ、もうここで暮らしちゃえば? いちいち寮に戻るの面倒くさいでしょ?」
「そういうわけにはいかないよ」
「どうして?」
どうしてだろう。確かに断る理由なんてない。
高校を卒業した颯介は、アルバイトをしていた食品工場にそのまま就職した。ほとんど顔パスで就職できるのだったら、高校に行く必要もなかったかもしれないと、後になって考えたりもする。
だけどあの頃は――とにかくこの町を出たかった。どこか遠くの町へ行って、仕事を見つけて、自分の力で暮らしたいと思っていた。あの子と一緒に……。
「颯ちゃん」
加奈の声が聞こえる。ふと振り向いた颯介の唇に、柔らかくて温かい唇が触れる。
「おやすみ。また夜に」
明るい陽射しの中に立つ、小さな白いアパートに、加奈の姿が消えていく。小柄な加奈の体が、いつもよりもっと、か細く見える。
「加奈さんっ!」
颯介の声に加奈が振り向く。
「夜、迎えに来るから。待ってて」
加奈が幸せそうに微笑んで、颯介に向かって手を振った。