墳墓と生業、のちに
半地下の小さな窓に、西陽が四角く光を落としている。
食卓でパサついたパンをちぎりながら、忍塚は口を開いた。
「明ちゃんの甥っこがイシに会ってみたいそうだ。同い年だそうだし、いいじゃないか」
耳の裏をしきりに掻いている。言いづらい時の彼の癖だった。
忍塚がこんな提案をしてくるのは初めてだ。
五年前のあの夜から、いつも二人だけで生活していた。私たちの生活に、仕事以外の他人が入る余裕はなかった。
基本的に夜行動していたし、貧民街の市場は人の出入りが激しいため特に誰かと特別親しくなることもない。そもそも忍塚自体不治の病を患っていたせいか、極力人と親しくなることを避けていた節さえあった。五年続いたその日暮らしはされど、二人だけで完成はされていたのだ。
しかしあの災害が起こってからこの方、私たちの生活は変化した。忍塚の病は完治し、それどころか昼職を得たのである。しかも王宮直属の工事現場監督というかなり安定した職を。
生活の安定。つまり呪術師の稼ぎに頼らなくていいということ。そして私という呪術師は、女盛りに差し掛かっているということ。
忍塚という男にはもう私は必要がなく、私は忍塚から離れて普通の女の人生を歩んでいいということ。
だから、なんとなく意図はわかったけど、わからないふりをした。
「どうして?」
「そりゃあ……なあ」
予想通り、忍塚は口を濁した。
私だって、忍塚の気持ちはわからないでもなかった。つまり親心なのだろう。これまで共に歩んできた娘のような妹のような相棒に幸せになって欲しいのだ。いささか安直な「幸せ」像だけど。
「わかった。オシがそう望むのなら、会ってみる」
私がそうすることであなたが安心するのなら、その選択に抗う必要はない。
皿に残ったモロヘイヤのスープを飲み干す。それは普段より塩辛いような気がした。
***
数日後、私と明星の甥は貴族街のカフェで待ち合わせた。
忍塚は今日のために、給料をはたいてバザールで絹の衣と宝飾品を買い、私を着飾らせた。腐っても貴族の審美眼は衰えていないのだろう。忍塚のプロデュースで、私は確かに品のある女に仕上がった。それこそ、相手の家格と釣り合うような。
カフェは同じように着飾った男女で混み合っていた。皆貴族なのだろう、当たり前のように客の大半は鳥族だった。
「こんなに綺麗な方だとは思っていなかったです」
植え込みの木漏れ日が窓から入り、いかにもおぼっちゃま然とした彼の赤い頬を照らす。隼の羽にぴっしりと切り揃えられた髪。清潔感のある好青年。確か朱鷺書院の政治学部だったか。どこからどう見ても箱入り息子で、間違っても墓泥棒や娼婦や魔女なんて肩書きの女が会える類の人間ではなかった。この器量じゃ私でなくとも相手の女は湧いて出るほどいるだろう。
「ありがとう」
私はコーヒーカップを置いて薄く微笑む。彼が完全にのぼせ上がるのが手に取るようにわかる。
「あ、あの。忍塚さんとはどういう関係なんですか?」
「養子です。身売りにあっていたところを引き取っていただいたの」
へぇ、と聞いた割にぼんやりした表情で彼は返した。
こんなはずじゃない。自分で言っていて少し虚しくなった。でも、忍塚が私の幸せを望んでいるのはわかるから。
「お辛かったでしょう」
ふと視線を離した隙に、彼は私の手を取っていた。その目には涙まで浮かべて。
「心中お察しします。僕だって政治を学ぶ者です。花街や貧民街の状況は聞き及んでいて、まだ年端もいかない子供が酷い目に遭っているということも知っています。僕は、イシさんを幸せにするお手伝いをしたい」
ああ、本当に優しくて、愚かな人。
私はふるふると首を振った。
「辛くはないわ。だって……」
そこに続く言葉は、この場では明らかに禁句だった。特に見合いの場では。
「どうしました?」
「いや、なんでもないの……」
誤魔化すように笑う。
だって、だってね。
何回も生と死を繰り返して、やっと、愛する人に出会えたの。辛いわけがないじゃない。
***
明星の甥と別れて、なんとなくまっすぐ帰るのが嫌でふらついていたら、いつのまにか花街の真ん中にいた。
夕闇が帷を下ろし始めている。
乾燥した砂漠の空気は、濃い橙色を滲ませている。
むっとするような香水の匂いにふと我に返った。
今私は着飾っている女だということに気づいた時にはもう遅くて、周りの男たちの粘っこい視線が私の体に張り付いていた。自分の色香が常人のそれでないことぐらい、何百年も前からわかっているのに。
「お姉さん、今夜どう?」
一人の男が擦り寄ってきた。生白い手が腰のあたりに添えられている。
「ごめんなさい、先約があるの」
「え〜いいじゃん、遊ぼうよ。こんないい体してて、勿体無い」
ぐに、と尻が揉まれた。
「……っ!」
こんなことには慣れっこなのに、自分が青ざめているのにびっくりした。嫌悪感で逃げ出したいがすでに周りは知らぬ男たちで囲まれていて、この花街から出るのは不可能だと悟った。餌につられた女を自分の店で飼う準備ができているのだ。よくある話。何度も経験してきたもの。それなのに。
心の中で、一人の男を乞うていた。
(オシ……助けて……)
ああ、私も甘くなったものね。
魔女なんて雑に扱われて当然だったのに、たった一人がいいと望むだなんて。
ぎゅっと目を閉じて、牛の尻尾を高く上げたその時、耳に馴染む声が飛び込んできた。
「おい、俺の女に手を出すな」
忍塚、その人だった。
傷だらけの体に威圧感のある眼光はそれだけで牽制力がある。おまけに護身用に物騒な偃月刀を腰から下げているので、堅気ではないと言っているようなものだった。只者ではない雰囲気に、男たちは蜘蛛の子を散らす勢いで散開していった。
私と、忍塚だけが残る。
「おい、お前こんなところで何を」
「……オシのお嫁さんがいい」
喉の奥から、か細い声が漏れる。
わかってるの。私がいるから色々発散できなくて、私が寝静まった後、こっそり花街に行ってることも。今だって、馴染みの店の女の人に会いに行ってたことも。
今まで色々なことを我慢して子供の面倒を見てきたんだもの、オシにも自分の人生を生きてもらいたいのはあるの、あるんだけど。
でも、私は。
「オシの隣じゃなきゃ、やだ」
頬に涙が流れていた。
忍塚は返事をせず、ちらりと周りを見渡すと、私の手を引いた。
無言で歩く。私の涙を拭うこともせず、砂に足跡をつけていく。夜の街の喧騒は甘い香りを放ちながら、砂漠のオアシスを夢の世界に変えている。それらを振り切るように歩いた。
いつものあの、砂に埋もれた半地下の家へ。
***
玄関の傾いた戸を閉じると、背を向け、顔を伏せたまま忍塚は口を開いた。
「たまに、同じ夢を見る」
私の手が強く握られる。
「俺は寝台に横たわっていて、傍らには今より少し大人なイシがいる。イシは最初、微笑んで俺を見ていたが、だんだん辛そうな表情になっていく。最後にはボロボロ泣きながら言う。置いてかないで、死なないで、と。慰めてあげたいが、俺の体はぴくりとも動かない」
忍塚は重いため息をついた。
「わかるか。俺はイシより先に死ぬんだ」
いかに共に月日を過ごそうと、歳の差は埋められない。
十七年の歳月は長いのだ。赤子が娘になるくらい。
世代が一つ、変わるくらい。
「だから、何」
腹の底から搾り出すような声が出た。
「大丈夫。オシは死なない。イシがオシを死なせない。今度こそ。私が約束を違えたこと、ある?」
帰ってきたばかりの半地下は光源がなく、ぽっかりと黒い闇が広がっている。だから、忍塚の表情も、私の表情も見えない。息遣いと伝わる体温だけが真実だった。
「大好き」
涙でぐちゃぐちゃに崩れた顔を、胸に押し付ける。身長差だって残酷な要素のひとつだった。もう少し高かったら、口付けのひとつでも落としたのに。
「イシ」
豆が潰れて硬くなった指が、頬をつうとなぞったのがわかった。
「いいのかよ、俺で」
「いい。だって、オシはイシの、愛しの旦那様だよ」
衣をぎゅっと掴む。
三百年前のことはもう朧げにしか覚えてないけれど、あのエリカの花園で、初めて私は愛を知ったのだと。それだけはたしかに体に刻みついている。
何世代も、あなたに愛された記憶だけを頼りに生き抜いてきて、今世なんて安い香水の臭いが染みついたどん底まで落ちていたけれど。
でも、あなたに会えた。
相変わらず不器用で、誰よりも優しい背中をしていたから。
私はまた、ひと目で恋に落ちた。
この人のために生きたいと、強く思った。だから、後悔する必要なんてない。
一瞬不安になって、そっとまつ毛を上げる。
「オシこそ、いいの……?」
この男が年上の女を好むことくらい、私にだってわかっている。いつもあの店で、妙齢の女性といちゃついてるから。
私の一方的な欲望で、忍塚が何かを諦めるような、そんなことは望んでない。
「何言ってんだ。大体イシが先約してただろう。逃げられるとは思ってねえよ。今回だって即座に断ると思ってたんだぞ」
「……そういうことじゃない」
「わかってる、冗談だ」
ふと火打石の音がして、ランプに火が灯った。その場で着火する固形アイテル製の火打石は遠く雪嶺国から輸入したもので、緊急用の高級品だった。しかし今はそんなことなど些事でしかないと言いたげに、部屋の中をか細い火が照らす。
「愛してる」
強面の顔に、されど柔らかな笑みが浮かんでいた。
どっと胸に痛みが走った。体が熱って、勝手に涙が頬を滑り落ちていく。
ああ、もう、そうだ。別に他に何もいらないのだ。ただこれだけ。年齢とか、面目とか、常識とか、そういうのじゃなくて、単に二人だけの問題だったのだ。最初から。
傷だらけの手を、私から取った。
ただ一人、あなたを見つめて。
「今度こそ、女として見てくれる?」
「約束だからな。まさか本当にケツと胸がデカくなって出直してくるとは思わなかったが」
「もう!」
傷だらけの手が、私の黒髪を撫でた。
その温かさにふわりと意識が飛ぶかと思った瞬間、流れるように唇を奪われた。
瞼を上げると、すぐ目の前に、オシの顔がある。
太い怒り眉も、重く垂れた目も、消えない隈も、全部、かっこよくて。
「……本当に、綺麗になったな」
「ねえ、オシ。例えば、抱いてって言ったら抱いてくれる?」
その問いを返すように、もう一度唇を重ねてきた。今度はもっと深く。歯列を探るように、太い舌が中に入ってくる。蹂躙されるその心地よさに、私は思わず目を閉じる。
唇を離すと、忍塚はひょいと私を持ち上げて、自分の寝台に運んで行った。
***
体を拭いて寝間着に着替え、モロヘイヤのスープをすする。汗をかいた体に沁みわたる塩味は、数日前とはまた違った味のような気がした。
私が椅子に座ってぼーっとしている間にも、忍塚は濡れたシーツを籠に放り込み寝台を整えている。私よりずっと年上のくせにやたら体力がある。本当は私がやりたかったのだが、腰の倦怠感でうまく歩けなかった。
「いつまで拗ねてんだ」
「拗ねてない」
「じゃあなんだよ」
「……こんなに、あったかくて優しいものだって知らなかった、から、なんか……」
寝台の上に清潔な換えのシーツを敷き終わると、忍塚は私の隣に座った。
「だから言ったろ。行為はコミュニケーションあってこそなんだよ。イシが傷ついてきた分、俺が責任持って抱く。一生かけて愛す」
そう言って私の頭を撫でた。また子供扱いされているな、と思いながらでも心地はよかった。
「ばか」
目を逸らして、わざと口を尖らせる。
「ねえ、オシ」
「なんだ?」
「……今、幸せ?」
「ああ、幸せだ」




