追放された粉屋ですが、水門で六十七軒を救って元領主様に選ばれました
「洪水の元凶が帰ってまいりました。処刑は水門を開けてからでお願いします」
雨粒が渡し場の板を叩くなか、オーレリーは外套の裾を絞った。出た水は小さな桶一杯。これでパン生地を捏ねれば六人分。もちろん泥入りなので食べたくはない。
向かいに立つマルセロの顔は、十年前より深く川に削られていた。
「下流は六十七戸。今夜、床上まで来ます」
「川は増してる。まだ速くなる」
「ですから戻りました。六十七戸を守るためと、エステバン様へ押しつけられた責任を、記録どおりの持ち主へ返すために」
マルセロは懐から油布の包みを出した。濡らさぬよう三重に巻かれた中身は、十年分の修繕控えだった。
「娘を守りたかった」
彼はそれだけ言った。
十年前、彼はホアキン様の命令に逆らえなかった。疫病に続く洪水で皆が犯人を欲しがった夜、水門を見張っていた十四歳のオーレリーは「水狂い」と呼ばれ、領主だったエステバン様は管理を怠ったとされた。
オーレリーは追放され、エステバン様は地位を失った。
だが、マルセロの指は今、控えから離れなかった。
「今度は何をしますか」
「渡し綱を返してもらう」
「なら、行く」
恐怖は情状になる。現在の手を動かすなら。
「ありがとう。帳面だけ頂いて、ご本人は安全な場所へ、という親切な案もありますが」
「行く」
「ですよね。私も帳面だけで水門が開くなら、十年間、粉ではなく帳面を挽いて暮らしました」
「相変わらずだな」
低い声がした。
番小屋の軒下から、エステバンが外套を脱ぎながら歩いてくる。十年前には肩に領主の飾り帯があった。今は革手袋と、補修跡だらけの長靴だけだ。
「名誉を戻す話は後だ。避難を先にする。私が黙れば住民への連座を避けられると思った。それは私の判断で、私の過失だ。叔父の捏造まで引き受け続けるつもりはない」
「結構です。過失と横領は同じ袋へ入れません。粉屋は混ぜ物にうるさいので」
エステバンは帳面ではなく、オーレリーの顔を見た。
「君が十年かけて造った製粉所のことも聞いた。水路を読み、借金を返し、三人の職人を雇うまでにしたそうだな」
「評判だけはエステバン様の番小屋へも届くのですね」
「尊敬している。避難が済んだあとも、できるなら君を引き留めたい」
ずるい。隠さない人は、疑う隙がなくてずるい。
「それは六十七戸に朝食が残ってから伺います」
「わかった。君の計算に私の名を使ってくれ」
「元領主様のお名前で水位が下がるなら、ぜひ大書きいたします」
「下がらないから、私の身体も使え」
それなら話が早い。
オーレリーは修繕控えを抱え、雨の向こうの共同倉を指した。
「まず一件目。返していただきましょう」
* * *
控えの九年前の欄には、こうあった。
『渡し綱二巻、鉄鉤三本、槌二丁。共同倉より上手の私設農地へ移す。ホアキン様私印』
共同倉の棚は空で、私設農地から来た荷車には、同じ麻の撚り目を持つ綱が積まれていた。古い共同保管印の上へ、ホアキン様の私印を押した鉛札まで付いている。物証というものは、持ち主よりよく喋る。
「住民を守るため、一時的に移しただけだ」
ホアキン様は村役人へ命じた。
「控えは古い。保管印を外すな。この女を倉から出せ」
村役人の手が保管印へ伸び、そこで止まった。
エステバンが一歩入ると、ホアキン様の声だけが半分になった。たいへん分かりやすい水位標である。
「共同財産を私有地で九年保管することを、この村では一時的と呼ぶのですか」
オーレリーは控えを開いたまま、荷車の鉛札を示した。
「移送費、代替綱の購入費、九年分の補修費。ホアキン様個人の債務欄へ」
「領地を維持するためだ!」
「事情は承りました。ですが、マルセロの娘さんの寝具が流される責任は別勘定です」
村役人は腰の小刀を抜いた。共同保管印の紐を切り、債務欄へホアキン様の名を書き込む。
その瞬間から、渡し綱は戻った。
「運ぶぞ」
マルセロが綱を肩へ掛けた。オーレリーは一端を対岸の杭へ回し、鉄鉤を荷台の輪へ噛ませる。エステバンが川側から押し、三人で荷台を板橋へ乗せた。
寝具二組、穀物三袋、乾燥豆の甕一つ。
濡れれば一月分のパンと粥が消える量だ。恋愛の再会にふさわしい軽さではない。腰へ来る。
「引いて!」
マルセロが綱を巻き、オーレリーは車輪の前へ板切れを差し替えた。濁流が橋脚へ当たるたび荷台が横へ跳ねたが、エステバンが肩で戻す。最後の車輪が高台の石へ乗り、マルセロの娘が寝具を抱えた。
一件目。寝る場所と、食べる物。救いは受領済みだ。
ホアキン様が控えは無効だと叫んでも、寝具はもう高台にあった。
次は粉倉だった。
扉を開けた途端、オーレリーの鼻へ葡萄酒の甘い香りが来た。
救援用の粉があるべき棚の前に、樽が十二。しかも上等。泥水よりは飲みたいが、今ここで飲めば六十七戸どころか自分の足元さえ救えない。
「立派な救援物資ですね。洪水へ酔って帰っていただくご計画で?」
商人が差し出した請求書の支払元は、救援積立だった。
「客人をもてなすことも領地のためだ」
「上手の十一世帯へ、今すぐ粉袋を一つずつ買い戻せます」
「私の許可なく勘定へ触れるな。粉も倉へ戻せ!」
自分の葡萄酒が止まった途端、ホアキン様の手は救援用の粉袋へ伸びた。住民の保護という建前は、酒樽の栓より軽かったらしい。
オーレリーは請求書を商人へ返した。
「救援積立への請求を取り消し、ホアキン様の私費へ。ご本人の私印は樽にあります」
商人は樽の印と請求書を見比べ、ためらわず書き直した。葡萄酒の荷車が門を出る。代わりに買い戻された粉袋十一個が、上手の十一世帯へ一つずつ渡った。
受領印を押した家から、粉を水と塩で捏ねる。十一軒目の竈脇へ丸い生地が置かれたとき、オーレリーはやっと指の粉を舐めた。生粉。まったくおいしくない。だが今夜いちばん安心する味だった。
「その粉を没収しろ!」
誰も動かなかった。
「受領済みです、ホアキン様」
オーレリーは空になった荷車を指した。
「事情は承りました。ですが、その葡萄酒代で十一軒のパンを薄くした責任は別勘定です」
二件目。十一個の竈。
ここまでで救えたのは十二世帯。残り六十七戸は、粉袋では浮かばない。
* * *
水位杭の五本目の刻みを、濁った水が呑んだ。
オーレリーは裾を腿までたくし上げ、杭へ綱を巻いた。十呼吸で流された木片の距離を測り、橋脚の幅で割る。もう一度。数値が合わない。三度目。上流から来る水が増している。
「二刻もありません」
「下流の避難は進めている」
エステバンは濡れた地図を板へ押さえた。
オーレリーは旧水路を指でなぞった。上流の第一水門を開き、橋の流木止めを上げ、水車脇の第三水門から水を逃がす。三地点のどれか一つでも遅れれば、逆流が下流の家々へ入る。
「上流からここまで二百七十呼吸。橋の流木止めは、第三水門より先に上げると橋脚へ丸太が刺さります。鐘三つ目で同時に留め具を外す。マルセロは上流。エステバン様は橋。私は水車です」
マルセロは渡し綱を握り直した。
「上流を開ける」
「ホアキン様の見張りが閉じろと命じるはずです」
「今度は閉じる側へ回らない」
それでいい。十年前の沈黙は消えない。今日の手は、今日の水門を開けられる。
オーレリーは第三水門まで走り、軸受けへ棒を差し込んだ。錆の深さを測り、巻き上げ機の歯を一つずつ確認する。水門の先は、十年前に捨てられた放水路へつながっていた。
そして、その放水路の下手にはオーレリーの製粉所がある。
追放されたあと、誰も使わない水路の権利を買った。石を運び、歯車を削り、借りた銅貨を粉一袋ずつ返した。十年かけた壁。十年かけた水車。雨漏りする屋根を直し終えたのは、つい昨月だ。そこは「水狂い」の娘が、ようやく自分を粉屋と呼べた場所だった。
第三水門を全開にすれば、放水路へ流れ込む濁流が製粉所を正面から打つ。
エステバンも地図と水位を見て、同じ答えへ届いた。
「失う物を数えよう」
「石臼二基。大歯車一枚。ふるい機。粉袋四十三。小麦八十袋。職人三人分の道具。住居と、冬越し用の塩漬け肉」
「借財は」
「ありません」
「再建に必要な期間は」
「早くて一年。水路の修繕を含めれば一年半」
エステバンは「やめろ」と言わなかった。
「選ぶのは君だ」
オーレリーは杭を見た。水はさらに指一本分、上がっている。この増水なら六十七戸の床へ入る。粉袋に直せば数えるのが嫌になる量だ。六十七軒の竈が冷え、六十七戸の朝食が泥になる。
「私の水車は建て直せます。あの家々の今夜は、今しか守れません」
「わかった」
エステバンは外套を橋の欄干へ置き、手袋を締めた。
「橋は私が受け持つ。君の指示どおりに動く」
「では、失敗した場合の苦情受付に」
「成功した場合も受け付ける」
「それは忙しくなりますね」
避難に回っていた村人が、水車脇へ工具箱を置いた。十年前に石を投げた手かもしれない。違うかもしれない。今は楔と鉄梃を持ってきた手だ。それだけを勘定へ載せる。
鐘を鳴らす役人が塔へ走る。
オーレリーは水門の歯車へ両手を掛けた。
雨が強くなった。
* * *
「その女を捕らえろ!」
鐘の一つ目が鳴る直前、ホアキン様が私印付きの鎖と縄束を抱えて現れた。
「旧水路を開けば私設農地が沈む! 住民を守るため、第三水門を封鎖する。エステバンの命令に従う者は反逆者だ!」
命令を重ねれば水も頭を下げると思っているらしい。便利な家名である。洪水には読めない。
ホアキン様は鎖を水門の輪へ通し、私印の錠を掛けた。村人へは進めと怒鳴りながら、自分は二人の背後へ下がっている。
誰もオーレリーを捕らえなかった。
「何をしている! あの水狂いを押さえろ!」
一つ目の鐘。
ホアキン様が巻き上げ綱へ手を伸ばした。水門を閉じたまま固定するつもりだ。
オーレリーは泥を蹴った。
肩を脇腹へ入れる。二人分の足が滑り、警告柱へぶつかる。ホアキン様が腕を振り上げる前に手首を取り、腰を落として巻き上げ綱から引き剥がした。
「無礼者!」
「十年前より鍛えましたので!」
肘を背へ回し、彼が持ってきた妨害用の縄を手首へ二重に巻く。柱の裏へ回して引き締め、結び目を高い位置へ置いた。足首も余った縄で柱へ留める。これなら転んで水へ落ちず、巻き上げ綱にも届かない。親切設計!
「放せ! 私の土地が沈むぞ!」
「六十七戸を沈めて葡萄畑を乾かす権利は、先ほどの帳面にもありませんでした」
二つ目の鐘。
オーレリーは鉄梃を鎖の輪へ差し込んだ。一人では足りない。工具箱を持ってきた村人が、無言で反対側を持つ。
「押して!」
鎖が張り、輪が軋む。もう一度。鉄梃の先が滑って手の皮を裂いた。
エステバンはもう橋へ走っている。マルセロの姿は雨の上流へ消えた。
三つ目の鐘。
上流から、水勢の変わる轟音が届いた。第一水門が上がった合図だ。
橋から槌音が二つ返る。重い格子が持ち上がり、溜まっていた枝と丸太が橋脚の間を抜けてきた。
水車脇で、オーレリーは鉄梃へ全体重を乗せた。
鎖の輪が裂ける。
「楔!」
村人が木楔を歯車の逆止めへ打ち込む。オーレリーは切れた鎖を蹴り払い、巻き上げ棒を両手で引いた。
一歯。
泥水が隙間から噴き、胸へぶつかった。
二歯。
水門の向こうで、放水路が咆哮した。腕が抜けそうだ。足場の泥が踵を持っていく。巻き上げ棒へ胸を預け、膝で石枠を押す。
三歯。
「閉じろ! 今ならまだ間に合う!」
ホアキン様が柱を揺らした。
間に合う。彼の葡萄畑には。
六十七戸の朝食には間に合わない。
オーレリーは最後の留め金を蹴り落とした。
第三水門が跳ね上がった。
逆流していた水が一度、壁のように立った。次いで向きを変え、旧水路へ雪崩れ込む。橋を詰まらせていた丸太は流木止めの下を抜け、上流から来た水は開いた第一水門を通って放水路へ走った。
「水車を外せ!」
オーレリーは製粉機へ飛びついた。大歯車と石臼をつなぐ噛み合わせへ楔を差し、槌で打つ。外さなければ歯車が砕け、破片が水門へ詰まる。
一打目で楔が曲がった。
二打目で指を打った。
三打目。噛み合わせが外れ、大歯車が空転する。
濁流が製粉所へ届いた。
石壁へ丸太が衝突した。屋根が持ち上がり、粉倉の扉が内側から弾ける。四十三枚の空袋が白い鳥のように飛び、すぐ泥へ落ちた。次の波で壁の一角が崩れ、丹念に削った大歯車が軸ごと傾く。
十年分の音がした。
石臼の一基が床を割り、濁流へ沈んだ。
オーレリーの両手は巻き上げ棒から離れなかった。
「水位を!」
橋からエステバンの声が返る。
「下がっている!」
上流側から流れてくる枝が減り、橋から二本目の楔が抜ける槌音が返った。オーレリーは開度を一歯ずつ調整する。
開きすぎれば製粉所だけでなく放水路の土手が削れる。狭めれば下流へ水が戻る。
杭の刻みを読む。流速を見る。橋脚へ当たる水の角度を見る。
「一歯、閉めます!」
巻き上げ棒を戻す。水面が揺れ、下流へ向かう波の背が低くなる。
「そこで止めろ!」
エステバンの声。
止める。固定楔を打つ。抜けないよう横から細い楔を重ねる。
あとは水位だ。
指三本。
指二本。
下流の最も低い家の床板、その指二本下で水が止まった。
避難先から報告役が駆けてきた。息を整える時間さえ惜しみ、短く告げる。
「六十七、全戸いる」
「けが人は」
「なし。寝具も高台だ。子どもはもう寝かせた」
濡れなかった寝具へ。今夜の六十七人分ではない。六十七戸分の眠りと、明日の朝食が残った。
オーレリーは歯車へ額をつけた。
水狂い。
水を見すぎる。杭ばかり気にする。雨音を聞けばパンの数へ直す。人の顔より流速を覚える。
欠陥として追放されたものが、指二本の隙間を残した。
「見事だ、オーレリー」
エステバンが名を呼んだ。
水車番でも、水狂いでもない。
オーレリー。
彼は集まった住民と村役人の前へ立った。泥にまみれたまま、叔父ではなく一人ずつの顔を見る。
「十年前、叔父は共同の水門を封じ、私設農地へ水を引いた。修繕控えを隠し、被害をオーレリーと私の責任にした。私は住民への処罰を避けるため、管理責任を否定しなかった。黙ることを選んだのは私だ。その過失は負う。だが、叔父の指示と捏造は私の罪ではない。オーレリーの罪でもない」
ホアキン様が柱から身を捩った。
「家名を戻したくないのか! 黙っていれば——」
「その条件なら要らない」
エステバンの声は低いままだった。
「家名より、証言を選ぶ。オーレリーを二度と一人で立たせない」
中立の役人が切れた私印の鎖と修繕控えを受け取り、ホアキン様の拘束を柱から護送用の綱へ替えた。救援積立の請求書も封じられる。
「私の命令だ! 放せ!」
命令は続いたが、荷車は止まらなかった。
葡萄酒の樽も、私設農地の道具も、彼の名が記された債務も残った。本人だけが六十七戸の幸福圏から運び出されていった。
* * *
雨が細くなったころ、壊れた製粉所には半分の壁と、傾いた大歯車だけが残っていた。
オーレリーは泥の中から、粉を量る木枡を拾った。縁が欠けている。洗えば使えるかもしれない。使えなくても捨てたくなかった。
エステバンが隣へ来た。
「手を見せてくれ」
「粉屋の手です。少々、挽き目が粗くなっただけで」
「見せてくれ」
軽口へ逃がさない声だった。
オーレリーは手を差し出した。裂けた皮へ泥が入り、指は冷えて震えている。エステバンは水筒の残りで傷を洗い、自分の袖を裂いて巻いた。
布を結んだあとも、手を離さなかった。
「製粉所の補償や役職の話をする前に、伝えたい」
オーレリーは木枡を抱えた。
「はい」
「私は十年前の君へ償いたいから、ここにいるのではない」
雨水が大歯車の歯から一滴ずつ落ちる。
「水位を読む君を尊敬している。それだけでもない。自力で戻り、叔父へ怒り、恐れていた者の行動は受け取り、それでも責任を混ぜなかった今の君を愛している」
握られた指が震えた。どちらの手から始まったのか、もう分からなかった。
「失った水車の代価でもない。領主の座を取り戻すためでもない。君の職能を借りたいからでもない」
エステバンは一度、息を止めた。
「オーレリー。私の生涯で、ただ一人の伴侶になってほしい」
返事を待つ時間に、壊れた水車が軋んだ。
急かす言葉はなかった。
オーレリーの頬を雨とは違う熱いものが伝った。拭こうとした手は握られたままで、もう片方には欠けた木枡がある。まったく、こういうときまで両手が塞がっている。けれど今だけは、それでよかった。
「製粉所のない私でも」
「あっても、なくても君がいい」
「水の話を始めると、食事中でも止まりません」
「聞く。必要なら食事を温め直す」
「パンの焼き加減にはうるさいです」
「焦がしたら謝る」
「怒ると帳面を十年分さかのぼります」
「私の欄も隠さない」
「頑固です。人の退去勧告を聞かず、自分の水車を壊します」
「知っている。君が選ぶまで待つ」
「食い意地も張っています。救援用の粉を舐めました」
「それは少し心配している」
オーレリーの喉から、濡れた息がこぼれた。笑いにはならなかった。
「傷も、あります」
「一つずつ知りたい」
「仕事がなくても、怒っていても、泣いていても——それでも私でよいのですか」
「それを一つずつ知って、なおさら君がいい」
エステバンの目からも涙が落ちた。
二人は手をつないだまま、長く泣いた。十年前のためだけではない。壊れた水車、守られた寝具、十一軒の生地、六十七戸の朝食。失ったものと残ったものを、どちらも数え終えるまで。
やがてオーレリーは、欠けた木枡を大歯車の上へ置いた。
「新しい製粉所を造ります」
「ああ」
「雇われ水車番にはなりません」
「もちろんだ」
「帳簿も水路も利益も、半分ずつ。共同経営者として働いてください。元領主様に粉袋を運ばせるので、覚悟なさって」
「望むところだ」
「それから」
オーレリーは握られた手を、自分から握り返した。
「求婚をお受けします、エステバン」
初めて呼んだ名に、彼の呼吸が崩れた。
次の瞬間、抱き締められた。濡れた胸へ頬が当たり、背へ回った腕が震える。オーレリーも腕を上げた。救い上げられるためではない。選ばれた場所へ、自分で残るために。
壊れた製粉所の前で、二人の共同経営と婚約が成立した。
ただし翌朝、エステバンは抱擁を解いても手を放さず、片手で粉袋を運ぼうとした。
「転びます」
「放したくない」
「共同経営者の初仕事が粉の全損では困ります」
「では君も一緒に持ってくれ」
六十七戸の竈からパンの匂いが流れてくる。
オーレリーは彼の隣で袋の端を持った。
二人なら運べる重さだった。




