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1 《11歳》

性的虐待について触れています。ご注意ください。

 長い坂道を一気に駆け上る。背中で黒いランドセルがカタカタと揺れる。

 民家の庭から顔を出す向日葵の花。ふと後ろを振り向くと、見慣れた青い海が広がっていた。


 今日の給食のデザートは、篠田しのだ璃子りこが好きなプリンだった。

 学校を休んだ璃子の分と、もうひとつ残っていた誰かの分を、笠原颯介かさはらそうすけはこっそりランドセルに忍び込ませた。

 最近元気のなかった璃子に、届けてやるつもりだった。

「わぁっ、颯介ありがとう! 一緒に食べよ」

 きっと璃子はこう言って笑うと思う。

 坂道の終わりでジャンプした。ランドセルの中のふたつのプリンが、ぶつかり合って音を立てた。


 璃子の家は、高台にある古びた平屋建てだった。颯介の住むアパートとは五分も離れていない。

「璃子ー」

 声をかけながら、門から続く飛び石をぴょんぴょんと踏みつけ、庭へ回る。庭から直接璃子の部屋に上がれるからだ。颯介はいつもそうしている。

 地面に生えた雑草は、太陽に向かってぐんぐん伸びていた。紫色の名前も知らない花が、七月の風に小さく揺れていた。

「璃子ー」

 もう一度その名前を呼ぶ。部屋の中でかすかな音がする。璃子はきっと部屋にいる。

 颯介は窓ガラスに手をかけた。建て付けの悪いサッシが鈍い音を立てる。

「璃子っ。今日の給食プリンだった……」

 そこまで言って言葉を切った。

 目の前に裸の男の背中が見える。男はゆっくりと振り返り、颯介に突き刺さるような視線を向けた。

「帰れ」

 足が動かなかった。なにがなんだかわからなくて、ただ膝が小刻みに震えていた。

「見てんじゃねぇ! とっとと帰れ!」

 颯介はくるりと振り返ると、一気に駆けだした。

 庭の少し湿った土を踏みしめ、狭い道路に飛び出し、坂道を転がるように駆け下りた。


 走って走って、海岸まで来ていた。よく璃子を自転車の後ろに乗せて、遊びにくる場所だ。

 颯介は砂浜に降りてうずくまった。

「……なんで?」

 あの男は半年くらい前から、璃子の家に出入りしている男だ。お母さんの彼氏だと、璃子から聞いたことがある。

 璃子の本当の父親は、璃子が生まれてすぐに死んでしまったらしい。

 じゃりじゃりした黒い砂の上に、ランドセルをおろす。Tシャツの背中が汗でぐっしょり濡れている。

 ランドセルを開けてプリンを取り出した。あまりにも激しく動いたせいか、ふたつのカップがぶつかりあって、中身が無残ににじみ出ている。

 そしてその瞬間、颯介の目から涙がぼろぼろこぼれ落ちた。

 あの男が何をしていたのか、五年生の颯介にもなんとなくわかっていた。だけど……。

「なんで……璃子なんだよ?」

 覆いかぶさる男の陰から、璃子の小さな顔と白い肌が見えた。

 泣いているわけでもなく、助けを求めているわけでもなく、何の感情もないような表情で、颯介のことをじっと見ていた。

 ショックと、怖さと、何もできずに逃げ出した自分の情けなさで、涙がいつまでも止まらない。

 あたりが薄暗くなったころ、やっと颯介は立ち上がる。ふたつのプリンは、海に投げ捨てた。空には折れそうに細い月が昇っていた。


 次の日、璃子は学校に来なかった。次の日も、その次の日も、ずっと学校に来なかった。

 そして一学期最後の日、やっと登校してきた璃子はいつもの璃子だった。

 普通に先生と話して、友達と笑いながら遊んでいる。

 だけど璃子は――颯介にだけ話しかけてこない。

 あんなに仲がよかったのに。いつも「颯介」って名前を呼んで、駆け寄ってきてくれたのに。

 避けられてる? あの日、璃子の家に行ったから。あんな場面を見てしまったから。璃子を、助けてあげられなかったから……。

 けれど颯介は、自分から璃子に、話しかける勇気もなかったのだ。


 その日の帰り、颯介はひとりで帰った。

 波打ち際ではしゃいでいる若者たちを横目で見ながら、海岸沿いを歩き、あの長い坂道を上る。

 うつむき気味に向日葵の前を通り過ぎた時、後ろから名前を呼ばれた。

「颯介」

 振り返った颯介の目に、青い海と璃子の姿が見える。璃子は長い髪を後ろでひとつに束ね、黒目がちな大きな瞳で颯介のことを見つめていた。

「な、なに?」

「あのこと。誰にも言ってないよね?」

 あのこと、というのが何を指しているのか、颯介にはすぐにわかった。

「言ってない」

「絶対言わないでよ」

 璃子の手が颯介の腕をつかんだ。汗ばんだその手が、かすかに震えていることに颯介は気づく。

「言ったらあたし……死ぬから」

 ふたりの脇を、一台の車が通り過ぎる。ぼんやりと突っ立っている颯介を追い越し、璃子が坂道を上ってゆく。

 鈍い痛みを覚えて腕を見たら、璃子の爪痕がくっきりと残っていた。

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